culture power
artist 塩田千春/shiota chiharu


『無意識の不安』「椿会展2009 Trans-Figurative」 資生堂ギャラリー(東京)photo: Sunhi Mang 










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イントロダクション

うねるように吊り上げられた病院のベッドに突然天井から降り注ぐ水、飛び散るしぶき。塩田千春の『流れる水』は富山県の発電所美術館の巨大空間を狭く感じさせるほどに壮大だ。日常を脅かすスコールに似たその容赦なき水景は、まるで地球を戒める黙示録に見える。また深い傷を負った天の翼が、ひとときの憩いを求めて降り立ち、黒部川の豊富な水に打たれて痛みを忘れ、きらめくしずくとともに飛翔する姿も想像した。激流の音は覚醒をもたらし、冷静な認識へと導く。作者が託した目覚めとは清冽な地下水による社会の熱病からの蘇生でもある。

展示後に消滅する『流れる水』の対極に、深遠な常設作品『家の記憶』がある(越後妻有アートトリエンナーレの2009年の新作)。黒い毛糸に絡まれた廃屋の空虚な不在感に浸されながら、ふと窓の外ののどかな風景に耳を澄ますと静かな湧水の音が聞こえる。人を罰する洪水と未来永劫の営みを支える自然の恵み、死と祈りと救済の叙事詩に息をのむ。

陽の光に輝く透明な蜘蛛の糸のように、照明の加減で黒い毛糸が銀色の反射をみせることがある。塩田千春のインスタレーションは蜘蛛の巣によく譬えられるが、日本を始め、ドイツ、フランス、スペインなど、各地で異なる作品を目にする機会のあった私には、空間に張り巡らされた楽器の弦(string)のようにも見えた。廃屋や焼かれたピアノを包み、病院や軍隊で使用される鉄製のベッドにからむ糸は、眠る人、そこに生きた人々の息遣いに震え、封印された記憶に共振し、消えた音への哀惜を奏でる沈黙の弦だ。そして、空間に投げかけるその緻密な線描には、長くたなびく豊かな黒髪の幻惑、恐怖、狂気も秘められているに違いない。

赤いエナメル塗料をかぶるパフォーマンス『絵になること』やバスタブで泥水を浴び続けるヴィデオ『Bathroom』など、身を賭して生存の証としての芸術を希求する行為で塩田千春は出発した。泥で汚れた巨大な服を流水で洗い続ける大作を横浜トリエンナーレに出品した後、死の現前に苛まれる闘病体験を経験するが、復帰を果たし幸福な家庭生活にも恵まれる。しかしその異界にあるアトリエや、眠れぬ連夜の懊悩のなかで生み落とされるアートの芽を摘みながら、塩田はアーティストという自らの生が、いかに不幸であるかも静かに見つめ、その実存的悲しみに、人間が生きることの残酷さを重ねる。

大阪に生まれ、今は旧東ベルリン地区に暮らすディアスポラの異邦人という実生活と肉体の実感から、人や物や出来事や社会をつなげる赤や黒の糸、そして外界から身を守りその境界ともなる靴や窓などが、文化、心理、時間、地理の距離を表す。情報社会のコミュニケーションの網がいかにスピーディにくまなく現代を覆っても、生と死を授かった肉体の一回性に変わりはない。「いま・ここ」のささやかで慎ましい時空間が、世界と人類の共感覚としてあることを祈り、塩田千春は限界に挑み続ける。

2009年春に資生堂ギャラリーで開催された「椿会展2009−Trans-Figurative」の会期中に塩田千春とのトークが行われ、そのときのインタヴューをカルチャーパワーに掲載させていただくことになった。この展覧会で塩田はベルリンの骨董店で見つけたドイツ製の美しい足踏みミシンと椅子を設置し、踊り場から床まで黒い毛糸を張りめぐらせた。神秘的な『無意識の不安』には、ファッションのメッカでもある銀座にちなんだ場所性と終わりなきアートの創作が縫うという行為のメタファーとして表わされ、本展の見事なエンディングとなった。ミシンを覆う糸の網の一部が切りとられ、記憶への通路も開け放たれていた。

この時期、日本で初めての舞台美術に挑戦する機会をもった。新国立小劇場で開幕したドイツの新鋭劇作家デーア・ローアー原作の『タトゥー』は、父と娘の近親相姦の物語。劇団チェルフィッシュを主宰する岡田利規が若手演出家に抜擢された舞台である。

古びた窓枠が重く集積した小さな家、ホーム。岡田と初めて仕事をする役者たちの緊張と弛緩の演技が、家のメタファーとして吊るされた多数の窓枠の下、その狭く薄暗い空間で肉体がひしめきあうように展開される。古い窓のつらなりが構成する家は家族を守るよりも、登場人物たちの苦痛と恐怖を暗示する積み木の家のように不安定で危うい。その圧倒的なヴォリュームと、後部の暗闇でパンをこねるパン職人の父親の作業台以外、舞台にはほとんど何もない。むきだしの床をめがけて、重層する窓に隠されたダイニングテーブルや椅子などの家具が場面に応じて降下し、また昇ってゆく。近親相姦のトラウマから逃れ、姉アニータが恋人と作る新しいホームも、斜めに吊り下がるベッドや揺り籠で示される。内と外の開け放たれた境界であるはずの窓枠やガラス窓の連鎖が、幾重にも閉ざされた不透明な幕やカーテンのように、濁ったノイズを奏でる。

塩田が日本で初めて窓枠の作品を展示したのは、2005年に私が選考委員としてかかわった福岡アジア美術トリエンナーレの会場ではなかったろうか。ペンキが剥げささくれ立った木枠の窓だけでかなり大きな家の形が構築され、記憶が充満した窓の物質感が内部のがらんとした不在感を引き立てていた。だが、舞台に役者がいる演劇で、あの独特な不在感はどうなるのか。

今回、使われている200枚の窓も旧東ベルリンからもたらされたものだった。新首都ベルリン建設へ向けて急速に失われてゆく建物の工事現場から、塩田が一つ一つ丹念に集めたものだ。旧東独の人々の近くて遠いもうひとつのベルリンへの想いやまなざしが込められた窓枠。

『タトゥー』の物語はパン職人の父親と美しい姉のインセストに傷つく自傷的な母と奔放でわがままな妹、後に姉の夫となる花屋の店員の間で繰り広げられる。欲望と性にまつわる禁忌の問題も衝撃的だが、同時に心を打つのは互いを縛り傷つけ合わずにはいられない家族という名の愛だろう。タイトルのタトゥー(入れ墨)は、拭い去ろうとしても、心と体に刻まれた記憶は消えず、わだかまりを残すという悲劇的な結末において、ドイツの敗戦と戦後の深淵をも照射する。泥がついた服に水を流す『皮膚からの記憶』をはじめ、消えない記憶とその痕跡にかかわる作品を手がけてきた塩田の表現が、この演劇でも悲劇として循環する執拗なまでの記憶と歴史の澱を担った。

岡田利規と塩田千春は、ミニマルで日常的な言語と素材を用いながらも、徹底的なタブララーサへの意志をもち、厳密な脱構築のルールを駆使する同世代の革新的なクリエーターとして、見事な共鳴のコラボレーションを実現していたと思う。

並はずれた表現のスケールと繊細な感覚、心の深部に浸透する作品を魔法のように編みだす塩田千春は、ますます多くの人々の視覚と身体の記憶を豊穣な森へと誘っていくことだろう。

(岡部あおみ)

注:このイントロダクションは、資生堂ギャラリーで開催された「椿会展2009」図碌に書いた「春の訪れに弦の詩を聞く」、『美術の窓』2009年7月号「トラウマを超えて」、『美術の窓』2009年10月号「視点」などの自らの文章を引用し加筆したものです。