インタヴュー
宮本隆司×岡部あおみ
日時 2004年5月27日
場所 武蔵野美術大学
学生 武蔵野美術大学 芸術文化学科2年ミュゼオロジー受講生
01 写真と展示:世田谷美術館での個展をめぐって
岡部あおみ:今日のレクチャーは写真家の宮本隆司さんです。宮本さんの写真は知っている人も多いと思いますが、世田谷美術館で大規模な興味深い個展(2004年5月22日―6月4日)をなさっているところですので、ぜひみなさん見てください。作品の紹介をしていただいた後、質問をさせていただければと思います。
宮本隆司写真展 ピンホールの家 世田谷美術館2004
© Ryuji Miyamoto
宮本隆司:今日は今までやった展覧会についてお話ししたいと思います。九龍城砦という、香港にあった巨大なスラムを撮影したのは1987年からでした。1993年には壊されて無くなってしまいました。今、この場所は当時の面影はなく、中国式庭園になっています。このスラムは治外法権というか、昔、清朝の役所があった所で、イギリスが植民地であるにも関わらず手を出せなかったという不思議な場所です。そこに難民が押し寄せて、勝手に家を作って住み始めたのです。コンクリートのアパートを作って積み上げたんですね。4万人ほど人が住んでいて構造物は500くらい。まるで一つの都市ですね。そういうものが現実にあった。そこに私が入って行って撮影をして、『九龍城砦』という写真集を出しました。
世田谷での展示はちょっと変わっています。プリントを直に壁に貼って、ピンで留めて横に並べるだけではなくて、縦にもつなげてあります。メッセージというか暗示というか上の方が良く見えない。でも見えなくてもいい。九龍城砦全体を把握することなんて不可能だし、私もまだ入ってないところがたくさんありますから。建物は上に登れるんですけど、屋上から眺めてもつながっているのかいないのか良くわからない。全く無計画な建築ですから、面白いと言えば面白いんですが、非常に危険な場所でした。
カンボジアのアンコールワットに行ったのは1991年、内戦がようやく終わりかけていましたが、まだ戦争中でした。非常に危険な状態で、地雷もあちこちにあるという中で撮影しました。そういう危険な状態だったので観光客は全くいなかった。なので撮影は楽でしたね。どこでも自由に撮れるという感じ。まあ面白い写真になったと思います。カラープリントですが、プリントが珍しい方法で、ダイ・トランスファー・プリントという今では、もう制作出来ないものです。
ホームレスの小屋の写真展示は床から20センチのところ、かなり低い位置に写真を設置してあります。ちょっと見にくいけど、しゃがんで見たり、床に寝っころがって見たりすると面白い。これも一つのメッセージです。ホームレスの人の小屋は大抵、地面に直に設置してある。そういう低い位置で、しゃがんだ目線で見たらどうかというメッセージ。意外だったのは、これがけっこう、うけたんです。面白がって見てくれたんです。2004年2月にベルリンでやった第3回ベルリン・ビエンナーレでもこういう低い位置で展示しました。
第3回ベルリンビエンナーレW・グロピウス バウハウス2004ベルリン
© Ryuji Miyamoto
ホームレスのダンボールの小屋からヒントを得て、ダンボールそのものをカメラにしたら面白いのではないかと思いました。どういうふうに見えるのかと考えて、ピンホール写真に発展させました。ピンホールですから、たった1ミリの穴です。その穴を通して外の風景が箱の壁に映る。ピンホールは非常に不思議な現象で、ピントを合わせる必要がない。レンズでこういうものを写そうとしたら相当巨大なレンズが必要ですし、レンズだとこれだけ大きなイメージでは映らないと思います。十字形の作品は、今回新たにピンホールを使って撮影した世田谷の多摩川の写真です。
ビデオ作品もあるので、美術館の通路の壁にモニターを10台並べました。ここにはヴェネツィアのカンポという小さな広場を撮影した映像が10分から15分間映っています。定点観測というか長期間カメラをほったらかしにした映像です。ただ、これが天地逆さまなんです。更に左右が反転しています。なぜ、こういうことをしたかというと、ピンホール写真の像が逆さまに映るので、ピンホール写真のように静止しているものではなくて動くものだったら、どう見えるのかなぁと思ったんです。そしたら、これが意外と面白い。特に、歩く人の姿が逆さまに映ると不思議な歩き方をしているように見える。人間が二足歩行をするということは変なことなんだということが良くわかります。頭を逆さまにして見てみると、普通の映像に戻って見えます。人が物を見るというのは、自分に都合のいいように認識してるんだということがわかります。
02 「震災の亀裂」ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展
宮本:ヴェネツィア・ビエンナーレは皆さんよくご存知だと思います。実はヴェネツィア・ビエンナーレはアートだけじゃなくて建築展があります。私が参加したのは、1996年の第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展。会場はジャルディーニという公園のなかにある日本館(パビリオン)、アートの展示の時と同じ会場です。ヴェネツィア・ビエンナーレが他のビエンナーレと違うのは、それぞれの国が常設の展示場を持っているという点で(何ヵ国かが集まってひとつの会場を使用しているケースもありますが)、日本館は1956年に吉阪隆正が建てた建築です。
ビエンナーレにはコミッショナーという、企画を決めたりアーティストを選んだりする人がいるのですが、このときのコミッショナーは磯崎新でした。アートの時はキュレーターだったり評論家がやるんですが、このときは建築家でした。参加したのは、建築家の石山修武と宮本佳明、写真家の私という3人です。ちょうど前年の1995年に阪神淡路大震災があり、その状況をヨーロッパの人達に伝えようというので、磯崎さんがテーマを「震災の亀裂」と決めました。そのテーマに基づいて3人が展示を考えました。
どういう展示になったかというと、まず壁に私の大きな写真、床から天井まで5メートル近くあります。とにかく壁に全部張り巡らすということを考えました。でも、この日本館はちょっと使いにくいんです。壁が張り出していて、延べの長さにすると100メートル近くもある。床から天井までは5メートル近い。その全部を写真で埋めるためにたくさんの写真を焼きました。
インクジェットのプリントではなく、普通の印画紙、銀塩ペーパーです。こんな大きな写真を銀塩に焼くというのは前代未聞という感じです。ペーパーを6分割してプリントしたものを短冊状に繋げて展示したのです。建築展は9月にオープンするので、7月末に実際に私が現地に行って壁に貼ったんです。貼るのに1週間くらいかかりました。展示全体の状況は、建築家の宮本さんが阪神大震災で実際に出た瓦礫を30トン、神戸から実際に持ってきて床に積み上げました。瓦礫とか鉄とか木材とか、もの凄い物量が床にありました。
ヴェネチア・ビエンナーレ建築展 1996年_宮本隆司日本館
© Ryuji Miyamoto
宮本さんは地震のときに神戸に住んでいて、家が全壊したといって、「ゼンカイハウス」という住宅を設計した人です。実際に被災者で、震災のモニュメントを作ろうということで、瓦礫を芦屋川沿いに積み上げて瓦礫そのものをモニュメントにしちゃったらどうかという提案をしました。それが非常に面白いので、磯崎さんがヴェネツィアに参加を要請したわけです。
それで、写真と瓦礫で会場はもの凄く騒然とした雰囲気でした。石山修武さんはパビリオンの外側に、よく高速道路で工事をしているときに旗を振るロボットがありますが、そのロボットを10体並べて展示しました。要するに危険だから近づくなというサイン。それから、当時のラジオ放送を会場の外に流しました。3人のアーティストでそういう展示をしたんです。これがヨーロッパの建築家やアーティストに強いショックを与えたみたいです。すごい展示だと言う人もいたし、「建築家、あるいはアーティストなのに何も作ってないじゃないか、もっと生産的な創造をすべきだ」という批判もありました。賛否両論で、かなりの議論になりました。その結果、金獅子賞といいまして、ヴェネチア・ビエンナーレで最高の賞を頂きました。受賞の理由は、この展示が20世紀末だったので、「21世紀前夜の人類の苦悩を表現した」というものでした。
03 旅する震災の写真
宮本:ビエンナーレの後、展示した写真をヨーロッパあちこちで展示の要請があり、随分展示しました。パリの国立写真センターの展示室での展示は、天井がやや低いので、ヴェネツィアとは随分違う雰囲気になりました。パリの国立写真センターは凱旋門の近くにあって、ロスチャイルドというユダヤ系の邸宅だと思いますが、その大邸宅をそのまま展示会場にした施設です。
その後はオランダのナールデンという町でも展示しました。初めて行った城塞都市で、日本でいうと函館の五稜郭のような要塞。そこの真中に大聖堂があり、それが展示場になっていました。そこの教会の右ウイングに展示しました。照明がひどくて、逆光で良く見えない。建設用の足場を組み、照明を照らすというのはそのとき初めてやりました。これも結構評判になりましたが、日本には全然そういう情報が伝わってこない。ヨーロッパの人達はいろいろ反応してくれました。
更にベルリンのクンストラーハウス・ベターニエンでも展示しました。ここは今でも活動しているのでベルリンに行ったら、ぜひ行ってください。アーティストが滞在して作家活動をするアーティスト・イン・レジデンスです。世界でもっとも早いアーティスト・イン・レジデンスのひとつで、ディレクターのミヒャエル・へルターという人が、まだ東西の壁があったときに作ったわけです。ヘルターさんが退職される前の最後の企画展で僕を呼んでくれました。アーティスト・イン・レジデンスは皆さんの方がご存知かと思いますが、世界中からアーティストが来て滞在して生活しながら作品を作っていく所で、住んでいる人もいるわけですが、僕みたいに外から来て展示だけするケースもある非常にユニークな施設です。
もとは150年くらい前に作られた病院です。ここでもアルミの足場を組みました。ベターニエンの建物は保存されている建築で、各国からいろいろアーティストが来て随分映像の背景なんかに使われていました。カナダのアーティストが小さな映画館を作って上映するという作品があり、ミニチュアの映画館ですが、その背景にも使われていて、なかなか不思議な空間です。
ここでの展示の方法は、ワイヤーで吊ったりしました。世田谷と同じ方法で、ベターニエンではピンホールの小屋の写真も展示しています。カメラは合板で出来ていて、ベターニエンの地下の工房で作りました。日本からこんなものを運ぶのは運賃だけでも大変なので現地で作ったわけです。ヨーロッパとこっちの美術館の大きな違いは、ワークショップの技術者やエンジニアといった人達が作ってくれることです。
要するに、展示をアーティストと一緒にやってくれる。そういう人達がそれぞれの施設に専属でいて、サポートしてくれる。小屋も僕が図面を送って、彼らがきちんと作ってくれた。共同作業なんですが、専属のエンジニアなので金額的にはそんなに高くつかないのではないかと思います。
日本における美術館の展示の場合だと、展示専門の業者がいて、非難するわけではなくて、かなり優秀な人達ですが、彼らがいろんな美術館を回って展示している。デパートの催し物会場や見本市の展示なんかもやる人達が、アートの展示もするわけです。そういった意味で実際の展示の状況は、ヨーロッパと日本では随分違います。ヴェネツィアで展示した時に下に瓦礫を積んだりしましたから、写真はかなり傷んで、あちこち破れたりしています。でもそういうのが全然気にならなくなる。そこが神戸の震災の写真の凄いところです。
世田谷美術館で展示したのも同じ写真で、あちこち穴だらけで破れています。でもそういうのが全然おかしくない。移動しながら展示しているので、写真が旅をしているという感じです。2000年にはチェコのブルノというところでも展示しました。ブルノの後、ようやく日本の世田谷で展示出来たというわけです。
フランクフルトの近代美術館でも展示したのですが、そこのキュレーターが神戸の写真を気に入って收蔵してくれて、私の写真をマリオ・メルツの作品と同じ空間に展示してくれました。
04 カッセルのドクメンタに参加 見る視線と姿勢を変える
宮本:2002年にカッセルで行われたドクメンタに招かれたのですが、そのときにはフランクフルトの近代美術館が収蔵してくれた写真を展示しています。カッセルでは、ビンディンというビール会社の工場が操業をやめて移転した直後に、工場を改造してドクメンタの会場にしたんですね。マリオ・メルツと一緒に展示したときと同じ額装した写真を積み上げ、本当は全部積み上げたかったのだけど一応、二本タワーを作りました。額装した写真をボルトで壁に留めて取り付けて積み上げたように見せてるんですけど、こういうふうにすると見え方が少し違ってくるんじゃないかと思った。
Documentall2002 ドイツ・カッセル
© Ryuji Miyamoto
同じ空間に、物見やぐらみたいな変な構造物があり、これもアーティストの作品です。ベルリン在住のマンフレッド・ピレニスという変なものを作る人で、第1回目のベルリン・ビエンナーレの時に、缶ビールを巨大化したような合板で缶ビールの形を作ったり、ホームレスの家のような変な作品を作る人です。真面目にやれって言いたくなるような、なげやリな中途半端なへたくそな構造物で、彼とのコラボレーションみたいになった。これはこの時のディレクターのオクゥイ・エンヴェゾーが考えて、変な物見やぐらみたいなものと神戸の写真を組み合わせた、そういう展示です。
横浜のポートサイドギャラリーでホームレスの小屋の写真を展示する時にも、ダンボールを壁のように積み上げました。外側から見たら写真は全然見えない。見たい人は小さな穴から入ってくれっていう仕掛けの展示です。穴の高さは1メートルもないくらい低く、中に入るとカラー写真があります。カラー写真は最近はあまり展示していないのですが、更に中に入ると壁にホームレスの小屋の写真が展示してあります。
ダンボールの家を展示する時は、いろいろ変わったことをやっています。まず入口の穴が非常に低い位置にある。パリでも小さなギャラリーの壁にダンボールを積み上げ、背の高いパリの人が、みんなしゃがんで入っていくという仕掛けをやりました。みな面白がって入ってくる。要するに、僕は見る視線とか体の姿勢とかをちょっと変えてやると見え方も違ってくるんじゃないかと思っているんです。本や雑誌でなく展示空間で見るとき、身体感覚を違ったものにすれば見え方も違ってくるんじゃないか、そういう一つのメッセージですね。
2004年のでの展示は、バウハウスの校長だったワルター・グロピウスという人のお父さんかおじいさんが設計したマルティン・グロピウス・バウという会場でした。この建築はなかなか美しい建築で天井の装飾なんかも素晴らしい。床から40センチくらいのところにホームレスの小屋の写真を展示したのと、モニターを1つ設置して、原宿の竹下通りで一時間カメラを据えっぱなしで撮った、逆さま裏返し映像を流しました。
05 ピンホール写真の撮影と展示
宮本:ロンドンのヘイワード・ギャラリーというところで日本現代美術展があったときに参加して、ピンホール写真を展示しました。ピンホール小屋自体、ヘイワード・ギャラリーのワークショップで作ったもので、中にピンホール写真で撮ったときと同じ状態で家の内側に写真が貼ってあります。
東京湾のレインボーブリッジが見えるところでも撮影しました。直方体の違う形のピンホールも作り、両脇にも印画紙をセットして、左右、床、四方の壁に貼りました。世田谷の展示作品は天井にも印画紙を貼って撮影したものです。2003年に東京都現代美術館で展示したときには、現代美術館のエスカレーターの脇に小屋を設置し、その中にピンホール写真を置き、実際ホームレスの小屋が街中のちょっと奥まった影のようなところ、変なところにあるのと同じような感じで、美術館のあちこちの隙間を見つけて小屋を設置しました。
展示室の壁には、かなり低い位置でダンボールの家の写真を展示しています。佐賀町、最後の展覧会となった「エモーショナルサイト」のときにも参加して、ピンホールカメラを屋上に設置して撮りました。そのとき撮った写真を、一番大きな展示室に一点だけ展示し、今回、世田谷美術館でも展示しています。
ベルリンの中央にある美術館島には美術館が5つ集まっています。その中のひとつに第二次大戦で爆撃を受けて、そのままになってる美術館があります。ノイエス美術館と言うんですが、今改装中です。爆撃を受けて戦後60年くらい経っている美術館で、未だに修復工事という、ちょっと日本では考えられないような美術館で、そこを撮りました。5つの美術館を20年計画で、地下で繋げてロンドンやパリに対抗する、ひとつの美術館群にしようという大計画です。その前に現状を私が写真に撮るということで廃墟の美術館で展覧会をやったんです。
ノイエス美術館は、ほぼ爆撃を受けたままの状態になっていて、隣には旧ナショナルギャラリーがあり、外壁は修理してありますが実際中に入るとほとんど廃墟です。現在は閉鎖中、中を見ることはできません。また、爆撃を受けて出た瓦礫を、ベルリンの郊外に集めてあるところがあり、瓦礫に1つ1つ番号を付けてずらーっと並べている。修復をするためにここから瓦礫を持っていって美術館を再現するんだと思います。
ベルリンの有名な美術館にぺルガモン美術館があり、トルコのペルガモン神殿をそのまま持ってきたという大空間の美術館があります。かなりの修復はしています。この天井裏を私が撮影して展示しました。余談になりますが、この前ベルリンに行った時に、ハンブルガー・バンホーフという美術館があり、そこでトーマス・シュトゥルートという写真家が新作を展示していました。そのオープニングに誘われて行きましたが、彼はペルガモン美術館の大展示室にエキストラ200人近くを雇って観客のように演じさせて大型のカメラで撮影した写真を展示していましたね。
06 海外での活躍はヴェネツィア・ビエンナーレが大きなきっかけ
岡部あおみ:講議をお願いしたとき、宮本さんは今までで一番大きな個展の準備をなさっていて、写真作品の準備だけではなく、展示にも凝られるので、最後まで大変ですから、レクチャーをお願いするのは申し訳ない感じでした。宮本さんがそういう状況だったので、個展がオープンした後だったらなんとかということで今回来ていただきました。これから30分くらい、質議応答の時間にさせていただきます。
これまでお話を伺って、宮本さんが思った以上に海外で活躍されていることがわかりました。でも残念なことに、その活躍ぶりがなかなか日本には伝わってこない。それはメディアの問題ともいえますね。残念ながらヴェネツィアの建築展は見逃しましたが、宮本さんは金獅子賞を受賞した日本館の展示に参加していて、他にもカッセルのドクメンタなど非常に重要な国際展にも出品されています。海外でこれだけ活躍されるようになった、何かきっかけがあったのでしょうか。ドイツと関係が深いように思われるのですが。
宮本:私自身もよくわからないんです。一つのきっかけとなったのはヴェネツィア・ビエンナーレの建築展だと思います。ヴェネツィア・ビエンナーレは世界的に見てもやはり大きなイベントで、アート関係者に「ヴェネツィアでやった」と言うと話が通じる、見てくれる。これはほんとに意外でした。ヴェネツィアはアートのオリンピックとか言われてますが、良くも悪くもそれくらいの価値はあるように思いました。
岡部:とくにヴェネツィア以降ということですね。フランクフルト近代美術館が宮本さんの作品をかなりまとめて買われたのもヴェネツィアの後でしたよね。
宮本:ええ。
岡部:ヴェネツィアがすごくいいチャンスを与えてくれたとしても、ビエンナーレは出品者も大勢いますし、金獅子賞はなかなかとれない。とれたことが大きな契機となったともいえるでしょうね。宮本さんの場合は写真を写して展示するというだけではなくて、写真のインスタレーションの要素が強いと思うのですが、それはヴェネツィアでの経験を生かして、それ以降に展開された方向性といえますか。
宮本:大きな展示場で展示するという機会はヴェネツィアが最初ですね。あちこちで展覧会をやってはいたんですが、ギャラリーや写真専門の展示場が多かったですから。大きな展示会場で、しかも大きなプリントを展示するというのは初めてでした。写真は、決まりきった文脈のなかで展示されることがかなり多い。特に日本は、写真というと写真専門の展示場や写真美術館という予定調和のなかで写真を見ることが多いんですが、ヨーロッパでの展示を見ると、写真と絵画や他のジャンルとの区別は全然ありません。そして、大きな写真が展示されている。写真が美術館などの大きな空間で展示されていますから、額に入った小さな写真をただ横に並べただけでは空間がもたないというか面白くない。それだったら自分の家でゆっくり椅子に座りながら写真集を眺めた方がよっぽどいい。なぜ展示空間で写真を見せるのかというあたりが、大きな問題なんだと気が付きました。
展示するということは、観客がそこに出向いてくれて、生身の体で見るという出会いがあるわけです。写真を低い位置に置いてみたり、逆さまにしてみたり、入口を小さくしてみたりと、いろいろ試行錯誤すると観客が意外と面白がって反応してくれる。それが面白くて次につながっていくんです。
それと、ヴェネツィアで展示した大きなプリントは、1回限りで終わりだと思っていたんですが、展示をしてくれた人が綺麗に剥がして送り返してくれた。ぼろぼろだったんですが、更に他でも展示してくれという要望があり、不思議なもので、展示していく度に作品が成長していくっていうか、どんどん勝手に動き出して次から次につながっていき、とうとう日本でも世田谷で展示することになった。そういうふうに展示する度につながり広がっていく。いろいろな展示の実験をしていくことが面白いです。
07 日本での展示場所
岡部:阪神淡路大震災のときにフランスからアーティストのジョルジュ・ルースを招待したのですが、廃墟の中に絵を描いたり立体を作ったりして写真を撮るという仕事をしています。彼も宮本さんと同じで、廃虚を仕事場にしていて、彼の場合は、実際に廃墟に描いた絵や設置した立体作品は、撮影した後に建物とともにすぐに壊されてしまうので写真でしか見ることができません。ジョルジュ・ルースの作品はご存知でしたか。
宮本:ええ。廃墟の中に絵を描いて、ある一点から見ると一つの絵になるという作品ですよね。いろんなことを考えさせられる作家です。一点透視というか、意味のない無用な空間を強烈な一つの空間に変身させてしまうというか。
神戸の話に戻りますと、フランクフルト近代美術館のキュレーターのマリオ・クラマーという人が突然手紙をくれて、お前の写真を全部見たい、家に行くから全部見せろと言って家に来た。ヨーロッパのキュレーターは直接家に来るんですよ。まぁ、それはいろんな人を介してですけど。そうやって実際に見て気に入ったものを選んで、これとこれを展示したいと、これとこれを買うという非常にダイレクトなやり方なんですね。マリオ・クラマーも非常にユニークなキュレーターで、フランクフルトの修道院で内藤礼の展示なんかもしました。河原温も彼がキュレーションして、荒木経惟の写真の展覧会もやっています。
岡部:日本だと例えば寺社や教会のようなところでは写真の展示は、なかなかしにくいところがあると思いますが、宮本さんは日本だったら既存の建築物のなかで、こういうところで展示をしたいという希望や構想などはありますか。
宮本:日本でも面白いところがいろいろあると思います。例えばホームレスの人達がいろんなところに小屋を作っていますが、あれを見ると本当にいつも感心する。まあ全員じゃないですけど、よくこんなところに小屋を作ろうと考えるなっていう。彼らは本当に変なところを見つけて自分の住処を作る。それを見ていてこういうところでも展示をしようと思えばできるんじゃないかと時々思いますけどね。これは話が飛躍しすぎですが、お寺や神社、離れ小島とか日本だって探せば面白いところがいっぱいあると思います。あと日本の場合、東京に集中していますから、地方に行ったらもっといろいろあるんじゃないかと思いますね。
08 見ること 人間の頭脳カメラ
岡部:ホームレスを撮り始めたのは雑誌の取材とか、何かきっかけがあったのですか。それとも前からご自分で興味があったのでしょうか。
宮本:最初は車で走っていて、あっと思って、お願いして撮らせてもらったというのが最初です。1982、3年。バブルがまだ始まっていないバブル前夜で、その頃は汐留にまだ貨物駅があって、そことか、日本橋の川沿い、秋葉原の青果市場の脇で撮っていました。ホームレスという言葉はまだなくて、浮浪者のような人はいましたけど、渋谷や新宿にそういう小屋を作っている人も全くいなかった。面白いなと思ってホームレスの変な小屋をぽちぽちと撮っていて、その頃は、小屋だけじゃなくてそういうおじさん達も写真に撮っていた。アサヒグラフで一度、何ページかで掲載したことがありますが、僕の感性としてはホームレスの人よりも作っている家の方が面白い。それからは小屋ばっかり撮っていました。
岡部:宮本さんのホームレスの小屋の写真は、美術館は買ってくれると思うのですが、例えばアートフェアのような一般のコレクターの人達も買われることがあるのでしょうか。
宮本:正確に誰が買ったと調べたわけじゃありませんが、これ意外と買っちゃうみたいですよ。でも日本でホームレスの小屋のプリント買った人はいないなぁ。
岡部:ヨーロッパの方が買うのですか?
宮本:ええ。ああいうプリントを壁に掛けるんですかねぇ(笑)。僕はなかなか面白い造形物だとは思いますけども。時間が経てば経つほど面白みが増してくると思いますし。実はホームレスの人にお金を払って家をコレクションしようと思って、実際にやりかけた時期がありました。あの小屋を作品として美術館とかギャラリーとかに展示して、ちゃんとライティングしたらすごい作品になると今でも思っています。
新見隆:僕は宮本さんの写真のファンなんですよ。初期のナチスドイツの防空壕の写真を初めて見たときに異様な衝撃を受けたんですね。違うタイプの写真家が出てきたなと。それが宮本さんの出発点だと思うんですが。宮本さんは対象を選ぶ独特な目みたいなものを持っていて、写真家というのはやはりこの世なんだけれども異物というか異様なものを探してきて、それを写真にしたときにすごく輝かせるというような精神性があると思うんです。そのシステムというのはすごく面白いと思っているんですね。写真に興味を持つ学生が多いので、写真家の秘密みたいなところが気になるんですが。
宮本:ちょっと難しい質問ですね。秘密…それは僕自身にとっても秘密ですね。わからないです。先程のウイーンのナチスドイツが作った要塞ですが、巨大な構築物が今でもあるんです。防空壕と射撃塔とレーダーサイト。ハンス・ホラインという建築家がこの要塞に非常に影響を受けて、自分の建築に反映させていると聞いたことがあり、僕もそれを一度撮影しに行ったことがあります。それを「SD」という雑誌で特集したことがあるんです。
神戸芸工大の小山明さんがかなり調べていて、彼と八束はじめ氏が文章を書いて『未完の帝国』という本にもなっています。ナチスドイツが作ったもので非常におぞましいのだけど、ウイーンの人にとっては町を守ってくれる守護神みたいな存在。あまりに巨大なコンクリートの塊なので壊せないんですね。何でそんなものを撮るのかと言われれば、本当のところよくわかりません。何かひっかかる、何か面白いと思うのは確かです。町を歩いていて何かひっかかるというものにふっと、こうカメラを向けてシャッターを押すというのが基本ですね。
写真を撮るというのはべつに特別なことではなくて、毎日、朝から晩まで目の前で起こることの中で、あっと思ったら撮るということです。だから基本は撮るというよりも見ることです。ただし、意識して見るということですね。要するに、強い意志のもとに見るということ。あるいは、おれは写真家なんだと自覚して見るということです。…全然答えになってないですね(笑)。
あとカメラの目になったつもりで見てみると、ちょっと世界が違って見えてくるというのもあると思います。僕だってカメラを持たないで町を歩くことはしょっちゅうです。今だって持ってない。そういうときに、あっと思ったらどうするのか。そしたら、そんなときは頭の中にしっかり記憶してやろうと、じっくりと見るわけです。
皆さん写真を成立させている要素をご存じですか? これは私の考えですが、写真を成立させているものは3つあります。1つは光。光がないと、ものは見えません。同時に闇。光と闇は対のものです。闇があるから光があるという説もあります。更に感光材料。光を感ずる物質。この光を感ずる物質というのが人間にはなかなか見つけられなかった。感光材料を発見したのが1839年で、この年が写真発明ということになっています。ダゲールが発明したダゲレオタイプ。銀板写真ですね。
それ以前はカメラ・オブスキュラというもので箱の中に映る光景を見てはいた。しかしそれを定着することができなかった。実用可能な感光材料がまだなかった時代です。それでこの3つを押さえれば一応写真はできる。この3つをどう組み合わせるかということですね。3つをどう同時に成立させるか。人間の目には一応レンズもあります。感光材料に当たるものは脳、ここにしっかりと記憶しておけば人間の頭脳カメラのようなものだから一応記憶に留まります。なので、やはり見ることが基本ですね。しっかり見ることじゃないでしょうか。
新見:宮本さんは個人でも素晴らしい作家でいらっしゃるのですが、横浜のポートサイドギャラリーで「美共闘」というあまり意味のわからない(笑)グループで展覧会をされてましたよね。彦坂さんとか石内さんとか美大出身の人達とのジャンルを超えたコラボレーション。あれが非常に好きです。今後の展開はどうなるのでしょうか。
宮本:美共闘の話がでましたね(笑)。私は1968年に多摩美に入学しました。そのときに映画研究会というサークルに入ったんです。そこに彦坂尚嘉と石内都がいた。演劇研究会にもしょっちゅう出入りして、堀浩哉がいて。翌年に大学のバリケード封鎖がありまして、そのときに彼らとバリケードの中に立てこもり、美共闘という名前のグループを作りました。政治活動と言えるのだろうか。名前だけが先走りして、何やってたかというと、毎日飲んだり、ぐずぐずしてただけの話ですけど。
この連中とは一緒に展覧会をやったことがない。1998年にちょうど彼らと30年ぶりに会って久しぶりだから一度やってみようかと、1番最初はギャラリー山口、2回目は東京画廊、3回目が横浜のポートサイドギャラリーで4人展をやりました。「AIR」展、空気展です。「AIR」というのは彦坂が考えたのですが「ART IN THE RUINS」の略で「廃墟の中のアート」という意味があるんだということです。
岡部:宮本さんは直感的にモチーフを選ばれているようですけど、人間が長い時間をかけて構築してきた美術館とか博物館とか、あるいは要塞などの歴史的な古い建物やスラム、それは廃墟になってしまったり傷んでしまったり、という姿の中に、人間の光と闇を鋭く見つめていらっしゃるのではないかという気がします。たぶん御自分ではそういうことは意識しないで直感的に撮影するのだとは思いますが。もしそうした動機や行為を言葉で表すことができれば、写真は撮ってらっしゃらないかもしれません。今日は体調が悪いなか、本当にありがとうございました。
宮本:いいえ、どういたしまして。(拍手)
テープ起こし (渡辺真太郎)