Cultre Power
studio & residence 国際芸術センター青森/Aomori Contemporary Art Center (ACAC)
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
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インタヴュー

浜田剛爾氏(館長)×岡部あおみ

日時:2003年1月11日
場所:国際芸術センター青森

01 現代アートのオルタナティヴ性とパフォーマンス

岡部あおみ:浜田さんは館長であると同時にアーティストでもあり、パフォーマンスをずっとなさっていましたね。その体験をまず伺って、どうしてここのディレクターになられたのか、プロセスをお聞きできればと思います。

浜田剛爾氏:はい。この手の仕事は、アートといってもどこかオルタナティヴなところがあるでしょ。だから場所性が大切で、どこでパフォーマンス・アートをやるの、みたいな感じがいつもありました。それで僕はヨーロッパで仕事をしていたものですから、そこでは、まあアーティストが自分たちのスペースを確保したり、それこそ有名なスクワッターズというかドイツであの空き部屋占領とかやってましたね。

岡部:そうですね。最初はアーティストの自発的な行為ではじまり、ついに行政が説得されて、アーティスト・イン・レジデンスにつながっていくケースもありますね。

浜田:そうですね。やっぱり時代的にいうと美術館の役割が変わってきた。アーティスト自身の役割も変化して、つまり共同作業に入ってきたんではないでしょうか。それは面白い現象です。だからオルタナティヴな仕事というのは、時代を抜きには語れないところがある。映像にしてもダンスにしてもそうだし、特にコンテンポラリーダンスなんかオルタナティヴですね。それから、パフォーマンスをコンピューターの概念でやろうという人々もたくさん出てきたんだけれども、そうしたことで、美術館では時代に間に合わなくなってきて、アーティストも知恵を出し、又可能性を求めて動き出したという感じです。つまり、アーティストが自分達で考え出して空間をつくり、ビルもつくって、とまあ自分の話だから楽なんですけどね。だから、そういう時代的雰囲気の中でやってきて、しばらくして日本に帰ってきて再びこうした運動をゴチャゴチャやってました。

岡部:海外での活動は最初はどこを拠点になさっていらしたのですか?

浜田:ドイツです。その頃が私のパフォーマンス・アートの最初の頃で、1970年から、2年間 くらいですか。その後はいったん日本に帰ってきて、パフォーマンスを本格的に表現としてやろうということで、日本でもパフォーマンス・アートがあるんだと思いこんでいました。しかし実は何もなかった。で、とにかくやらねばという感じで、そのためいろんな日本の美術館をその後訪ねたんです。そしたらどこの美術館も、どこの学芸員もそうなんだけど、パフォーマンスって何、みたいな感じでしたね。全然誰も実態を知らず情報も持っていなかったんですね。

岡部:70年代初頭だったら、美術評論家のなかでも興味があったのは、ローズリー・ゴールドバーグ著の『パフォーマンスー未来派から現代まで』(リブロポート)を訳されて1982年に出版なさった中原祐介さんぐらいかもしれませんね。

浜田:そうですね。それには一つ経緯があったと思います。つまりニューヨーク大学でフォーミング・アートを研究していたローズリー・ゴールドバーグがたまたま著書を送ってくれて、72、3年ぐらいに僕はその本を入手しました。こんな本が出てたんだ、こういう見方もあるのだ、面白いなあと思ってましたが、パフォーマンスをやる方にとってみれば、当時は歴史性にはあんまり関係はなかったんですね。ダダはダダだし、シュールはシュールだし、みたいな。ほっとけみたいな感じだった。ところが、ローズリー・ゴールドバーグの考えは一つのフォーカスを決めて歴史の中から見てみるとこう見えますよというもので、なるほどという感じでした。それで、ある時僕が、日本でパフォーマンスのプロデュースをしていた時、トークをやることになり、いろいろ人をかき集めて、それで、京都や愛知など、全国5、6ヶ所グルグル回ったんです。舞踏の田中泯さんとかといっしょでした。その時、中原祐介さんもいっしょで、京都の旅館に行った時に、たまたまその本を持って行った。そうしたら、中原さんが「お前何読んでるんだ?」って聞かれて「これだよ」って貸したんです。というか、もう1冊あったから彼にあげたんです。そしたら、しばらくして、あの本の翻訳が出版になったと記憶しています。さすがは中原さん、大変良い翻訳でした。

岡部:そうなんですか。私はすぐに購入しましたが、今でもあれだけ歴史的な事象がまとまった本はないので、学生にも紹介してます。

浜田:穴はいっぱいあるんだけれども、一応とりあえずまとまってますよね。フォーカスがしっかりしてるので。

浜田正爾 photo Aomi Okabe

02 ニパフの誕生(NIPAF:日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル)

岡部:70年から80年代にかけて、あちらこちらで浜田さんは授業のような参加型イベントも開催なさってましたね。

浜田:いろんな授業をやってました。どこでも、馬鹿にされてね。何変なことやってるの、みたいな感じでしたが。

岡部:ニパフができたのはいつ頃ですか?

浜田:第一回ニパフは1993年ですね。霜田誠二君が中心的にやっていて、スタートしたのではないかな。霜田君はパフォーマンスというよりも、その頃は詩を朗読したり、売ってたこともありました。

岡部:詩人なんですか?

浜田:詩人の塊ではないですかね。それで、わりあい音楽にも造詣が深いアーティストです。たびたび音楽と詩の朗読会とかをやっていて、いろんな施設を訪問してたりしてました。で、何の拍子でそうなったのか分からないんだけれども、ある時、僕も時々彼と会うようになり、同時に呼ばれたりすることもあって、霜田君と知り合うようになりました。彼が今のような表現になったのは1980年の終わりくらいではないかと思います。それからは独自のパフォーマンス活動をしはじめて、ニパフを組織したのは、さらにその後ですね。

岡部:定期的にパフォーマンスのフェスティバルが日本で開始したのは、ニパフ以後ですか?

浜田:いやそれは違います。そもそも最初に僕がプロデュースをしたのは、1976年から1981年くらいまでで、83年頃にはヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバルが及川廣信さんあたりを中心に始まりました。

岡部:だんだんゲリラ的に、あちらこちらで神出鬼没に行われるようになったんですよね。

浜田:結構いろんな人を巻き込んで、やっていましたね。でもその頃は、社会的認知がゼロだったので、少々疲れて、もうプロデュースはいい加減にせえという感じでした。プロデュースを一生懸命やったんだけども、資金も無くなくなるし、スポンサーもつかない。そこでソロでもう1回自分の仕事をするようになりました。

岡部:そのほうが、多少でもお金になりましたか。

浜田:ならないですね。自分の全部持ち出しみたいな形ですよね。ただ1983年くらいになって、にわかに今度はマスコミあたりで、パフォーマンスという言葉が全然違う意味で使われ始めます。有名なのはね、1983年だったか、当時の社会党、今現在の社民党で、土井たか子がちょうど委員長になったあたりです。その年の社会党のスローガンが「愛と知のパフォーマンス」って言うんですよ。おい何これは、みたいな。衝撃を受けましたね。

岡部:(笑)コストパフォーマンスの意味でしょうか。愛と知がちょうどうまくからみあって構想的なイメージもあるけど。

浜田:そうですかね。あの人達が使ったパフォーマンスという言葉は演技的なという意味ではなかったでしょうか。でも情緒的で、その軽さの印象は社会党ももう駄目だなという気がしました。その他、漫画、小説、エッセイもだけど、いろんなジャーナリストがパフォーマンスという言葉を使い始めた。その内その言葉が皮肉にも政治の方で、権力者の演技みたいな意味として使われ始めたわけです。その頃僕はそれらにいちいち反論してたんだけれども、あまりに流行していい加減反論するのもくたびれましたね。 1983年から84年にかけてはヒノエマタという所で、友人でダンスをやってた及川廣信さんとかがいて、その人達が山奥でパフォーマンスをやろうみたいな話があったんです。これも流行みたいなもので、ダンスをパフォーマンスという形に切り替えようみたいな話。ですからそこでは論争があって、それこそ昔武蔵野美術大学にいて今は東京経済大学で教鞭をとっている粉川哲夫さん、早稲田にいる鴻英了さん、演劇の西堂行人さんなどが集まって、夜中にディスカッションしてました。それは邪道だとか、おかしいとか。ダンスはダンスで音楽は音楽なのに、何でパフォーマンスというんだみたいな。それで、ともかくパフォーマンスはパフォーマンスだと。他の何ものでもないと僕は言ってたんです。そのヒノエマタが83年から86年位までフェスティバルとして続くんです。その後は、やがて全国にそれこそゲリラ的にさまざまなパフォーマンスと名乗るフェスティバルとかイベントが開かれていくようになります。

ギャラリー棟 photo Aomi Okabe

03 ショートショートパフォーマンスの登場

岡部:アートキャンプ白州[ダンス白州]とのかかわりはいかがですか?

浜田:白州はそのだいぶ後で、白州には僕は行ってないですね。舞踊家の田中泯さんたちがアート・プロデューサーの木幡和枝さん(現在、東京芸術大学先端芸術表現科教授/白州の現実行委員)などと作った仕事です。まあエールはいつも送るんだけど、活動は別々でした。そのあたりが基本的というか日本の大きな流れで、それからニパフで霜田君がやがて海外へ出かけて行ったりして、いろいろ活動しはじめました。彼が世界の旅から帰ってきて地元の長野で、若いアーティストが集まり、ショートパフォーマンスをやり始めたんですね。どちらかと言うとそれまで大掛かりだったり、物凄くシリアスだったり、長時間だったり、というものとは異なり、エッセイのようにです。その頃から彼はアジアに目をつけていて、例えば髪の毛を男女が結んで一年間そのままみたいな、そうしたアジアのパフォーマンスにも注目していました。手に鎖をつけて動かないとか。ラディカルなスタイルのアーティストがいたでしょ。

岡部:髪の毛って、今はもう別れてしまいましたが、カップルだった頃に、マリーナ・アブラモヴィッチとウーライもやってませんでしたか?

浜田:アブラモビッチもですかね。髪の毛は韓国のアーティストも人もやってます。そのあたりからパフォーマンスが意外とショートショートになったのかな。ドイツのブラック・マーケットもありました。とにかくある空間で、テキスト的なパフォーマンスとして、例えば一人、10分とか20分やりましょうと、ドイツの辺りで動いていた人々が集団でやりはじめました。それからもう一つは、カナダのケベックにリ・リュウというのがあって、そこでは盛んにショートショートをやっていた。僕もそこではよく交流してたんです。その影響が霜田君に受けつがれて、それでショートショートのパフォーマンスがはじめられたと思います。 3日間に30演目やりますみたいなのを。

岡部:かつては、一人で長時間、一日中やったりするパフォーマンスが、短くなった。(笑)

浜田:僕は3日間もやったことありますよ。(笑) だから、僕なんかの考え方ではショートショートは信じられなかったですね。

岡部:生き方と一緒という考え方だと、パフォーマンスという行為のリズムが大事だから、20分や10分のレジュメみたいのはできないという感じにはなるでしょうけど。

浜田:僕にはちょっと出来ないね。でも若い人や、新しい人は、そういうシチュエーションもあります。世界にも、様々なシチュエーションがあるということでしょうか。

工房棟  photo Aomi Okabe

04 現代アートもパフォーマンスもレジデンスが必要

浜田:僕の様なタイプだと、パフォーマンスの活動をする時、レジデンス(滞在型)の仕事はピッタリくる。1週間とか10日そこに滞在してインスタレーションを作っていく、あるいはドローイングをやっていく。その中から創造性を考えていく。あるいは作品を作っていく。それと、表現としての空間が存在していく。レジデンスは非常に僕にとって動きやすかったわけです。夜中の3時、4時までやってもかまわない。制度的に美術館だと、やっぱり見合いが悪いんですね。

岡部:美術館だと、働いている人も30人、40人いたりして、保全上も夜中まであけるのは難しいですから。

浜田:そうですね。まあ、でも美術館とかでももちろんやるんだけれど、レジデンスは凄く居心地がいい。表現に対してほっといてくれるし。

岡部:今までいくつもの外国のレジデンスに滞在なさった経験があるのですよね。

浜田:はい、かなり行ってました。オーストラリアはほとんど全部行ったし、カナダも全国どこへでも行きました。

岡部:アルバルタ州にあるバンフのクリエイティヴ・レジデンシーにも参加なさいましたか?

浜田:バンフは行ってません。でも、カナダでは半年間で、1週間ごとにあちこちのレジデンスを動いていました。

岡部:ご自分でレジデンスにアプライするとみんなが引き受けてくれるのですか?

浜田:僕がアプライするというかギャラリーの人が全部アプライしてくれてます。

岡部:そうすると、1年や2年はレジデンス生活で生きていかれますか?

浜田:うーん。生きられるかな。ギャラも一箇所で出すとしんどいみたいで。やっぱり10箇所や15箇所ぐらいでまとめると出せるんですよ。(笑) 充分ではないですがね。

岡部:どこのレジデンスが良かったですか?

浜田:感想から言うとオーストラリアとかカナダはいいですね。だけど、いろいろなタイプがあるからどこって一概に言えないけど、まあ民間のビルとか、個人の家とかファクトリーというのを改造した所とかはいい。ドイツのベタニアンみたいな、大きな演劇の為のレジデンスに、ダンサーだとか演劇家が長期で入ってて、今はヴィジュアル・アートの人も長期で参加していて、それは面白い。だから、もともとレジデンスというのはある種そういう混沌とした傾向がありますね。又レジデンスの必要性はダンスにしても演劇にしても、トレーニングしなきゃならないから、長期の滞在を求めています。それでレジデンスという場の表現形式が生まれたのではないでしょうか。パフォーマンスはインスタレーションと一緒になってやる。インスタレーションはその空間と地元の材料と、地元の人たちと一緒にコラボレーションしながら作っていく。だから、どうしても、レジデンスのようなシステムを作らないと駄目なんですね。

岡部:ええ、そうですね。

浜田:最近はヴィジュアル・アートもインスタレーションが隆盛になり、レジデンスが必要になってきたってことですよね。ですから、現代アートをやっている美術館はレジデンスが必要です。でも、いつもいつもレジデンスを使う訳でもないので、管理上難しい。だからアーティストは展覧会があると、ホテルなんかに滞在して制作している感じが多いですよね。

工房内部  photo Aomi Okabe

05 浜田さんが館長に就任

岡部:パフォーマンスとレジデンスのかかわりは理解できましたが、浜田さんはどのようなきっかけで、青森県にあるこの芸術センターの館長になられたのですか?

浜田:僕はもともと青森出身なんです。それで、7年前に親父が死んだので、葬式や準備で青森にいたとき、その葬式に市長が来てた。だから葬式の後に市長に挨拶しに行ったんです。その時に突然、「アーティスト・イン・レジデンスって何ですか?」って僕に聞くんですよ。

岡部:本当に偶然なのですね。

浜田:それで、僕は体験的にも知っていたし、過去にレポートも作っていたから、市長にレジデンスについての資料を渡したんです。その後いろいろな経緯があって、市長が青森市でも是非レジデンスをやりたいということで、いきがかり上お手伝いすることになったんです。

岡部:偶然というか、必然というか。

浜田:それで経験的には、このシステムを作る時にどうしても最初に必要だった人は学芸員と共に技術者でした。

岡部:技術者というのは、工房でアーティストたちに必要な技術を教えられる人達のことですか?

浜田:つまりアーティストはなんでも出来る訳じゃないんです。で、学芸員は企画する人達だから、つまり歴史家兼批評家兼あるいは研究者なんですね。ところが芸術にとって、特にオルタナティヴなメディア、例えばコンピューターであるとか様々なマシーンを使う、エレクトロニクスを使う。木工を使う。道具を使う。インスタレーションとして壁を作る。これは全部技術者の協力なしには出来ません。技術者がいないレジデンスは動いてゆかない。フランスの美術館でも、技術者いっぱいいますよね?

岡部:ええ、いますね。とくにパリのポンピドゥー・センターなんて、地下は技術者の工房とスタジオです。

浜田:でも、日本の美術館は少ない。だから、日本でも技術者を雇えばいいのにって思うのだけど。

岡部:学芸員を雇うお金も削られているような状況だから、無理なのでしょうけど、でも現地制作にはかかせません。大事ですよ。

浜田:とても、大事だと思う。物事を成していく為に、常に作品を管理する。あるいは修理するとかって技術がないとできません。

岡部:となると、ここのセンターのスタッフ配分は技術者が半分、半分が学芸員ですか?

浜田:管理の人が4人。そして技術者が1人。で、学芸員は3人です。

岡部:技術者兼学芸員もいらっしゃるんですか?

浜田:いや今は分業しています。

岡部:うまく、すべての必要な技術をカバーできますか?

浜田:足りない。ただ、レジデンスを作るまでは僕が最初マネージメントをやっていました。その時に、将来のこととかも考える。最初から増やせば、増やせたんですが、今は8人体制で、あとプラス館長。ところが、4人は市の方から出向してる人達だから専門職ではないのです。やがてここを財団化するつもりだったから、財団化した時に、市の方から予算とかを切り離される。で、一種の独立行政ではないけれど似たような方向に来るだろうと予想してました。で、その時に、当初のコストと人件費をかけていくと、やがて、削らないといけないだろうと。だったら、ミニマムからスタートして、そこで力をつけていった方がいいと思った。後で増やすのは構わない。確かに、学芸員は4人位いればと思ってましたが、一般的な経営面から言うと、まずそこから削られる。だから、最初から削られないように体制を決めたわけです。

岡部:ここをオープンした時、予算はどれぐらいかかったのですか?

浜田:建築費が10億円ちょっとで、設備費は全部いれると2億5千万円ぐらいかな。あと、外向工事があって3億円ぐらいかかったから、全部で15億円ほどですね。

岡部:普通、美術館などだと、厳しい空調設備などもあって30億とか40億とか、かかりますから、レジデンスは安いのですね。

浜田:うん、僕は15億もあればレジデンスなら十分に出来ると思ってました。要するに箱が出来ればいいと思っているから。ソフトは私を含め学芸のアタマの中にあったり経験があったからです。

岡部:そうですよね。基本的には。(笑)建築は安藤忠雄さんが手がけられたんですね。

浜田:そうです。指名コンペにして最初に7人をピックアップして、そのなかから安藤さんを選びました。全員一致でした。でも、僕はどんな建築家が選ばれてもいいと思っていた。建築家に全てを任せると、考えていた。それで、最初に安藤さんに僕の考えをいろいろ話して、その後は、全て安藤さんに任せました。でも、この建築にもいろいろな文句はあるんですけどね。(笑)

岡部:例えばどのようなところですか?

浜田:まず、シンプルで美しい。(笑)そして導線がわかりにくい。

岡部:確かに。広い敷地に点在しているから、私も来たとき迷いました。

浜田:それから、倉庫が少ないかな。でもこの2つくらいだけですかね。

「5つのかたち」展 photo Aomi Okabe

06 環境とともにある野外作品

岡部:アーティストとしてレジデンスに呼ばれるのとは逆に、招待する側になってどうですか?全然違うでしょう?

浜田:うーん、感覚的には全然違う!!なかなか難しい!!これまで考えてないことを、考えないといけない。自分の中にも好みがありますが、よく考えたら人を選択する基準というものが僕にはないことを自己発見しましたね。

岡部:浜田さんはパフォーマーですしね。それ以外のヴィジュアル・アートの人も来られるんですよね?

浜田:はい、来ます。

岡部:そうすると、基準といってもフレキシブルにいろいろ変える必要もありますしね。

浜田:とりあえずは、僕の知り合いで何百人かアーティストと付き合ってきた歴史のなかからピックアップリストを作成してます。

岡部:去年一年間に、市民や観客はどれぐらい来てるんですか?

浜田:あまり詳しくは把握していないんだけど、2万から、2万5千人ぐらいです。

岡部:市立でも市民とのかかわりなどは、あまり問題にしなくてもすむのですか?

浜田:そうでもないのですが、僕はカウントだけで物事を評価してはいけないと思うんです。質も大切です。評価の仕方は非常に難しいけれど、単なるカウントだけで、成功したかしないかは今すぐ判断出来ないのではないかと思っています。

岡部:コレクションはなさらないのですか?

浜田:いわゆるコレクションはしませんが、作品は増えています。

岡部:一応展示空間の耐震性や空調関係はしっかりできているということですね。

浜田:そうですね。微妙なこともありますが、もちろん経緯もあったんですけど、いわゆる通常型の美術館にしようかっていう話もあった。でもいわゆる美術館はやめようと。作品のコレクションよりもアーティストの方が面白いと。でも、アーティストを扱うのは一番大変なんだけど、僕はアーティストが持っている知恵とか考えとか思想とかを、学んだ方がいいと思ってました。勿論、作品からもいろいろなことを学べますけどもね。で、作品を作ればそれによってステップが生まれるだろうっていう話をしました。さらに、ここの背景は全部で33.5ヘクタール森があります。その森を何とかうまく使って、芸術と自然の共生する空間にしたいと思っていました。ただ従来型の芸術の空間だと、ある意味オランダのクレラーミュラー美術館を日本で真似したと思われます。ヨーロッパの場合、亜寒帯に属していて気候自体が、日本と全然違う。木が生えても下草があんまり生えてこない。手入れもするけど、自然に芝生になっていくんですね。ヨーロッパは彫刻に対して非常に都合の良い空間なんです。

岡部:ええ、日本は亜熱帯だから、雑草が凄いですよね。だから私もフランスから帰国してびっくりしたのは、緑のエネルギー。

浜田:でしょ?だから日本だと、作品を置いても2ヶ月くらいで草に埋まっちゃうんですよ。クレラーミュラーを例にとってみれば分かるように、ヨーロッパだとてんてんと置いても綺麗に見えるわけです。ともかく、手入れをしないと見えなくなる。日本ではオープン・エア・ミュージアムはまず箱根で始まり、やがて札幌でもできて、いろいろな所で野外彫刻が展示されるようになったけど、あれはやめようと。手入れも大変だし、金も無いから。だったらイギリスのグライズデール方式っていうか、自然の中で極端にいえばそのまま朽ちていってもいいようなもの。まあ、いろいろとみんなで議論もして決めました。つまり、モニュメント的なものではなく、「作品」がそこにあるという感覚が森の中の作品が存在する理由です。モニュメントという感覚だとそこにつきまとういろいろなイメージがありますね。耐久性が高くないといけないとか、石でなければならないとか、あまりにも古い感覚です。

岡部:だから高級なブロンズとかの彫刻はないのですね。

浜田:もうその言葉自体からやめようとなった。自然の遊歩道で下草がボンボン生えている空間でも構わないと。それでその中で朽ちていく作品があってもいい。で、その空間についてはアーティストが自分で考えてくれと。後々、作家と共に地元の環境に詳しいグループとか、植物や動物に詳しい人とのコラボレーションをもっと考えてやることにしたいなと思ったので、作ってもいいし、作らなくてもいい。光、音、空気なども作品の素材だという理由で、幅をグーッと広げていきました。それで、従来型の野外に作品を置くということから逃げようとした。まあそういうコンセプトを大体決めておいて、庭園は5年から10年で完成させる予定です。

岡部:少なくとも、あと10年経ったら外部空間の野外作品が完成すると考えていいわけですね。

浜田:完成します。そう思いたい。

岡部:そうした外の作品を作る時は、もちろん必ずレジデンスと絡めてやっていくわけですね。

浜田:そうですね。ここに来て作ってということをお願いする。

岡部:全部でいくつぐらい作る予定ですか?

浜田:40〜50ぐらいかな。奥までずっとだから、そんなに多くはなく、ほどほどです。

岡部:その野外作品は一般の人も見に来られるわけですよね。

浜田:もちろんです。どうしても一般的には展覧会主義でみんながいつでも作品を見たいと思っています。だから作品がないとみんながっかりするでしょ。ですから野外作品の森は美術館的なものの代替になります。

岡部:そうですね。レジデンス・アーティストたちの展覧会がありますが、一定の期間に限られていますので、私もぜひ展覧会に合わせて来ようと思いました。でも野外作品が常設になれば、そうした期間限定から自由になれます。

浜田:しかもアーティスト・イン・レジデンスのシステムだけを、市民サイドの中で僕がどんなにコンセプトを喋っても分からないのですが、森の作品があるとよくわかるようになると思います。自然もアートということも含めてです。

岡部:それがないと、あそこの施設はいつも何もやってないとかって言われますでしょ。

浜田:そう。そこをカバーする為には野外彫刻公園のようなものを何か作った方がいいと思ってました。

07 NPOの運営に

岡部:今、年間の運営予算はどれくらいおもちなのですか?

浜田:ここはソフトだけで大体6000万くらい。美術館なんかに比べるとはるかに安いかな。ソフトとハードとか入れても大体1億1千万くらいじゃないかな。

岡部:年間の資金をボーンといただいて、浜田さんがきりもりなさっているという感じですか?

浜田:いや僕だけ、ということはないけれど。

岡部:人件費は?

浜田:そこは少し複雑なんです。市職員と嘱託と分かれています。

岡部:ソフトの六千万というのは、アーティストを呼んで森の新作を作ったりする予算ですね?

浜田:そう。展覧会をやって、滞在費とかで払うお金。図書の購入、カタログの制作なども入ります。

岡部:それ以外がメンテと人件費と運営費ですね。

浜田:そういうことになります。

岡部:でも六千万は安いですね。地元の人達との交流は盛んですか?

浜田:そうですね。割合と盛んです。

岡部:例えば、アーティスト・イン・レジデンスなんて、いったいどんなメリットがあるのですかとか聞かれませんか?

浜田:うーん。このあたりが難しい。お金の問題もさることながら、青森県には美術館がないために過大な期待があって、現実と要望の差が大きいと思います。ここには多大なる期待がうずまいている。でも逆に言えばこれまで美術館が無かった為にアートに関わりたいという、意欲がある若い人がたくさんいます。そういう人達はボランティアスタッフとして登録させていただき、登録制にどんどんしているんですよ。

岡部:今、どのくらいいるんですか?

浜田:大体常時で40〜50人くらいいて、登録が今は100人くらいいると思います。

岡部:凄いですね。その人達は展覧会の設置作業とか?他に何をおもになさるボランティアでしょうか?

浜田:そう。御飯係とか、エスコート係とか、エクスカーション(遠足)係とか、もちろん、制作に関する補助とかね。

岡部:楽しそうですね。お手伝いの内容が。

浜田:でもそれは僕は長くは続かないと思ってるんですよ。つまり、単なるボランティアではなく、バイ・パートナーシップを目指すことによって長続きすると思っています。だから、将来的には、あくまで希望ですが、ここの全予算の10〜15%くらいをパートナーと一緒につくってゆく費用にしたいなと思っています。つまり、実際に企画を立案し、実行できるあたりまでと考えています。

岡部:そうですね。それくらい自主的にやらせてあげないと、同じことの繰り返しだときっとやる気がだんだん無くなってきますね。しかも少しずつ成熟して実力もついてくるから、やりたいという思いが募りますね。

浜田:そうですね。初期の段階では勉強したり、勿論グレードの低い話も出てくるけど、少し目もつむって育てようと。で、本気でやることができるようになったら、キュレーションをやってもらってもいい。だから、キチンとそのお金を有効に使えると、我々の仕事も良く理解し始めるのではないかと思います。

岡部:そうですよ。やりがいもあるし、予算の使用途もきちんとしてくる。

浜田:アルバイト費に出すんじゃなくて企画費として出すようにする。せめて、そういうようなことは2、3年後までにできるように考えておこうと思っています。

岡部:いいですね。国際芸術センター青森のホームページには、サポートセンターNPOに運営を任せて、青森市は実際に運営といった形からは離れるといったことが出ていたのですが、すでにそうした形になっているというわけではないのですね。

浜田:いや、まだそうなってないですよ。そういう風にしようかなという感じです。

岡部:浜田さんは、今このレジデンスに隣接している青森公立大学で教えてらっしゃるんですよね?

浜田:はい。非常勤ですが。でも僕の考えでは、芸術センターを学校にするという考え方は魅力的ですね。アイデアの一つとしては、将来ここが隣りの大学と共存共栄できないかと思っています。ここはそのままレジデンス・システムを保ちながら、創造力あふれる芸術学部の創設が夢です。芸術と環境をタイトルとする現代のバウハウスの設立がACACの最終形ではないかと想像しています。アーティストというたくさんの人材とそれを支える市民による国際自由大学みたいなものですね。

岡部:可能性はありますね。

(テープ起こし担当:小島梨沙)


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