イントロダクション
『美術手帖』のニューヨーク通信で杉浦邦恵の名前を知らない人はいないだろう。だが光彩を放つ往年の美術ライターという公の顔の裏側には、暗室にこもって作業を続ける写真家杉浦邦恵の素顔が隠されている。
杉浦の作品は、野外の光とともに生成する「写真」ではなく、カメラを用いず、暗室で印画紙の上に直接モノをおき感光させる方法で生まれる「フォトグラム」である。写真史を多少でもかじった人なら、杉浦邦恵がモホリ=ナギやマン・レイが編み出したこの技法の数少ない現代の継承者であり、多様な表現を開発してきた代表的な作家であることを知っているはずだ。
子猫、花、葉、枝など、日常生活のモチーフを定着させた白黒のフォトグラムは繊細で、かすかなブレが時間の流れと吹く風の感覚を呼び起こす。具象性をミニマルにそげ落とし、抽象的なフォルムの連鎖や反復にリズム感をもたらす手法は、即興的でありながら、すべてが構築されているコンセプチュアルな骨格をもっている。とはいえ、彼女の作品の魅力は汲みつくすことのできない「優しさ」にある。
ハードなニューヨークの生活のただなかで失われることなく咲き続ける野花の「softness」、杉浦の写真を愛す人々はこの天使の優しさを享受する。近作のガーベラなど美しいカラーの花のフォトグラムには、杉浦の作品に通底する「絵画性」が、成熟したまなざしとともに表出している。杉浦の写真にある絵画性は、描くこと、形や色を記すことへの原初的な愛であり、かつてストレートフォトグラフィの出現によって、過去のものとして葬り去られた感のある「ピクトリアリズム」に内包された絵画への憧憬とは異なる要素といえる。それは古代ローマのコリントの娘が、長旅に出る恋人の寝姿の影を写した絵画の始まりに見られるような、移ろい滅びゆく生命への愛の追憶である。手法として象徴的なのは、さまざまなアーティストのシルエットを描く杉浦の影絵のシリーズだろう。
そうした意味で、杉浦邦恵は写真メディアを使うアーティストといったほうが正確なのかもしれない。杉浦邦恵は今、カメラをもつ写真家としての新たな表現の摸索へと向かっている。彼女が追い続けているフラジャイルでエフェメラルなモノが、ヴィジュアルな事物としてはとらえがたい日本という概念へと広がったためでもあるだろう。それは同時に、米国における日本の何かが消え去りつつあることへの危機的なる予知ともいえるように思える。
(岡部あおみ)