批評
渡辺豪の創りだす無機質な少女の上半身と橋爪彩の生み出す有機的な少女の下半身の融合
その空間へ一歩、足を踏み入れるだけで自分を取り囲む空気が一段階薄くなった気がした。遠くなのか近くなのか、それさえも判別しかねる大きさで、不思議な音が聞こえる。いや、それはただの音ではなく言葉なのかもしれない。あるいは演説?
奥の仕切られた部屋からその音は聞こえる。時間が経つにつれ、それが誰かの声であることが分かる。同時に足がその方向へ動く。声の主の姿を確認するために。
しかし動き始めたばかりの足はすぐに止まる。6坪程度しかない今自分がいるその場所の壁から、大小さまざまな脚・足が自分を見ていた。目を含む顔面以外の体のパーツから、こんなにも視線を感じたことはなかったと思う。少女(あるいは成熟した女性)のその脚は、表情以上に彼女自身を物語っていた。
それらの絵画は、写実的であった。しかし現実味がそこには全く存在しなかった。その本物らしさの欠如は、展示されている絵画たちに共通する非現実的なシチュエーションから生まれるものではないだろう。壁に掛けられた洋服から脚が出ていたり、靴を前にした椅子の上にパインが乗っていたりして、まるでそれらが違和感を生み出している気がしてしまうが、そうではない。つまりは、描かれる女たちが抱いている願望なのだろう。現実世界から非現実世界へのトリップか、あるいはその逆か。
そんなことを考えていると、奥の声がまた心を呼んだ。どうやら話は途切れていたらしく、今また始まったことが分かる。ワンピースを脱ぐ後ろ姿の前を(いや後ろを)通り過ぎ、近づく声に顔をのぞかせた途端に息を呑んだ。壁いっぱいのスクリーンに、映し出された純白の少女の顔。淡々と語るその語り口は、まるで自分を冒す病に気づかない精神病患者のカウンセリング風景にも見えた。しかし、彼女の目はあくまでも生き生きと動き、口から漏れる言葉の中身は他愛もなさすぎる程、普通の少女の恋愛観なのだ。細部の表現は非常に行き届いているにもかかわらず、この少女もまた現実の人間には見えない。それは美しすぎるからだろうか、それとも首の筋肉の動きが見えないせいなのか。ひとつだけ感じた理由といえば、目の前の映像からは体温が感じられないからかもしれない。そこが壁ひとつ向こうの女たちの脚の世界と異なるところだと思ったからだ。
決して広くはないその空間は、有機質と無機質の境を行ったり来たりしている。これ以上広くても、また狭くてもいけない、それすらも微妙なラインに乗っているようだった。
好きか嫌いかという言葉で言えば、すべて好みの作品だったと言える。
しかしそれだけではない。私自身もまた、彼女たちと同じ「女」であるのだということを、
同じ性だからこそ入り込んでくる感覚が存在するのだということを、改めて感じる不思議な経験であった。
(谷口小絵子)
私は恋をした。私が恋をしたのは人間であって、厳密には人間ではない。渡辺豪の『emo』に恋をしたのである。数年前、生身を持たない女性が芸能人として、プログラムによる擬人化されたマスメディアの媒体上にのみ存在しえる芸能人として、ある芸能プロダクションからデビューを果たした。それを見ていた当時の私は、くだらないことを始めたものだ、と思っていた。ところが、今回の渡辺豪の『emo』はその当時とは異なった印象を受けた。では、いったい何が異なっていたのか。
視覚のみでの情報に限らずに、その巧みな言葉によって、また間の置き方によって、ごく自然などこかで見たり聞いたりした様な印象を受け、違和感なく感じられた。スクリーン上いっぱいに映し出された少女の顔のアップ。肌は人間ではありえないくらいに白く、陰影による輪郭線があるがゆえにスクリーンの白との同化を避けていた。青く透き通った目は自然なタイミングで瞼を一瞬閉じる。会話中も視線はあちらこちらに散漫し、一定の方向へ向けられていない所からも人間らしさを感じる。唇はスピーカーから発せられる女の子の音声に合わせて動き、首のひねり等のごくごく自然なしぐさを取り入れている。スクリーン上で展開される内容は、対談形式に彼女の情報を引き出す手法がとられている。その対談での質問者はスクリーン上には存在しない。音声的にもその存在は感じられるところはない。質問者の存在は全て彼女の些細な行動、しぐさによって、その存在を表すにいたっている。彼女が質問者のいる方向を向いたり、カメラがあるかのようにカメラ目線になったり、彼女の話し出すタイミングによって、適当な間が置かれている。それは質問者が彼女に語りかけている様な印象を観ている者に与える。
質問形式による対談により引き出される彼女の情報は彼女自身の恋愛観についてである。特には、恋人についての話が中心となっており、そこからは現代のある一人の女性の持つ恋愛観が引き出されている。例えば、『愛してる』と言葉に出される事への嫌悪感、自分が恋人を愛しすぎるゆえに恋人との適当な距離感をつかめなくなる事に対する恐怖と無理な反発心。それは一方でスクリーン上に映し出されている彼女の映像としては現実に存在し、生身の女性同様の悩みや考えが彼女の口から発せられているが、あくまでもプログラムされ情報の上塗りによる映像であるという矛盾に違和感が生じる。頭では情報の塊と認識するが、見ている内に引き込まれている自分がいる。
展覧会自体は、ギャラリーの入口から橋爪彩による少女を対象とした油彩画が5点ほど並び、その奥のブースに『emo』の映像が流れている構成になっている。少女という言葉は一般的に可愛らしいイメージに引っ張られがちだが、そこには花もあれば毒もある。言い換えれば、夢と言うか希望と言うべきか本人の望む世界を見据える中、シビアに現実を見つめる目をも持っている。そして、それは女性だけが少女として存在可能なある時期にしか体験し得ない独自の時の流れ、いうなれば現実とは少しずれた所にある独創的な世界を持つという事を示している。今展覧会にはその様な現代に沿った新たな少女像を紹介するものだった様に思う。
(蜷川千春)