ショパンの亡霊の降ってくる恩寵 ―横山幸雄の全ショパン一日演奏会を聴く
「ショパンがピアノをまもり通したのは、自分の心の恣意に耐える他者を確立する作業であったと私にはおもわれる。それは、余りにも厚い表現の脂肉をつけてしまったロマン派の音と、その音に容易によりかかる音楽家たちに対するショパンの挑戦ともいえるだろう。」遠山一行『ショパン』
[ 私は、絶対にまず起こらない、けれどいつかは必ず起こる、「何か」を求め続ける ]
それは、恩寵ともいえる瞬間というか、体験だった。
私はその時、その空間の彼方に、ショパンの亡霊が幻のように立ち顕われるのをたしかに見たのだが、横山幸雄の果敢に弾く、いっきに一心に弾き続けるその磁場は、さらにはるかに熱気を帯びて、私共聴衆そのものをのみ込んでいった。
原始の祭祀、あるいは古代の歌垣がそうであったように、その場、その空間そのものが、音の彼方から谺するかのような、暗くよどんだショパンの低くくぐもった呟きが空間に滲みるように響くにしたがって、少しづつ、そしてさらに少しづつ、静かに、しかも地鳴りをあげながら、天空へと向って、浮かび始めたのを、たしかに私は感じたのである。
奇跡は、いつも、必ず、私共じしんのこの肉体の、見えないどこかで起こっている、何ものかのしるし、それにはじめて覚醒することなのだ。
こういう体験が、如何に私にとって例外中の例外であるのかを、当然のことながら、人は知る由もない。
私は音楽で飯を食っているわけではない、ただのディレッタントだが、劇場通いはまた日課そのものでもあって、一年何十回か内外で習慣的におこなうのが、そういったパフォーミング・アーツの劇場体験だ。だが、つまらないと途中で帰ったりするので(畏敬する、かつて一度だけパリの友人白羽さんの恩恵で晩飯を食い、旧知の親友のように酒をたっぷり飲んで言いたい事を言って長時間語り合った、大好きな女神ピナ・バウシュだが、彼女の演目ですら、退屈して途中下車したものもある)、勿体無いこと極まりないが、それが素人の特権とばかり、気楽でいる。
何かが起こることを期待しては行くが、そういう何かは滅多に起こらない。というか、まず、絶対に起こらない。けれど、起こる時には、必ず起こる。それが私の確信である。
パフォーミング・アーツの起源は、もとより、古代の祭祀だっただろう。そこでは演者も聴衆も、その舞台の方向性においては、みなが不在の神に向かっていただろう。そして、捧げものである贄としての行為=演目は、演者と聴衆が等しく自らの肉体を血だらけになって削ぎとって、なお何か言いたいこと、この世に顕したいことをぎりぎり精一杯で吐き出すような、痛みと高揚と恍惚とによって成り立っていた、何かだったろう。そしてしかも、天空へ、何も無い虚空へと投げ出され、艢を解かれた、かつては私たちの肉体であったが今はもう何ものでもない何か、なのである。だからまた、それは、生死の儀式、そのミメシスそのものでもあった。その贄がどのように神御本人ご本体に受理されるか、受託されるのか、あるいはもしかして拒絶されるのかは、そのじつ、地上の生命の与り知らぬことであったであろう。
横道に逸れるが、不世出の予言者、出口なおによって開祖され、天才王仁三郎によって大きく発展して教派神道の一主流をなした亀岡大本教は、不敬罪による迫害と大弾圧を受けながら果敢に純粋に活動を続けて戦後も命脈を保ったが、代々の教主が率先して手を動かしてものをつくった、芸術擁護の宗教集団でもあった。亀岡では、古代の歌垣が、信徒総出で毎年行われると、教師の方からきいたことがある。その会にいつの日か与りたいと切望しているが、時にそういう感じの場面が私の夢に出る事がある。種を超え、血を超えた、文化共同体的の無意識的欲望が私共の肉体に宿っていることもまた、私の確信のひとつである。
歌は、ギリシャでもあるいはそうだったのだろうが、我が古代では、口に出して唱和するもの、肉体から出て神に届けられる、「霊の物体」そのものでもあったはずだからである。
[ キュレーションの存在価値 ]
ここ三年、横山幸雄は、ゴールデンウィークの一日を、新宿のオペラシティーのホールでの、ショパン全作品演奏会に、あてている。
一昨年は、「ショパンが番号をつけて出版したものすべてと、遺作」166曲、昨年は、「知られるかぎりの、全ピアノ独奏作品」212曲、そして今年は、「二つの協奏曲の独奏ヴァージョンを入れた、出版された全ピアノ独奏曲」全149曲、を、一日で弾いた、恐るべきコンサートである。
素人ディレッタントの私は、ギネスブック的挑戦、体力勝負の大食い競争的な演奏イヴェントには、むろん、まったく興味が無い。(もしプロならば商売だから、貶すためだけであっても、たぶん義務感でも行ってみようとはするのだろうけれど)興趣がわいたのは、もちろん、ふだんはロマン派のピアノ作品しか聴かない私にとっての最重要作家であるショパンだからいうことと、十年前か、紀尾井ホールで、ある方の追悼コンサートがあって、そこで横山幸雄のバラードの一番を聴いて、大きな感銘を受けたからである。
バラードはそこでも、たしかに、夜の、宇宙の魔人のように、ショパンの魂を彩って、その空間私共聴衆のうえを勇躍雄飛していたのであって、その祭司としての横山幸雄の胆力に、ちょっと舌を巻いたのである。
一昨年は切符を買ったのに当日熱が出て行けず、昨年はまあ試しにと、昼前から聴き始めて、退屈したら出ようと思ったのに、吃驚しながら面白くて聴き続け、さらには何とも刺激的で聴き続け、とうとう、最後の一つ前の休憩まで聴いた。(何と、最後まで聴くと、午前二時、終演は真夜中である、観客が一人として席を離れる様子の無いのにも、驚愕した。)
まったく知らない、ふだん聴いたこともないショパンの曲を聴くことができる恩恵いがいに、むしろ、私には、その配列が、想定推測されるショパンの制作年代順に厳密に並んでいることが、大きな驚きだったのである。ふだんは、絶対にこういう配置順序で、ショパンの音楽を聴くことは、コンサートでも、レコードやCDディスクでもけっしてない。有り得ない。有り得ないものを、有り得るように果敢にやるといったい何が見えて来るかというと、音、つまり、リズムやメロディーやらそういったすべての構成構築をともなって顕われて来る音楽の総体の向こう側から、ショパンという一個の人間の人格というか、魂というか、肉声というと簡単だが、そういう未知の「声」、叫びのような何かが、たしかに顕われてくるのである。
そのことに私は、近来にない、不思議な、深い感銘を受けた。
だから、ふだん、私共は、ショパンが二百年近く前につくった音楽を聴いているわけだが、ショパンの肉体や魂の彩りというか、香りというか、そういうものはほとんど払拭された、純粋な音の組成を聴いているわけで、こちら側からの感情移入はいくらでも出来るが、向こうから、「知らない」何かが実体的にやって来ることは、ほんとうに、ごく稀なことでしかない。それが、私の、かれこれ四十年いじょう、ロマン派のピアノだけを、来る日も来る日も聴き続けて来た、音楽体験の実感である。まあ、たぶん、私は、そういう意味では、音楽音痴なのかも知れぬ。ほんとうに「心でちゃんと聴ける人」は、どんな場でどんな曲でどんな演奏でだって、いつでもそういう希有な体験の出来る、自らを掘りさげることの出来る、心の鋭い人なのだろう。
とにかく、私が感動した、その起因となる企みには、横山幸雄の、演奏もむろんさることながら、音楽のキュレーターとしての手腕があったのだと、深く感心したのである。
最終的に「降って来るものは」あちら側の勝手で、与り知らぬものであっても、それはこちら側の、意図とそれをきっちり遂行する努力胆力の伴った精魂込めた呼びかけが無ければ、何事も成されないはずだからである。
[ ショパンの手を触りながら ]
パリの右岸、モンマルトルの丘をのぼっていくと、かつての盛り場ピガールのちょっと下ったあたりに、十九世紀ロマン派の貴族画家、アーリー・シェーファーの邸宅があって、現在、パリ市が営むロマン派美術館として一般公開されている。
シェーファーのサロンにも出入りしていた、ショパンの晩年の愛人だった、異色の女流小説家ジョルジュ・サンドのノアンの邸宅の一部が再現されていて、彼女の肖像などもあるのだが、ここの展示ケースの一角に、ぽつんと唐突に、ショパンのデス・ハンドが置いてある。
初めてこの手を見た時、いっきょにショパンが理解出来たというのはちょっと大げさだが、この一見か細い弱弱しいような、それでいてどこか芯の強い、そして蜘蛛の足ようにいびつにしっかりと伸びる五本の手指にも、私は何かの声、肉声を聴いたのである。一般的にショパンのイメージとして流布しているのは、かの写真家ナダールの撮った、革手袋を片手に持って、何か怯えたような、如何にも何かにわだかまって辛そうに耐えている、パリの異邦人、街路に佇むショパンの肖像だ。だがそれよりもさらにいっそう、私にとっては、この手そのものが、ショパンの孤独な魂の実在を、感じさせたのである。
それはただ、彼が祖国ポーランドを離れてパリで音楽的成功を求めて苦闘しながらも、生涯二度と戻ることのなかった、古里の、あの乾いた草原の哀切な輝きに、切なく憧れ続けたからだけでは、けっしてない。
ショパンは、何故かくも、人人の心をひきつけるのだろうか。
それは、華麗なスタイルで演奏される、甘美なメロディー故にではけっしてないだろう。
「この音楽がすべてのピアニストのよってひかれているのは、そこに捧げられた信頼のためではなく、むしろ終わることのない不安のためだという想いを私は払いのぞくことができない」。
私は畏敬する遠山一行先生の、偉大なる『ショパン』によって、真のショパン的問題系に目を開かれて、以降変わらず、この一著が私に於ける、芸術論書の白眉であって、座右の書である。だから、ここで語っている重要な部分は、ショパンの個性のことも含めて、すべてその受け売りといってまったく、過言ではない。
「ショパンの場合に特に注目されるのは、むしろその創作における様式の一貫性ということである。少年時代の作品から晩年のそれにいたるまで、彼の音楽のスタイルは不気味なほど一定している。それは、単に変わらないというのではない。通常の意味で人間的芸術的成熟はその音楽のなかでもはっきりと見られることであるし、その限りでは彼の書法の変化も明らかである。しかし、その音楽が、はじめからどうしようもないくらいに彼自身のものであるという意味では、ショパンの個性にほかのどんな作曲家にくらべてもきわ立っている。」遠山一行『ショパン』
今回、私も演奏会でまず感じたのは、ショパンの音の、個性の強烈さ、彼でしかないというその刻印の強烈さである。それは、冷酷なほど、氷のように隔絶して、図抜けている。もしかしたら、モーツァルトのそれよりも、遥かにそうである。それが、近代人の先駆性ということだけではとうてい理解出来ない、何かをもちろん、そこにはふくんでいるだろう。ふつう考えられるような、年齢人格的な成熟にともなう、音楽的成熟すらこばんでいるようにみえる、早熟などという言葉ではとうていすまされないほどの、頑さ、そして、誤解を招かずにいえば、その音楽の醸す空間の広がりの、男性的な、彫刻的彫塑的な、深い空間性であった。さらに暴論を吐けば、これもまたある意味で私をとらえてはなすことのない個性、狂気のうちに死したローベルト・シューマンのそれは、徹底して、絵画的なのだ、といえば、その言わんとする意味のある部分が、理解してもらえるだろうか。遠山先生も、ジードをひきながら、ショパンの音楽の即興性について強調されているけれど、私にもそれは、ずっと感じ続けて来た。深い空間性といえば簡単なのだが、ショパンが持っている、不思議で謎めいた命そのもの、揺らぎや不安、その払拭への意志や、躊躇などを、彼がただひとつとして、自分の肉体からわき起こってくる感情を見逃すまい、ないがしろににすまいとして拾いあげる姿、不退転で不断の決意によってのみ現前される何ものかを、ショパンの作品そのものが、宿命的に刻印しているように思われて仕方ないのである。
それが、私が考える、ワグナーよりはるかに強烈な、内的宇宙の具現者、ロマン派の王としての、ショパンの態度である。
だから、ショパンの音楽は、徹底して、頑で、狷介でもある。
「ショパンの音楽は、おそらくその正反対のところにあるように思われる。それは、一層多彩な演奏家の個性を受け入れるように見えながら、実は深いところですべてのものをこばんでいる。彼の白い手袋は、サロンの男女がさし出す手をにぎりながら、彼の心は、誰とも共有することのできない一つの音の運命をみつめているのである。ショパンの音の「純粋さ」の裏側にはそうした深いニヒリズムが宿っている」。(遠山先生の同掲書から)
私は、横山さんが書いた、卓抜した演奏家としてのコメントを、他の聴衆とおなじように読みながら、じつは、演奏、その音の総体の空間に十五時間、じっと身を浸しながら、沸きだしては止まらない自分の言葉を、約百首の短歌にして、延々と書き連ねて行った。
それは、私じしんのショパン体験の、総決算ともいえるささやかな作業だったのかも知れない。
[ ぎりぎりの人生、崖っぷちの音楽 ]
遠山先生に私淑するお弟子でもある、大学いらいの同級生Sがいて、江戸っ子の彼は、音楽を私なんかよりもよほど私心なく誠実に愛し、ふだん、たったひとりで淋しく(しかも裕福に)暮らしながら、往年のSP版を竹針で、好きな演奏を勝手気侭に聴いている。
彼が単なるオーディオ・ファンや回顧趣味の音楽マニアでないことは、コルトーの再版CDのシリーズのライナーノートを、とつとつと書いていたりすることで、知れる。
ショパン好きの私は、遠山慶子先生のノクターン全集のLPを大学時代から愛聴している他は、ホロヴィッツが昔から好きだったりとか、ショパンを誰でふだん聴くべきかに定かでない部分が長くあって、そのSが、ステファン・アスケナーゼの50年代のグラモフォンの録音セットをずっと昔、贈ってくれて、それ以来、私におけるショパンとは、このアスケナーゼである。
この大学時代以来の畏友には、いつも、CDジャケットのデザインやら、妙なポピュラリティーでミーハー的に演奏者を選んだりする私をして、「お前にはほんとうの音楽がわからないなあ」と嘆かれ続け、それでも、モーツァルトやベートーヴェンでは、やっとクララ・ハスキルの、雄々しいというか、端正というか、実直というか、そういう、澄んだ水のような「誠実な」演奏の良さが、身体そのもので心地よいとやっと思えるようになった、未熟なる、情けない田舎者、その聴衆生活四十年であった。
世紀末の現ロシア領、ウクライナの小都市に生まれたアスケナーゼは、最晩年、ブリュッセル音楽院の教授として、アルゲリッチや内田光子を育てた優れた教師であっただけではなく、ユダヤ系ポーランド人として、第一次大戦に従軍し、数奇な生涯を乗り越えながら、そういった、謂わば、「澄んだ水」のような誠実な音楽、そしてそれを楽しむゆとりの自由精神を獲得して来た、偉大なる世代の生んだ芸術家である。
私はポーランドには、行ったことがない。
そこはまた、アウシュビッツで、飢餓房に自ら赴いて亡くなった、コルベ神父の古里だ。
ずいぶん長く憧恋の地であったハンガリーを一昨年、やっと訪ねたのだが、それも今は亡い、山口は津和野の神父さま、高校時代からいつも何かふと心淋しくなったら訪ねていたホルバート師が、「隆ちゃん、僕たちはねエ、列車の下にもぐってねエ、底に逆さに張りついてねエ、何時間もかけて、国を出たんですよ、隆ちゃん、わかる?」と、司祭館で夜半にサラミを食べウイスキーを飲みながら、いつも言っておられたことを、昨日のことのように思い出すのである。
懐古趣味ではなく、アスケナーゼのショパンの香りには、こういう、人生と歴史の修羅場をくぐって来た、それでもその糧を、たったひとつ、音楽にだけ求めて来た人人の、たしかな味わい、誠実と静謐と、自由な豊かさこそが、血脈風土として根づいていたのであった。
そしてまた、逆戻りするようだが、ナポレオンの失脚後の激動期の19世紀前半の時代相を、しかも、故郷の戦乱を後にして、そして、七月革命いこうの反ウィーン体制の渦巻く動乱のパリに生きたショパンの音楽は、また宿命的に背負っている。
ショパンもまた、時代の生んだ個性である。天才こそ、表層的にはけっして見えない、その時代のもっとも底に蠢く、深い不安や苦悩を代表するのである。
彼はサロンの寵児であったかも知れないが、彼の魂は、つねに、同時代的な、戦乱、動乱、苦悶、痛み、そういう、どうしようもない、社会の最下層でうごめく人間の苦悩とともに、いつもあった。ショパンの音楽に、それを乗り超えて、雄々しく生きて行こうとする、真の、魂のヒロイズムを聴かなければ、無意味に等しいのではないか、とまで、私には思われるのである。
ショパンは、動乱期の個性、そして、徹底して、また、同時代的に表層的で安易な同調を拒絶した、孤高の、孤独な個性である。
だから、ショパンの音楽は、いつも、崖っぷちで行き惑っている、と私には思われる。
さらに余談になるのだが、私共慶応義塾仏文の後輩に、優れたピアニスト西井葉子がいて、クロアチアで勉強して帰って来て、凱旋公演をやった。プロコフィエフの戦争ソナタなど、峻厳な曲ばっかりのプログラムでやったのだが、彼女は、「厳しい場所では、人人は厳しい音楽を求めるから」と言っていた。彼女の恩師は、「戦乱のクロアチアから、商業主義にまみれた日本へ我が教え子を贈り返す」とプログラムに書いて、脱帽、瞠目した覚えがある。
いつか西尾さんに、ショパンをこそ弾いてもらいたい、と願っている。
[ 他者の発見、捨て身の投企 ]
「ショパンをボードレールに似ているといったのはジードである。『悪の華』が不健康な詩であるなら、ショパンの音楽もそうよばれる充分な理由がある。両者とも完璧さに対する同じような欲求をもち、修辞学や雄弁や美辞麗句を怖れ、特に、おどろくべき簡潔さのなかで人に不意打ちをくわせる。(『ショパンについてのノート』)
ふたたび、遠山先生のショパン論からひく。
そして私は、自らの言葉を短歌という呪歌のかたちに探りながら、横山幸雄のひくショパンを聴き続けた。
短歌、歌もまた、伝統的に、幻を招じるための、儀礼の祭祀そのものであったのである。恩師R先生の口癖じゃないが、「マラルメはね、言語の前に、詩があった、と言ったんですよ」。
音、それは空間であることもまた、まちがいはないのだが、そこに現前する、純粋な音の刹那的な構成や構築を聴く私にとっても、それはやがて、幻聴ではないのだろうか、というような、不思議な瞬間がやって来る。
幻聴そのものではない、やがて、その音の実態実在、そのすぐ後ろ、傍らに、影のように寄り添っている、低くくぐもった、かすれた、ショパンの呟きが聞こえて来るのである。呻き声のような。
その時にはまた、降って来るものがある。
というより、横山幸雄の音の洪水に、そしてショパンの音楽の氾濫に、私共聴衆は、ひとり一人が、積極的に浸されながら、ショパンの亡霊をひとり一人別のかたちで、追って行っていたのではないだろうか。そうして、横山のショパンも、聴衆何百人の幻のショパンも、そこでひとつの像を結ぶ、あるいは、巨きな、もうひとつの幻を顕させる、のではなかっただろうか。
それはやがて、たった一つの、宇宙的な魔人の姿となって、私たちの頭上の空間に顕われるようになる。枯れた、ポーランドの草原の草むらのうえを飛ぶ、光の乱舞のように。
そして、さいごには、この伽藍、壮大な空間そのものが、私共、ショパンの悲痛な叫びやら、谺やら、恍惚やらをすべて巻き込んで立ちのぼってゆく、未生の竜のように、幻となってゆき、私共すべてを載せた伽藍そのものが、ゆっくりと動き、ゆるやかにうごめき、やがては見えない不可視の気球のように、天空虚空へと向って、少しづつ、浮かびはじめるのを、知ったのである。
それを、いまは、傑作群の森のいくつか、「英雄ポロネーズ」とも、バラードとも、また、スケルツォとも、また、幻想ポロネーズとも、あるいは、ロ単調のソナタであったとも、もはや私は言うまい。
私がもっとも愛するのは、最高傑作、エチュード練習曲集を除いたならば、やはり、初期のピアノ協奏曲である。
そして果たして読むに値するかどうかも定かでない、この日私のものした百首の短歌については、またの機会に譲るとしよう。
私は、横山幸雄さんを、どのような方か、個人的には、まったく存じあげない。
私共聴衆はその日、8時の開演から、11時の、最後のワルツの後の、観客総立ちの拍手喝采まで、ずっと、ただひたすら、横山さんの、ずんずん、激しく、淡々と、弾いて弾いて、弾き倒す、15時間の演奏、その神懸かった祭司ぶりに、ぴったりと帆走した。昼から来た家内のほうが、むしろ、そういう私のふだんとはちがう憑衣ぶりに、驚愕したぐらいである。
その日、8時ちょうど、彼は、気負ってもいない、でも曖昧でもない、何か、作品番号ごとの拍手にこたえるのと同じ、颯爽と、自信に満ちて、しかも心のこもった、ユニークな素早いお辞儀を繰り返した、それと同じ、とつとつとした挨拶をした。そして、何より私を驚かせたのは、最後の鳴り止まぬ観客総立ち、拍手喝采の後で、彼が何とも恥ずかしそうに、「今日は、自分もすごく楽しかった」と言ったことだった。
真の祭祀の司祭である彼は、「ほんとうに、大丈夫なのか」という多くの観客の危惧をすっきりと吸い込みながらも、平気の平左であるわけはないだろうが、「自らの演奏を、楽しんでいた」のだからである。
こうした類い稀なる恩寵に、私は、これからも喝采を送り、深く感謝し続けたいのである、ショパンの亡霊を幻視した日の尊い思いでとともに。
(終わり)
(文中にも書いたが、自分の考えのように書いているものも、すべて、遠山一行先生のショパン論の、受け売りであって、それから、すべて、学んで借りたもの。ショパンの伝記的史実は、むろん、素晴らしく綿密でポイントを得た、横山幸雄さんのプログラム曲目解説から、アスケナーゼの経歴は、ジャン=シャルル・ホッフレによるCD集解説から、そして、「生のゆらぎ」というのは、20世紀きっての彫刻家、イサム・ノグチを評した、彫刻家故飯田善國先生の言葉から、すべて、学んで、借りたもの。)
新見隆(にいみ りゅう)
キュレーター
2012 年 5 月 10 日 5:23 PM | カテゴリー:ツゥラトゥストラ:アートダイアリー












