イントロダクション
『母は私、私は娘』という平川典俊の作品に、学生が数人協力出演した。娘が普段愛用している服を母親が着て、娘が母のネグリジェやパジャマを身につけ、居間で二人のツーショットを写してもらうプロジェクトである。
少女が男性トイレの小便器の前に座っている写真、道でしゃがんでおしっこをしている写真、また道路においた写真機をまたいで、スカートの中身を自動シャッターで自ら撮る作品など、性的モラルや性犯罪にかかわる作品を手がけるアーティストだから、「先生」としては心配していなかったわけではない。だが『母は私、私は娘』の参加者たちはみな、忘れられない良い思い出になったようで、卒業してからも平川典俊の個展に顔を出す。母と娘の間には、父と息子のオイディプス・コンプレックスとは異なるが、無意識の嫉妬や嫌悪や憧れなどがあって、それが他愛のないエクスチェンジの戯れとともに解消し、滑稽な化身イメージとして昇華されたからなのだろうか。
糞尿に関するプロジェクトで秀逸なのは、2週間ほど特殊なダイエットをした美しい女性が、アートフェアの会場に、自分の大便を毎日運んで展示する作品だろう。当人は恥ずかしがる素振りは微塵もなく、近くの椅子に座って普通に対応している。公衆の面前で公開するからには、人が嫌がる糞の匂いを消すことがまず前提で、そのために特別な食事を摂ってもらう必要があったという。
平川典俊は文化人類学者のように、糞尿やセックスといった人間の根本的な生理を人類共通のテーマにする。そうした「動物的」な行動をどのように隔離し、制御し、コントロールしたのか。応用社会学を学んだ平川は、この共通項に対するセンサーシップ(検問・検閲)システムを、各文化の特性として暴き、制度化されたジェンダーの裏をかく。
使用済みパンティを寄付してもらうプロジェクトも爽快だ。参加する女性たちは、密売されているフェテッシュな商品の逆手をとる醍醐味を味わう。資本主義に懐柔される「性」が、このとき一瞬解き放たれる。彼が危険を冒してまでジョーカーをヒラリと見せるのは、男性の欲望による「よこしま」な性行動を、女性主体のユーモアたっぷりで大胆な侵犯行為へと反転できる可能性に賭けるためだ。
ポリティカル・コレクトなアングロサクソンの保守的な世界で、宗教、人種差別、セックスのタブーを故意に扱うラディカルな行為を通して、彼は逆にアートとは何かを問い続ける。アートへのあくなき問題提起は、ジャンルを横断する越境行為にもつながっている。演劇、パフォーマンス、ダンスなどのヴィデオも独特なコンテンツをもち、写真のみならず動画の映像の完成度に、しばしうならせられる辣腕の作家である。
(岡部あおみ)