イントロダクション
美少女好みなど、反動的モチーフを駆使するアーティストにもかかわらず、評論家や学芸員などが、えてして会田誠への愛をもらしてしまう誘惑に抗えないのは、カタルシスを与えうる「ヒト」であるからだ。そもそも風貌が、女装してもさまになるほどの整った美と、十字架にかけられたキリストのような慈愛を湛える瞳をもっているのだから、無敵だ。
もちろん、デュシャンやボイスも作品を抜きにして、アーティストの「ヒト」としての威力を発揮することがなかったように、会田誠もまず作品ありきであることに間違いはない。だが、椹木野衣が強調するように「腕がたつ」という側面はそれほど重要ではない。むしろ突出した技術的な冴えを誇る画家の多くが陥りがちな自己陶酔を、完璧なまでに免れているクールさにこそ、強靭なる自我がある。
会田誠の作品にダイナミズムが生成する秘訣はまさに、美という秩序の達成を無化する容赦なき自己否定の力学にある。それこそが、普遍的といわれた合理性に富むモダニティの道徳や倫理といった理想を揺るがし、消費社会の奴隷と化した現代の文化に対峙するイメージの暴力となる。同時に、それは美という伝統から脱却することで日本の近代性の歴史が作られて(捏造されて)いった禁忌への問題提起をはらんでもいる。
それゆえに、性も戦争も、避けては通れぬ関門なのだ。
ミュータント花子も食用人造少女美味ちゃんも、自画像と仮定したら読み解きやすい。
素人も玄人も、持てる者も持たざる者も、ジェンダーさえも、ごった煮にしたいと願う心情には、モダニティのルサンチマンの残滓もやや混在している。とはいえ、群馬県立近代美術館の「日常の変貌」展では、美学校の生徒なども交えて、「みんなといっしょ」に並々ならぬ超「駄作」的グループ展を成功させた。経済によって洗練された時空間を超えようとするドン・キホーテばりのとてつもない意志。
私たちを待ち構える不確実で不安定な奈落へのリスクが、結局、今生きている凡庸なる現実にあることを脳天に刻みこまれる。そして、その痛みにもかかわらず、カタルシスがあるとしたら、そこに、だれでもが手にできる、芸術とともに生きることへのかすかな希望のともしびが託されているからなのだ。
大塚英志は連合赤軍や天皇論といった歴史概念を女性とのかかわりで読解しながら、サブカルチャー化した現代日本の戦後民主主義の意味を問いかける。大塚の書物の表紙を、会田誠の『美しい旗(戦争画Returns)』が飾った。棹につけた大きな国旗をもつおかっぱ頭でセーラー服の少女と、こぶしを握るチマチョゴリの長い髪の少女の絵。マンガ家でもある大塚英志と、マンガに憧れるアーティスト会田誠は、少女文化とナショナリズムという批評のフィールドにおいて、奇妙な親和力を放っている。
(岡部あおみ)