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NPO ミュージアム・シティ・プロジェクト/Museum City Project
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
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インタヴュー

●山野真悟(ミュージアム・シティ・プロジェクト・ディレクター)x岡部あおみ
●川浪千鶴(福岡県立美術館学芸員)x岡部あおみ

川浪千鶴(福岡県立美術館学芸員)x岡部あおみ

日時:2002年10月26日
場所:福岡県立美術館

01 最初の文化の拠点としての福岡県立美術館

岡部あおみ:天神の北部にある福岡県立美術館の学芸員で、「ミュージアム・シティ・プロジェクト」(「MCP」)を地元のアート関係者として、長年見てこられた川浪さんに、お話を伺いたいと思います。福岡県美ができた経過などをまず。

川浪千鶴:最初は福岡県文化会館という名称で、昭和39年に開館しました。県立図書館と美術ギャラリーの併合施設で、それを改装して1985年に単独施設になり、福岡県立美術館と名乗るようになりました。
各県に複合文化施設が建ち始めた時代の施設で、うちは第一世代の古い美術館といえます。福岡では、大型の総合美術館が増えてきた第二世代として福岡市美術館、個性的な美術館がでてきた第三世代として福岡市アジア美術館があります。

岡部:「ミュージアム・シティ・プロジェクト」は、天神という地域を中心としていたものが、福岡市のプロジェクトとして規模が大きくなり、地域が広がったわけですが、地域の最初の文化的な拠点という意味では、県美がそのはじまりと言えるわけですね。

川浪:そうですね。1965年に「ツタンカーメン」展が旧文化会館で開かれましたが、福岡はもとより九州一円のほとんどの人々にとって、それが初めての美術展、美術館体験だったと聞きます。第一世代の美術館は、まず箱ありきで、それはイコール大規模な展覧会催事場でした。旧文化会館時代は、美術館といっても、図書館のなかにワンフロアーだけ展示スペースがあるという程度で、収蔵品を少しは持っていましたが、常設展示室もありません。それぞれが図書館、美術館と名乗ってはいましたけれど、美術ギャラリー以上ではなかった。美術館は催事のための箱ではなく、カフェがあったり、図書室があったり、ゆったりとしたロビーがあったり…。そうした、いまでは当たり前の設備が整った地域の美術館として、福岡市美術館の誕生は画期的でした。学芸員の数も10人いました。

岡部:非常に充実した人数ですね。

川浪:バックヤードも広くて、表も裏も充実した機能をもった美術館がたくさんできてきた第二世代の最後の頃に、やっとうちはリニュアールすることになったわけです。ただ、建物がリニュアールしても、運営方針や組織や設備などの問題は相変わらずのままでしたが。

岡部:川浪さんが美術館に入られたのは、リューアルの頃でしょうか。

川浪:リニューアルの直前くらいです。

岡部:福岡市美と比べて、ここの学芸員の方は、何人ぐらいいるのですか。

川浪:今は5名前後です。10人以上の学芸員数は今では普通になってきましたが、そのクラスはここらへんでは福岡市美くらい。北九州市美もどんどん数が減っていますし。

岡部:今、駅から来たのですが、駅で県美のことを聞いてもあまり情報がない感じですね。

川浪:外からのお客様が福岡というとき、それはイコール福岡市であったり、場合によっては北九州市も含まれていたりします。このふたつは政令指定都市ですから、福岡県の担当は、そこ以外の地域となります。そのため、福岡県は財政的にとても厳しいのが現状です。交通標識や地図などに県美の表示が少なかったりすることについては市に要望していますが、なかなかですね。市美は大濠公園という大きな公園のなかにありますが、そこの居心地のよさとあいまって、親近感をもっている方が多いようです。ここは中心街の天神に近いのですが…。

岡部:近いけれど遠い感じがしますね。

川浪:今、街がどんどん南に向って発展しているんです。県美がある天神の北方面は、実質的な距離は近いのに、心理的にますます遠く感じられる。例えば今年の春、「シャガール」展を開催し、5、6万人のお客さまがみえたんですけれど、うちがどこにあるかを尋ねる電話が、毎日ものすごい数かかってきました。メジャーな特別展を数年に1回見るだけの美術館利用者にとって、うちの場所の情報や存在は毎回リセットされてしまっている。美術館が催事の箱ではなくて、利用しがいのあるシステムをもった親しまれる場所でなければと痛感します。

岡部:地下鉄の駅からかなり遠いです。バスか何かないのかなと聞こうと思ったんですけど。

川浪:バスはあるんですけど、本数が少ない。停留場も公園の真ん前にあるんですけれど、ややわかりにくいし、停車するバスが少ないので、天神から歩いて10分くらいですから、歩くほうをお勧めはしています。ただ、慣れていないとわかりにくいでしょうね。

岡部:意外に、街からの距離は近いのに、アクセスが悪いという印象をもってしまうところが残念ですね。

川浪:天神の地下の南北に地下街が出来た時、北は美術館のずっと先、マツヤレディースのところまでで終わりになりました。福岡人の意識のなかで、北天神は天神ではないみたいに思われている。反対に、「ミュージアム・シティ・プロジェクト」は、天神のど真ん中で始まりました。

02 「ドクメンタ」にならって国際展都市をめざす

岡部:「MCP」は三菱地所アルティアムのあるイムズが中心になっていたのでしたね。

川浪:きっかけは、イムズの方や「ミュージアム・シティ・プロジェクト」実行委員長の山野真悟さん、当時、福岡市美術館の学芸員だった黒田雷児さんたちの話し合いにあり、イムズ側にも天神から発信していきたいという強い思いがあったと聞きます。「ドクメンタ」を開催しているカッセルのような、アートが観光の目的になる商業都市のイメージですか。福岡は買い物にくるだけ、いつも通り過ぎるだけの街なので、国際美術展を見に泊りがけできてもらえたらいいなみたいな。当時、私も「ドクメンタ」のスライドなどを資料としてお貸ししました。「ミュージアム・シティ・プロジェクト」は、最初は「ミュージアム・シティ・天神」という名前だったんです。

岡部:そうですね。

川浪:その後、博多地区にも活動が広がって、名称も「ミュージアム・シティ・福岡」になり、博多部の廃校になった小学校を事務局にしていた時期もありました。拠点を持たずにプロジェクトを行う限界もあって、コミュニティという新しい要素も重要になった。山野さんとしては、当初から「ミュージアム・シティ」は一応10回まで、というつもりではいらしたようです。ではその先の目的は、と聞くと、やっぱり学校をつくりたい、と彼は最初の頃から言っていましたね。

岡部:今はそれが段々実現してきているわけですね。

川浪:現在のプロジェクト・オフィスは県美の近くです。うちは天神の北辺で、尚かつ博多地区との中間みたいなところに位置していますから。

03 「もてなし」展とコミュニティ

川浪:美術館が地域の人たちと意識的なつきあいをした最初の機会は、おそらく2001年に県美で「もてなし」という企画展をやったときで、京都の陶芸家きむらとしろうじんじんさんの「野点・焼立器飲茶美味窯付移動車」を行ったのですが、博多部での野点場所探しの際、山野さんから博多のまちづくり協議会の会長さんらを紹介していただいて、それがとても助かりました。

岡部:すごく評判になった展覧会で、すごく見たかったのですが。

川浪:美術館の内と外で、お茶会を仲立ちにしたふたつのアートプロジェクトを行い、館内は「障碍(しょうがい)の茶室」という和田千秋さんのプロジェクト、和田さんは障碍を負った息子さんとの生活から、現代美術のリハビリテーションともいえる「障碍の美術」を長く行ってこられた方です。今回は美術館の中に車イスで入れるお茶室をつくって、車イスを使った作品鑑賞やお茶会をみなさんに楽しんでもらいました。屋外が、じんじんさんの野点で、窯を積んだリヤカーで街のあちこちに出没し、陶芸ワークショップと抹茶カフェをその場その場で開き、これもたくさんの人たちに喜んでいただきました。

岡部:大成功だったようですね。こうした地域とかかわるプロジェクト型の展覧会がまたできるといいですね。博多部は、今はあまり活気がないのですか。やや寂れた感じがしますが。

川浪:福岡アジア美術館が入っているリバレインも、地盤沈下した博多部の振興が目的の再開発ビルです。博多といえば、山笠ってお祭りごぞんじですよね?

岡部:はい、みました。

川浪;博多部には、祭りに象徴される昔ながらの結束が今も生きています。まちづくり協議会なども、そういう結束がかたいところは、とくにがんばっている。まあ、強いなりにつきあいが大変な事もあるらしいのですが、うまく協同・共同できれば、それこそ話がはやい。きむらさんの野点で、私自身も改めて博多の街をじっくり歩いて、見つめなおすことができました。そういう点を積極的に目論んだわけです。「もてなし」展は、福祉とか地域とかコミュニティとか、行政のすきな用語満載じゃないですか(笑)。博多部に「石村萬盛堂」という老舗のお菓子屋さんがあるんですが、野点の場所だけでなく、お茶会用のお菓子を十数万円分提供してくださいました。

岡部:豪勢ですね。

川浪:お金は無理だけれど、現物協力だったらいいですよ、といってくださって。また、すぐ近くに福祉センターがあるのですが、ここからも障碍の茶室用の車イスを8台も無料貸し出してくださいました。こうした地域とのお付き合いははじめてでしたね。

04 「ミュージアム・シティ・プロジェクト」以降の相乗効果

岡部:福岡県といえば、すごくひろいですから、地域性をどうとらえるかは大きな課題でしょうし、かといって足元の場所とのかかわりをどうするかも、大きな問題ですね。

川浪:地域の人にすら知られていなかったら、日常的に本当に利用者のいない美術館になってしまう。

岡部:存在意義の問題になりますね。大規模な展覧会をやると、県外からも大勢観衆がきて、その影響で一時的に場所の活性化ははかれるとしても、継続するのか。「ミュージアム・シティ・プロジェクト」にも、同じような問題があるのですね。外からの力で街を催しの期間活性化しつつ、足元の地域を継続的にどう変化させてゆくかということへの関心が強くなってきた。一過性のイベントより、そちらのほうが大事なのではないか。ただ、学校といったインフラ志向だと、「MCP」のイベントに訪れる外からの鑑賞者にとっては、ちょっと物足りないかもしれないですね。2002年の「MCP」は、設置された作品も少なくて。

川浪:確かに展示物も少ないし、作品がある空間も、プロジェクトのオフィスだったり、ビジネスホテルだったり・・・。ちなみにこのホテルのオーナーは博多のまちづくり協議会の方で、山野さんと親しくて、アートホテル化計画は山野さんとずっと飲みながら打ち合わせしてこられたとか。一方、「ミュージアム・シティ・プロジェクト」の宮本初音さんが、ホームページにこの時期の地域全体のアートスケジュールを詳細に掲載するなど、情報面ではだんだん手厚くなっています。

岡部:メーリングリストもあるのですか?

川浪:宮本さんが主催する、アート情報の掲示板も恒常的にあります。

岡部:ただそれは情報を出すという協力で、企画レベルではないでしょう?かつては企画レベルで連動しようという意識でなさっていたということですよね。

川浪:やっぱり今思い出しても、初回の「ミュージアム・シティ・天神」の規模はとんでもないものでした。あまりに作家数が多くて、作業が同時多発的なのですべてが分かっている人がだれもいない。作品すら全部見られた人がほとんどいない、とか。展示場所の大半が商業スペースですから、上の判断と現場とが食い違って展示が思うようにできなかったり、台風のために数時間で撤去したりとか、色々あったようです。「MCP」の歴史のなかでは、1994年頃がひとつのピークとして印象に残っています。この年の秋は、「ミュージアム・シティ・天神’94 超郊外」に、アジア美術館に移行する直前の「第4回アジア美術展」(福岡市美術館)が重なり、北九州市立美術館では開館20周年記念として「北九州ビエンナーレ・クイントエッセンス」も予定されていました。私は、地元の現代アーティストを紹介する「現代美術の展望−’94 FUKUOKA 七つの対話」展を2年前くらいから準備していたのですが、開催する時期は意識的に絶対こうした動きと重ねると決めていました。アジア美術を福岡で紹介する一方で、館や企画は違っていても、地元福岡の作家をきちんと紹介し、福岡という地域を知ってほしかった。言われてやったのではなく、自覚的な役割分担とでもいうか、みんなで盛り上がろうというお祭り根性というか。遠方からのアジア展目当て、「ミュージアム・シティ」目当ての鑑賞者に、ついでであっても、この機に福岡の可能性を知ってもらうことは大切だと思いましたから。

岡部:観客にとっても、多角的に色々みられるよい機会になりますし。

川浪:この頃はいろんなスペースが生れていて、都市の活性化がアートのそれにもはっきりつながっていました。たとえば、アジア美術の殿堂としてのアジア美術館という存在は批判されますが、それがこうした歴史や状況の福岡という場所にいまある、というところも含めてご理解いただけたらと思います。「ミュージアム・シティ」効果は、その後それなりに浸透していて、ギャラリーなども企画展の時期をあわせるところも多いですよ。

05 36個の時計がついたアートルーム

岡部:今回「MCP」の「天神芸術学校」はご覧になりました?

川浪:最初の嶋田美子さんのトークは聴講しました。講師たちははさっきご紹介したアートホテルに泊まったそうですよ。

岡部:どんなアートルームがあるのでしょうね。

川浪:藤本由紀夫さんやPHスタジオなど、福岡の作家では江上計太さんや角孝政さんの部屋などが5室くらいあるそうです。藤本さんの部屋が一番おもしろい。36個の時計がベッド脇の壁一面についていて、てんでんばらばらにカチカチ音が鳴ってるわけで。

岡部:夜寝るときも…

川浪:はい。(笑)安眠を妨げるところがおもしろい。PHの部屋はコーナーにアールがついていたり、さりげなくて居心地が一番いいかな。藤本さんの部屋がおもしろいはおもしろいのですが。作家自身は、けっこう、はまるんですよこの部屋は・・・とかいってましたし、安眠もできたそうですが。(笑)でもすごい音ですよ、時計が36個もあると。

岡部:(笑)そうでしょうね。でもそんなことよく考えましたね。ホテル側も許せた点が立派だ。

川浪:アートホテルは、お客さんが宿泊していなければ、直接いってもみせてくれるそうです。

岡部:一回泊ってみたい感じはします。(川浪さんとの対話の後、ホテルを見学した。もともとあったホテルのリニューアルの際に、作品を入れた形なので、最初の設計段階からアーティストと一緒にデザインを行ったというものではなかったが、なかなか奇抜なものもあり、その筆頭が藤本さんの時計の部屋だった。その後2004年に、福岡に行く機会があり、実際に時計ルームに泊まってみようと、はりきっていたのだが、ホテルの予約をとろうとしたら、すでにそのホテルは変わってしまっていた。)

06 天神芸術学校の受講生

岡部:芸術学校が中心になると、どうしても地元の参加者に重点がいき、展示にそれほど力を入れないとなると、外から見に来る人にとってはどうなのでしょうね。運営資金の問題がこうした方向性と関係しているのでしょうか。受講料はどれぐらいなのかしら。

川浪:運営問題はやっぱり大きいでしょうね。1回の参加費は2000円ですが、通しの会費を払えば1万円で、60コマ受講可能なんです。

岡部:それはとても安い!今どき、1コマ1000円なんて。

川浪:私は、どういう方が受講されているかにも興味があったので、初日の嶋田さんの講座に参加してきました。若い女性が多いんですけれども、学生さんよりも社会人。学生も美術系の学生さんではない。受講の動機を書いてもらったら、美大にいきたかったけれど経済的な理由とかで行けなかったとか、ぜひ一度美術の勉強がまとめてしてみたかったとか、現代の動向にすごく興味があるので、アートのことも知りたかったとか。ものすごく熱心に書いてこられた方が多かったと聞きました。60コマもあるのにほぼ全部に予約を入れた人が、一人二人ではないらしいんですよ。すごい意欲です。全部が一貫したテーマのカリュキュラムではなくて、それぞれの講師がそれぞれのことを話しているので、まとまりはないんですけれど。

岡部:おもしろそうですね。受講生は40〜50名くらいですか?

川浪:そんなにはいないです。教室のキャパが20人くらいだから。多くても30人入らないと思います。

岡部:セミナーみたいな感じですが、外部講師への謝礼と交通費を払ったら、赤字になりますね。

川浪:「ミュージアム・シティ・プロジェクト」は隔年開催ですから、企業のコンスタントな支援が受けにくいと聞きました。担当者も変わってしまいますし。そうした活動を長くやってきて山野さんも、単発の期間限定のプロジェクトに限界を感じているそうなので、腰をすえたことをやってみたい、とか。

岡部:継続的な育成をやりたいという気持ちはわかります。

川浪:私が思うに、山野さんたちが付き合っている地域って、福岡市などの行政が政策としてとらえている地域とは異なっている。場所というより、応援団というか支援層というか、ネットワークが大切なのではと思います。山野さんはもともとアーティストで、自らの興味で研究室を主宰し、長くグループ展をオーガナイズしてきたわけですから。

岡部:そうですね。だいぶ昔ですが、主宰なさっていた工房を見に行ったこともありました。

川浪:ただ、「ミュージアム・シティ・プロジェクト」の原点が天神だったことは、大切にしたいと思います。博多部というコミュニティの、ある種優しい安住の地みたいなイメージにくらべると、天神では現代アートはしょせん街中や商業スペースでは勝てないとか、ゴミにすぎないとか、いろいろなもめごとがありました。ただ、うすっぺらい商業都市におけるノイズみたいな存在として、話しあい続けたにせよ、ゲリラ的に駆け抜けたにせよ、天神で行われたことは重要だったのではないのかなぁ。初期から関わっている人たちからは、こうした話はときどきでますね。やっぱり「ミュージアム・シティ」ですからね。商業スペースの真ん中にこだわりつづけることで、見えてくるものもあったかも。

07 アートが町の異物でなくなると

岡部:キャナルシティーの展示は「灯明ウォッチング」だから、お祭りっぽいのかしら。

川浪:私はまだ見にいっていないのですが、「灯明ウォッチング」はキャナルシティーは別として、もともと博多部の、地域のお祭りなんです。「ミュージアム・シティ・プロジェクト」の事務局が一時期、御供所小学校に引っ越してきたことをきっかけに、ものすごくスケールとグレードがアップしたわけです。このあたりは天神と比べてお寺も多いし、古い住宅街で夜になると暗いところが多い。そうした町の辻辻、道々に、蝋燭を入れた簡単な灯明を並べていく。御供所小学校など廃校になった学校の校庭では、ボランティアや地域の子ども達を募って、その年年のテーマの絵を何千、何万という灯明で描いていく。リバレインからスタートして、灯明のエリアを2、3時間まわる夜の散歩が、私は実は大好きなんです。100円で小さい提灯をかって、火をともしてまわっていく。なんだか、昔の田舎の村みたいな気持ちがします。あちらこちらで、地域の人がビールや焼き鳥の出店をだしていますし。

岡部:昔からのお祭りなのではないのですか。

川浪:いえ、ここ7、8年くらいでしょうか。ビールを飲み歩き、神社にいったら御神酒をいただいたり。私はそういう雰囲気が好きなのかな。これ自体は「ミュージアム・シティ」のプロジェクトってわけではないですけれども、地域に出入りしている外の人たち=アート関係者が、こうした地域の人たちとの縁を深めるきっかけは、やはり、「ミュージアム・シティ」の山野さんたちが築いた地縁、信用やネットワークだといえるでしょうね。一方では宮本さんは情報やアウトリーチという新しい縁もつくっている。そういう意味でも、歯が立たなかった部分があったとはいえ、天神での試行錯誤は重要だった。結局10年続けてこられたのは、「ミュージアム・シティ・プロジェクト」が天神を基点に、街という概念をさまざまな形で解釈し、いろいろな変化の仕掛けや試みを行ってきたからだと思います。

岡部:今回は展示の量がとても少ないので、中心が減ったという感じはぬぐえないかもしれませんが。

川浪:わざわざ訪ねてきた鑑賞者としては、作品の物量を求めたくなりますよね。全体に小さいというかしょぼい(笑)。屋台っぽいものも多いし。そうすると、もともと屋台ってあちこちにあるじゃない、という事になる。また、キャナルシティーは、自社イベントとして大道芸などをいつもやってるようなところなので、ここでやると、何をやってもキャナルの出し物のひとつとして埋没してしまう。ナウィンさんの屋台も、なんだか前からここにあったようにみえてしまう。意外性とか、さっきいったノイズみたいなものがなかったですね。

岡部:アートが街にとけ込みしまいすぎているというか。

川浪:もちろん親しまれている、といういいかたもできますが、異物じゃなくなったり、なにかぎょっとするような提案みたいなところがまったくないと・・・ よしよし、いい子にしてたら、ここにいてもいいよ…みたいな。(笑)てなずけられたっていったら、てなずけた人間が悪いみたいになりますけれど。アートの薬の部分と毒の部分のかけあいは、それはなんかもうシーソーゲームみたいなものだと思うんですよ。「もてなし」展をやったとき、二人の作家から学んだのはそこです。

岡部:境界なんですよね。危ない境界を綱渡りできるかという。こっちによってもあっちによってもインパクトはなくなる。

川浪:山野さんたちは仲立ちでもあるし通訳でもあると思います。本質を押さえていれば、こっちの人には、この言葉がわかりやすいとか、取捨選択できる。単純にわかりやすければいいとか、敷居を下げたりとか平等にすることだけが目的ではないですから。アートはコミュニケーションだといいますが、アートは同じく本質的にディスコミュニケーションの産物じゃないのかってよく思ってしまう。だからアートは思いがけないギフトであったり、賜物であったりする。当然あるものみたいなかたちで何かやってしまうと、アートじゃなくてもいいのかなみたいな。「MCP」の関係者にも、そういう悩みがあったんじゃないかな。今回は、パッとしないとかしょぼくさいと批判もありますが、ちょっと区切りをつけよう、シフトしようという時期なのだと思います。

岡部:これも境界かもしれないですね。

川浪:プロジェクトとしては、「天神芸術学校」がメインだということ。福岡には、こういう集中型のアートセミナーはこれまでなかった。興味がある者が広く集って、自由に話す機会や場ができたことは重要です。

岡部:ただ2年に1回というのはさみしいかもしれないですね。毎年できたらやりたいのではないかしら。

川浪:今後、学校をどうするかは問題ですよね。まだまだ変わっていく可能性もあるでしょうし。

岡部:今日はありがとうございました。とても楽しいお話でした。

(テープ起こし:櫻林恵美理)


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