Cultre Power
artist 宮本隆司/Miyamoto Ryuji


















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イントロダクション

宮本隆司の写真を知ったのは、ナチスドイツがウイーンに残した要塞だった。 その「偉容」に驚嘆させられ、その後、香港のスラムを撮った「九龍城砦」の異様な迫力に瞠目させられた。

彼の写真に通奏低音として流れる独特な「負」の重みにひかれた。生と死を直視する勇気あるまなざしを通して、光と闇が交差する生存の深淵が リアルに抉り出される。廃墟となった建物や都市ほど、建築自体が内包する「死」を表象するものはない。だが人間の造形物にすぎないこれらの事物に、 生態と等価の「死」の重量を表現できる写真家は、一体どれぐらいいるのだろうか。

災害を除いて、建築物の「生成と消滅」のサイクルのほとんどは、人為的であるがゆえに、犯罪性を秘めている。 それは逆に、西洋文化を象徴する「不滅」の建築物の存在を思い起こせばよくわかる。つまり石造の記念碑や教会建築が誇る倫理性は、廃墟の否定に立ち、 その「生死」を超越することで成立しており、建築の不滅が精神の永遠性を表徴する。 日本で用いられる「廃墟」という言葉は、こうした西洋の宗教的権威、政治、歴史などの文脈とは無関係なためか、西洋ほどの「重み」がない。 日本的「廃墟」は、おもに美学的な意味で成立しているように思える。

となれば、宮本の重厚な写真が内包する倫理的な重みは、いったいどこから来るのか。 強靭な写真眼からは想像もつかなかったが、小さいころ、彼は体が弱かったという。子供時代に通りすぎた死の実感のせいなのか。 戦後の日本が抱えた「負」の歴史、創造性を食い殺すその沼地を侵犯しようと図った意志のためなのか。 60年代末の学生運動が担った時代の無意識に宿った革命の光が、さらなる一層の闇へと降下した虚無感への抵抗なのか。

神戸の震災の壮烈なる写真は、超自然の力が与えた人間への罰、まさしく黙示録のような風景を現出した。 このシリーズの写真の展示に、欧米で大きな反響があったのは、現代都市という崩壊してはならないものの破壊のイメージに、震撼する近未来の予知、 あるいは人類の黙示録を読み取った人が多かったためだったに違いない。

そして近年ではホームレスの住処への視線と態度に、この作家の倫理性はストレートに示されている。撮影するだけではなく、ピンホールカメラが露光する時間の間、
ホームレスと等価な身体的無為の位置で、創造の時間を待とうと試みる滑稽なまでの意志にも。 こうした求心性にこだわる宮本の制作行為は、写真という枠を開放しようとする展示のあくなき実験が示す遠心性と拮抗を保つ。 展示という「再生」への絶え間ない試行は、写真というメディアが、まさに「負」を担うメディウムであることへの挑戦と超克ではないだろうか。

(岡部あおみ)