イントロダクション
私が宮下大輔にインタビューを行ったのは2010年8月だったが、それが実現した直接のきっかけは半年以上も前に遡る。
この時私は、宮下を主演にした映画[注釈1]の助監督として撮影に携わっていたのだが、台本の中で宮下が制作を行う場面に立ち会い、その一部始終を見学した上で、それまで持っていた宮下の作品に対する考えが刷新される思いがした。
その時に見たのは、宮下の代表的な作例である「物を並べる作品」だった。材料は作家本人が自宅から持ってきたダンボール箱数箱にも及ぶ量の大量生産品で、現場に持ち寄られた段階では整理されておらず混沌としていたそれらが、作家の選択基準のもとに再解釈されて並べ替えられていく。その行為を取り仕切るルールは、宮下の美意識と、目には見えないが、物が並べられることで見えてきた縦横のグリッドのみだった。
そして制作が終わった宮下と以下のようなことを話した。
話題は作品内で縦横に整列された物について。作家本人の言葉を借りるならば、並べられた素材は「日常の中で目が合うように現れた物」で構成されているらしく、それらは道に落ちているのを見つけたり、誰かに貰ったり、家の中で再発見することによって見つけられているとのことだった。そういった、生活の中から蒸留されたような物を「配置すること」によって再解釈し、一覧にして、構成し直すというプロセスがこの作品のざっくりとした流れであるらしかった。
印象深かったのは、この「再解釈」「一覧化」「再構成」というプロセスの中でもとりわけ、「一覧化」における役割がパソコンのデスクトップ画面に並べられたショートカットアイコンに喩えられていたことだった。
つまり、「生活の中から蒸留されたような物」が整理され、グリッドという世界共通のルールに従って並べられることで「作品」としてパッケージングされ、それによってただの物が鑑賞の対象になり、そこにおいてショートカットアイコンのように、記憶を「喚起させる」機能を帯びるという流れが浮かび上がったのだ。
この解釈に従って考えると、宮下の物を並べるシリーズの作品は、現実空間から物を抽出し、鑑賞者に再度、作品を通して(仮想)現実へアクセスさせることで記憶を喚起させる機能を持った作品だと考えられる。
しかし現段階で宮下の作品に対しては、そうした作品の機能に注目した解釈は投げ掛けられることはなく、作品に使われる素材のみに注目して「ジャンク・アート」のレッテルが貼られているのを聞いたことがあるだけだった。
そうした現状認識のもと、自ら作品の機能を引き出す理解をインタビューの中で率先して行うことで、どれだけその理解を効果的にプレゼンテーションし、その理解に寄与できるのかと考えたことがこのインタビューを行った直接の動機である。
しかし実際にインタビューを行ってみて直面したのは、作品に対する想定の範囲のさらに奥にある領域で、「だいたい合っているけれど、少し違う」世界の発見だった。その姿が会話を重ねるうちにはっきりとしていったときに、冒頭に書いた映画の撮影で作品に対する考えが刷新される思いがしたのは、実は作品を分かった気になったからではなく、作品を分かった気になった「にもかかわらず」、分からない領域がそれでもあることを発見したから、ということを思い知った。
(原田裕規)
[注釈1]森本はる葉監督「白昼夢」(2010年1月制作)