artist 石内都/Ishiuchi Miyako




「灯篭流し」 2007
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イントロダクション

―光へのスキン・ダイブー

8月6日の原爆平和記念日の夜、原爆資料館の遺品を撮っていた石内都と広島の灯篭流しをともに見る機会を得た。平和公園と原爆ドームをはさんでゆったりと流れる元安川。公園側の岸と川中の船から、ろうそくが灯った無数の赤や黄色の灯篭が流される。だが、なぜか浅瀬の岸辺にたまって、ぐずぐずと動かない灯篭も多い。鎮魂の思いを河口へ、海へと運んでいくはずなのに、にぎやかに人が集う岸辺を離れようとせずに漂う灯篭の姿は、閃光とともに訪れたあの突然の死を、今でもかたくなに拒み続ける死者たちの意思のように思えた。

石内都は写真がかぎりなく死に近いと感じている。写真とエッセイを収録した『キズアト』という秀逸な写文集のあとがきに、死んでいった人達についての話が多いのは、自分の文章が写真を撮る、あるいはプリントするということから発する文字だからだと記している。その石内都が広島という人類の悲劇の地にたたずんでいる。あたかも、広島が彼女を必要とし、呼びよせたかのように。

傷のある人、とりわけ女性を撮り始めたときに、「私は傷を持ってる人に発見されている」と石内自身が語っている。彼女は特殊な技法を用いずに自然光で写すミニマルなカメラワークで、メディアの呪縛から写真を解き放つ強靭な表現者だ。暗室の孤独なしじまのただなかで、毒を浄化する水の響きとともに、見に見えない場の気配、知覚と感情の澱がプリントに滲みだす。偶然性と超自然と精神性がクロスする一瞬、イメージの生成に熟達したシャーマンに至福の時が訪れる。

皮膚という外界との境界は、建物の壁と同様に、死と消滅に向かう物質の進行を徴すネガティヴなキャンヴァスだが、愛撫や殺傷という行為の場であり、微細な気孔や亀裂や襞が、内と外を透過させる濃厚なゾーンも形成する。たとえば足先や足の裏は、歩くという所作を支える重要な機能をもちながら、肉体のヒエラルキーからいえば、最果ての地である。ささくれだち変形した爪、タコができたかかとなどは、本人にとっては目を背けたいものだ。ところが石内が捉えるイメージが湛える不思議な愛おしさはなぜなのか。映像の表面を超えて、生と性が深く浸透した感覚の水底に降りてゆくと、そこに撮影者の皮膚と響きあう無言の共感が、光のさざなみのように現れるからなのだろうか。そう、石内都もスキン・ダイブをする人である。

ドキュメンタリーへの不信や写真の虚構性を、石内都は自らの作品のコンセプトとして明快に伝えている。しかし同時に、カメラを武器や防御盾として、撮影者の存在をその背後に消しつつ、視界や被写体を自らの欲動や鼓動とともに直感的にフレームで切り取ることを当然の慣わしとしてきた「男性」写真家たちの立ち位置とまなざしに対する、ひそかな抵抗でもあるに違いない。 女性というぬぐいがたい自己存在の記憶を、石内は被写体と等価な位置におく。だから、その境界にあるカメラは、できるかぎり透明で非在でなくてはならない。あたかも、皮膚の海底への素もぐりを可能にする奇跡のスノーケルのように。
(岡部あおみ)