旅ムサいって来ました!

ちょっと書くのが遅くなってしまいましたが、12月17日

に「錦城高校」に川上と一緒に行って来ました。今まで、こどもワークショップは何回かやったことがあるんですが、高校生に対するワークショップは初めてだったので、ちょっと楽しみしながら打ち合わせをして、当日は朝8時に北門で集合しました。錦城高校に着いたらなんと新校舎だったです。(自分が通ってたら成績が上がりそうです。)

実際行ったことは1時間程度の対話型鑑賞と自分にとって「表現とは○○である」について各自の意見を語ってもらいながら、討論することでした。まず、対話型鑑賞を行いましたが、今までのこどもワークショップとは違い、最初からものすごい集中してくれました。本格的なファシリテーションは初めてでしたが、生徒たちが集中してくれたので、私だけではなく学生のみんなも同じく集中してファシリテーションできたようで、長いと思って心配していた1時間がすぐ終わってしまいました。

それから、「表現とは○○である」の時間で、みんな様々なことを書いてくれましたが、私にとって印象深かったのは特に「表現とは動きである」「表現とは意識と無意識全てである」という2つでした。表現は動きだということは、例えばテレビ局で番組を作るのに色んな動きがあって、その中でもし番組とは直接関係ないように見えることであっても、結局は番組という作品の表現につながり、そのひとつひとつの動き自体も表現となります。また、動かないと表現はできないです。考えてばっかりではなく、とりあえず体を動かしてみることが表現に置いては大事なことだということを考えました。それから、とりあえず体を動かしてみるということは意識と無意識両方とも作用するということで、徹底的に計算した表現もありますがその中でも無意識は作用していると思います。例えば、アニメーションはとても計算的じゃないといけない作品だと思いますが、その絵を描くにはまた作者の無意識が含まれているかもしれないです。

おおざっぱな話になってしまいましたが、今回の短い時間の中でこのようなことを感じ、考えるようになったという報告でした。もうすぐ、卒展も近づきますが、4年の皆さん頑張ってください!私もそろそろ卒展のテーマ決めなきゃ…

真剣10代しゃべ◯場

タイトルからいきなり懐かしい番組名を出してしまいましたが、あれってまだやってるんでしょうかね?ひとまずネットで調べるのさえも億劫なので、この話は保留で。ただ、しゃ◯り場を真剣に見ていた10代はいないと思いますが。

というわけで、深夜テンションでほぼブラックなクソつまらない話の入り方をしてしまいましたが、明日は旅ムサの一環として「錦城高校」で、討論会なるものに参加してきます。

今まで、小、中学校で対話型鑑賞やワークショップに参加してきましたが、高校生は初となるので緊張しています。ついでに言うと、初のファシリテーターにも挑戦するので、これで晴れて旅ムサとしての活動を一通り経験したことになります(作者をカウントしなければ)

気がつけば、もう約半年間も旅ムサに関わっているんですね。初めはこんなにも長い間、旅ムサに関わるなんて思ってもいませんでした。この「気がつけば」って言葉が、割と自分にとっては重要な気がしますね。まぁ、たかだか半年と言われてしまえば、そこでおしまいなのですが、今日はしみじみと感傷にひたっておきます(感傷なのか?)

さてさて、明日は8時出発なので、そろそろ寝ないとマズいですね。なんでこんな遅くにブログを上げているかというと、とある方にイラストを頼まれまして、今までしこしこと作業をしていたからです。人にイラストを頼まれるなんて初めてなので、正直めちゃめちゃ嬉しくて、その勢いのまま作業をしちゃいました。

でも、この前のゼミで出した作品?が、色々とボロボロだったので、個人的に思うことがたくさんあったというのが一番の原因ですね。もう俺は絵を描きたくて仕方がないんだーって、今さら気がつかされたというか。こういうことを公言するリスクみたいなのを知ってて、今までこういう発言を避けてきましたが、今はその場のテンションだけで言ってる言葉ではないと確信が持てるので、吐き出しておきます。

うわ、本当に寝なければ。

個人ブログみたいなノリで書いてしまいましたが、お許しを。

テレビ、もしくは韓流のちから

現在、日本の文化に大きな風を持ち込んだのが「韓流」であり、様々な話題も生まれている。それを一番よく確認できるのがテレビだ。日本のテレビを見ると、韓流の情報でいっぱいだ。もちろん、インターネットの発達により個々が情報を得ることがより容易になったためでもあるだろうが、まだこの社会のなかで最も影響力のあるメディアはテレビではないかと思う。社会の風潮を造成することにも、テレビが多く使われている。

なぜだろう。テレビは一方的なメディアだからではないか。インターネットは双方向性のあるメディアであるため、何かの情報を求め、能動的ではないと情報はとりにくい。そのため多数・均一に情報を伝達するには限界がある。それに比べて、テレビは一方的なメディアで、誰でも情報をよく得られる。そのため、発信者の役割が絶対的に重要である。

その意味で、韓流という新しい風は日本の社会でどんな役をやっていて、メディアの発信者たちはなぜ韓流を日本のテレビに出し続けているのかが疑問だ。韓流はどんなちからを持っているのか。そのちからを日本のメディアはどこに利用しようとしているのか。それをわかるためにはどうすればいいだろう。

現在、日本では反韓という副作用も起こっているがそれに対して日本のメディアはどう対応していくのかが最近の自分の関心である。それでも、韓流を持ち込み続けるだろうか。非常に楽しみである。

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キム・テヒの反日関連記事を読みながら...

ジョ

音と画だけに酔いしれる

今日はDVD、昨日観た『Contempory Estonian Animation』の話

オタワ国際アニメーションの作品をまとめたこのDVDは全4巻あるが、
今回はその中からVolume.3 マティ・キュット特集を紹介する
このDVDにはマティ・キュットの4作品
「ラビリンス」「太陽で焼いた薫製ニシン」「リトル・リリー」「アンダーグラウンド」
が収録されている
その中でわたしが面白かったと感じたのは「太陽で焼いた薫製ニシン」

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薫製ニシン工場から逃げ出したニシンは、枯れた大地をひたすら逃げる
岸壁まで来たとき、海の中から釣り竿がのびてきて、
ニシンは海底に住む男が釣り上げられ(釣り下げ?)てしまう
ニシンは男に見逃してもらう代わりに願い事を3つ叶える約束をする
約束通り、男はニシンを逃がす代わりに願い事を3つ叶えてもらうのだが…
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このアニメーションはEstonianとあるようにエストニア語で語られている。
音声はエストニア語で、映画字幕。そして物語はオペラ調ですすむ。
ニシンの絵は完全な描きアニメーションなのに、海底に住む男は立体のアニメーションなのもおもしろい

海底に暮らす男は紙をつなぎ合わせたロボットのような容姿で
ねじでつなぎ止められた身体は願いが叶い、物語が進むごとに裂け、壊れていく
音声はエストニア語だし、字幕も英語で足早に流れていくので
純粋に映像としてアニメーションを楽しむことが出来る

言語的な意味、物語を理解しようとすること、
そういうことから解き放たれて音と画として楽しめる映像は久しぶりだ

淡く深く、静かすぎて生きた者の温度が感じられない海に響く歌声は
不気味で、切なく、知らないうちに私を孤独な海の底へと引きずり込んでいった

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ここに登場する薫製ニシン。
薫製ニシン(red herring)には「人の注意をそらすもの」という意味があります
おそらく、3つの願い事を叶えるという昔話めいた約束で、
自身から気をそらすという意味が含まれているのかもしれませんが
もしかしたらもっと物語の中で重要な意味合いを持っていたのかもしれません。

きしもと

これまでと、共成小学校を振り返る

3年の川上健太です。初投稿です、よろしくお願いします。

今回は、共成小学校のワークショップについて、書こうと思います。まず、共成小学校でのことを書く前に、自分の今までの活動を少し振り返ってみようと思います。

初めてワークショップ(以下WS)に参加したのが、同級生の清水くんが主体の栃木 蔵の街美術館でのWS(現在はアーツプロジェクト)
それを皮切りに、旅するムサビ、川口でのWS、ルネ小平と、色々なところに手を伸ばしてきました(そのせいか、最近では教育の人、ワークショップの人なんて呼ばれることも)
今こうして、その時に書き留めておいたものを見てみると、良くも悪くも自分のためでしかなかったように思います。
簡単に言ってしまうと、社会経験の一環として、学生という身分はありつつも、外部の人と関わることや企画をどう進めれば良いかなど。
もう一つは、カウンセリングと言いますか、就職活動の際に良く行われる自己分析の一環として、こども達と関わっていた節があります。
偉そうに教育について語ったこともありますが、本当の意味での教育者という立場で現場に行ったことはなかったのだと思います。
それを痛感させられたのが、今回の共成小学校のWSでした。

今回、共成小学校では前年度と同様にピクシレーションが行われました。
もちろん、準備、進行など、個人的に企画としての精度を高める必要は多々ありますが(メンバーにも色々と迷惑をかけたし、当日つまらないミスもしました)WSとしては良かったのかなと思います。
それもそのはず、こども達にとって、いつもの授業に大学生のお兄ちゃん、お姉ちゃんが来て、普段あまり実践する機会の少ない映像というメディア、更にピクシレーションと来れば、それだけで十分におもしろい体験になります。
それに加えて、少ないながらも場数を踏んできたことから、多少なりの余裕があったこと。二回目ということも踏まえて、共成小学校の先生が非常に協力的かつ色々とサポートをしてくれ、既に土台が出来上がっていたこと。
そうして、先ほどの問題点が如実に現れました。

米徳先生には、初めから「自分なりの問題意識(課題)を持て」と言われており、「そこそこ」考えていましたが、実際の現場ではそれでは意味を成しません。
例えば、今回少し話に上がったのが「試行錯誤の重要性」ですが、そこで印象的だったのが、全体で僕がそれについてこども達に少し触れた時、ほとんどのこどもが(それとなくしか)話を聞いていませんでした(自分も少しでもお固い話だと察知すると、そっぽを向いて適当にやり過ごしたのを思い出しました)
やはりWSの醍醐味として、何かを体験出来ること、その際にいかに自分が意識できているかで、こども達に言葉の種を植えることや何かの重要性について語ることが出来るのだと思います。
この「そこそこ」を打開する、すなわち本当の意味での教育者としてWSに参加するには、もう一歩、二歩 三歩と教育について考える必要があるのだと痛感させられました。

ここで一つ問題なのが、全てを度外視してしまうようなことを言いますが、僕は決して教育者を目指しているわけではありません(ルネ小平に関しては、一応 展示として参加しています)
初めに社会経験の一環と上げましたが、実は初めからそう決めて様々なWSに参加してきました。
ですが、WSに参加すればするほど、今回のような問題意識が芽生え、徐々にシフトしていったわけです。
逆を言えば、WSに参加する以上、こうでなければならないような気がしています。
ですから、僕のような立場の人間は、どこまで足を踏み入れて良いのか、どういった方向からアプローチすべきなのか、もしくはこのまま教育を掘り下げて行くのか、新たな疑問も生まれました。

WSは有意義なものに変わりはないですが、いま一度考えてみる必要性を感じています。

ひたすら描きます

3年の長原です。

3年前期のメディアプランニングにおいて、「絵本をアニメ、映像にすることで生じたこと、その問題」のような質問に対して、僕は答えることができませんでした。今、思うことは、自分のペースで本のページをめくるのではなく、観客は受動的に映像を観るということ(観る人がついていけるような、リズム、長さ?等考える必要がある)。もうひとつは、映像内の時間。例えば、ピッチャーがボールを投げてキャッチャーミットにボールが収まるまでに20分かかるだとか、時間を演出することができるということ。とりあえずこの2つが言いたかった。

口癖で、よく「〜しようと思ったんですけど(思っているんですけど)。」と言ってしまうのですが、自分が思っている時点で、世の中には既に行動して結果を示している人もいるので、やはり、言葉が巧みになりすぎても言い訳まで上手くなりたくはないです。喋るのが苦手な僕は行動で示していくしかない、行動するのみです。個人課題はアニメーションの動きについてです。個人課題については次回で。

長原

ミヒャエル・ハネケの創る世界⑤

うむ。

「映像はそれ自体として存在している」なんてことを偉そうに意識するようになった。

というのも、まあ言葉には、たいていの場合文脈の中へ、さらには物語の中へと納まっていこうとする習性があるのに対し、映像はむしろ映像自体の他には何にも帰属していないように思えるからだ。

映像とは、何らかの物語へと収斂していくような傾向を自動的に持つものではない。

映像を言葉や文章と同様に機能させようと思うなら、まず「暴力的に」それを強いなければならない。つまり操作が必要になるはずだ。

そういうわけで、物語るということは、常に映像に何かを強制することを意味する。

一本の映画のあらゆる映像を一つの物語へと詰め込むためには、操作が必要になるということ。

しかし、そうした操作を私の研究対象であるハネケは好まない。それは映像にとって危険なことであるからだ。

このような操作は、映像のうちにある「生」を吸い尽くしてしまう傾向にあり、物語と映像の関係ということでいえば、物語は映像から血を吸い尽くしてしまおうとする吸血鬼。

映像は敏感な点では、触覚に触れられるとすぐに体を引っ込めるカタツムリにも似たところがあるわな。

「映像は馬車馬のように働いたりはしない」

何も背負おうとしないし、運搬しようともしない。メッセージも意味も、目的も道徳も運ぼうとはしない。しかしまさにそれを、物語は行おうとするのだと考えられる。

この辺が私のテーマにおいて何か引っかかるところ。

さてと、ここまではまるで物語が敵ででもあるかのように語ってきた。

しかしもちろん物語には人の心を揺さぶるものもある。

それは人間に対して大きな力と意味をもっているからだろう。

物語は、面白さや刺激や気晴らし以上の何か、まるで、人々が途方もない願望として欲しているものを与えてくれるかのようでもある。

人々にとってはまず第一に、何らかの脈絡を生み出してくれることが大事なのだと思う。

そして物語は、世の中には意味があるという感覚、自分たちを取り巻くあらゆる現象の恐ろしい混乱の背後に究極の秩序と配列が潜んでいるのだ、という感覚を与えてくれる。

人々は他の何にもましてこうした秩序を望んでいる。

このような物語のイメージは神のイメージと結びついていると言ってもいいほどだ!

物語は神の代替物。または、その逆か。

(さすがにそこまでを研究し出すとお手上げだ)

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まだまだ続くよ。

ちなみに、私はスッキリ微糖派。

藤原

アータス@ハロウィン

最初

3年の渡辺です。初めての投稿で緊張します。

現在やっている個人制作について書きます。
課題は自分で自由に決めていいということでした。
自由と言われるといつも「人間は自由という刑に処せられている」という言葉がポンと浮かんできます。高校の倫理の時間に出会って以来なかなか頭から離れなくなった言葉です。

それはさておき、自分が今興味を持っていることについて何かしたいと思い浮かんできたのが「立体」と「動き」という2つでした。そのようなわけで人形アニメーション?と漠然に考えながら現在に至ります。

これまで人形アニメーションにさして注目していなかったのでイチからのスタートとなり試行錯誤の連続です。さっそく人形作り苦戦し二の足を踏んでいるところです。とりあえずの路線は決定しましたがなかなか思った形にならず、素材を無駄にしてしまい財布が軽くなっていきます。

肝心のどのようなアニメーションを撮るのかについてですが、まずはたくさんの良い作品をみて勉強しようということで、学校のイメージライブラリーにあるアニメーション作品を網羅することになりました。膨大な量なので富士山登山するような気持ちです。しかし富士山に登ったことはありません。視聴した作品はここにメモしていきたいと思います。

【視聴した作品】

・『Melting Medama』
卒制優秀展の作品です。音や映像が水の中に潜った時のような感覚で、たゆたう感じが心地よいです。

・『ある部屋』
卒制優秀展の作品です。廃墟のような部屋が映り少し不安感をもちつつもそこにあった時間を匂わせる演出から想像をかき立てられます。

作者名をメモし忘れていたので後ほど追記します。

渡辺

映画の顔。追記

あれだ。
物語を言葉で語れてしまう映画は、〈主人公の顔=作品の顔〉になっているのだけれど、
ハネケの映画は〈作品という全体でひとつ=作品の顔〉になっているから語りにくいのだと思う。

容易に語れてしまう映画は、その主人公の顔を思い浮かべて(あるいはその他の主要な顔を思い浮かべて)回想すればいい。
そしておそらく「物語」と一般に認識されているものは、回想した個々の繋がり方だと思う。
でも、ハネケのは全体をひとつとして捉えるのが既に困難だ。
回想はできても、全体でひとつだから繋ぐという行為に無理がある。

ハリウッドの流れを汲んだ映画ほど、原因と結果、そしてプロセスが提示される。
時には意図的に隠される場合もあるが、「隠したんだな」と理解できる。
解釈の幅を広げるとか、そういった意図だろう。

しかし、「日常」という得体のしれないものは常に流動していて、原因と結果、そのプロセスだけでなく、ありとあらゆる不純物(これもなんだか定義できないが)を内包している。
それがリアルじゃないのか?

『ピアニスト』は日常に限りなく近いカタチできりとった作品なのではないだろうか?
日常は語れないし、わかりそうでわからない。(強いて言うなら普通のこと)
そして、全体でひとつ。(全体なんてあるのか知らないが)

ハネケは意図的に日常的要素をとりいれているのかもしれない。(会話の自然な噛み合なさ。回収されない出来事など)
それは、ハリウッドが切り捨ててしまっている不純物。
いや、ハネケにとっては不純物ではないのかしれない。
彼は〈それ〉を加えて、作品の顔をつくっているのかもしれない。
日常にありそうで、なさそうな、奇妙なリアルさを持った顔を。

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とまあ、今のところ思った事を追記してみた。
けど、全然別の作り方してるのかもしれないな。
ハネケメソッド。
さしがめくんのレスポンスに期待だ。

最後に。
『ピアニスト』しか見ていないのに、ハネケを語るのはまだ早い気もする。
が、思ってしまった事なので仕方がない。
仕方がないのだ。

ブログ=メモ代わり 大内

映画の顔。

豊かな表情は時として言葉以上のことを語る。
言葉では語ることのできない、ノンバーバルな何かを。
それは経験的に誰もが理解できることだと思う。

ミュハエル・ハネケ『ピアニスト』を見て感じたことは、その逆とも言えること。
無表情の時でさえ、何かを語っている。
もっと厳密に言えば、無表情の下に表情が隠れている、ということを思った。

初ハネケ。(本当は違うのが見たかったけどイメラになかった)
物語はあるようで、ないようで、あるようで…。
物語の定義がなんだかよくわからないが仮に「ある」としても、この作品では些末なことだと思う。
それよりも、見終わったあとの居心地の悪さのほうが強い。
なんだかよくわからないものを、気づかないうちに(しかし半ば強制的)に流し込まれたような感覚。
確かに自分の中に何かが入ってきたのだが、既に入ってしまったために確かめる術を持たない。(やみ鍋ってこんな感じだろうか?)
それでも確かめなければならない。
いや、吐き出したいがために書いているのかもしれない。

文章化のためには具体的なことをあげなければならない。
(得体の知れないものの本質は語れないかもしれないが、その要素は語れると思うので)
そこで、前述した表情に関する事を軸として話を進めて行きたい。

主人公はエリカ(中年女性:ピアノ講師)。
前半(この境は後述する)彼女は無表情が多い。
考え事をしているとも、何も考えていないとも言える様は「引き出せるものなんて何もないわ」とでも言っているかのようだ。(実際に彼女の台詞で「感情と知性では知性が勝つ」的な事を言うシーンがある。努めて無表情をつくっているのだろう)
その無表情のまま、彼女の個人的な行為(主に性癖に関するもの)がピアノレッスンのシーンや母親との会話のシーンと同列に提示される。
同列といったのも、別にそのシーンが醜くく描かれている訳でもなかったからだ。(無表情のせいか淡々と見えるからか?)
行為としては退いてしまう部分もあるが、「こんな人もいるかもなあ」といった感じである。
ワルターという青年(主要人物:エリカのクラスの生徒)がエリカにアプローチするが、これも劇的な要素ではなく同列に思えた。

が、しかし後半から一気に居心地の悪さが加速する。
その境は、トイレのシーン。
映画全編を通して淀んだようなトーンだったのに、そこだけ漂白したように真っ白だ。
そこで、エリカとワルター(主要人物の青年:エリカのクラスの生徒)の関係が一変した。
(ハリウッド的には急接近!だろうか。でもハネケではなにか違う…)

歪んだ愛なんだかよくわからない具合で、ドロドロ。
偏った人間性が見せつけられる、どうしようもない展開。
無表情だったエリカ。
その仮面が、ワルターという他者を介す事で、すこしずつ剥がれていく。
「この精神の追い込み方がハネケ流か…」と新鮮な嫌悪感。
そのラストに向けて増大する嫌悪感は、前半のシーンでなんとなく見ていた〈無表情〉に対する印象を大幅に書き換えてしまう程。
何かを語ってしまう表情が隠されていたのではないか、と。

それでも画面から目が離せなかったのは、ハネケのすごさだと思う。
精神的に追い込むようなカット・シーンを前にして、見る者はそこから逃れる為の何かを期待せざるを得ない。
カタルシスとまでは言わなくても、何かが変わるような出来事を。

でも何も起こらない。(さすがハネケ!泣)
全ては宙に浮いたまま。
代わりにエリカの仮面が(一瞬だが)完全に剥がれ、表情があらわになる。(すぐ元通り)
あの画が映画全編をまとめたとも言えるし、より強力に印象づけたとも言える。
私にはあの画で___エリカの表情を通して__作品自体が語ったように思える。
ただその時、作品に触れたというよりも、飲み込まれたという感覚に近い気がする。

(受け取ったぜ、ノンバーバル)
(説明できないぜ、ノンバーバル)

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初ハネケで彼のすごさは認めつつも、今も残る居心地の悪さ。
すごいと思うけど、好きじゃないという新しい領域。
うーん、わかりそうでわからないってのが、すごいんじゃないかなあ。。
あのすごさをなんとか抽出したいものだ。

初ハネケで涙目 大内