イントロダクション
谷中に潜む剣の達人。落語好きの弁舌家はサラリとした切り味で、諧謔の毒を一振りする。
ソフトな表情を崩さないダンディな人だが、秘めた激情がナイーヴに見え隠れしてしまうところが、なんともいえない人間的な魅力をかもし出す。1997年にデヴューした芸大卒の線描の達人でもある。
いたずらっ子の会田誠が『ミュータント花子』を公開しようと策略的にオーガナイズした「こたつ派」の展覧会に、「ひっかけられた」処女/童貞といった感じの山口晃。どてらを着た骸骨オヤジ(オバサン)がこたつに温まりながら、ほほ杖を当てて地球儀を眺めているDMのイメージを制作した。すでにこの小さな画面の室内の窓からは高層ビルが眺められ、壁には豪奢な鷲の刺繍があるジャンパーがかけられている。鷲とドクロ、残されたハーケンクロイツは、おそらく菱形に構成された天井に隠されているといった判じ絵だ。
それだけではない。ARTという英語の文字がこたつ掛けの模様として散らされているものの、表面のARTは、その下の重たい実質的フトンを覆う飾りでしかなく、フトンの裾からは「技芸」という文字がすべりでる。四畳半よりは広そうな部屋で、照明は裸電球ではなく円型蛍光灯、それほど貧しくもない空間なのだ。このDMのミニマルな絵には、ドクロとなって顕現する過去と、軽いノリで憑依するナショナリズムと、西洋的なアートでどんなに覆ってもはみだす遊芸的気質と、高層都市を誇りながらも、ぬくぬくと暖かいこたつを手放せない日本の小さな日常性が描かれている。歴史性に立脚した近代と芸術と日本への批判が、風刺とユーモアでつづられる山口様式の誕生が示唆されたDMなのだ。
DMの注文者だった会田誠も、画狂人山口晃の乙女顔のしたたかさに舌を巻いたのではないだろうか。日本的なるもののリスクと毒を、一筆ごとにこめる、驚くべき確信犯の登場である。だが、おそらく、日本的なるものばかりに目を奪われたら、それは罠に嵌められたことを意味する。なぜなら、傷痍軍人まがいに、機械の半身を授けられた軍馬などは、戦争批判の象徴でもあり、それはさらに大和絵という伝統美の秩序を脱構築したはずのモダニティが、結局同時に、醜悪な悪や恒常的とさえなった闘争と無秩序を生み出し、偶発的でアンビヴァレントな断片化したエピソードの集積でしかなくなった現実を物語っているからだ。
だがら、ポストモダニティを問いかける現代の心奪われる美しい絵巻であるにせよ、山口晃の作品を、容易に伝統への回帰、あるいは奪還として読み取るのは間違いである。イメージが現前させるものは、社会思想家のマーシャル・バーマンの言葉を借りれば、流動化したモダニティの矛盾であり、モダニティが志向した秩序への批判だからだ。
(岡部あおみ)