批評
世界には同じような風景を持つところがある。私は日本から一歩も出たことがないのだけれど、中学生の頃、英会話を教わっていたアマチュアカメラマンのカナダ人の先生に沢山の風景写真を見せてもらった。その中には秩父や上高地のように、日本国内の物もあれば、カナダや、中国や、オーストラリアのものもあった。そのなかには、日本の山と同じような風景のものがあった。どうやら、植物が似ていたりすると同じような風景になるらしい。
ネオランドスケープをみて、どこかで見たことがあるけれど、どこでもない、デジャヴのような感覚を覚えた。日本の山奥の風景だと思っていた風景が、実は、日本ではない、どこか自分の知らない国の風景だった様な感じだ。そんなことでサブタイトルが「見られえぬ風景との対話」なのだろう。
楽園の風景というとエデンの園や極楽浄土、桃源郷など国や宗教が違えども、花々が咲き乱れ、光にあふれた、温かい場所を連想する。それは私たち人類が自分たちが生きてゆくのに都合の良い、心地よい場所をあこがれるように、遺伝子レベルでインプットされているのかもしれない。また、風景の好みは、幼少時育った場所によってもちがうらしい。風景は不思議なものである。人類共通の風景もあれば、その人だけが懐かしい風景もある。
私たちをとりまく風景は止まることなく日々変化している。木々は育ち、花は枯れるし、人間の作った物は、朽ちていく。けれど、その人の心の中の風景は、変化しない。花が好きな人は、桜が満開だったとか、咲いていた花のことを中心に風景を覚えているだろう。他の人は同じ風景を見ても、違うことを中心に記憶する。風景を描くことは、その人の内面にある、記憶を強く表すことなのかもしれない。
記憶には、じっとりとまとわりつくような空気等視覚以外の感覚もある。近藤さんの作品からは、静けさが伝わってくる。けれども、私の記憶の中の風景の色調とは違っているからなのか、湿度や空気の感じがあまりよく分からない。木がある風景は何度もみているる。けれど、この作品のような色の木のある風景は見ていない。空気感がよく分からないから仲間はずれにされたような気分だ。
近藤さんの作品は、近藤さん自身の風景である。しかしながら、ぜんぜん空間を共有したことのない私も、きっと目にしたことのある風景だ。実際に見る風景というより写真として色調を整えて見た風景に近いけれど。(写真を使って制作しているためかもしれない。)それと同時に、私の見たことのない、一生見ることのない風景でもあるだろう。
(正田芙沙子)
事前にお話を聞いてから、近藤さんの作品を見ることができて大変嬉しかった。作者について何も知らない状況で自分の思うがままに鑑賞することとまた違った楽しみがあったからだ。作者の人柄や、考え方を少しでも理解したうえで見るのはより作品に入り込みやすい。私は作品を一目見た時から近藤さんの絵が気に入っていたのだが、やはり実物はもっとよかった!洗練された作品は、長身でタイトなセーターをかっこよく着こなし、クールだが心の奥底に熱いものを持っている近藤さん本人にとても似ている。
私が近藤さんの作品に感じたことは、情熱とか苦悩とか悲しみといった精神性を描くような、アカデミックな普通の油絵などを見た時に感じるものとは全く異なった。フラットで筆跡もほんどない。色彩と形が今にも混ざり合うような様はまるでテキスタイルデザインのようだ。「見ているこっちまで嬉しい気持ちになる」など見る側の心に訴えかけてくるというよりは、「この柄で布を作ったらお洒落なのではないか」などと思わせる。近藤さんの作品の素晴らしさはこういったデザイン性の高さにある。デザイン性とは近藤さんの展開する世界観=理想の世界、ネオランドスケープの計算し尽くされた構図や配色であり、そこに強く魅力を感じる。良い意味で私たちに厚かましく語りかけてくるものがないのである。それもそのはず、学校でお話を聞いたとき近藤さんはこのように話していた「具象、抽象化するためにはストーリー性を排除すること。批評家は必ずしも絵画に意味を求めるが絵画に意味を展開する必要があるのだろうか」と。しかし、このように話す近藤さんの作品こそストーリー性を持っているのではないかと私は思っている。絵画に意味を展開する必要は本当にあるのだろうか。近藤さんの挑戦は、今後私も考えていきたいテーマの一つである。近藤さんの挑戦は決して終わらない。なぜなら理想の世界、ネオランドスケープに終わりなどないのだから。その挑戦が、サブタイトルにも込められた「見られえぬ風景との対話」となる。
今回は初めてギャラリーで見るということをしたが、とても良い体験ができた。ギャラリーask?の近くには他にもたくさんのギャラリーがあったのでみんなで他のギャラリーも覗いてみた。実際に作者のいる所もあった。作り手を身近に感じながら作品を見ることができるのはギャラリーの魅力である。ギャラリーとは小さくとも新鮮で元気な情報を発信する大変力強い場所である。だが、近藤さんの作品はどう考えても大きな場所でじっくりと見てみたい。それにしてはこの場所は狭すぎたのではないか。その点が少し残念ではあった。しかし近藤さんの作品は精神性とはまた別の新しい感覚を呼び起こす絵画であることに間違いない。一見普通の油絵にも見えるが、新しいことに挑戦し続ける現代アートの中に近藤さんの作品が入るのはそんなところだろう。決して見られえぬ風景、近藤さんの世界、ネオランドスケープをいち早く紹介した今回のプロジェクトは大成功だった。
(瀬野はるか)
風景画とは何か?こういった疑問を持ったことがあるという人は、おそらく少ないであろう。「風景画?そりゃあ、風景を描いた絵画のことだろう。そのままじゃないか。」では、風景とは何か。私たちは風景を見るとき、何を見、感じて、それを風景であると認識するのだろうか。
風景の"景"という字には、光と影の両方の意味がある。つまり風景とは、風と光と影が作り出す世界なのであり、木や山や川などの要素は後からついてくるものなのだ。だから、風景画には最低条件として、そこに必ず風と光と影が存在していなければならない。今にも落ち葉が風に吹かれて飛ばされてしまいそうな、生々しい空気が描かれていなければならない。
そう考えると、彼の作品を風景画と呼ぶのは難しい。確かにそこには、大自然のエネルギーや、その偉大さを感じ取ることが出来るが、山や木々があまりにも主役としてダイナミックに描かれすぎ、風は絶え、時間が止まり、空気さえ死んでいるのではないかと思うほどだ。これはあくまで、作品の悪評ではない。むしろ、風景画とは何かについて考えなおす、良いきっかけを与えてくれる作品であると思う。なぜ、これらの作品が風景画ではないのかというと、私たちが風景を見ているとき、一本の木を見つめているのではなく、山だけを見つめているわけでもない。たとえ、目の前に立つ一本の木や向こうの山がどんなに美しくても、それらは風景の一部に過ぎないのである。しかし彼の作品では、どのキャンバスの中でも、主役として描かれた木や山が絵の中の存在感をひとり占めしているように感じる。逆転した影と光は、ピンと張りつめた緊迫感と、重々しい主役たちの表情を演出している。そこに人間が入り込めないような、自然の底知れぬ脅威さえ感じる。こういった、写真のネガのような手法を絵画に用いると、なるほど、普段何気なく見ている木や山というものは、こんなにも自己を主張して見えるものなのかと驚嘆する。もはや風景画の枠を超えた、新しい世界である。もしこれが風景画であるというのであれば、私は直ちに、風景というものに対する自分の考えを改めなくてはならない。
また、フレームをつけない作品の展示についても興味深い。作品にフレームをつけずに展示するということは、キャンバスの側面が見えるということである。フレームは作品の範囲を限定する、ボーダーラインのような存在でもある。したがってフレームをつけない状態では、キャンバスの表面(二次元)だけでなく、側面までもが作品であり、芸術なのだ。もしくは米国のミニマリストであるフランク・ステラが、絵画そのものを独立させるという思想に基づいて、フレームによる作品の限定を排除したように、何千年も何万年もこの地に息づく大自然の生命力を、人間の手によって限定することなど不可能だという考えに基づいて、フレームを排除したとも考えられる。
人間を超える何かを、人間の手で作り出すことほど難しいものはない。これは現代アートが目指し続ける、もっとも大きな課題のひとつかもしれない。
(宮本絵梨)