インタヴュー
袴田京太朗×小川萌子(芸術文化学科3年)
参加者:岡部あおみ、朝羽由紀、榮龍太朗、清水直樹、鈴木廉、原田裕規
日時:2010年6月7日
場所:袴田京太郎研究室にて
01 自分で好きに料理できる素材選び
小川萌子(以下:小川):現在、袴田さんはカラフルなアクリル板で彫刻作品を制作されていますが、インタヴュー前に情報収集していた時、2001年の『闇の柱』という作品を見て最近の作品とは全く印象が違ったので驚きました。現在のスタイルに至るまでにはどういった背景や流れがあったんですか?
袴田京太朗(以下:袴田):そうですね、話せばすごく長いんですけど(笑)。初期のころからかなりいろんな素材を使っていて、『闇の柱』を作った頃はFRP(繊維強化プラスチック)という素材を主に使っている時期だったんです。その後もまたいろんな素材を経て現在のアクリル板に至るんだけど、そういうスタイルの人は彫刻家ではわりと珍しいかもしれない。木とか鉄とか素材を決めてやってく方が、アトリエの設備を考えても効率がいいし。ぼくの場合は基本的に素材を決めてから作品を考えるスタイルじゃなくて、自分の作りたい内容と素材がそのつど同時に出てくるかんじです。
『闇の柱』 F.R.P(繊維強化プラスチック) 2001年
写真提供:宇部野外彫刻美術館
小川:アクリル板は、その時の作品に丁度良かったと思ったもので、今もしばらく続いているということですか?
袴田:そうですね。アクリル板も突然でてきたものではなくて、カラフルな素材、という事でいえば、アクリル板に至る前にも似ているタイプのものがあります。十色くらいある電気のコードをねじって作った『血族のカーテン』っていう作品で、中に電気を通したりしてちょっと特殊な使い方をしているんだけど、色で形が見えづらくなるっていうことでは共通点があるかな。アクリル板も色としては綺麗なんだけど、色のストライプがきつすぎてかたちが見えなくなる。素材としては妙な充実感があるんだけど、かたちと素材が反発し合って勝手に発言してしまうようなところがあって。そういう意味でアクリル板の素材としての強さは、ぼくにとって新鮮さが持続されているかんじがあって、それで結構長くやれているのかもしれない。
『血族のカーテン』 電線、電球、他 2003年
撮影:安斎重男
『血族のカーテン』部分
小川:なるほど。2006年のコバヤシ画廊での「1000層」展におけるインタヴューの中では、アクリル板を使う背景に、素材としてあまり歴史を背負っていなくて扱いやすいとおっしゃっていたのですが。
袴田:もともと工業製品みたいなものを好んで使ってきたところがあって。大学を卒業して作品を作り始めた頃から、木彫、ブロンズ、石彫みたいに、いわゆる彫刻の素材としてスタンダードなものは使いにくかった。例えば初期の頃、好んで使っていたベニヤ板やブリキの板のようなものは、彫刻の素材として歴史を背負っていないし、こう使わなきゃいけないっていうのがなくて、自分でどうにでもできるところがある。そういう身軽なかんじがやりやすかったんだと思う。そのかんじは今でも続いていますね。
小川:なるほど。では袴田さんにとって歴史を背負っている素材とは、具体的にどういうものですか?
袴田:石やブロンズもそうだと思うんだけど、日本人で彫刻をつくっていると木という素材が一番大きいですね。日本には仏像を中心にした木彫の永い歴史があるから、木を彫るっていうことに対して自分がどういう意識を持つかって、避けて通れないことだと思う。
小川:そういうことを含めて、いろんな新しい素材を使っているんですね。
袴田:そうかもしれませんね。木も何回か使ってみた事があるんだけど、なかなか複雑な経験でした。そもそも、木彫ってとても伝統的なイメージが強くて、自分ではコントロールできないようななにかに絡めとられてしまうような気がして、意識的に遠ざけていたところがあった。でもある時に、木彫って基本的に、彫ったり、削ったり、のマイナスの作業で作られているという、当たり前の事にことにふと気付いてはっとした事があって。つまり際限なくつくり続けていくと、いずれ作品は消えてなくなってしまうという事に改めて気づいたというか。そう考えれば自分でも木彫をやってもいいんじゃないかって思って、具体的に試してみたのは、中身を全部くり抜いて空っぽにして、これ以上つくると穴が開いてかたちとして成立しなくなるような、表面だけで成立しているものとして『燃える家の煙』という作品をつくりました。つまり、木彫がマイナスの作業によってできているという事を、自分の作業としても、作品の構造としてもはっきり自覚できるものにしたかったんですね。結局全体を2cmくらいの厚みにして。
小川:では人工的な素材だと、取り組み方としても、素材が背負っているようなことをあまり考えずにやれるということなのでしょうか。
袴田:どうなんでしょう、考える事は別の意味でいろいろ考えるけど、雑音がないというか、とにかく素材と対等に出会えるところは楽といえば楽なのかもしれない。
『燃える家の煙』 木、塗料、パラフィンワックス 2003年
撮影:早川宏一
02 「既製品」としてのモチーフ
小川:耳や人体などのモチーフを選んでいても、そのもの自体にはあまり意味を持たせていないと伺いました。それはすなわちいろんな人が知っている既存のモチーフをあえて選ぶことによって、まず作品に入ってもらって、袴田さんの意図としては油絵でいうマチエールみたいな部分を見てほしい、ということなんですか?
袴田:マチエールを見てほしいというのとはちょっと違う。ぼくは素材としてよく日用品や既製品を使ったりするんだけど、モチーフを選ぶ時も素材を選ぶ時と似てる。つまり強く意味を主張しない借り物であると同時に、完全な「他者」として勝手に立ち回るというか。「耳」っていうモチーフについては、三木富雄という耳ばっかり作っていた彫刻家がいて、日本人で彫刻やる人だったら伝説みたいに捉えてる人がいるんです。だからそれ以降の日本人の彫刻家たちの間では耳だけは絶対作っちゃいけないみたいな、タブーになっているようなところがある。そういう三木富雄が作った耳だったり、過去にいろんな人が作っている家族の像だったり、一回誰かが使ったモチーフを、既製品を素材に使う時と同じ感覚で選んでいる。純粋に耳や自分の家族を作っているんじゃなくて、もともとそういう、自分がコントロールできないような勝手なイメージを持ったものを、無理矢理作品の中に取り込んでいるというか。
『リュウの耳の煙』 アクリル板 2006年
個人蔵 撮影:末正真礼生 写真提供:コバヤシ画廊
小川:彫刻の世界の中では有名なモチーフというか、そういったものを?
袴田:そうですね、「家族」は、自分の家族をモチーフにしているからプライベートなものでもあるんだけど、家族の像とか母子像というのは昔の彫刻でいうと定番ですよね。前はまさか自分が家族をモチーフに彫刻をつくるなんて夢にも思わなかった。一番やっちゃいけない事だと思っていました。でもだからこそ作品を活性化させる異物としては強力だし、方やこれまた強力な素材感のアクリル板と「既製品」的なもの同士を融合させて、その何が起こるかわからない状況になんとか自分が作者としてついていければ、面白いものができるんじゃないかと思っていた。まあ、おそらくアクリル板をやっていなかったら、家族や耳もやっていなかったでしょうね。
小川:でもそうなると数も絞られてくると思いますし、見つけていくのは大変じゃないんですか?
袴田:いや、それはそんなに大変じゃないですね。まだ作りたいものが沢山あるし、作りたい物がだんだんなくなってきて困るというのはあんまり経験ないかな。
小川:では、これからも母子像を作ったりする可能性はあるということですか?
袴田:いや、家族はとりあえず、今は作らないと思う。ちょっと話はずれちゃうかもしれないけど、『Families』という家族のテーマで作品を作った最初の理由は、単にいろいろな種類の人型を大量につくるときのバリエーションに都合がいいからだった。自分の家族がたまたま僕と奥さんと娘と息子で、大人の男女が一組、子供の男女が一組という、ユニットとしてすごく扱いやすかったからなんです。お父さんは一番大きい、娘はちっちゃくて髪が長いとか、サイズや特徴が出しやすいでしょ。でも実際作ってみると自分の家族だから、娘の髪型の雰囲気が違うとか、なんか一生懸命作ってて(笑)。気づいたら「これ普通に家族作ってんじゃんオレ!」って。それじゃミイラ取りがミイラになっちゃうって思って、焦ったり悩んだりしながら作った。けど、少し経って冷静に考えてみると、今までは絶対作品に関わりを持たせないようにしていた自分のプライベートな事が気付いたら作品に入ってきていて、それが逆に新鮮にも思えてきた。そうなると、逆にどうして自分は今までかたくなにプライベートと作品とを分けて考えてきたんだろう、って思ってしまって。だからきちんと整理できるまでは、逆に家族を作ったりできなくなってしまったようなかんじです。
『Families』 アクリル板 2007年
撮影:山本糾 写真提供:資生堂ギャラリー
『Families』部分 資生堂アートハウス蔵 撮影:山本糾
小川:そうなんですか。
袴田:ただ彫刻の問題として作品を作るんじゃなくて、そういうプライベートなことも、自分が生身の人間として生きているわけだし、身の回りのあらゆる事が作品と関わってくる可能性があるって考える方が自然なんじゃないかって。ここ数年、それはすごく気になっている事の一つですね。
小川:自分のプライベートと作品をどう対処するかという。
袴田:そう。例えば今ぼくが興味を持っている作家って、彫刻とか絵画とかいう形式を介さないでその人自身が生身でそのまま作品にしちゃう人だったりするんですよね。そういう作品にすごく惹かれる。でもそういう作品って、すごくいいって思うと同時に強い嫌悪感もあったりして、結果的に落ち込んで打ちひしがれる事が多い。なんで自分は彫刻を通してしか作品をつくれないんだろうって、悩んだりして。例を挙げるとソフィ・カルとか、高嶺格とか、ブブ・ド・ラ・マドレーヌとか。そういう自分のプライベートがそのまま作品になっている人を見ていると、自分は同じようにはしないにしても、まず彫刻ありきじゃなくて、常に、なぜこういうやり方で作っていくのかって、ちゃんと考えなきゃいけないと思いますね。
小川:じゃあ自画像なども、いつかは作ると思いますか?自分のプライベートというか、自分の代表というかんじがするんですが。
袴田:どうでしょう、家族の中の「父親」としては流れで作ったけど、自画像としては考えた事ないな。彫刻だと自刻像とかあるけど、まだまだ先の話かなあ。(一同笑)。
小川:ではモチーフですが、人体や耳、家族や消化器官など人にまつわるものが多いかなと思ったんですけど、それは偶然ですか?
袴田:それは人間にこだわりがあるというよりは、ある強さを持っているからだと思う。自分も見る人も人間で、そういうものに対して強く反応するから、モチーフとして印象が強い。「これ人間だよね」って、見ている人も作っている人も同じスタートラインに立って、そこから分かれていけるような流れにしたくて、はっきりとわかる強いモチーフを使ってるんじゃないかな。
『Family Sticks』部分 アクリル板 2008年
撮影:山本糾 写真提供:資生堂ギャラリー
03 笑っちゃうかんじ
小川:個人的な印象なのですが、袴田さんの作品は作品にもよるんですけど、ちょっと暗い印象を受けつつ遊び心のようなものを感じることが多くて。例えばよくよく見ると小さな家がくっついていたり、『闇の柱』という作品を見てみても内部に複雑な構造があったり。そういうことは意識して表現なさっているんですか?
『闇の柱』部分 写真提供:宇部市野外彫刻美術館
袴田:そう、遊び心っていうよりもう少し意地悪なもの思うんだけど…すごくまじめに作っているんだけど、どこかでニヤニヤ笑っているかんじが自分の好みとしてあると思う。なんだろうな、例えば家が燃えて煙がモクモク出てるというモチーフを、いろんな素材で作っているんだけど、それなんかすごく象徴的かもしれない。家が燃えてる状態ってその家の持ち主からしたら大変なことじゃない?火事で、もうどうしようってかんじなのに(笑)、煙がモクモク出て燃えてる形って滑稽というか、スペクタクルでちょっとバカバカしいかんじがあったりしますよね。そういうすごい悲劇と、滑稽な、笑っちゃうような事が表裏一体にあるって、自分がやりたいことにかなり近いんじゃないかな。真面目に作れば作るほど、どこかで外すかんじを探してるというか。
小川:ではそういうことは必ず作品に加えるように意識なさっているんですね。
袴田:そうですね。僕は一つの素材を使って形を突き詰めて作るやり方をしていないから。作っている途中でいろんな矛盾する要素を次々に入れていくと自分でコントロールできなくなってくるけど、それが逆に面白いんです。もう20年以上彫刻を作っているので、自分にはそれなりに技術があってそれなりに作品をつくることはできるから、それに対してどんどん混乱するような要素を入れて、いつも緊張しているような状態を作っているんでしょうね。そのために強く主張する素材があったり、一癖も二癖もあるモチーフがあったり、作っている本人が笑っちゃう状況があったりするんだと思いますね。
(左)『Wonderer』 (右)『燃える家の煙』アクリル板 2005年
個人蔵 撮影:山本糾
04 最新作「不完全」という繋がり
小川:昨日椿会で『6つ子の壷持ちの召使いの複製のカリアティード』という最新作を見ましたが、あれも6人いるはずなのに数えてみると6人いなくて、ギャラリーの方に聞いたら1人分が2人分を兼ねてることが判明したり、木箱を支えてるにしても一カ所だけ浮いてたりして、本当に先生の作品は見ていてすごく面白い印象があります。
袴田:そうですか。でも今回のあの作品は周りではかなりクエスチョンマークだったみたい(笑)。見てよくわかんないって人がすごく多かった。
岡部あおみ(以下:岡部):なんで木彫りの熊が?(笑)
小川:あれは袴田さんが彫ったんですか?
袴田:いや、あれはヤフオクで買ったやつ(一同笑)。いっぱい買ってあって、アトリエにまだ熊が沢山いるんだけど。特に今回の作品については実験的に作ったところが強いから、「わからない」っていう感想が多いのも一応想定内ではありました。簡単に説明すると、大きな2つのお話が組み合わされている作品で、一つは「6つ子」というもの。ちゃんとルール通りに作ると、一番手前にいる壷を持った人と同じ形が6体できるようになっているんですね。パーツ1枚につきアクリル板を6枚まとめて切り出しているから本当に6つ子。でもちゃんと作ったのは一体だけで、他のものはランダムに積み上げて変な形が出てきていたり、色のパーツと白いパーツを上下に分けてつぶれているような白い人になっていたり、2人分が合体して細長いオレンジ色の人になっていたりしている。ルールを崩しながら作っているわけです。で、もう一つのお話は「カリアティード」。これは建物の柱で人の形をしているものなんだけど、ギリシャのアクロポリスの一部の柱が有名なんじゃないかな。この作品では木箱を支える構造として使っています。ちゃんとできているものは1体しかないような6つ子と、いいかげんでちゃんと支えられていないカリアティードと、2つのお話はそれぞれが不完全な状態になっている。カリアティードじゃなくちゃいけない奴が一個外れていて、その代わりに関係ない熊が入っちゃっているとか。そうやってルールをずらす事で変な関係性が勝手に生まれて、不完全なもの同士で繋がってるというか。
小川:でも木箱は支えられているという。
袴田:そう。物理的になんとか木箱を支えている、というのも重要ですね。でも一つのお話が完結しちゃうと他のお話と繋がらなくなるから、すごくバランスが悪かったり、一つが浮いていたりする。6つ子も不完全、カリアティードも不完全。そこからまた違う小さなお話がちょっとずつ入って来て、どんどん広がっていくかんじになってくれればいいかなと思って。見た目は楽しげに見えるかもしれないけど、作っている時は結構と辛かったんですよ(笑)。常に自分の価値観を崩して、変更しながら作っているから、ワクワク感半分、でも意外としんどいんですね。どうなっちゃうんだろう、という不確定要素を常に膨らませながらやってるから。
『6つ子の壷持ちの召使いの複製のカリアティード』
アクリル板、木、木彫りの熊、プラスチックケース 2010年
資生堂アートハウス蔵 撮影:山本糾
小川:でもそういう発想はあえて入れているんですか?
袴田:今回は特にそういう要素が強かったですね。2007年と2008年に椿会で出した二つの作品は、ボリューム的に大きかった事もあるけど、最初から空間に対してバシッと作ろうという考えがあった。4人のグループ展だったからその中での役割としても、空間に対するスケール感とシンプルな構造が不可欠だったんですね。それはそれで上手くいったと思う。でも今回の展示は6人の作家で人数も多いし、展示全体の空間のうんぬんというより、今自分で問題意識を持っている事を狭く深く掘り下げるようにして作ろうという考えが強かった。なので、前の二回とは少し違う感じになっていると思います。
小川:そうですよね。今までにはない規模もそうだし、違った視点なんだなと思って見ていました。ところであの作品は、木箱に納められていた6つ子が出てきて木箱を担いで、最後展覧会が終わったらまた納められる設定だと伺いましたが、そこには何か意図があるんですか?
袴田:あの木箱という存在が、作品のようで作品じゃないというか。作品の一部として4つの彫刻に支えられているけど、その4体を収める梱包材としての木箱でもある。あそこだけ作品だかなんだかわからない、いわば保留の状態になっちゃっていると思うんですよね。普通どんなにヘンテコなものでもギャラリーに置いてあればみんな作品のはずなんだけど、実際に機能を持った木箱が入ってくると、作品を取り巻く美術的フィクションの世界がちょっとだけ破れて、日常やノンフィクションとつながってしまうかんじになりますよね。それでさっき言った、大きいお話やルールが少しずつ崩れていく事ともつながってくれるかなと思った。最初は木箱じゃなくて机を使おうと思っていてずっと机が上にあったんだけど、それが二転三転して最後、木箱にたどり着きました。
小川:じゃああの木箱は袴田さんが作ったんじゃなくて、本当に梱包材としての木箱をポンって置いたかんじで?
袴田:いや、一応ぼくが作ったんだけど、でも梱包材として一番ふさわしいというか、機能的に正しい方法で作っています。でもあの木箱、「これもご本人が作ったんですか」ってよく質問されて。作品の一部分を指してそんな事言われるってあんまりないというか、普通ぼくが作ったに決まってるよね、作品なんだから(笑)。でも人から見てもあそこは作品からちょっとはみ出しているらしくて、それは作品としてうまく機能してくれたんだなと思いました。
小川:私はあの木箱に納められていくというのがエジプトと関係していることから、埋葬や死に関係しているのかなって思ったんですけど。
袴田:なるほど、直接意識はしてなかったけど、でもあれが棺桶みたいなもので死を連想させるというのはそんなに外れてないのかもしれないです。確かにあの木箱に入ってギャラリーに運ばれ、展示が終わるとまたあの木箱に戻されて倉庫に保管される。作品は次の出番を待って保管されるわけだけど、でもあの中に入っている時は彫刻としては死んでいる状態ともいえますよね。だから「棺桶」ってすごく当たっているのかもしれない。作品を作る時、いつも死のイメージみたいなものはどこかで持っているから、もしかしたらそういうのも多少は関係あるかもしれないですね。
05 海外で得たアジアの感覚
小川:袴田さんは在外研修員としてアメリカや中国、チベット、ネパールなどに滞在なさっていたと伺ったのですが、それらの国での経験が制作に影響を与えた部分は、思想面でも、技術的な面でもあったりしますか?
袴田:それは精神的な部分で結構大きかったです。最初は文化庁の在外派遣でアメリカに一年間行きました。それまで作家活動を続けていて、それなりに評価してくれる人もいたし、なんとか生活できるようにもなってきて、いろんな事がやっと安定してきた時に、全部中断して海外にポンッて行く事になっちゃった。それまで積み上げてきた事が全部一回チャラになって、ある日突然、全然違うところに放り込まれたようなかんじになって。英語は喋れないし、買い物ひとつままならない状態で、自分が当たり前だと思っていた事が全部当たり前じゃなくなった状況を経験したのは衝撃的でしたね。
小川:突然ゼロに戻ったような感覚?
袴田:そう、だから場所は日本じゃなかったら、アメリカでもどこでも良かったんだと思う。ただ、その後のチベットを中心に行ったのはまたちょっと別で、それは興味があったからなんですけど。チベットはもっと自覚的に、そこで自分をリセットしたい感覚が強かった。それまで自分の中で本当にこれでいいのかな、と思いつつやってきた事のズレが、少しずつ膿のように溜まってきてしまっている感覚がずっとあったんですね、ちょっとずつ借金を重ねているようなかんじというか。どこかでこの矛盾した状況を清算しなくちゃいけないって漠然と考えていました。で、ある時、たまたまNHKでチベットの特集を見て、ここに行ったら清算できるかもしれないって直感的に感じて。それがだんだん膨らんでいって、「なんで自分はあそこ(チベット)にいないんだろう?なんで自分はこんなところ(東京)にいるんだろう」って胸が苦しくなるような、変な感覚に捕らわれていました。まともな海外旅行の経験はほとんどなかったし、なんのつてもなかったけど、幸いこの旅は五島記念文化賞の海外研修だったから資金はあったし、こっちは当時結婚したばかりの奥さんと2人で行ったから半分ヤケクソでもなんとかなると思えたのかもしれない。大きな目的は、今は中国の一部になっているチベットに行く事と、あとダライ・ラマがやっているカーラチャクラというチベット密教の大きな儀式があるんだけど、その儀式に参加することでした。かなり危険な思いもしましたけど(笑)。
小川:どんな危険な思いをされたんですか(笑)?
袴田:崖崩れした道をロープ伝いに渡ったり、前日にバスが転落したところと同じ山道を通ったり。ネパールとチベットの国境で赤痢にもなって(一同笑)。その時は本当にこのまま死ぬかもしれないって思ったなあ。3日間何も食べれなくて、下痢と吐き気をずーっと繰り返して。まあ奥さんと2人だったからなんとか死ななかったのかもしれないですね。でも奥さんは奥さんで、途中ネパールで盲腸の手術をしたり…。
小川:じゃあ制作どころじゃないですね(笑)。
袴田:いや、制作はほとんどしなかったです、その旅行中の7ヶ月くらいは。最初の頃は不安でドローイングを描いたりもしたけど、途中で全然リアリティないと思って、制作はいっさい止めた。とにかくその場所で生きる事、その場所の空気を吸って、見て、食べて、寝て、また次の場所に移動して、ってことを繰り返していた。それとすごく時間があったから、作家として今まで考えてきた事を全部正直にノートに書こうと思って。かなりの量の文章を書いて、それでいろんな事の整理がついたような気がしますね。
袴田京太朗氏
Photo Aomi Okabe
小川:そういう期間があるとないとじゃ全然違いますよね、絶対。
袴田:たぶんアメリカにしてもチベットにしても、その場所特有なものを自分に取り込んだというよりは、今まで自分がやっていた事を整理して、必要ないものは全部捨ててきたようなかんじだったんでしょうね。だからその後は身軽になって、作品が作りやすくなったような気がします。
小川:じゃあ本当に、自分を精神的に解放して振り返るような、そのための滞在だったということなんですね。
袴田:そうですね、タイ、インド、ネパール、中国、チベット、ウイグル、最後パキスタンに渡って、パキスタンからギリシャに飛行機で飛んだんだけど、ギリシャに行った時に半年ぶりにまともなコーヒーが飲めて感動したんだけど、すごい喪失感に襲われて。とにかくアジアに帰りたい!という気持ちが押さえられなかった。自分はアジアの人間なんだ、という事を生まれて初めて身体で実感しました。それだけの期間いれば本当にいろんな事があったし、いろんな人と出会ったしね。日本では一般論としてアジアというと、東南アジアだったり中国だったり、なんとなく「アジア」という言葉の中に日本が入っていないと思う。まあ自分自身も欧米的な視点に便乗して無意識にアジアを見下していたことに、逆に気づいたのかもしれないですね。
小川:では逆にご自分が日本人、日本という国籍を持った作家であることは、意識して制作なさっていますか?
袴田:どうだろう、事実として認めなきゃいけない、というのはあるかな。さっき出た「木彫」の事なんかでは、日本人という自分の立場を考えざるをえないと思うし。日本では当たり前だと思っていた事が、逆にアメリカ人から見ると「なんでそんな西洋かぶれみたいなことやってんの」という風に思われたりすることもあるだろうし…。
小川:それはやはり、海外での体験で感じたことなんですね。ではむしろ、日本的な事をもっとやりなよって言われると反発心みたいなものはありますか?自分は自分だよ、というような。
袴田:僕がアメリカに行った95〜96年頃は、有名無名含めて日本人の作家がNYのギャラリーで展示をするのをよく目にするようになってきていた時期でした。そういう人たちはアメリカ人から見た日本的なものを、ある程度先取りするようなやり方をしていたと思う。そうしないと最初はなかなか入っていけなかったのかなとは思うから、その辺は難しい問題ですけど。その後に台頭する中国系の作家に比べれば、当時の日本人作家はずいぶん奥ゆかしいやり方をしていたんだなぁって、今になって思いますけどね。自分としては外から自分の作品を見られた時に汲み取られる日本的なものや、欧米的なものという事を客観的に理解しておきたいというふうには思っています。
06 「教える」ということ
小川:油絵学科の教授という仕事が、作家として自分に影響している部分や、制作に対する考え方を変えた部分はありましたか?
袴田:どうでしょう、専任教員になったのが2001年だから今9年目だけど、大学にくる前は予備校の講師をやっていて、先生の仕事は基本的に生活と制作の両立のためにやってるところが大きいから、それが意識的に制作と関わってくる事はまあないですね。
小川:自然な、当たり前な事として?
袴田:いや、自然ではないですね。やっぱり教えること自体はすごく大変だと思うし、自然体では教えられない。学生と接していて、結構傷ついて落ち込むことも多いですしね。それなりの期間教員をやっている訳だからある程度慣れているはずなんだけど、最近また教えるのってやっぱり大変だなと改めて感じます。最初はたまたま知り合いの人に誘われて予備校の講師をやったんですけど、それまではいろんなアルバイトをしていて、なるべく仕事を早く切り上げて制作の時間を作ろうと思っていました。でも人を教えるって手抜きできないから、いつも全力モードに自分がなっていないととても対応できない。でもそうしていると、エネルギーは消耗するんだけど、常にテンション上げているのが当たり前になってアトリエでも自然に全力モードになれる。逆にエネルギーを温存してアトリエに行くと、全力出さないモードがだんだん染み付いてくるかんじがして怖かった。だからいつも学生に対しても作品に対しても、今の状況で、常に最大限のことをやろうというのがなんとなく染み付いている気がしますね。それは教えていて良かった事なのかもしれない。
小川:全力投球できるようなスタンスになったという。
袴田:そう。でも最近特に教えるのってしんどいなあと思うことが多いですね。展覧会前とかアトリエで朝から夜中まで仕事したりするけど、それはやろうと思ったら毎日でもできる。でも大学に行くと、大して体力使ってないのに、うちに帰るとすごく疲れてて、アトリエに行って仕事ができなくて…。
小川:(笑)疲れきっちゃって、パワーをすごく使っちゃって。
袴田:(笑)そうだねー。
小川:消費しますよね。指導したり、生徒に囲まれていたりというのは。
袴田:するね。疲れますよね?
岡部:疲れますね。結構、同じで(一同笑)。
小川:家に帰ってからもあの生徒の指導をどういう風にすればいいのかなって、考えたりする事はあるんですか?
袴田:普段はほとんどないけど、何か気になる事があるとそういう時もあるかな。いかんなぁと思いながらね(笑)。今、丁度次の展覧会のための準備を始めたところで、いろいろエスキース作ってぼーっと考えたりしている時期だから、ちょっとぼんやりしてると大学のことがフッと入ってきたりして、いかんいかんと。
小川:(笑)なにか集中するためにやっている事とかはあるんですか?
袴田:ピッチングが趣味で、アトリエの中の壁に向かって野球のボールを投げてます。壁にストライクゾーンが描いてあって。自分のフォームとか気にしたりして、今日は調子いいな、球が走ってるな、とか。最近、そのためのグローブを買ったり。誰にも見せられないけど結構上達してる気もするんだよね。
小川:はい(笑)。そこで本格的に?
袴田:夢中でやってて何回か作品を壊したこともあるんだけど。
小川:(一同笑)。駄目ですよ!
袴田:展覧会直前とかなるべくやらないようにしてるんだけど、今はまだアトリエに余裕があるから毎日ピッチングしていますね、運動を兼ねて。
小川:では、学生には未来の作家という面もあると思うんですけど、そういう未来の作家を育てていて、そこに携わっているという意味で、心がけたりすることはありますか?これはやっちゃいけないとか、こういう事だけは伝えておこうとか。
袴田:そんな自信を持って言えるような事はないけど、あえて言えば自分の過去と学生の未来を一緒にしないようにしています。学生の未来と自分の過去を重ねて、ぼくはこうだったから君もこれからこうなるよ、みたいな事は言わないようしていますね。幸いぼくは彫刻作ってて油絵学科で教えてるから、作品が直接重なる部分は少なくて、その辺は接しやすいんだけど。彫刻の学生と接する時はかなり努力しないと、「君がやることは俺もわかってるよ」とか、「大体次はこうなんでしょ」みたいな事が出てきやすい。それは学生にとっても良くないと思うし、自分でも良くないと思う。基本的に「この人たちの事は僕にはわからない」っていうスタンスで接するようにしています。
小川:彫刻学科出身って聞いた時、彫刻学科を卒業しても油絵の先生になれるんだなって思いました。
岡部:変則的ですよね。どうして着任されることになったのでしょうか?
袴田:どうしてでしょうね?まぁ、油絵学科は学生数が多くいろんな学生がいますから、絵じゃない事をやりたい学生も結構いて、そういう子を担当するというのがひとつあります。あと僕の立場としては他者的な視点で絵に接する、という事も重要なのかなと思っています。油絵学科といってももう少し広い意味での「美術科」的な側面も大きいと思うから、そういうバランスをとる人がいた方がいいという事で呼ばれたと思うんですけど。
小川:でも油絵学科の教授になる事が決まった時に、分野が違って全然わからないけどどうしようって思ったりはしませんでしたか?
袴田:もちろんすごく不安はありました。でもまぁもともとぼくも油絵も描いてて、油絵学科を受験しようとして挫折したんだけど(笑)。挫折した人が先生やってるのはどうかと思うんだけどね(笑)。
小川:それは初耳でした。
袴田:それがあってずっと興味はあったし、絵はずっと好きだったのね。やっぱりなんだかんだいっても絵画でしょうって憧れもあったし。好きな作家もほとんど絵描きばっかりだった。学生時代も、卒業してからも、描いてたことは描いてたの。
小川:そうだったんですか。袴田さんの絵、全然見たことないです。
袴田:見せない(笑)。封印してますから。
小川:どんな絵を描かれるんですか?
袴田:最近はあまり描いてないけど、油絵とアクリルで集中的に描いていたことがあって、特にアメリカにいく少し前くらいかな、かなり真剣にドローイング(紙にアクリル)を描いていました。いわゆる彫刻家が描くようなドローイングってすごく嫌いだったから、ちゃんと絵画として成立するものじゃないとやる意味がないと思ってた。特にアメリカでは、多分何百枚も描いていて、自分でもちょっといいかなって思ってたんだけど、途中でハッと気がついてしまって。「オレすごい絵画に憧れてる、オレの作品は絵画を目指してる」って。彫刻を作った時はどっちかというと、彫刻からどう距離を取ろうかと思ってやってるのに、気付いたらなるべく絵画らしいものを描こうって一生懸命描いていた。それに気付いて、本当に嫌になって止めちゃったんです。
小川:袴田さんは、彫刻であっても油絵であってもあまり囚われないようにするのを、すごく意識なさっているんですね。気付いたらすぐ離れるという、距離を置くようなかんじですよね。
袴田:絵画とか彫刻とかいう、自分が属してるメディアのことはすごく大事だと思うんだけど、それを目指す事はそのメディアを大事にする事とは別というか、むしろ逆の事になるからね。絵画を目指したり、彫刻を目指したりっていうのは決していい事ではないと思いますよ。
07 今後の活動
小川:では、これからの制作活動はどういう風にしていこうかなど、なにかお考えですか?展望などはありますか?
袴田:ここ数年「複製」というテーマで彫刻を作っていて、今後まだしばらくは続けてやろうかと思っています。秋にいくつかある展覧会にも「複製」というやり方を使ったものを出すつもりです。彫刻を複製するというと、ニセモノがいっぱいできちゃうみたいな、ちょっときわどい話になってくる。たとえばロダンの『考える人』って世界中に何個あるか正確には知らないけど、まあ、かなり沢山あって、でも普通は作品の内容とは直接関わらないわけです。というか、考えちゃいけない事になっているというか。でも彫刻を複製するというのはすごく重要な技術だし、ものの在り方としてもその根幹に関わるものだと思うんですよね。例えばこのペンって同じものが何十万個とかあるでしょ?同じクオリティのものがそれだけの数ある事自体すごいことだし、結果的に値段も下がって今の生活の中に組み込まれている。日常生活の中で複製はすごく重要な技術だと思うんだけど、彫刻に関しては複製ってすごく微妙な問題になる。粘土で作った物をブロンズにしたり、小さなマケットを拡大したり、彫刻制作では広い意味での複製というシステムは必要不可欠なものなんだけど、本来美術作品が持つはずのアウラというか、「本物ってなんだろう」とか、そういうきわどい問題を含んだものになってくる。それが面白いと思っているんです。きわどい問題だからこそ、まだまだ可能性もあると思っているので、しばらくは続けてやっていこうと思っています。
08 府中市美術館での公開制作
鈴木廉:1〜2年くらい前に府中市美術館で公開制作をやっていらしたと思うんですけど、作品を見てくれる人との関係ということはいつも何か考えたりしますか?普通の美術館に作品とキャプションだけが置いてあるのとは違い、見てくれる人との距離が縮まるんじゃないかなと思うんですけど。
袴田:そうですね…公開制作というプログラムは、単純に完成した作品を並べて見てもらうだけじゃなくて、もうちょっと制作に近いところで見てもらうというものですよね。それは作る方にとっても、見ている方にとっても刺激的な事だと思うんです。でもなんていうのかな、見てくれる人の事を考えすぎると、作品ってどんどんずれていくところがあるような気がします。本来、作家ってものすごく自分勝手なイメージで作品を作っていくものだと思うんだけど、同時に受け入れてほしいと思うわけだから、そこには当然矛盾がありますよね。でも短絡的に「共感」というような結果を先取りするような事をしないで、その矛盾にしっかり付き合う事って大事なんじゃないかと思うんです。あの「公開制作」というのは、印象派の絵は好きだけど現代美術はわからないっていう人たちに、美術のほうから少し歩み寄って、もうちょっと間口を広げているんだと思うんです。最近美術館でワークショップとかをやるのもそうかもしれません。ただ、それは段階的なものであって、理想的な関係というのは、一般の人たちの知的好奇心を刺激した後にあるはずの、もっと静かで深いものだと思います。まず「わからない事が面白い」って思えないと始まらないですからね。
岡部:あの公開制作の『ハルガ』という、女性が片足を持ち、切られたほうの足を机の脚が支えている作品ですが、あの辺から机の脚とか人間の脚などという脚のテーマがあったのかしら。今はむしろカリアティードという、脚ではなく支える柱になってきたわけですけど、そうしたテーマが続いてきているのかなと思っていたのですけど。
『ハルガ』アクリル板 2009年
写真提供:府中市美術館
袴田:そうですね。足元で支えられているところって、物理的に何か物が立ち上がる時に一番重要な部分ですよね。でも逆に地面に接している部分って汚れるし、普段はほとんど意識しないところでもあるわけです。昔、タイでバスに乗ってる時に、草履を脱いで前のシートに足をかけてたらバスガイドさんにすごい勢いで怒られた事があった。足の裏って仏教的には汚れた不浄の場所なんですよね。そういう二面性があるところにすごく興味があります。
09 デザイン性とコラボレーション
岡部:去年の冬、金沢21世紀美術館に行った時に袴田さんのマネキンの作品があり、ファッションとコラボレーションしたあるデザイナーの個展で、とてもいいのですが、単に服をサポートするマネキンとして一種のデザイン性の方向に見られてしまって袴田さんの作品という風にはあまり思われなかったかもしれないと思うんですけど、それは特に気にされる事でもなかったのですね?
袴田:うーん、そうですね…あの経緯から説明すると、ミナぺルホネンの皆川明さんから、美術館の個展でぼくのアクリル板の作品にミナのワンピースを着せて展示をしたい、という相談をされました。皆川さんは以前から面識があって、白金のミナのショップにもぼくの作品があったり、これまでも作品の事を含めていろいろと話していました。それで今回の話も面白そうだから是非やりましょうと、その場で了解しました。ジャンルは違いますが、皆川さんの仕事に僕自身、以前からずっと興味を持っていました。皆川さんもファッションの世界にいながら、そこから自然にはみ出してしまうようなところがあると思うんですけど、やっていることはすごくまじめで、徹底してオーソドックスなんですね。きちんとした服を永く着る、というような。そういうところにすごく共感していましたし、マネキンそのものに対しては等身でワンピースが着られるという事以外は僕の方で自由に考えてやっていいというオーダーだったので、だったらできるかなぁ、と思って。
岡部:マネキンなのでファッションデザイナーからの依頼で作られたという気はしましたし、アーティスティックで素晴らしかったのでデザイナーにとってはすてきなプレゼンになっていると思いますが、アーティストとして袴田さんご自身はどう感じられたのかなと思って、聞いてみたかったのですね。観客の反応はどうでした?
袴田:「知らなかったんですが、行ったらあってビックリしました!」と何人かの方に言われました。
岡部:たまたま見た人でも、袴田さんの作品だとすぐわかるわけです。だからまず意外に思う。でも素晴らしいし、いい展示になっていると。
袴田:そうですね。お互いにシンパシーを感じている、ジャンルの違う人となにかやるのは面白いですね。刺激的だし、当たり前の事が当たり前じゃなかったりする「よそもの」的な感じも、ぼくにとってすごく興味があるところです。
岡部:それはいいですよね。これからもこうしたコラボレーションはやってもいいと思っているのですか?
袴田:そうですね、チャンスがあれば。また少し形は違いますが、いわゆるコミッションワークで、ある決まった場所に作品を設置する、というのもたまにあります。普段やっている、ギャラリーや美術館というニュートラルな美術的な空間と違って、いろいろな雑音が入ってきたり、自分の思い通りにならない事などもあったりするので、もちろんやりにくさはあるんですが、そういう状況を上手く取り込めると、作品に違った展開が生まれたりする事も過去にあったので、好奇心はありますね。
岡部:パブリックアートとしては、東京ではどこに設置されてましたっけ?
袴田:パブリック、というとそんなにないですけど、ファーレ立川の中、高島屋の映画館がある側とは逆の角に高さ9mの大きな作品があります。1994年のものなので今の作品とは雰囲気が違いますけど。前に黄色い伊藤誠さんの作品があり、その奥に岡崎乾二郎さんの作品があって、わりと作品がかたまってるところです。あとはホテルにいくつか設置した作品があります。最近のものでは2005年に設置したもので、汐留にあるコンラッド東京というホテルのロビーの中に2点入ってます。
岡部:先ほどの質問と関連するのですが、パフリックアートにもまわりの環境との協調とか、ある種デザイン性も必要で、そうした要素がある作品として見られても問題ないのであれば、いわゆるパブリックアートという枠の中での広がりは増えてくるとも思いますが、それはアーティストとしての関与であって、デザイナー的な展開は考えてないですよね?
袴田:ないですね。デザイナー的な人やコーディネーター的な人が入ってくれれば、その人とのコラボレーションとしてできるかなというかんじですけど、自分で空間全体をプロディースとかそういう事は考えていないですし、コミッションワークも自分から積極的にどんどんやっていこうというかんじはないですね。
10 いつもやりたいことのストックはある
岡部:もともと絵描きになりたかったというのは初耳でしたが、越後妻有アートトリエンナーレの出品作で『血族のカーテン』がありますが、あの頃からカラフルというか、多色を使い始めたと思うのですが。それ以前は単色が多かったですよね。
袴田:そうですね。
岡部:あそこからカラフルな多色系になってきて、特に今のアクリルは透明感もあるからそういう意味で色がすごく目立つようになり、どちらかというと絵画的な要素も強いと思うんですね。絵画との関係をお聞きして、色彩の使い方がとても上手なのでそれはもともと得意だったのかなと思いました。色を沢山使う今のアクリルの方法にむしろ最初から慣れてらしたのかなと思ったんです。
袴田:いやいや(笑)。
岡部:あまり違和感はないって事ですよね。
袴田:そうですね。
岡部:木彫を手がけている人が急に多色に移るっていうのは、なかなかないでしょう。
袴田:そうですね。僕の場合は、作品の材料としてよくでてくる既製品、工業製品を、それ自体がもともと持っている質や色も含めて作品の中に取り込もうとしているので、絵描きのように自分のオリジナルな色彩がでてくるというわけではなく、色彩も僕にとっては既製品なんだろうと思います。初期の頃に鉄の彫刻に花柄の布を貼ったりした作品があって、これも既製品の色そのままなんですが、周りの人からは「彫刻だけど絵画的」と言われたりしました。それは「華やかな色彩をもった彫刻」という事では今のアクリル板の作品とつながっているかもしれないですけど、どちらも自分では絵画的な事をやろう、というふうには意識していないです。
岡部:先ほど、別にご自分が日本人ということは意識していないとおっしゃっていましたが、妻有の作品のタイトルが『血族のカーテン』というのにはびっくりしたんですけど。
袴田:重いですよね(笑)。
岡部:面白かったです。しかもああした古い家の中で作られた作品だからぴったり合っていましたし、設置されていた様々な作品の中でも袴田さんの作品はすごくいいと思いました。特に『血族のカーテン』以降、次は家族のテーマになったので、それが二人お子さんがいらっしゃるご自分の家族をモデルにしたとは知らず、昔の日本の家族の典型的な家族だと思ったのですが、ある意味でナショナルアイデンティティーや自らのアイデンティティーに対する意識が、無意識かもしれないけれど芽生えてきたのかと思いました。
袴田:どちらももともとそういう意識で作ったわけじゃないのに、知らないうちにそっちに吸い寄せられていったようなかんじです。でも作品を作るのになにかはっきりしたイメージや意味を、モチーフとしても素材としても意識的に使っているわけだから、「血族」や「家族」が単なるモチーフです、では本当は済まないですよね。それはさっきも言ったように、ぼくが今までちょっとのんきに構えすぎていたんだろう思います。今それに対しては明確に答えられないですけど、今後、自分の問題としてきちんと受け止めていこうと思っています。
岡部:初期の作品は形態とのコミュニケーション、あるいは素材という一つの彫刻とご自分の創造性との関わり方の中から色々展開されてきたという気がするのだけれど、先ほど高嶺格さんやソフィ・カルなどの話をされたのでなんとなくわかってきたのですけど、自分自身の立ち位置の部分との関わりをむしろある意味、自然に、また意識的に考えるようになってきたという事ですね。
袴田:そうですね。最初どちらかというとフォーマルなところから作品を作ってきたので。
岡部:フォーマリズムの影響を受けてきた世代ですよね。
袴田:ええ。自分があるカテゴリーに属しているという自覚があったからこそ、そこをはみ出す事や、外から不純なものを持ち込んで自分がコントロールできないような状況の中で、自分がどうふるまえるかっていうような実験を繰り返していたんだと思います。それで気付いたらものすごくプライベートな事と関わってしまっていた、というかんじだと思うんですよね。
岡部:そうですね。袴田さんの作品を見ていて一番驚くのはすごく自由で、次にどう展開するのかが予測できないところ。それが見えないのが楽しみでもあるし、いったいこんなに沢山の発想はどこからどう生まれてくるのだろうといつも思います。どういう風にアイディアが生まれるんですか?
袴田:どういう風にと聞かれると上手く説明できないんですけど、一つの考えを詰めていって、どこまでいったら破綻するんだろうって展開させていく課程で、逆にいろいろなアイディアが出てくる事はあります。ただ、いつもやりたい事のストックは沢山ありますね。
小川:今回のカリアティードの作品は、今までと全然違うところからアイディアを持ってきたのかと思ったんですけど。
袴田:いや、前に少し似ているものがありました。2001年の個展で座卓の脚から人型を彫り出して、それを石膏のかたまりの上にアンバランスにのっけている作品があったんだけど、見た目的に今の作品にちょっと似てるでしょ。(『地底人』)
『地底人』座卓、石膏 2002年
写真提供:ギャラリーαM
小川:そうですね。
袴田:この時もはっきり自分の価値観を壊そうと思ってやっていて、制作していてものすごく辛かった。何人かの人から「袴田さん最近迷ってるよね」みたいな事を言われて、なんとなく評価が低かった展覧会だったんです。だけど最近になって、これが自分にとって重要なステップだったんだという風に思えるようになって、今回の椿会の作品で意識的にこれ以降の事をやろうと思いました。9年くらい前の作品なので、自分の中で消化するのにかなり時間がかかってしまったんだけど、今はここにもう一度戻って来れてよかったなぁ、と思っているんです。
岡部:確かに既製のものを使う事と脚に対する意識は、現在にも続いていますね。
袴田:そうですね。今後もいろいろかたちは変わってくるとは思うんですが、しばらくは既製品を取り込みながら、自分の価値観や、常識をひっくり返すような展開をしていきたいと思っています。
(文字起こし・編集 小川萌子)