Cultre Power
studio & residence 神山アーティスト・イン・レジデンス/KAMIYAMA Artist In Residence
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

インタヴュー

中原亨+大南信也+森昌槻x岡部あおみ

日時2005年11月13日

01 過疎化、少子化、高齢化からの再生―神山アーティスト・イン・レジデンスのはじまり

岡部あおみ:神山のアーティスト・イン・レジデンス(KAIRカイール)に、初期の立ち上げの頃からかかわられている中原さんに、まず最初にお話を伺いたいと思います。神山でアーティスト・イン・レジデンス(AIR)のアイデアが生まれたのはいつ頃からで、どういう経緯で始まったのかを教えていただけたらと思います。

中原亨:事業の発端は徳島県が住民とともに進めようとしていた「とくしま国際文化村構想」にあります。構想を実現するために具体的にどんな事業をするかという話になり、アーティスト・イン・レジデンスを始めることになりました。1998年です。文化村構想の母体となったのは神山町国際交流協会で、1992年に組織されました。最初にやったのが1993年の神山ウィークエンド事業です。徳島県内に配属される外国人の英語指導助手(ALT)の新任研修を兼ねた二泊三日の民泊事業で、日頃、接する機会の少ない外国人との交流を図る目的でした。約30人が神山にやってきました。今でも夏の神山の恒例行事になっています。30人に加えて前年度の参加者もやって来ますので、40名を超えることもあります。

岡部:その方達は、語学指導以外に、日本で何かを研究するために来ている方達ですか。

中原:いえいえ、外務省と文部科学省が行っているJETプログラム(「語学指導等を行う外国青年招致事業」)によって全国の小・中学校や高校で英語を教える先生たちで、神山町にも一人配属されていて、現在はジョーというアメリカ人がいます。基本的には一年契約ですが、最大3年まで滞在することができます。

岡部:毎年、英語ができるいろんな国の方が来られるわけですね。日本語は話せますか。

中原:英語の指導助手ですから英語圏からやって来ます。数はアメリカ人が多いのですね。人によって違いますが、最初のうちは日本語をしゃべれない人が大部分ですね。

岡部:レジデンスは初年度からの構想だったのですが、応募などの問題があり、次年度からにしたわけですね。

中原:そうです。準備もありましたので、実際に始まったのは1999年からです。

岡部:最初に考えていたのはALTの人の受け入れと同時に、神山を国際的で、文化的、かつ芸術的な町にするという構想で、最初から3人のアーティストを受け入れていたのですか。

中原:そうですね、基本的に外国人2名と日本人1名です。初年度は、インターネットを使って世界に発信しても、応募総数は僅かに4名という状況でした。しかし、アーティストたちが二か月ほど神山町にいるのが新鮮だったのでしょうか。帰国したアーティストたちの口コミもあり、仲間内で結構話題になったのでしょう。翌年から徐々に応募数が増えていきました。2003年には200名ちかい応募が来ました。

岡部:今度は応募が多くて選考するのが難しくなってきますね。

中原:芸術家から送られてきた提案書や作品のスライドなどを基に一次選考を行います。十数名の実行委員がとりかかって3日くらい要します。そして、20名程度に絞込み、最終選考では武蔵野美術大学の先生に選考に加わってもらい、招聘する3名の作家が決まります。

岡部:私も2004年と2005年と2回やらせていただきましたが、さすがだと思ったのは、あれだけ多くの応募資料を英語から日本語にする翻訳作業を、みなさんで全部こなされていることでした。選考の前のその準備作業だけでも相当大変だろうと思います。

中原:特に、翻訳費などの資金繰りには苦労をしていて、厚生労働省の緊急雇用事業なども利用しながら何とかやっています。2003年と2004年はこの資金を活用し、通訳者・翻訳者として2名雇用しました。実行委員の中で英語のできる人も作業に携わります。

岡部:徳島県からの資金がでて、翻訳担当者は現在2人いるとおっしゃっていましたけども、事業全体の資金も徳島県からかなり援助があるんでしょうか。

中原:初年度の1999年には徳島県と神山町が、翌2000年には文化庁も加わり、2004年までは三者から約150万ずついただいていましたので、立派な報告書もできました。ところが、昨今の国や地方の財政事情の悪化に伴い、補助金や助成金が削減され、現在は非常に苦しい台所事情となっています。

02 AIRを継続させた住民主導−休校の再利用

岡部:450万円の公的援助が2004年までは続いていたんですね。KAIRに関わっている方達で公的な機関の人達、たとえば神山町の町役場の人とか公的任務でかかわっている人もいらっしゃるわけですか。

中原:日本各地で行われているレジデンス事業を見てみると、ほとんど事業主体は県や市町村です。ところが、神山では主催するのは公的な機関ではなく、地域住民です。これが他のレジデンスと根本的に異なるところです。逆に、住民主導であったからここまで続けられたのかもしれません。例えば、市町村主導であったら、国や県から補助金もらって、作家を呼んできて活動してもらい、報告書出して終わるわけですね。ところが、神山では住民が自ら起こした事業ですから、できる限り継続できるような工夫をします。だから7年間も続けられている。助成が終わった後も、この種の事業が続いているというケースは非常に稀だと思うんです。

岡部:一応7年間は公的資金が続いたという幸運な事実もあるわけですが、普通は4、5年間で終わるところが多いですよね。それは住民の方々の熱意?魔法ですね(笑)。

中原:(笑)今ちょっとした謎ですね。でも、この事業が新聞やテレビのメディアで報道されたり、外国でも話題になっているようだし。もちろん、実行委員会の中に公的機関、例えば、神山町の教育委員会などが事務局として動いてくれている面も大きいと思います。

岡部:7年続いたKAIRの成果ですが、他の実行委員の方々にも後ほどお話を伺いますが、学校の校長先生をなさっていた中原さんの場合は、どういう形と立場で関わられてきたのか、ご自分の活動の中でそれをどう位置づけているのかを伺えれば。

中原:立ち上げの初年度は、私は教員で学校の管理職だったわけですが、作家たちのアトリエをどこに置くかという事が話題になって、私の提案としては、神山町がだんだん少子化で子供の人数が減っていくので、空き教室がでてきますね、そこを作家たちのアトリエに提供したら子供達が目の前で作家たちの制作過程を見られる。子供達が家に帰って夕食の時などにお父さんお母さんなど家族のものに、こうこうこういう事があったよ、となればPR効果にもなる。これをまず取り入れたんです。初年度は私が勤めていた神領小学校とか、下分小学校とか、公的な機関の施設にしたのが非常に功を奏したというか。子供達が直接作家にも触れられたしPR効果にもなったという事でよかったのではないかと思いますね。

岡部:子供達とアーティストとの触れ合いを最初から中原さんが提案したのですね。制作後、廃校になった小学校に作品を収蔵展示する事になりましたが、あの事業も積極的に進められたのでしょうか。

中原:結局7年も続いてくると、作品がだんだん蓄えられてきます。そこで、作品の管理も非常に大切な要素になり、どのように管理していくか知恵を絞りました。ここ数年間に町内に6校あった小学校が、次から次へと休校になり、空き校舎ができたわけです。そこで、この空間に作品を展示したらどうかという案が出されました。それによって、公共遊休施設の利活用という効果を提示して、いらなくなった公的機関を再利用するという視点を見せることができたと思うのです。

岡部:作家が神山に来たとき、滞在場所はいつも同じところですか。

中原:初めは実行委員が経営している野外キャンプ場のログハウスを使わせてもらっていましたが、いつまでも個人の商業施設を占拠できないので、他の候補地を探して居た時、目を付けたのが教職員住宅でした。休校が多くなると当然教師の数も減り、教員住宅も空くことになります。これまた、うまくいきました。

岡部:制作スタジオに使っているのも、小中学校の校舎ですね。

中原:ランドアート作家などは野外制作の場合が多いです。以前は2クラスの学年が多かったのですが、それが少子化の影響で1クラスになったりして教室が空いてきたり、統合によって休校校舎になる場合があります。

岡部:そうした休校のスペースを転用する場合ですが、教育委員会に許可をとるのでしょうか。

中原:まず教育委員会の了解を得て、校長の裁量によって教室の利用をするわけです。教員仲間の抵抗もあったのですが・・・・。日本全国で休校中の学校をどう利用していくかが問題になっています。その意味でも、作品を展示する美術館として活用するのは一つのアイデアではないかと思うのです。

岡部:見せていただいた感じでは、学校のスペースのまま、特別にリニューアルしてるわけではなく、そのまま作品を置いてるのですが、天井が低い教室が多く、直射日光が入るとか、展示に困難な条件もいろいろあって難しいところもありますね。

中原:岡部先生などに配置とかでいろいろアドバイスをいただいて、大変助かっているのです。何せ我々素人ばかりの集団です。昨年度末、30年以上も続いた中学校の学生寮の青雲寮が閉鎖になりました。最も多い時期には240人もの寮生がいたのです。すごくいいスペースなので、そこも宿泊施設として使えると思います。解体するにしても数千万円が必要となりますので、町としても何かに再利用したいと考えているようです。夏休みなどのキャンプ施設として寮を起点にして活動してもいいと思います。

03 神山文化人の増加―アーティスト・マウンテンを目指して

岡部:神山のアーティスト・イン・レジデンスには武蔵野美術大学芸術文化学科の教授が、初期の段階から常に関わり、べつの事業で夏には学生たちが子供向けのワークショップにも来ています。ワークショップは、KAIRの実行委員の方とはべつのグループがなさっているのですよね。

中原:グリーンバレーの一事業ですが、KAIRなどとは別の実行組織で活動しています。神山町の一番奥まった上分地区の住民が中心となって、「神山アート」というプログラムを作り、ムサビの人達とともにワークショップを行っています。

岡部:これら二つの事業とはさらにべつに、芸術文化学科の学生だけではなく、武蔵野美術大学全学科の学生から選抜されて、インターンシップに夏くる学生たちもいますよね。例えば去年の例だと、KAIRで制作され設置された作品のキャプションをムサビの彫刻学科の学生が来て作ってくれたそうですね。

中原:インターンシップ生はKAIRに関わることもあるし、神山アートに関わるときもあります。これらの活動は意図的に別組織で運営してきましたが、財政支援などを受けやすくする目的でNPO法人であるグリーンバレーが設立され、ここの事業の独自性は保ちつつ、全体としての統括運営を行っています。これまでは、べつ事業というより、参加したい人が参加するという形を大切にしていたわけです。実際に、二つ以上の事業に共通して関わっている人もたくさんいます。

岡部:現在、神山の人口はどのくらいですか。減ってきていますか。

中原:7千人ほどです。もちろん減っています。50年前には2万1千を超えていました。丁度3分の1に減ってきています。過疎化と少子化です。特に目立った産業はないし、工場があるわけでもない。神山町は徳島市などの周辺地域の通勤圏内にあるので、ほとんど町外へ仕事に出かけ、残っている人たちは農協とか郵便局とか役場とかで働いているのです。

岡部:自然に恵まれ、おいしいものもたくさんあるし、すばらしい住環境ですが、ここで若いひとたちが生活していくために、何らかの仕事をつくっていく事が大きな課題になっているわけですね。

中原:それはもちろん行政課題でもあります。

岡部:KAIRを始めてから、もともと神山のご出身ではない方がここへ移住してくる傾向もあり、文化人やアーティストの移住がだんだん増えている感じがしました。私がお会いした歯医者さんなどもそうでしたよね。

中原:そうなのです。神山はさっきも言った通り、過疎化、少子化、高齢化の代表的な町ですよ。そこで、神山をそういう寂れた町にしたくない、何か活力を呼び込もう、と考えていろいろな事業を起こしていったのです。そして、2002年作家のうちの一人は、神山をものすごく気に入って、KAIRが終わった後に空き家を見つけて住みつき、作家活動をしています。林田直子さんです。こんな人が現れたり、私たちの活動が新聞やテレビで報道されるので、芸術や文化に興味を持つ人たちがそれなら一度神山へ行ってみようと作品の展示会などを見に来ると、「へぇー神山って面白いことやってるな」ということになり、空き家を借りて、住みつくようになったのです。それが3年前からで、私たちの活動を通じて20名ほどは増えていることになります。

岡部:20人も増えたというのはアートコミュニティとしては強力ですね。林田さんは、神山での活動を通して知り合った方とご結婚されて、徳島県に永住することになりそうですし。

中原:ええ、結婚式も神山で挙げて、皆でお祝いしたんですよ。

岡部:音楽家もいらっしゃいましたね。

中原:ええ、中嶋恵樹さんという音楽家で、タイを拠点にヨーロッパなどにも出かけて活動されていた人です。日本でもギターリストとしても有名です。いつもは美術関係の芸術家に限定して受け入れていたのですが、2002年には音楽家の中嶋さんを特別招待という形で招聘したのです。その時は4人いて、その方も神山をこよなく気に入って住みついています。しかも、神山で結婚して今は子供さんも生まれました。

岡部:奥様は神山出身者ですか。

中原:いや、神山ではなく島根県で、徳島の大学に通っていた人です。中嶋さんのファンだったようです。あとは天野さんという方がいます。先ほど、岡部さんから話がでた歯医者さんで、奥さんも歯医者さんです。

岡部:彼等が神山にひかれたのは、芸術についての興味があるからですね。

中原:彼の場合は、今までとは違った人生を歩もうと考え活動の拠点を探していた時、知り合いだった中嶋さんの神山の家を訪問したのをきっかけに、そこで同居することになったんです。ですから中嶋さんの家には、中島夫婦と子供、それと天野夫婦の5名が住んでいます。それから、音楽家を招聘したり、イベントの企画の仕事をしている楽音楽日の宮城さんがいます。こちらは夫婦と子供2人で、奥さんがもともと神山出身です。広野地区には原みるさんがいます。すごい画家で、ごく最近ですが、原さんは京都にある古田織部の菩提寺の天井画とふすま絵を描くためのアトリエを探していたのですが、ひょんなことから神山が文化的な活動をしており、芸術家などを積極的に受け入れているということを聞き付け、空き家を見つけ、今町内に住んでいるのです。

岡部:どんどん素敵な人が増えてきていますね。それは神山のアーティスト・イン・レジデンスの事業だけではなく、それを支えている皆さんが魅力的だという理由もあると思うんですよ。

中原:そういってくれるとうれしいですね。

岡部:すばらしい自然に恵まれ、皆さんと一緒に活動し生活できるアートコミュニティ的な場所で、ご自分の創造的な、また社会的な活動を展開したいという気持ちでしょう。毎年、国際的な新しいアーティストがやってくるのも大いに刺激になり、楽しいですし。そういう環境が身近にある場所はそうないですから。

中原:1999年の招聘作家であったフランスのオスカー・ロベラスさんなどは、その後も毎年一度は作品制作のため神山を訪れ、1ヶ月ぐらい滞在した後、帰国する生活を続けています。

岡部:そのうちオスカーさんも永住するかもしれませんね。人の気持ちの温かさや環境の良さ、そしてこの町が現在持ちつつある再生の可能性といった3つの要素にひかれていると思うのですが。KAIRを手がけてきてよかったと思われますか。

中原:2ヶ月あまり過ごして帰っていった作家たちは、神山がすごく素晴らしいと感激して帰ってくれるんですね。どうしてそんなに良いのか聞くと、やっぱりサポート体制がすごいっていうんです。よその国でAIR体験されている作家もいるわけですが、神山ぐらい必死でサポートしてくれる町はないっていってくれます。そういうことが母国に帰った後、美術仲間に広がっていき、毎年のように応募数が増える原因かもしれないです。口コミや向こうの美術雑誌みたいなものにちょっとした体験記が出たりして、広がっていく。

岡部:同時に、日本に来たいという気持ちをもつ海外のアーティストたちも増えてきているように思います。中原さん個人としては、今までいろんな作家と付き合ったりサポートなさってきて、現代美術の理解がどのように広がったと思われますか。ご自分にとってもアートに対する考え方は変わってきたのか、他の住民にとってはどうなのかを最後にお聞きしたいです。

中原:私たちがちょっと苦慮している点の一つは、毎年様々な作家がやって来て、中には現代アートといわれる分野の作家もいますね。例えば、映像だけを残して、具体的に壁にかけるような作品を残さない方もいます。その人はCDが残っているわけですが、常にそれを見るわけにもいかないし、映写するとしたら大型のスクリーンもいるわけですし、そういう意味で現代アートはどこまで住民達に浸透していくのか。2004年にはシャーロット・マクゴーワン=グリフィンさんという切り絵作家の方が来たのですが、先生もいろいろ論評を書いていただいた人ですが、あの人は日本的なものを題材にして切り絵をしているので、町民に非常に親しみやすく、作品の素晴らしさが一目瞭然に見えてくるわけです。ところが、ランド・アートの作品には、「えっ!これ何」という反応をする人もいるわけですね。こういったら失礼ですが、特にお年寄りは。そういった意味で、現代アートをどれだけ住民に浸透させていくかという苦労ももちろんあります。私自身も現代アートについてそれほど詳しくはなかったのですが、 いろいろな作家の作品に目を通したり、自分自身もいろいろ美術館をみにいったりして、現代アートの呼びかけと作家がこういうスタンスでものを考えているんだなとかが、だんだん自分の中で理解できて来たように思います。これから我々の役目は、そういった理解できにくい部分をいかに町民の皆さんに分かっていただけるようにサポートするか、口コミで宣伝していくかっていう、だから一部には君たち住民主導といいながら特定の人間だけで活動しているんじゃないかという批判ももちろんあります。それはあえて受けましょうと、しかし受けながら少しでも人数を増やしていく事が大事じゃないかと、さっきも話したようにこの事業のために何人かが神山に移住してきたという事も一つの成果ではないかということですね。

シャーロット・マクゴーワン=グリフィン「You can't take it with you」
シャーロット・マクゴーワン=グリフィン「You can't take it with you」
©photo Aomi Okabe

04 難題だったアーティストの選出

岡部:これからは、KAIR実行委員の大南信也さんと同実行委員で、野外キャンプ場のログハウスを経営されている森昌槻さんにお話を伺います。大南さんはNPOのグリーンバレーの理事長をなさっていますが、それはここでAIRをやろういいだした一人だからでしょうか。

大南信也:始まりは神山で国際文化村をつくろうという県のプランだったのですが、今までのように国や県が主導する事業ではあまり面白みがないという反省に立って、せっかくの機会だから自分たち地域住民が望むような国際文化村を作り上げようという話になりました。それでは具体的に何をやろうかということになり、一つはアメリカで盛んになっていたアドプト・プログラムという道路の清掃プログラムを日本で初めて神山でやってみよう。もう一つは、森さんは以前から芸術家が住み、その創作風景を日常的に見られるような国際芸術家村を作りたいという夢を持ち、神山を軽井沢とか、清里のようなイメージの町にできるのではないかという話を力説していたので、それでは国際文化村を考える中でそれらを実現して行こうというのがそもそものスタートでした。

岡部:森さんも大南さんも皆さん、神山のご出身ですか。

大南:そうそう、ここで生まれ、途中ちょっとよそへ出かけてますが、年齢は多少違うけれど、小さい時からみな知っている仲ですね。

岡部:森さんが野外キャンプ場のログハウス、芸術家村への理想を持ってロッジを始められたのはいつですか。

森:13年前からですね。それまでは肉牛のブリーダーというか、肉牛の生産をしてたんです。途中両方やった時もありましたけど、だんだん肉牛の農家から、ロッジというかキャンプ場へ仕事を移して来たわけです。ロッジを始める前に、神山をグレードの高い町にしたいという思いがあったので、それがロッジ経営につながり、仕事もそちらにシフトしていきました。だから思いの方が先というか、平凡な言葉でいったら村おこし的な考えが先にあり、それじゃ自分は何が出来るかという事になり、今の場所をオートキャンプ場にしたという格好です。

岡部:私も宿泊させていただきましたが、深い自然を感じられるとても静かな場所で、木造なので、暖かい感触のあるすてきなログハウスでした。もともと森さんのご実家が持っていた地所ではないんですか。

森: いや、仕事を始める前に、買い集めていったわけです。

岡部:KAIRの7年間の発展や展開を見られて、考えた通り理想的に進んでいると思いますか。文化庁からの支援がなくなり、NPO としてやっていこうと考えている2005年が大きな転換期になりますね。これからの展望はいろいろあると思いますが、これまでさまざまなアーティストが参加してきて、アーティストによって随分違うとは思いますけれど、こうしたアーティスト・イン・レジデンスを運営する立場として、もっとも難しい点、良い点の2つの面を話していただければ。

大南:難しいのは、とにかく最初は知名度ゼロだったことです。神山でレジデンス事業をやるなんて、まるで取って付けたような話ですから、はたして作家が集まるのかどうか、どうやって集めればいいのかが最大の課題でした。そこで、最初の年は近隣の美術館の学芸員の推薦をもらって、来てもらいました。公募もやりましたが、公募での応募は一人だけでしたから、推薦の人と合わせて合計4名の応募でした。学芸員のお世話で呼ぶわけですから、学芸員の顔もあり、公募でやってきた人は当然選ばれないわけです。

森:だけど、そうなってくると、本当に自分らがやりたい事と学芸員のやりたい事のズレやギャップがでてきますよね。全然思いが違うわけですから。

大南:特に、推薦で来た人は実行委員よりも、学芸員ばかりを意識しながら行動するわけですよ。

岡部:もともと同じアートピープルですから、理解してもらいやすいためもあると思いますね。

大南:それもあるでしょうが、貸し借りという考え方です。つまり、ここで恩を売っておけば自分の作品を買ってもらえるかもしれないとかね。だから今回は無理して神山のレジデンスに参加したのだというような。そういう思惑が言葉の端々に透けて見えるんですよね。外国人の場合はそんな感じはなかったけれども、日本人には。

岡部:だれか一人でもそういう意識の人がいたら、他の参加者も影響されるでしょうし、コミュニケーションもしにくいし、現場で一緒に仕事している皆さんは、つらかったでしょうね。

大南:つらかったよね。

森:翌年になると、全てを学芸員が自分の思い通りに動かし始めようとするわけです。まず学芸員が日本人作家を選び、次に、その作家と相談して外国人作家までを決めてしまうという感じです。

大南:これこれこれの組み合わせでなければ駄目。3点セットでなければ駄目だと言うのです。実行委員会の意向としては、公募に応募してくれる作家もいるのだから日本人作家の推薦はいいとしても、外国人については応募者の中から採用したいという気持ちでした。自分たちにも理想がありましたので。あの時が一番難しかったですね。一番つらかったのは、最初の年の初日、私の家で歓迎会を催したのですが、その席上、日本人作家が「自分は本来このような貧乏レジデンスに来るような作家ではない。木彫を一つ完成させれば500万とか1000万という金額で美術館が購入してくれるのだ。それなのに、月に10万円ばかりの滞在費でここにやってきているのだ」と言ったんで、がくっときました。

岡部:そうした席でそれは言い過ぎですね。状況を分かって来ているはずでしょうに。

森:こちらの趣旨からは全く外れています。

大南:2年目から、その辺の事情を県庁の担当者とも相談し、反抗を試みたわけです。選考委員会の席上で、学芸員の推薦者三名の内、セットとされていた二名の外国人を拒絶し、日本人はOKだが外国人については公募の中から選びたいと。それ以降、面目がなくなって、学芸員は去っていきました。 実行委員会は芸術家の人たちと純粋な気持ちで接したいと考えているのに、公募しておきながら、すでに招聘作家が決まっているなんてことは許せないことです。第一、応募者の気持ちを踏みにじることにもなります。

岡部:2回目から、皆さんがやりたいように公平な公募方式ができるようになったのですね。

大南:その時点で主導権は取り戻したのですが、今度困ったのは日本人の作家を見つける手立てを失ったことです。そこで、武蔵野美術大学に泣きついたんです。

森:そこで芸術文化学科の新見先生が武蔵美出身のアーティスト、林田直子さんを紹介していただいたことが、結果的によかったんですね。

大南:2000年から始まった神山アートという廃校プロジェクトで同じ学科の今井良朗先生と面識が出来ていましたので、「レジデンスの件で困っていることがある」という相談を持ちかけたのです。プロの審査員が必要で、日本人作家探しにも苦労をしていると。そして、芸文の教授である新見隆先生のご協力はいただけないだろうかと。すると「新見君は神山にピッタリだ」というお話で、その場に居た梶義明先生も太鼓判を押してくれました。

岡部:それで三回目から審査に新見先生が関わり始め、林田さんも同時に、新見先生の紹介で来て、新見先生が仲人みたいな感じですね。林田さんはご結婚までなさったのだから(笑)。

大南:その通りですね、この出会いが無かった何も起こらなかったかも。その次の日本人は、その年の「朝日現代クラフト」展でグランプリを取った録澤さんの新聞記事を見つけ、直接電話で口説きました。

森:3回目は林田さん。その次が三村昌道さん、それから吉澤和芳さんですね。

岡部:2回目から皆さん自立してやり始めたけれど、最初は慣れてないから大変だったでしょう。

森:まず実行委員会の内部で、いいレジデンスには学芸員が欠かせないという考え方の委員と、それはそうだが自分たちの趣旨を大事にしていきたいという委員に分かれたというか。今でもその影響は少し残っています。2年目の学芸員の推薦した作家を拒絶したということで、その時は苦渋の選択でしたが、これから先どうなるか分からないけど自分達の方法で行こうということになりました。内部分裂を起こすかもしれないと危惧しながら大きな決断をしたわけですが、ムサビとの関係が深くなったうえ、レジデンスが自分達のものになって来たというのはありますね。

岡部:皆さんが現場でいろいろ学びながら、実際にいろんな苦労をしながら自分達が変わってきたという思いはないですか。考え方や作家の選び方も。

大南:変わってきています。最初とは全然違ってきていますね。

岡部:自分自身が変化して発展してきたことを実感できるなら、それは大きな喜びでしょう。

大南:それが一番の喜びですね。私の場合で言えば、例えばこの時期東京へ行くとすれば、今までなら銀座の辺りをごろごろして帰って来るというパターンでしたが、今なら上野行ってみようとか、日展も見ておこうなどという具合にですよね。今まで特にアートに興味があったわけでもないので、美術館などに行くことはほとんどありませんでしたが、足を運びますものね。さらに、音楽も聞いてみようかと、自分自身に広がりができてきたというか、全然違ったものになってきました。

岡部:日展ですか。ぜひ横浜トリエンナーレを見てください。福岡も近いから、福岡アジア美術館で開催しているアジアトリエンナーレも、行ってこられたらいいと思いますよ。日展に出品している人たちの傾向と、現代アートの方向性はかなり異なりますから。    

大南:ぶらりと、どんな作品が展示されているかなという感じです。そのアートの方向性がどうのこうのっていうのじゃなくて、単なる興味でちょっと覗いてみようなかと。ですから、今なら森美術館の杉本博司さんの個展を見るという具合です。

岡部:大南さんはアメリカに留学なさっていたのですよね。アメリカへ行って帰ってきた人は、最初、興味がなくてもいい美術館やいい作品に出会う機会が多いので、帰国してからも、美術館によく行くようになったという人もいますね。

大南:アメリカに行っていましたが、アートをみる機会はあまりなかったですね。もうちょっとキラキラしたものが(笑)。

森:アート的なものについて多少興味はありました。特に何にでも興味を持つ方ですから、すぐ何でも知りたい方っていうかね。けれども音楽などは全然世界が分かっていませんでした。どのように歌ができてくるものなのかもわかっていませんでしたが、2001年のレジデンスで音楽家の中嶋さんがやって来て、音楽の世界も美術芸術の世界も、物を造る世界だなという感じが少しずつ分かってきたというところです。何と言うか、浅いが幅広くなったという感じです。以前なら牛に関する事は誰にも負けないと自負していましたが、それ以外の事はあまり知らなかった。いろんな幅が広がってくるし、レジデンスが有名になるにしたがい、作家やものづくりの人だけでなく、いろんな人が入って来るようになっています。

05 新たなステップー学芸員がほしい

岡部:だんだん芸術家村っぽくなってきて、ある意味では理想がだんだん現実になってきつつあるともいえますね。これから続けていかれる中で、レジデンスに関して、最初とは異なる別の理想が出てきたということはあるんですか。訪問者が見やすいように、一応、野外展示を行っている山の木を伐採したりしていますが、あの山に設置した作品を増やして、「アートマウンテン」にしたいという希望があるわけですね。

森:レジデンスに関して言えば、やはり作品の展示場所ですね。まず一番に、何時でも、誰が来ても見学ができる場所があればいいですね。予約がなくても、やって来た人がふらっと立ち寄れる場所です。そんな場所にならないと本物になっていかないという気がします。

大南:現在の休校校舎の美術館というものは、結構人をひきつける力がありますね。現在、二階部分が書類の保管庫になっているので、それを他の場所に移転してもらうような作戦を考えないとね。

森:遊休施設の有効活用という意味では魅力がありますね。

岡部:パリ在住のア−ティスト北原愛さんの作品『Moving Territory』は、常設で展示するのは無理かもしれないですが、置く場所によったら、スペースに映えるとてもいい作品ですよ。

森:彼女の作品は上分地区という奥まった場所にあるので、死んでしまっているというか。北原さんの作品も実行委員がお手伝いをして作られたものだから皆の思い入れがあるだけに、あの場所に置いておくというのもね。

岡部:もったいないですよ、すごくいい作品だから。あのだだっ広い体育館のスペースで、ローラーがついた神山の地図型のスケートボードのような大きな作品で、ビューと飛んでいくようなイメージがあります。人が乗れて、動くけれど、あまり滑りはよくないらしいですが…。あの巨大なスペースのためにつくられているので、あそこに置くのが一番かっこいいですけど。設置されているときのいい写真を撮影できるといいですね。北原さんは資生堂ギャラリーで、個展をなさる予定です。だいぶ前に佐賀町エキジビットスペースで展示したことがありますが、彼女の作品を日本ではあまり見られる機会がないですから、もしかしたら神山で制作した作品をお借りする可能性もあるかもしれないですね。神山に参加した作家が、ここで制作した作品を、他の展覧会に出品できるようになれば、KAIRのこともさらに知られるようになって広がっていきますね。マルタ島在住のノベルト・フランシス・アタードさんも2006年に、越後妻有アートトリエンナーレに参加する予定です。神山の話も出ることでしょう。

大南:その他の希望としては、そろそろ学芸員が一人ほしいね。大学を出たばかりの人でもいいと思うんですよね。大学で学んだ美術の知識を神山でまず活かしてみるというような感じで。NPOだから給料はあまり出せないけれども、学芸員と他の仕事を兼ねてやってもらうような形でね。

森:事務局的な感覚を持ってということですよね。

岡部:レジデンスに興味があり、自分自身の研究も含めて、みなさんと何かをやっていきたい人がいれば一番いいですよね。

大南:そうですね。働きながら勉強になっていくような。ところで、夏のインターンシップで、ムサビの就職課の加藤徹さんから、今年は希望者が多いので、受け入れ人数を増やしてほしいとの依頼があり、例年の倍の4名を受け入れました。視察に加藤さんが来られたとき、来年直ちにとは行かないまでも、二年後には学芸員的な人材が必要になってくるので、ムサビからそんな人を送ってくれればありがたいのですが、という話をしてあります。例えば、3年間ここで働いてもらって、次へのステップにしてもらってもいいんですよね。今日のアートツアーの企画なども、先頭に立って全体のプランから細部にわたるものまでコーディネートしてくれれば、こちらとしても他の事に時間を割くことが可能になるから。説明もビシッとできる方が望ましいね。

岡部:そういう人がいれば、話にでた北原さんの作品を見に連れていってもらうこともすぐにできますし。今後、作品が見たいといってせっかく訪問してくる人たちへの対応をできるようにしていかないと次のステップに繋がらないですよね。

森:「今、神山に来ているのですがこれから作品を見せてもらえますか」という電話がよく掛ってくるんですよ。でも平日は実行委員も忙しくて対応できないですから。

大南:20人とか30人とか人数がまとまれば、それじゃぁ参りますと、なるのですが、なかなか一人一人に対応するとなるとね。結果的に、その人が今後の展開の鍵を握る人である可能性もあるし。大勢で来る場合よりも、むしろその一人を逃すことが痛かったりしてね。

岡部:そうそう、キーパーソンが来たら、なんとか対応する必要がありますよ。そこから広がっていく可能性が大いにあるので。

大南:その結果、ネットワークが広がっていくんですよね。現状で言えば、今年はコーネリア・コンラッズが来ていますが、彼女がオーストラリアで会った作家が応募して来ているとか、そんなケースが目立ってきました。

北原愛 「Moving Territory」
北原愛「Moving Territory」
©photo Aomi Okabe

北原愛 「Stronghold-Kaminakaya」
北原愛「Stronghold-Kaminakaya」
©photo Aomi Okabe

06 日本やアジアからの参加者の困難

岡部:皆さんは今までいろんな国からのいろんなタイプのアーティストをサポートしてきているのだけど、出身国がやや偏っていませんか。イギリスが多い気がしますけど。

大南:最近は結果的にイギリスが多いような気もします。

森:まずは作品ですから。

大南:面白そうとか、神山でうまくいくかなとか。材料的なものもあるし。あまりスケールの大きな構想であれば神山では対応できない場合もあるし。

岡部:コンピュータを使って一人でできればいいけれど、ラボや技術者がいないので、マルチメディア系は無理だとかもありますね。べつに出身国を意識して選んでいないわけですが、例えばアジアからの人はいないですね。

大南:いませんでした。韓国生まれのアメリカ人は一人いましたが。アジアから応募は少しはありますが。

岡部:少し増えてきても、欧米など他の地域からの応募に比べると少ないわけですね。

大南:神山で2ヶ月間滞在し作品を作ったとしても、その作品は全てここに置いて帰るわけですから、ここでの滞在経験もキャリアの一つとして価値付けできる人はいいですが、2ヶ月間収入の道が断たれると考える人には難しいと思います。

岡部:日本の作家がなかなか参加できない大きな理由も、そうした経済的な面で、仕事やバイトを2ヶ月も休めないからで、そこが難しいところですね。海外の人だとそのへんは意外に大丈夫ですけど、今回参加している英国のシャーロット・ブリスランドさんやコンラッズさんは、ご自分で国の奨学金などを貰ってきているのかしら。

大南:貰ってきていないと思います。

岡部:では滞在する条件は、かなり厳しいのではないですか。帰国してからも。

大南:厳しいと思いますね。過去の招聘作家で再訪問したいという場合は、助成金を申請しているので受けられたら必ず来たいということが多いですね。その場合、こちらは無料でアトリエを提供し、多少のサポートをするだけですが。こうしたパーシャル作家の参加も公募しています。今年は私が多忙だった所為もあり、公募の期間が7月2日から7日までの5日間でした。過去に応募したことがある作家に、8月から9月にかけてパーシャル作家を募集するから応募してくださいとメールを送ると、たちまち二十数名が応募してきて、その中から日程的にも可能な3名を選びました。とにかく百数十もの応募があって、選ばれるのは3人ですから、フルサポートに選ばれるのは厳しいです。選考から外れた人で、金銭的なサポートが無くてもやって来たいですかと聞くわけです。その代わりに自分の都合のいい時期を選ぶことができますし、作った作品は持ち帰っても結構ですから。

岡部:パーシャルで来ている人たちの対応は気が楽でしょうね。制作援助や滞在のお世話をすべてしなくてもいいし、こういう事をやりたいと相談されれば多少動くだけで。

大南:そいそう、こんな道具が必要な時には手配の手伝いをするとか。

森:自分でやるつもりで来るので、そんなに当てにしてないから対応も楽です。

07 アートの情報源の構築と日本アートガイド

大南:先ほど話したように、学芸員的な係りが一人いれば、年中でもこのパーシャルサポートは可能だと思います。何月何日から何日まで空きができたので応募して下さいというような感じでね。結構うまくいくと思います。例えば、次年度応募したいというアメリカ人から連絡があり、いま日本に滞在しているから神山を訪問したいという話がありました。それなら神山で一日滞在して次の日は直島へ行ってはどうでしょうとこちらが提案すると、友人の建築家から直島は勧められていたのですが、どのように行けばいいのか分からなかったのですと。つまり、外国人を対象としたアートツアーのお手伝いをするというような有料サービスも結構需要があるように思います。日本のアートを満喫できるようなプランづくりのアドバイスとサポートをするというような。アーティストに特化した旅行社のようなイメージですね。

森:日本でのアートの情報源のようなものが神山に出来ると、神山からどこかの美術館にコンタクトもできますし。

大南:情報産業的な分野で何かの仕組みが出来れば、神山でアドバイスを受ければ、旅行書では到底見つけることが出来ないようなアートスポットに行くことができるという事になれば、それ自体が価値を持ち、こちらが主導権を握り、極端に言えばアーティストの日本での動きさえコントロールできる可能性もあります。これは面白いものを見たい、興味深い場所を訪問したいという彼等の利益にも合致します。

岡部:アート情報の拠点みたいなところがまだないので、東京に来たアーティストや美術関係者には、個人的には教えてあげたりはしてますけれど。公的機関では国際交流基金がヴェネツィア・ビエンナーレ、インド・トリエンナーレ、バングラデッシュ・ビエンナーレなどの参加のために運営をしていますから、サンパウロ・ビエンナーレなどが開催される予定の時期に、ブラジルからコミッショナーで作家を選ぶ人が交流基金に来たりするわけです。交流基金では、外部の美術関係者からなる国際展の運営委員とそうした海外から来た人を会わせたり、参加作家の推薦の支援をしたりする機会があるわけですね。でも一般に、だれでもが日本のアーティストのファイルを見られたり、重要なアートの現場や美術館などの情報をまとめて得られる場所はまだないですね。

大南:ですから、もし相談を受けた時、そのプランには必ず神山訪問を組み込んでおくなんてことも可能です。それでは四国へ行きなさい、まず神山に行って、イサムノグチを、それから直島へ向かって・・・・。こちらで主導権を持ってプランニングをやっていく。こんなことが将来は必要になってくると思う。

岡部:英語でホームページを作るのも手だと思いますね。今せっかく日本に来ているアーティストだったら、例えば福岡のアジアトリエンナーレに行かないとだめだと思うんですよ。それから横浜トリエンナーレもやっていたら絶対に行くでしょう。お金がなければ、そう簡単には日本中を飛んで歩けないとは思いますが(笑)。日本にいる期間に重要な現代アートの展覧会をやってるのを、みすみすミスしたらかわいそうですね。日本まではなかなか見に来れないませんから。

森:日本で中心的にアートの発信基地になったらすごいなぁ。これからはそういう部分に開けていくし、商売にもなっていく。

08 芸術と生きがい 

岡部:森さんは最初から絵を描くのが好きだったんですか。むしろ刺激を受けて描くようになったのでしょうか。大南さんは?

森:もの作りは好きですよ、何でも、粘土捏ねるのも、大工さんでも、とにかくものを創造することが、家でも何でも作るんは好きですから。ロッジとかも自分で設計しデザインも自分でするんだけど。絵を始めたのは去年ぐらいからで、先生もいなかったので、林田さんの油絵のワークショップに参加して、白と黒だけで久しぶりに描きました。中学校卒業以来初めてでした。家を建てたりしていたので、スケッチはすることがありましたが。

大南:私は図工の成績がいつも3ばかりでした。小学校2年の時、写生大会での絵が教室の後ろに展示されていましたが、丁度、私の抽象画が話題になっていたようです。私はどちらかと言えば、マネージメントに興味があります。組織はどのように作ればうまくいくとか、どのように動かせば機能するとか、そちらにより興味がある。人間がどういうふうに動くかとかね。

岡部:大南さんはKAIR、そしてNPOグリーンバレーの構想や運営をなさるのが、ぴったりあっているわけですね。みなさんそれぞれの抱負と才能を生かせて、良かったという感じですね。

大南:結局、KAIRはそれぞれが持つ資源を持ち寄ったような感じですね。それぞれが得意技を持っており、それらを寄せ集めているということでしょう。

岡部:アタードさんが野外でコンクリートを使って『ダブル・スパイラル』という作品をつくった時に、建設会社をもっている大南さんのスタッフが1週間張り付いていたとききました。ご自分が社長だから、スタッフをKAIRに使っても問題ないのですか。

大南:問題はないと思いました。「また社長が変わったことを始めたな」と従業員は考えたでしょうが。

岡部:社長の道楽みたいに感じて、不満はないんでしょうか。でも、スタッフにとっても勉強になるかもしれません。

大南:多少は不満あるのでしょうが、こんなチャンスは他ではめぐり合えないし。

森:普段よりも精密にせなあかんでね。ちょっと自信もできとるね、あれは自分たちが完成させたというような。

岡部:かなりプラスになっている感じでしょうか。

大南:自分のプライドというか、かけがえないというか。

岡部:積極的にかかわっている委員の人やその関係者へのよい影響はわかるのですが、もっと一般の人達、ここの町民はどうなんでしょう。

大南:さあ、どうでしょうか、だんだんと、という具合じゃないでしょうか。少し時間はかかると思いますが。

岡部:今回は内山睦さんが来て、旗を作るというすばらしい住民参加型コミュニティ・ワークショップをなさって、驚くべき数のアイデアや構想あふれる旗で、いっぱいになりましたね。あれができたからには、一般の方々も分かってきたように思うのですが。理解者がなかなか増えていかない理由は、どこにあると思われますか。

大南:何でも近くに見るほど気付きにくいということでしょう。自分たちでその価値に気付かないというところはありますね。自分たちが考えている以上に外野からの評価が高いから、どうしてだろうということになり、初めて気付き、動き出すという感じだろうと思います。もともと、心からアートを愛好する人たちの数はそれほど多くないですよね。その少ないパーセンテージの人たちが120%の満足感を持って帰っていく。これが大事なところだと思います。500人の人が来て、70%の満足感を持つよりは、余程上をいっていると思う。密度が違いますよね。参加者の層が全然違ってきています。目をきらきらさせながら歩いている人が圧倒的です。小学校美術館の見学を済ませた人たちのうち何人かは再び舞い戻り、旗作りをしていました。このような人間を掘り起こすことができたというのは大きいですね。これからの宝です。その広がっていっている層がKAIRのターゲットととしているところです。

岡部:だんだんいい方向に動き始めているというところですね。

森:そういう人は我等が知らない部分を持ってきてくれる。また、来訪者はある程度の知識を持った専門の人が多いので、町の人にとってもいい刺激になるしね。

大南:古い話ですが、神山では春日八郎のような人を呼んできた方が人は沢山集まってきます。本当に(笑)。集まるのだけども、後に何を残していくかを考えたらね。同じ150、200万の投資でも、テレビで観るのと同じだ、いや違っているという程度の印象で、2、3日もすれば忘れ去ってしまう。一度体験したら忘れられないような人たちに集まってもらう方が面白いですよね。結果的に2005年のセレクションは非常にうまくいったという事ですよね。

岡部:私もそう思います。今まで参加した中でもっとも若手のアーティスト、シャーロット・ブリスランドさんは英国の最も先端的な絵画の流れの中にいるので、その点を強調して私は押したと思います。というのは日本でまだあまり紹介されてない流れだからです。非常に先端的で一般の人にはやや理解しにくい傾向の作品を作る人がいる一方、もう1人のコンラッズさんは、環境アートが出来て、体感できるので、ランドアートでも比較的親しみやすい。あとコミュニケーションがとれる日本人の内山さんが自作の制作だけではなく、ワークショップをしてくれましたから、3人とも活動が違うので、多角的なアートの楽しみ方を与えてくれたと思いますね。今回たまたま女性が3人でしたが、男女どちらでもいいしどこの国でもいいんだけど、先端的、環境アート、ワークショップといった3つのジャンルがバランスよくあると、これからも良いいように思います。先端的なアーティストだけのレジデンスや、工芸だけの分野のレジデンスなどはよくあるけれど、三つの方向をバランスをとってできるレジデンスは他にあまりないかもしれないです。

大南:パーシャルの作家から聞いた話ですが、なぜ神山のレジデンスは魅力があるのかという問いに対する答えは、何でも受け入れてくれる所というものでした。場所によれば、写真は駄目だとかいうようにジャンルを限定するところが多いとのことでした。

岡部:でも基本的にいいアーティストを選ぶことが大事ですね。

大南:僕らの満足感も違うし。

岡部:皆さんも資金だけではなく、大いなる労力とか愛など、それだけのものを投資して大変ですよね。もちろんたまにはお付き合いするのが、大変なアーティストもいるでしょうが、いい作品を作ってもらえる現場にいられる満足感は何にも増してあるのではないかと思います。だからかなりシビアに作家を選んでいく必要があると思います。

大南:多分他のレジデンスに比べて総予算は少ないけども、マンパワーを考慮に入れれば、ど偉い予算になっているはずです。もしかして、他のレジデンスを上回っているかもしれません。それ程に、それぞれの委員が皆日々どうすれば良くなるかを真剣に考えていますから。この辺の直向さが作家にも通じて、両者のコラボレーションで作品ができていっていると思います。

ノベルト・フランシス・アタード 「Golden Sudachi」
ノベルト・フランシス・アタード 「Golden Sudachi」
©photo Aomi Okabe

(テープ起こし:門倉緑)


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