ショパンの亡霊の降ってくる恩寵 ―横山幸雄の全ショパン一日演奏会を聴く

「ショパンがピアノをまもり通したのは、自分の心の恣意に耐える他者を確立する作業であったと私にはおもわれる。それは、余りにも厚い表現の脂肉をつけてしまったロマン派の音と、その音に容易によりかかる音楽家たちに対するショパンの挑戦ともいえるだろう。」遠山一行『ショパン』

[ 私は、絶対にまず起こらない、けれどいつかは必ず起こる、「何か」を求め続ける ]

それは、恩寵ともいえる瞬間というか、体験だった。

私はその時、その空間の彼方に、ショパンの亡霊が幻のように立ち顕われるのをたしかに見たのだが、横山幸雄の果敢に弾く、いっきに一心に弾き続けるその磁場は、さらにはるかに熱気を帯びて、私共聴衆そのものをのみ込んでいった。

原始の祭祀、あるいは古代の歌垣がそうであったように、その場、その空間そのものが、音の彼方から谺するかのような、暗くよどんだショパンの低くくぐもった呟きが空間に滲みるように響くにしたがって、少しづつ、そしてさらに少しづつ、静かに、しかも地鳴りをあげながら、天空へと向って、浮かび始めたのを、たしかに私は感じたのである。

奇跡は、いつも、必ず、私共じしんのこの肉体の、見えないどこかで起こっている、何ものかのしるし、それにはじめて覚醒することなのだ。

こういう体験が、如何に私にとって例外中の例外であるのかを、当然のことながら、人は知る由もない。

私は音楽で飯を食っているわけではない、ただのディレッタントだが、劇場通いはまた日課そのものでもあって、一年何十回か内外で習慣的におこなうのが、そういったパフォーミング・アーツの劇場体験だ。だが、つまらないと途中で帰ったりするので(畏敬する、かつて一度だけパリの友人白羽さんの恩恵で晩飯を食い、旧知の親友のように酒をたっぷり飲んで言いたい事を言って長時間語り合った、大好きな女神ピナ・バウシュだが、彼女の演目ですら、退屈して途中下車したものもある)、勿体無いこと極まりないが、それが素人の特権とばかり、気楽でいる。

何かが起こることを期待しては行くが、そういう何かは滅多に起こらない。というか、まず、絶対に起こらない。けれど、起こる時には、必ず起こる。それが私の確信である。

パフォーミング・アーツの起源は、もとより、古代の祭祀だっただろう。そこでは演者も聴衆も、その舞台の方向性においては、みなが不在の神に向かっていただろう。そして、捧げものである贄としての行為=演目は、演者と聴衆が等しく自らの肉体を血だらけになって削ぎとって、なお何か言いたいこと、この世に顕したいことをぎりぎり精一杯で吐き出すような、痛みと高揚と恍惚とによって成り立っていた、何かだったろう。そしてしかも、天空へ、何も無い虚空へと投げ出され、艢を解かれた、かつては私たちの肉体であったが今はもう何ものでもない何か、なのである。だからまた、それは、生死の儀式、そのミメシスそのものでもあった。その贄がどのように神御本人ご本体に受理されるか、受託されるのか、あるいはもしかして拒絶されるのかは、そのじつ、地上の生命の与り知らぬことであったであろう。

横道に逸れるが、不世出の予言者、出口なおによって開祖され、天才王仁三郎によって大きく発展して教派神道の一主流をなした亀岡大本教は、不敬罪による迫害と大弾圧を受けながら果敢に純粋に活動を続けて戦後も命脈を保ったが、代々の教主が率先して手を動かしてものをつくった、芸術擁護の宗教集団でもあった。亀岡では、古代の歌垣が、信徒総出で毎年行われると、教師の方からきいたことがある。その会にいつの日か与りたいと切望しているが、時にそういう感じの場面が私の夢に出る事がある。種を超え、血を超えた、文化共同体的の無意識的欲望が私共の肉体に宿っていることもまた、私の確信のひとつである。

歌は、ギリシャでもあるいはそうだったのだろうが、我が古代では、口に出して唱和するもの、肉体から出て神に届けられる、「霊の物体」そのものでもあったはずだからである。

[ キュレーションの存在価値 ]

ここ三年、横山幸雄は、ゴールデンウィークの一日を、新宿のオペラシティーのホールでの、ショパン全作品演奏会に、あてている。

一昨年は、「ショパンが番号をつけて出版したものすべてと、遺作」166曲、昨年は、「知られるかぎりの、全ピアノ独奏作品」212曲、そして今年は、「二つの協奏曲の独奏ヴァージョンを入れた、出版された全ピアノ独奏曲」全149曲、を、一日で弾いた、恐るべきコンサートである。

素人ディレッタントの私は、ギネスブック的挑戦、体力勝負の大食い競争的な演奏イヴェントには、むろん、まったく興味が無い。(もしプロならば商売だから、貶すためだけであっても、たぶん義務感でも行ってみようとはするのだろうけれど)興趣がわいたのは、もちろん、ふだんはロマン派のピアノ作品しか聴かない私にとっての最重要作家であるショパンだからいうことと、十年前か、紀尾井ホールで、ある方の追悼コンサートがあって、そこで横山幸雄のバラードの一番を聴いて、大きな感銘を受けたからである。

バラードはそこでも、たしかに、夜の、宇宙の魔人のように、ショパンの魂を彩って、その空間私共聴衆のうえを勇躍雄飛していたのであって、その祭司としての横山幸雄の胆力に、ちょっと舌を巻いたのである。

一昨年は切符を買ったのに当日熱が出て行けず、昨年はまあ試しにと、昼前から聴き始めて、退屈したら出ようと思ったのに、吃驚しながら面白くて聴き続け、さらには何とも刺激的で聴き続け、とうとう、最後の一つ前の休憩まで聴いた。(何と、最後まで聴くと、午前二時、終演は真夜中である、観客が一人として席を離れる様子の無いのにも、驚愕した。)

まったく知らない、ふだん聴いたこともないショパンの曲を聴くことができる恩恵いがいに、むしろ、私には、その配列が、想定推測されるショパンの制作年代順に厳密に並んでいることが、大きな驚きだったのである。ふだんは、絶対にこういう配置順序で、ショパンの音楽を聴くことは、コンサートでも、レコードやCDディスクでもけっしてない。有り得ない。有り得ないものを、有り得るように果敢にやるといったい何が見えて来るかというと、音、つまり、リズムやメロディーやらそういったすべての構成構築をともなって顕われて来る音楽の総体の向こう側から、ショパンという一個の人間の人格というか、魂というか、肉声というと簡単だが、そういう未知の「声」、叫びのような何かが、たしかに顕われてくるのである。

そのことに私は、近来にない、不思議な、深い感銘を受けた。

だから、ふだん、私共は、ショパンが二百年近く前につくった音楽を聴いているわけだが、ショパンの肉体や魂の彩りというか、香りというか、そういうものはほとんど払拭された、純粋な音の組成を聴いているわけで、こちら側からの感情移入はいくらでも出来るが、向こうから、「知らない」何かが実体的にやって来ることは、ほんとうに、ごく稀なことでしかない。それが、私の、かれこれ四十年いじょう、ロマン派のピアノだけを、来る日も来る日も聴き続けて来た、音楽体験の実感である。まあ、たぶん、私は、そういう意味では、音楽音痴なのかも知れぬ。ほんとうに「心でちゃんと聴ける人」は、どんな場でどんな曲でどんな演奏でだって、いつでもそういう希有な体験の出来る、自らを掘りさげることの出来る、心の鋭い人なのだろう。

とにかく、私が感動した、その起因となる企みには、横山幸雄の、演奏もむろんさることながら、音楽のキュレーターとしての手腕があったのだと、深く感心したのである。

最終的に「降って来るものは」あちら側の勝手で、与り知らぬものであっても、それはこちら側の、意図とそれをきっちり遂行する努力胆力の伴った精魂込めた呼びかけが無ければ、何事も成されないはずだからである。

[ ショパンの手を触りながら ]

パリの右岸、モンマルトルの丘をのぼっていくと、かつての盛り場ピガールのちょっと下ったあたりに、十九世紀ロマン派の貴族画家、アーリー・シェーファーの邸宅があって、現在、パリ市が営むロマン派美術館として一般公開されている。

シェーファーのサロンにも出入りしていた、ショパンの晩年の愛人だった、異色の女流小説家ジョルジュ・サンドのノアンの邸宅の一部が再現されていて、彼女の肖像などもあるのだが、ここの展示ケースの一角に、ぽつんと唐突に、ショパンのデス・ハンドが置いてある。

初めてこの手を見た時、いっきょにショパンが理解出来たというのはちょっと大げさだが、この一見か細い弱弱しいような、それでいてどこか芯の強い、そして蜘蛛の足ようにいびつにしっかりと伸びる五本の手指にも、私は何かの声、肉声を聴いたのである。一般的にショパンのイメージとして流布しているのは、かの写真家ナダールの撮った、革手袋を片手に持って、何か怯えたような、如何にも何かにわだかまって辛そうに耐えている、パリの異邦人、街路に佇むショパンの肖像だ。だがそれよりもさらにいっそう、私にとっては、この手そのものが、ショパンの孤独な魂の実在を、感じさせたのである。

それはただ、彼が祖国ポーランドを離れてパリで音楽的成功を求めて苦闘しながらも、生涯二度と戻ることのなかった、古里の、あの乾いた草原の哀切な輝きに、切なく憧れ続けたからだけでは、けっしてない。

ショパンは、何故かくも、人人の心をひきつけるのだろうか。

それは、華麗なスタイルで演奏される、甘美なメロディー故にではけっしてないだろう。

「この音楽がすべてのピアニストのよってひかれているのは、そこに捧げられた信頼のためではなく、むしろ終わることのない不安のためだという想いを私は払いのぞくことができない」。

私は畏敬する遠山一行先生の、偉大なる『ショパン』によって、真のショパン的問題系に目を開かれて、以降変わらず、この一著が私に於ける、芸術論書の白眉であって、座右の書である。だから、ここで語っている重要な部分は、ショパンの個性のことも含めて、すべてその受け売りといってまったく、過言ではない。

「ショパンの場合に特に注目されるのは、むしろその創作における様式の一貫性ということである。少年時代の作品から晩年のそれにいたるまで、彼の音楽のスタイルは不気味なほど一定している。それは、単に変わらないというのではない。通常の意味で人間的芸術的成熟はその音楽のなかでもはっきりと見られることであるし、その限りでは彼の書法の変化も明らかである。しかし、その音楽が、はじめからどうしようもないくらいに彼自身のものであるという意味では、ショパンの個性にほかのどんな作曲家にくらべてもきわ立っている。」遠山一行『ショパン』

今回、私も演奏会でまず感じたのは、ショパンの音の、個性の強烈さ、彼でしかないというその刻印の強烈さである。それは、冷酷なほど、氷のように隔絶して、図抜けている。もしかしたら、モーツァルトのそれよりも、遥かにそうである。それが、近代人の先駆性ということだけではとうてい理解出来ない、何かをもちろん、そこにはふくんでいるだろう。ふつう考えられるような、年齢人格的な成熟にともなう、音楽的成熟すらこばんでいるようにみえる、早熟などという言葉ではとうていすまされないほどの、頑さ、そして、誤解を招かずにいえば、その音楽の醸す空間の広がりの、男性的な、彫刻的彫塑的な、深い空間性であった。さらに暴論を吐けば、これもまたある意味で私をとらえてはなすことのない個性、狂気のうちに死したローベルト・シューマンのそれは、徹底して、絵画的なのだ、といえば、その言わんとする意味のある部分が、理解してもらえるだろうか。遠山先生も、ジードをひきながら、ショパンの音楽の即興性について強調されているけれど、私にもそれは、ずっと感じ続けて来た。深い空間性といえば簡単なのだが、ショパンが持っている、不思議で謎めいた命そのもの、揺らぎや不安、その払拭への意志や、躊躇などを、彼がただひとつとして、自分の肉体からわき起こってくる感情を見逃すまい、ないがしろににすまいとして拾いあげる姿、不退転で不断の決意によってのみ現前される何ものかを、ショパンの作品そのものが、宿命的に刻印しているように思われて仕方ないのである。

それが、私が考える、ワグナーよりはるかに強烈な、内的宇宙の具現者、ロマン派の王としての、ショパンの態度である。

だから、ショパンの音楽は、徹底して、頑で、狷介でもある。

「ショパンの音楽は、おそらくその正反対のところにあるように思われる。それは、一層多彩な演奏家の個性を受け入れるように見えながら、実は深いところですべてのものをこばんでいる。彼の白い手袋は、サロンの男女がさし出す手をにぎりながら、彼の心は、誰とも共有することのできない一つの音の運命をみつめているのである。ショパンの音の「純粋さ」の裏側にはそうした深いニヒリズムが宿っている」。(遠山先生の同掲書から)

私は、横山さんが書いた、卓抜した演奏家としてのコメントを、他の聴衆とおなじように読みながら、じつは、演奏、その音の総体の空間に十五時間、じっと身を浸しながら、沸きだしては止まらない自分の言葉を、約百首の短歌にして、延々と書き連ねて行った。

それは、私じしんのショパン体験の、総決算ともいえるささやかな作業だったのかも知れない。

[ ぎりぎりの人生、崖っぷちの音楽 ]

遠山先生に私淑するお弟子でもある、大学いらいの同級生Sがいて、江戸っ子の彼は、音楽を私なんかよりもよほど私心なく誠実に愛し、ふだん、たったひとりで淋しく(しかも裕福に)暮らしながら、往年のSP版を竹針で、好きな演奏を勝手気侭に聴いている。

彼が単なるオーディオ・ファンや回顧趣味の音楽マニアでないことは、コルトーの再版CDのシリーズのライナーノートを、とつとつと書いていたりすることで、知れる。

ショパン好きの私は、遠山慶子先生のノクターン全集のLPを大学時代から愛聴している他は、ホロヴィッツが昔から好きだったりとか、ショパンを誰でふだん聴くべきかに定かでない部分が長くあって、そのSが、ステファン・アスケナーゼの50年代のグラモフォンの録音セットをずっと昔、贈ってくれて、それ以来、私におけるショパンとは、このアスケナーゼである。

この大学時代以来の畏友には、いつも、CDジャケットのデザインやら、妙なポピュラリティーでミーハー的に演奏者を選んだりする私をして、「お前にはほんとうの音楽がわからないなあ」と嘆かれ続け、それでも、モーツァルトやベートーヴェンでは、やっとクララ・ハスキルの、雄々しいというか、端正というか、実直というか、そういう、澄んだ水のような「誠実な」演奏の良さが、身体そのもので心地よいとやっと思えるようになった、未熟なる、情けない田舎者、その聴衆生活四十年であった。

世紀末の現ロシア領、ウクライナの小都市に生まれたアスケナーゼは、最晩年、ブリュッセル音楽院の教授として、アルゲリッチや内田光子を育てた優れた教師であっただけではなく、ユダヤ系ポーランド人として、第一次大戦に従軍し、数奇な生涯を乗り越えながら、そういった、謂わば、「澄んだ水」のような誠実な音楽、そしてそれを楽しむゆとりの自由精神を獲得して来た、偉大なる世代の生んだ芸術家である。

私はポーランドには、行ったことがない。

そこはまた、アウシュビッツで、飢餓房に自ら赴いて亡くなった、コルベ神父の古里だ。

ずいぶん長く憧恋の地であったハンガリーを一昨年、やっと訪ねたのだが、それも今は亡い、山口は津和野の神父さま、高校時代からいつも何かふと心淋しくなったら訪ねていたホルバート師が、「隆ちゃん、僕たちはねエ、列車の下にもぐってねエ、底に逆さに張りついてねエ、何時間もかけて、国を出たんですよ、隆ちゃん、わかる?」と、司祭館で夜半にサラミを食べウイスキーを飲みながら、いつも言っておられたことを、昨日のことのように思い出すのである。

懐古趣味ではなく、アスケナーゼのショパンの香りには、こういう、人生と歴史の修羅場をくぐって来た、それでもその糧を、たったひとつ、音楽にだけ求めて来た人人の、たしかな味わい、誠実と静謐と、自由な豊かさこそが、血脈風土として根づいていたのであった。

そしてまた、逆戻りするようだが、ナポレオンの失脚後の激動期の19世紀前半の時代相を、しかも、故郷の戦乱を後にして、そして、七月革命いこうの反ウィーン体制の渦巻く動乱のパリに生きたショパンの音楽は、また宿命的に背負っている。

ショパンもまた、時代の生んだ個性である。天才こそ、表層的にはけっして見えない、その時代のもっとも底に蠢く、深い不安や苦悩を代表するのである。

彼はサロンの寵児であったかも知れないが、彼の魂は、つねに、同時代的な、戦乱、動乱、苦悶、痛み、そういう、どうしようもない、社会の最下層でうごめく人間の苦悩とともに、いつもあった。ショパンの音楽に、それを乗り超えて、雄々しく生きて行こうとする、真の、魂のヒロイズムを聴かなければ、無意味に等しいのではないか、とまで、私には思われるのである。

ショパンは、動乱期の個性、そして、徹底して、また、同時代的に表層的で安易な同調を拒絶した、孤高の、孤独な個性である。

だから、ショパンの音楽は、いつも、崖っぷちで行き惑っている、と私には思われる。

さらに余談になるのだが、私共慶応義塾仏文の後輩に、優れたピアニスト西井葉子がいて、クロアチアで勉強して帰って来て、凱旋公演をやった。プロコフィエフの戦争ソナタなど、峻厳な曲ばっかりのプログラムでやったのだが、彼女は、「厳しい場所では、人人は厳しい音楽を求めるから」と言っていた。彼女の恩師は、「戦乱のクロアチアから、商業主義にまみれた日本へ我が教え子を贈り返す」とプログラムに書いて、脱帽、瞠目した覚えがある。

いつか西尾さんに、ショパンをこそ弾いてもらいたい、と願っている。

[ 他者の発見、捨て身の投企 ]

「ショパンをボードレールに似ているといったのはジードである。『悪の華』が不健康な詩であるなら、ショパンの音楽もそうよばれる充分な理由がある。両者とも完璧さに対する同じような欲求をもち、修辞学や雄弁や美辞麗句を怖れ、特に、おどろくべき簡潔さのなかで人に不意打ちをくわせる。(『ショパンについてのノート』)

ふたたび、遠山先生のショパン論からひく。

そして私は、自らの言葉を短歌という呪歌のかたちに探りながら、横山幸雄のひくショパンを聴き続けた。

短歌、歌もまた、伝統的に、幻を招じるための、儀礼の祭祀そのものであったのである。恩師R先生の口癖じゃないが、「マラルメはね、言語の前に、詩があった、と言ったんですよ」。

音、それは空間であることもまた、まちがいはないのだが、そこに現前する、純粋な音の刹那的な構成や構築を聴く私にとっても、それはやがて、幻聴ではないのだろうか、というような、不思議な瞬間がやって来る。

幻聴そのものではない、やがて、その音の実態実在、そのすぐ後ろ、傍らに、影のように寄り添っている、低くくぐもった、かすれた、ショパンの呟きが聞こえて来るのである。呻き声のような。

その時にはまた、降って来るものがある。

というより、横山幸雄の音の洪水に、そしてショパンの音楽の氾濫に、私共聴衆は、ひとり一人が、積極的に浸されながら、ショパンの亡霊をひとり一人別のかたちで、追って行っていたのではないだろうか。そうして、横山のショパンも、聴衆何百人の幻のショパンも、そこでひとつの像を結ぶ、あるいは、巨きな、もうひとつの幻を顕させる、のではなかっただろうか。

それはやがて、たった一つの、宇宙的な魔人の姿となって、私たちの頭上の空間に顕われるようになる。枯れた、ポーランドの草原の草むらのうえを飛ぶ、光の乱舞のように。

そして、さいごには、この伽藍、壮大な空間そのものが、私共、ショパンの悲痛な叫びやら、谺やら、恍惚やらをすべて巻き込んで立ちのぼってゆく、未生の竜のように、幻となってゆき、私共すべてを載せた伽藍そのものが、ゆっくりと動き、ゆるやかにうごめき、やがては見えない不可視の気球のように、天空虚空へと向って、少しづつ、浮かびはじめるのを、知ったのである。

それを、いまは、傑作群の森のいくつか、「英雄ポロネーズ」とも、バラードとも、また、スケルツォとも、また、幻想ポロネーズとも、あるいは、ロ単調のソナタであったとも、もはや私は言うまい。

私がもっとも愛するのは、最高傑作、エチュード練習曲集を除いたならば、やはり、初期のピアノ協奏曲である。

そして果たして読むに値するかどうかも定かでない、この日私のものした百首の短歌については、またの機会に譲るとしよう。

私は、横山幸雄さんを、どのような方か、個人的には、まったく存じあげない。

私共聴衆はその日、8時の開演から、11時の、最後のワルツの後の、観客総立ちの拍手喝采まで、ずっと、ただひたすら、横山さんの、ずんずん、激しく、淡々と、弾いて弾いて、弾き倒す、15時間の演奏、その神懸かった祭司ぶりに、ぴったりと帆走した。昼から来た家内のほうが、むしろ、そういう私のふだんとはちがう憑衣ぶりに、驚愕したぐらいである。

その日、8時ちょうど、彼は、気負ってもいない、でも曖昧でもない、何か、作品番号ごとの拍手にこたえるのと同じ、颯爽と、自信に満ちて、しかも心のこもった、ユニークな素早いお辞儀を繰り返した、それと同じ、とつとつとした挨拶をした。そして、何より私を驚かせたのは、最後の鳴り止まぬ観客総立ち、拍手喝采の後で、彼が何とも恥ずかしそうに、「今日は、自分もすごく楽しかった」と言ったことだった。

真の祭祀の司祭である彼は、「ほんとうに、大丈夫なのか」という多くの観客の危惧をすっきりと吸い込みながらも、平気の平左であるわけはないだろうが、「自らの演奏を、楽しんでいた」のだからである。

こうした類い稀なる恩寵に、私は、これからも喝采を送り、深く感謝し続けたいのである、ショパンの亡霊を幻視した日の尊い思いでとともに。

(終わり)

(文中にも書いたが、自分の考えのように書いているものも、すべて、遠山一行先生のショパン論の、受け売りであって、それから、すべて、学んで借りたもの。ショパンの伝記的史実は、むろん、素晴らしく綿密でポイントを得た、横山幸雄さんのプログラム曲目解説から、アスケナーゼの経歴は、ジャン=シャルル・ホッフレによるCD集解説から、そして、「生のゆらぎ」というのは、20世紀きっての彫刻家、イサム・ノグチを評した、彫刻家故飯田善國先生の言葉から、すべて、学んで、借りたもの。)

新見隆(にいみ りゅう)

キュレーター

手で見る試み

4月21日は荒れ模様のお天気で、確かに遠い道のりであったが、どうしてもその日に愛知県陶磁資料館に行かなければという思いがあった。
千葉県盲学校の子どもたちの作品と、その教諭でもあった西村陽平氏の展覧会を見るために。
その日「手で見て作る」という西村氏によるワークショップに参加するために。
「手で見る」とはどんな感じなのだろう?
どのようなレクチャーになるのか、とても楽しみにしていた。

まず粘土を前にしてからアイマスクをする。「生きものですよ」と、手のひらに入る大きさのひんやりとしたものが手渡された。それを粘土に作るのだという。触るとすぐにピーマンとわかる。そして指先で形を辿り、でっぱりやねじれを粘土に移していった。粘土の感触が心地良く、見えないせいか却って集中していたように思う。
ひとときの時間が過ぎ、アイマスクを取ってから気付いた。「見ないで作る」と「手で見る」ことは全然違うと。
私はピーマンの新鮮さを無意識に緑の濃さでイメージし、視覚で見た記憶の形を参考にしながら作っていたのだ。
手の中にある見たことのないものの感じ。ハリのある、つやつやした、中が空洞で内側から膨らんだような形。
そんな生き生きした感じより、頭の中で出来上がる形(量)を意識していた。「生きものですよ」と聞いていたにもかかわらず。恥ずかしい思いだった。
私はピーマンらしき粘土の塊を作っていただけだと思った。

視覚障害の人は目で見るかわりに手で見ているのではない。「目でみる」という前提は無いのだから。手に触れる一瞬一瞬こそが見ることなのだと思う。一方視覚で見る者は一目で全体をとらえ、たちまち「〜だ。」と判断する。でもその瞬間に目の前にある生き生きしたものから、自らを遠ざけてしまっているのかもしれない。
盲学校の子どもたちのその作品はどれもが個別の世界を形作り、一点一点に驚きや面白さがあった。彼らの指先の一瞬一瞬が形となっているからなのだろうか。
私のピーマンとは何かが本質的に違うと感じ、その違いが大切なテーマに思えた。

人と人、物と物、その間にある不在あるいは実在。
西村氏の作品は日常にあるモチーフを使いながら、その間にある関係性を、焼成という手段を使って決して日常では見ることの出来ない形で提示する。その変容に驚きを感じるとともに、見えているものに対する自分の信頼や判断に「本当にそうだったのだろうか?」と疑問が自然と湧いてくる。自らへのゆらぎが残る。

押小路芳美

「彫刻を聞き、土を語らせる」
西村陽平展/西村陽平が出会った子どもたち展

2012年4月7日〜5月27日 愛知県陶磁資料館

幸せも生まれるところ

ゴールデンウィーク最終日、那須の祖父母の家から、ついでとは全く言えないのだが、友人のくれた招待券を握りしめ水戸芸術館へ。スーパームーンの興奮醒めやらぬ私を待っていたのは、落雷と雹。正直美術館なんか行ってる場合じゃないとは思った。事実、つくば市では竜巻で死者が出ていたような日だった。

ぼろぼろになってでも見たかったのは、インスタレーションに定評のあるスイス人現代アーティスト、ゲルダ・シュタイナー(1967-)とヨルク・レンツリンガー(1964-)による「Power Sources-力が生まれるところー」。二人はサイトスペシフィック・インスタレーションという、その土地特有の伝承や風俗など無形の文化を表出させることで知られ、今回も展示のために1ヶ月以上水戸に滞在し、地元の人々との交流を作品に落とし込んだようだ。全体的に理科の実験のようなスタイルで生命の神秘を感じさせるのを得意とするらしい。といっても私がこれらの情報を知ったのはこのブログを書いている今この瞬間であり、今回駆けつけた動機は「やけに評判を耳にした」からであった。出不精なので、ここに来たのは震災前の大友良英さんぶりであった。

予備知識もない脳みそプルンプルン状態で中へ進んで、まず迎えられたのは「Nursery-苗床-」というインスタレーションが施された部屋。8つ並んだテーブルに、カラフルでぐにゃぐにゃした廃棄物たちを固めたような作品が居座っている。彼らはリレーショナルアートを積極的に取り入れていて、このテーブルの一つには私たち観客が結晶液を少しずつ垂らし込むことにより、会期中どんどん造形が変化していくというものもあった。その後も次々と部屋ごとにテーマパークのような楽しみが転がっていて、観客の結晶化した涙を顕微鏡で見る「The Reader-涙を読む人-」、芸術館の天井窓から垂れ下がる布の中に広がる世界を寝ながら鑑賞する「Lymphatic System-リンパ系-」など、どれも童心に強制連行される作品ばかりだった。ただ単に楽しいだけでなく、リンパ系には原発への不安を託していたり、また地元民とのつながりを大切にする姿勢からは、アートは現実離れするのでなく、人々に寄り添うべきという強い意志が凛として提示されていた。一瞬、このようにあまりに民衆に寄りすぎると、チープさが増すだろうと失礼な事も考えたのだが、どこまでも純粋に観客との一体化を目指す姿が潔すぎて、いつしかそんな考えも吹き消された。最後のインスタレーションである「Microcosm-小宇宙-」は、彼らのルーツであるライン川に生きる微生物を美しい映像にし、天井から円形に下がる薄い布へ投影しているのだが、まるで万華鏡の中に投げ込まれたような不思議な空間だった。

書き出すと止まらない興奮をくれたこの展覧会で、とっておきの作品があと一つある。派手なインスタレーションたちの合間に、ずらり、さらり、と飾ってあった「リフトアップ」という一連の写真作品。これがすごいのだ。普段あまり写真作品をじっと眺めることはないのだが、これは見た瞬間笑いが止まらなくなってしまった。ゲルダとヨルクの二人がタッグを組んだ初期の頃の作品で、世界中を旅して出会った人々をゲルダが抱っこして、ヨルクがそれを撮るというもの。抱っこって、よっぽど可憐なお姫様じゃない限り、幼少期以降された事のある人なんていないのではなかろうか。それを突然旅人に仕掛けられるなんて、どんなに言葉の通じない、文化の違う人たちでも、こそばゆくてびっくりしてケラケラ笑ってしまうだろう。もうこの一連の写真、ずらっともれなく全員ぴっかぴかの笑顔で写っている。こんなに幸せな気持ちになった作品、はっきりいって出会ったことがない。力、だけでなく、幸せもくれた。

帰りもあいにくの天気で、雷に打たれて死ぬんじゃないかと思いながら水戸駅まで走り抜いた。けれどこんな思いをしてでも、本当に来てよかったという心の充足感をくれた展覧会だった。今まで現代アートに抱いていた、得体の知れない猜疑心とか偏見を取払い、私の理想とするアートの姿と、展覧会の姿を示してくれた。これを超えるような何かを、私たちの世代は、目指さなければならないのかと、プレッシャーすら感じた。東京へ帰っていく電車から、雨雲がどんどんと晴れ渡って行き、5月の新緑が一斉に輝き出す様子が見えた。希望は捨ててはいけないと、励まされているようだった。

増子いくみ

(写真上:Nursery展示風景、下:Lift Upシリーズの一つ)

ゲルダ・シュタイナー&ヨルク・レンツリンガー

“Power Sources-力が生まれるところ”

2012/2/11(土)〜5/6(日) 水戸芸術館にて

半径1メートルの世界 ~入江早耶展~

以前より外国人が少なくなったという印象があるものの、美しく賑わう銀座は相変わらずハイカラな町である。そんな町のモダン的憧れの象徴ともいえる資生堂パーラー。そのドアをくぐり、ギャラリーへと階段を下りる。

ギャラリーのエントランスでは虫眼鏡を渡された。ミクロの旅を意識させる演出だ。作品の素材は半径1メートルの世界。消しゴムでけされた仏画や菓子箱の唐草模様、そしてその消しかすから再形成されるそっくりな形体、ファンデーションで出来た小さなミロのヴィーナス。入江早耶は記憶のルーツを求め彷徨う旅人のようである。余りにも繊細に変換され、吹き込まれた命の数々は時空間をまるで自由に横断できた痕跡のようだ。本来捨てられるはずの消しかすは仏像になり、合成樹脂からは恐竜の声が聞こえる。記憶のルーツを辿ることは時におぞましく、時に幸福である。時間の流れや意味的繋がりなど、現代において目で記号として以外の「もの」を「見る」こと事が難しくなってきている中、小さくともきちんと目を開き、それらを優しく両手のひらで受け止めていることの豊かさを垣間見た。

帰り際、ふと思ったことは1年前と今との繋がりである。昨年2011年3月に世界が時間がまるで分断されてしまったような感覚をまだ抱えつつも、日常はまた勢力を必死に盛り返している。あの天変地異を人災を私達のルーツとして刻み込むことはもちろん、それ以前から流れてきた時間もルーツである宿命を感じる今日を思った。

記憶とは恐ろしく、愛らしく、そして不吉なほど我々に付きまとうものであることを、目をそらさなければ手のひらほどの世界からでも知ることができる。

豊田有里

入江早耶展

2012年3月2日(金)~25日(日) 資生堂ギャラリー

可愛い内臓

品川の風が、私と友人の肩をブルブルと震わせる。私の胃が、寒さで縮こまっているからなのか、それとも私を暖めようと必死に動いているからなのか、寒い時にだけ、正体不明の何かがこみ上がってくる。私たちは芯から冷えた体と心を暖めに、原美術館で開催している「ジャン=ミシェル・オトニエル マイウェイ展」を見に来た。マルで構成されたベッド。マルがちりばめられた箱。細胞の様にも見えるそれらを見て、口を衝いて出たのは、「可愛い」という乱暴な言葉だ。マルい瓶に閉じ込められた、奇妙なガラスの生き物達。それが机の上にずらりと並べられている光景は、可愛らしくホルマリン漬けされている臓器を想像させる。天井からも、みずみずしくて真っ赤な胃が垂れ下がる。まるで、解剖部屋の様だ。そんな、生々しいはずの臓器を見ても、見る人の口からは何度でも「可愛い」という言葉が溢れ出る。「可愛い」という言葉を発する時、胸が引き締まる様な感覚に陥る。自分にとって、一番「可愛い」はずの体の一部分が、目の前の「可愛い」に嫉妬しているかの様な感覚だ。そんな感覚を「胸キュン」という言葉で表現をする。「可愛い」と「体」は関係している。最後に何気なく展示された「覗き穴」を覗いたことで、私たちの体は、まんまとジャン=ミシェル・オトニエルによって、解剖されたのである。覗き穴の向こう側から見た私は、体が除かれ、目や口だけが切り取られている。今度は彼が作った可愛い臓器に対してでなく、切り取られた私たちの臓器に向かって「可愛い」と発言する番だ。展覧会の帰り道、はじめより暖かくなった、私の体のあちらこちらに意識を巡らしながら、寒さや痛みを感じる自分の体がとても愛おしく思えた。

横山 あかね

ジャン=ミシェル・オトニエル マイウェイ展

原美術館 2012.1.7~3.11

箱庭美術館の創造

「あなたには何か集めているものがありますか?」

私は幼少の頃から物集めに熱中する日々を送る。これまで集めた物は切手、マッチ箱、ビーズ、ボタン、木の実、押し花、薬局でもらえる人形、キノコグッズ、お菓子の包装紙・・・自分でも呆れ返ってしまう程の、コレクション欲。

感情を表に出すことが苦手だった私は、そうした小さく、可愛らしいものを並べ立て一人うっとりとしていたものだ。物が一番の友達であり、物を通して人を見ていた。全てが大切で部屋はいつも物で溢れかえっている。

蒐集とは一つの自己表現のあり方である。

その日は巷房に訪れたのはたまたまだった。気がつくと足が向いていた。特に何をやっているか調べもせずに向かった。

その日やっていたのは「仲野泰生展 ノートの時間と顔の宇宙」。

作家の仲野さんは現役のキュレーターであり、年に一度こうして作品を発表しているそうだ。仲野さんの作品と出会うのは二度目。去年、新見先生や学友の皆と行ったギャラリーツアーで偶然最後に訪れた画廊で仲野さんは個展を開いていた。その日回った20数件のギャラリーのどの作品よりも心を惹かれた。それ以降、ずっと仲野さんの作品に再び相対するのを熱望していたのだ。

ノートには、美術館のチケットや日々考えたこと、時には少しエッチなグラビア写真(!)などが貼られている。本来なら他人に見せずそっと自分の心の中で留めておくもの。そうしたものを覗き見する快感!

それは、新見先生の作品をはじめて見た時の感覚に少し似ていた。キュレーターという職業のもたらすこうした蒐集、そして並べるといった「箱庭的」「空想的」「私的」美術館の創造は、どんな大きな美術館の展覧会よりも私にとってわくわくするものだ。ノートの美術館の中は、ダヴィンチもゴッホもピカソもクレーもモンドリアンもグラビア女優でさえ自由なのだ。

私は物を通して人を見ている。

あなたのノートが見たい。あなたの部屋が見たい。あなたの本棚が見たい。あなたの鞄の中身が見たい。そこにあるのは、他ならぬあなただけの美術館だから。

願わくば世界中すべての人の心の中にある「美術館」を訪れたい。まずはあなたから。そして、私を。

那須萌里

仲野 泰生展『ノートの時間と顔の宇宙』

巷房・2+階段下

2012/2/20() 2012/2/25()

二つの迷路を迷う

大学生活も3年目の冬を迎え、清澄白河のギャラリーコンプレックスへの道にもいい加減慣れたもので、すたすたと軽やかに道を行く。

エレベーターを上がると、ギャラリーのスタッフから、靴と鞄を置くように指示が出され、小さなライトが渡される。目の前に広がるのは途方のない闇。真っ暗な迷路。その心許ない、か細いライトの光を頼りに真っ暗な中を進む。

内部は予想以上に複雑に入り組んでおり、普段のギャラリー空間を知っているからこそ、より深い深い闇へと取り込まれてゆく。見えない壁に勢いよく鼻をぶつけ、こりゃあ本気で挑まないと帰れなくなるなあ、と思わず一人で苦笑する。自然と全身を使って迷路を進むようになる。くるくると同じ場所を回らせられ、格好悪く身体のあちこちをぶつける。迷路の外に置かれた《ミエナイ人タチ》、暗闇の中のほのかな光にうつし出される透明な人型のオブジェには「馬鹿な人ね」と笑われているような気がして、少し惨めな気持ちになる。

普段、私たちが目で見ている物の曖昧さを思い知る。

迷路を進む中で、ふいに思い出したのは、ちょうど一週間程前に、ブンカムラアートギャラリーでみたミヤケマイの個展「膜迷路」のことだった。会場の白く明るい迷路には所々に砂や草が敷き詰められ、その上にちょこんと乗ったリンゴ。上履き。ちょうど、私たちが昔どこかに置き忘れてきてしまったような物たち。

ハニカムシリーズは私たちの身体感覚全てを使い見ることを強要する作品。しゃがむ、近づく、離れる、斜めらせる、一点を見つめる、全体を見渡す・・・見る視点によって、見えたり、歪んだり、見えなくなったりする作品。近づけば近づく程見えなくなり、離れれば離れる程見える。細部と全体は同時には見ることは出来ない。日頃、自分たちがいかに曖昧に物を見ているのか、ハッと思い出させる力がある。

白と黒。二つの異なる迷路。

けれども、両者に共通しているのは見えないものを見ようとするということ。それも目だけではなく、身体全体を使って。

現状の私たちは様々な不安に晒されている。3.11以降、自分という存在を考える上で、社会との距離を測る上で、その存在は無視できない物となった。

ミヤケは、今回の展覧会のテーマについて「人の物差しを疑うより、自分の物差しを疑え」と語る。

一方、オノは社会の規範や固定された価値観へ疑問を投げかけ、人々それぞれの想像力に働きかけることで未来への力を与えてきた。

本来のアートに課された宿命を二人の女性が偶然か必然か同じ時期に「迷路」という形で体現した。それは異なる方法ではあるが、根底に流れるものは同じだったのではないだろうか。

外に出ると辺りはすっかり暗くなっていたが、それでも私は家までの道をまっすぐ進むことが出来る。もう少し迷っているのも悪くはないな、などと思いながら。

那須萌里

オノ・ヨーコ 『灯 あかり』

小山登美夫ギャラリー

2011/12/10(土)〜2012/1/28(土)

ミヤケマイ個展『膜迷路 Down the Rabbit Hole-』

Bunkamura Gallery

2011/12/23(金・祝)2012/1/12()

心の空気清浄機としての絵画

冬の空気を身にまとい渋谷の雑踏を乗り越えギャラリエアンドウへと向かう。思えば私がはじめて渋谷に降り立った時はもう5年くらい前の私がまだ高校生の頃で、その時は渋谷という街の放つ異臭に戸惑った。原宿でも池袋でも新宿でも感じなかった渋谷特有のにおい。そのにおいにもすっかり慣れてしまったなあ、などとやんわり思いながら、今日は武蔵野美術大学の大先輩、二木直己さんの作品を見に行く。

今回はじめて二木直己さんの作品を見て驚いたのは、ダイレクトメールやホームページで事前に見て感じていたイメージよりもだいぶ小ぶりの作品が多いということだ。けれども、ロスコなどの大画面の色面で圧倒する、といったものとはまた違った緊張感が部屋中に漂っている。猛烈で静かな生命感とでも言おうか。一つ一つ異なる色合いのブルーが妙に心地よく、遠くから眺め、近くから眺め、シンプルな構成だが飽きる事無くずっと見ていたくなるそんな絵画だ。そうして眺めているとふいに筆跡が葉脈、海の中の音、明け方の空、そうしたものに見える瞬間が訪れる。

この日はオーナーである安藤さんがレモネードをいれてくださり、偶然いらしていた二木さんの作品のコレクターの方と一緒に作品についてのお話を聞かせてくださった。

タイトルはどれもBelvedere、見晴し台とつけられており、二木さんの住むイタリアのフィレンツェから見える景色だとかそういうものから感じるイメージなどを膨らませて描いているとの話だ。

使う画材は鉛筆、色鉛筆、そして紙。一枚の作品を描くのにかかる時間は小さなもので3週間程。同じ筆圧、筆跡を保つために毎日絵に取りかかる前に、広告の裏に透ける文字を写したりして、腕の調子を整えることから始めるそう。

二木さんの真面目な仕事が見ている自分たちにも伝わってきて、真面目に生きなきゃ、と思ってしまう空気清浄機のような絵画だ、と安藤さんは笑って語ってくださった。

空気清浄機のような絵画。とても素敵な言葉だ。木々が空気をきれいにするのなら、二木さんの作品は私たちの気持ちをきれいにしてくれる。私が二木さんの作品に垣間見た脈や海や空、そうした自然的なイメージはやはり見間違いではなかったのかもしれない。

帰りの足取りは軽く、冷たい空気が頬をさすのが妙に心地よかった。

那須萌里

『二木直巳展』 ” Belvedere-Recent Works”

2011.12.06 (tue) 12.24 (sat)

ギャラリエアンドウ

開館時間 11:30から19:00まで  月曜・日曜休館

純粋への探求

ゼミが始まってからというもの、つくることに取り憑かれてしまっている。本来ものを見なければいけないはずのコースを選んでおいて、夢中で正反対の方角へ疾走するなんて、こんな不謹慎な学生はいない。しかしながら私は手を動かしていないと心の平静が得られず、ものを見ることにすら支障が出てきてしまうので、開きなおって制作を楽しむことにした。ということで、このツァラトゥストラにもやっと初投稿にして、展覧会レビューをせずにただただ持論をうだうだ述べさせてもらおうと思う。これはもうほとんど病気といって間違いない。

今のところ、木彫とコラージュという似ても似つかない二つの表現を主に制作している。本能のままにゴリゴリと彫刻刀を動かし、手のひらへの感触や削られた部分から匂ってくる木の息吹を感じながら、無心になれる木彫。一方で、思い出のチケットや雑誌から使いやすい素材を切り抜き、パズルのように配置を考え、色鉛筆で色彩を与えていくコラージュ。このいわば欲求と思考とを行き来するのが、飽き症の自分にとてもしっくりと来ているのである。こうして両方を制作していて頭に浮かんだのは、芸術としての純粋性はどちらの方がより強いのか、という疑問だった。

まず先述の制作状況の対比は、まるまる鑑賞時にも照らし合わせることができる。彫刻など立体作品の鑑賞において、それらは運良くば触ったり、持ち上げて重みを感じたりと、視覚+αの楽しみ方ができる。美術館など触れてはいけない場所においても、脳内ではそうした五感を使った作品との関わりがシミュレートされる。対する平面は、触って感触などを確かめることができなくもない。が、機会があったとしても長くはそうしないだろう。やはり平面は、視覚情報のみから、思考や分析をして味わったり、五感を超えて第六感を働かせながら、普段眠らせているスピリチュアリティを呼び起こす事によって楽しむものだ。

一般に純粋芸術、いわゆるファインアートの定義付けには、用の機能がなくて、大量生産もしくはレディメイドでない、などの項目が挙げられる。純粋という言葉がなるべく余計な要素を含まない、という意味であるなら、五感の中でも視覚のみを使う、もしくはとうとう第六感以上しか揺さぶらないような作品こそをファインアートというのだろう。とすると、鑑賞時に+αが付随してしまう立体は純粋ではない。特に動物的突発性を持って作られた彫刻は、神聖性が低いので純粋とは違う。またある意味では、本能的に描かれた絵画は純粋から除外され、一方で思考など人間の高尚で冷静な部分によって作り上げられた彫刻、鑑賞しても一向に脳内に仮想接触の図が浮かばない彫刻は純粋になりうる。これが私の純粋に対する現在の結論なのだが、だからどうしたと指摘されればそれまでである。しかしこうして無謀にも、純粋という憧れや畏敬を含む「何か」の正体を突き詰めていくことで、一つ一つ煩悩をクリアしていけている気がするのだ。やはり人間というものは、頭に浮かんで来てしまう由なしごとに、シンプルな名前をつけることでしか、自らの生み出す果てなき恐怖を乗り越えることはできないのだと思う。それは悲しい性でもあり、受け入れる他に無いものでもある。

ここでの試行錯誤を暴力的に簡略化すると、あまりレシピを見ずに感覚で料理をするのより、レシピや調理のコツを勉強したり素材を吟味する方がより純粋である、と定義付けをしただけだ。しかしそのどちらがより高尚で素晴らしいというのではなく、やはりその両方を行き来しながら良いところを取り込んで、無駄は排除していくことでしか、人間はより良い方向へ進めないということを言いたい。それは制作においても、鑑賞においても、もちろん料理においても、あらゆる事象にあてはまる。

増子いくみ

「No.6」ミクストメディア、2011/11/27

「No.6」ミクストメディア、2011/11/27


かたちの謎解き ー李朝陶磁の中にある自然ー

静嘉堂文庫はバス停を降りて、鬱蒼とした山道を登りきった先にある。
自然の音しかしない湿った坂道を登るにつれて、これからやきものを、とりわけ李朝のやきものを見るという期待と喜びが湧いてくる。

李朝陶磁の蒐集といえば駒場の日本民芸館と大阪市立東洋陶磁美術館が双璧だと思うが、ここ静嘉堂文庫にも岩崎小彌太が収集した名品が所蔵されている。
李朝時代になると陶磁器は高麗青磁の青の時代から一変して白の時代に変化する。その変化は到底同じ民族が作ったとは思えないほどの大きなものだ。
わけても一番大きな変化はその形ーフォルムに見られると思う。表面の形態以上に存在そのものの成り立ちが全く違うと言っていいほどの変化なのだ。

柳宗悦は朝鮮陶磁との出会いを、「そのひややかな土器に、人間の温み、高貴、荘厳を読み得ようとは昨日まで夢みだにしなかった。自分の知り得た範囲で此型状美に対する最も発達した感覚を持った民族は古朝鮮人だ。」と記して、新しい神秘を得たとその喜びを興奮気味に語っている。

今回の展示にあった「白磁八角瓶」をながめていると、なんの模様もないただ白いこの壷が実に豊かで確たる印に満ちている事を知らされる。
しかしその印を言葉にしようとすると突然立ち往生してしまうのは困ったことだが、私なりに「形」を手がかりに何とか試みてみたい。

この作品はいわゆる鶴首のように首が長く胴の膨らんだ瓶に、口縁から足元まで八面の面取りが縦になされている。
一見柔らかな印象だが実は構築的といってもいい強い形をしているのだ。
それに対して全体的な形はよく見ると揺らぐようにゆがんでいる。それは作為されたものではなく、多分焼成時に生まれたものだ。人為と自然が共存しているともいえる。
凄いなと思うのは、その歪みが1個の焼きものの中に閉鎖的に生じたものではなく、取り巻く大気が通り抜けてまるでその軌跡が一部残ったかのような自然な形になっているという事だ。
日本と朝鮮の文化の違いに関わることでもあると思う。
そのおおらかな流れは、強く縦に入った面取りに微妙な動きを生じさせている。見るものにいきいきとした印象を与える効果となっている。
高台も意外にがっしりした作りで、まるで石のような質感だ。しかし無骨な印象にはならない。不思議なことに。

面取りの加減の良さにはため息をつくしかない。このような面取りは特に特徴的で、李朝そのものと思う瞬間だ。
宗悦が一見して見通したように、「形に対して世界で最も発達した感覚を持った陶工たち」の仕事が、李朝陶磁という巨大な美の根っこなのだろうか。

押小路芳美

朝鮮陶磁名品展     静嘉堂文庫美術館   10月1日〜12月4日