culture power
artist 戸谷成雄/Toya Shigeo


戸谷成雄氏
© Aomi Okabe









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イントロダクション

戸谷成雄ほど、批評や評論など多数の重厚な言説に囲まれてきた作家も少ない。それは彼自身がつねにイメージの言語化を重視してきた人だからでもあるだろう。戸谷が書きとめた言葉は、物質として現在する作品を貫き、誘い、殺し、蘇らせる。

詩であり、思索であり、彷徨である文章はおもに、1984年にたどりついた「森」の概念をめぐったものだ。アジアや日本という場が西洋文化と交合して生まれた近代性の歴史が、風土の記憶と革新的な知との真摯なせめぎあいのゾーンとして浮上する。根茎と樹木の生命は、二元的というよりは、両義的でしかありえず、それゆえに深く果てしない意味を醸成する。

コントロールが効きにくいチェーンソーで刻まれ、彫りこまれる角材の表層には、ケモノが住む。ケモノと言えば、私は少女の頃に上野動物園に隣接した谷中に住んでいた。嵐の前など、ケモノの咆哮におびえた。湿った薄暗い森を歩く夢と記憶が入り混じり、森には不思議な親近感がある。「上野の山」と言われていた当時の上野には、まだ荒地や空き地が残っていた。少数だが戦後のバラックに住む貧しい家族もいて、そこの子供たちは「山の子」と呼ばれ、奇妙な差別を受けていた。蔦のからまる壮麗な洋館に住む白人のような混血の少女と顔も洗わないで平気な「山の子」の野生。東京という森の思い出は、ケモノの匂いと虚構の空間に満ちている。

戸谷成雄の「森」は、放尿できる水たまりのある女として、木漏れ日が差し込む「光の肛門」をもつ身体として、体内に嵐をのみ込む猛り狂う両性のケモノの総体としてある。「森」へと至る以前、70年代の作品の発想源はポンペイの遺跡に火山灰が遺した人間の型だった。死んで消えた人の形のヴォリュームが空虚な穴、不在として残った土の記憶は、ロダンやブランクーシが台座を彫刻の要素としたように、非彫刻でしかない鋳型のネガティヴな存在を、新たな彫刻へと結ぶ行為の確証にとなる。ここにまず世界に向かう視線や位置を反転させるラディカルな姿勢がある。

近代批判の後で、現代には軸が失われてしまったと戸谷は感じている。その現代に、「ミニマル」な倫理性を復活させ、見える世界と見えない世界が重層して襞となった複雑な「バロック」を交合させる実験を試みる。彼は今、「ミニマル」の光に「バロック」の怪奇な闇を構造化する壮大なる賭けに挑戦している。

(岡部あおみ)