イントロダクション
「永遠の少年」と形容される丸山直文。若さの秘訣は、フレッシュな絵画へのあくなき願望の泉のためかもしれない。イメージが達成されるやいなや、べつのイメージへと向かう心的エネルギーは、画家によっても、また時期や時代によっても異なるのだろうが、丸山の場合、それが肉体の永続運動として感じられるのは、才能ある者だけに課せられた稀有な受難ともいうべきシジフォスの苦役に違いない。見るからに無口な印象も、そうした絶えざる心身の運動の対価のように思える。
さて、丸山の絵画が現出させる蜃気楼のイメージが語りかけてくるものとは、空虚が充溢でもある世界の出来事であり、朝と夜がけっして出会うことなく交合する感触である。無限の奥行をもつ至福のたゆたいには、反復される絵画への問いとラディカルな肯定がある。
ヘレン・フランケンサーラーやモーリス・ルイスに由来するステイニングという技法を、独特なコンセプトで駆使する丸山だが、絵具を素地のキャンヴァスに染み込ませるその手法は、彼にとっては「反絵画」のスタイルにも繋がっている。なぜなら、グリンバーグのモダニズム理論を待つまでもなく、地と図の相互浸透は、東洋の水墨画の表現に現存し、ミニマルな色彩の濃淡が織りなす平面の階層と空間性は、何世紀も前からのデジャヴュともいえる効果だからだ。つまり、西欧の伝統的な油絵が内包する構築性とは裏腹のステイニングによる即興性と即時性は、日本人が慣れ親しんだ和紙による伝統技法や水彩画に近い。
油彩と水彩が重なり、乖離するそのあいだのゾーンに彼の絵画はあり、線描を志向するロジックやロゴスの領域と色彩を求める感覚や感情の領域のはざまにある。両義的であいまいな揺らぎに、禁欲的にとどまろうとする位置に、丸山独自の日本文化論と倫理感を見る。つねに再生しつづける絵画の皮膜の微動に、至高の光が招かれる。
(岡部あおみ)