culture power
artist 冨井大裕/Tomii Motohiro
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

冨井大裕×森啓輔(芸術文化政策コース2年)

日時:2007年10月12日
場所:武蔵野美術大学9号館211教室

森啓輔:この度冨井大裕展「みるための時間」の開催を機に、冨井大裕さんを迎えてアーティストトークを行いたいと思います。現在行われている武蔵野美術大学民俗資料室ギャラリーでの展示「みるための時間」は、これまでつくられた小作品群のみを扱った、冨井さんにとっても初めての試みです。今回は特に、作品が置かれる台座の幅や形としてのコの字型、さらにライティングや壁と台座の間隔といった、鑑賞者が作品を見るための環境に対して、作家側から非常に繊細な配慮がなされています。また、作品の存在理由ということで冨井さんは、作品は見られるということに尽きるのではないか、という問いかけをなされています。今回の民俗資料室ギャラリーでの展示では、作品と場との関係性が強く出てきています。民俗資料室ギャラリーは、民俗資料室に併設されているギャラリーですが、1966年に民俗学者の宮本常一さんが武蔵野美術大学に赴任してきたことを発端として、現在までに民俗資料室には約9万点の生活品や生産用具が集められています。そのような生活品や生産用具の集積の場としての民俗資料室ギャラリーで、日用品を素材として作品をつくられる冨井さんの展示が開かれたということに深い関係性を感じます。日用品は、私たちにとっての「日常」の考え方に大きく関連しています。通常、日常とは「いつものこと」や「当たり前のこと」として考えられ、常に変化することなくそのままあるもの、として受け止められています。しかし、一方で日常とは私たちによって無意識的な選択がなされているもの、つまりは無意識に編纂している「仮構」なのではないかとも考えられないでしょうか?日用品は日用品でしかないという決めつけが、本来の可能性を制限したり、排除しているからこそ、冨井さんの「いつものこと」としての制作活動には、仮構された日常の忘却された部分や排除されていった部分が編み出される。その点に冨井さんの作品の意義があり、今回の「みるための時間」という展示の意味があるのだと思います。

fold 2006年 傘袋 3×14×7(cm)
©Motohiro Tomii

01 日本近代彫刻の「歪み」と制作活動

森:まず冨井さんにお伺いしたいことが、日本の近代彫刻の歴史と自身の制作活動との関係性についてです。日本では、近代からの彫刻の形成において度々、「歪み」の問題が指摘されています。明治時代の開国を経て殖産興業や富国強兵といった西洋化への流れの中で作られた彫刻の概念「像を作る術」と、江戸時代から続く伝統的な彫り物の概念の隔たり(例:高村光雲と高村光太郎(註1))。海外に向けて内国勧業博覧会など日本の産業を見せる際や、国内における政治的統制のためのモニュメントとしての彫刻の巨大化。そして、60年代70年代の反芸術や、「もの派」(註2)を経て、彫刻の歪みというのが現代の彫刻制作においても連続して影響しているのかなと思います。そこでご自身の制作では、そのような歪みはどのように影響していると思われますか?冨井さんはあえて、木やブロンズといった伝統的な彫刻の素材を避けられていますが、彫刻的な素材を使わないというのは、現代の彫刻がもつねじれに敏感に反応されたからでしょうか?

冨井大裕:彫刻への反応として、日用品を素材に使い始めたわけではありません。ただし、日用品が先にあって制作を始めたわけでもなく、美術をするために日用品を使っているので、全くの無関係というわけにはいかないのかなとも思いますけど…。「歪み」についてですが、彫刻自体は別に歪んでないと思うんですよ。少なくとも彫刻をやっている人は、自らの制作を彫刻と思っているでしょう。歪んでいるのはジャンルとして美術を把握したい(しなければ)と思っている人達であって、確かに明治以降に色々な素材や技法、形式の彫刻が出て来て、モニュメントの問題や明治以前の彫刻的表現も含め、日本に限定した上で歴史的にみると複雑なメディアだとは思いますが、ご指摘のように彫刻というキーワードが全ての立体的な表現を問題にできるくらいだから、歪んでいるというよりは(視点を多様につくれるという意味で)むしろ健全な状態なんじゃないかと思いますね。僕個人の話に戻すと、「彫刻を作る」という考えで制作はしていません。漠然とした言い方ですが「作るということをする」ために制作をしています。何かに「作るということをした」ものが「作品」で、作品は「何か」とは決定的に違います。「作品でしかないもの」を僕は作りたいのです。そのための方法として主に日用品を素材にしています。木やブロンズのような素材も使える時がきたら使うでしょう。今は無理というだけで別に駄目ではないんですよ。

森:今回のように小さい作品のみで展示が成立しうるのは、冨井さんの作品がもつ性質に大きく関係すると思うんです。彫刻というのは、美術館や屋外など広い空間で展示されることが多いですし、そこには無意識に大きな作品を作らなければならないという強迫観念に似た感覚があるのだろうと思います。今回の展示では、そのような彫刻と異なる感覚で、ひとつの完結した世界観が凝縮された小さい作品が展示されているように感じます。冨井さんには彫刻をされている周囲の人たちと同様に、彫刻家としての問題が内包されている可能性があるのでしょうか?それとも冨井さん個人は、そのような彫刻という概念から独立して作品を作ることができているのでしょうか?

fragment #1 2007年 砥石 1.9×1.6×1.6(cm)
©Motohiro Tomii

冨井: 作品のサイズと空間の関係は、単純にかたづけられる問題ではないですね。森さんのおっしゃる強迫観念は彫刻に限らずどのメディアにもあることだと思います。あと、僕の周囲に彫刻家があまりいません。これは意識的にというより気がついたらそうでした。以前、なぜだろうかと考えたことがあったのですが、僕自身が彫刻を作ろうと思っていないのだから不思議なことではないなと思いました。さっきも言いましたが、僕は「作品」を作りたいと思っています。厳密に言えば、僕は「美術にある彫刻というメディアを使って作品を作っている」と言えるかもしれません。ですから、彫刻の概念を作品から読み解くことも可能だと思うし、問題は内包されているかもしれませんが、僕自身はその点を重要には感じていません。大事なことは、作られたものが「それでしかありえない形でそこに存在すること」で、それを彫刻と呼んだり、制作者を彫刻家と名付けるならそれはそれでいいと思います。今回の展示は、「そこに在るもの」をとにかく見てもらうことに狙いを絞りました。「彫刻として見てほしい」とか「作品とはこういうものだ」という目的や押しつけはありません。とにかく見るということをしてもらいたい。(展示する作品を)小さいものに絞ったのもそのためです。

02 「もの派」との関連性

森:今、スケール、大きさの問題に触れましたが、では彫刻的な素材についてはどうですか?冨井さんの作品は、ものがもつ構造というのを大きく変化させず、できるだけそのまま素材のもつ構造が活かされている作品が多いですね。例えば、制作にはできるだけ接着剤を使わずに制作されています。そこでお伺いしたいことが、「もの派」との関連性です。「もの派」の概念は、理論的中心となった李禹煥による存在とか実存の問題や、また東洋思想的な自然観といったものが関係しています。加工せず、ただ単にものをそのまま提示すればいいというのが「もの派」の考え方ではなくて、そこに作品ができることで世界が開かれるという点を李禹煥は強調していますよね。そのような「もの派」は、素材がもつ構造をできるだけそのまま活かすという制作方法の点では冨井さんとの共通性は見られますが、制作の考え方においては対立するように思います。冨井さん自身は「もの派」との関連性や違いについては、今までどう考えてこられましたか?

冨井:「もの派」についてはたまに同じ様な質問をされますが…。違うかなぁ。もの派の仕事は、素材自体にあまり手間をかけずに、「状態のプレゼン」で終わらせているものが多いような気がするんですけど、同時に素材と作家の濃厚な関係を見せることにもためらいがない。そこが僕とは何か違う気がする。僕は使う素材と密接な関係を取り続けたくはないんですよ。その素材を使い続けることから、僕個人の物語が語れてしまうとか、「冨井=○○」のような関係が生まれることは絶対に避けたい。どうしてかというと、僕はとにかく作りたいんですよ。素材を提示するのではなく、しっかり作り込んで行きたい。そのためには、あらゆる角度からものを眺め回せる距離が必要になってくるんです。人との関係で例えると、ちょっとしか知らない、ちょっと横目であの人の名前ぐらい知っているよという感じで。そのぐらいの方が、実はその人の情報を客観的に読み解けるんじゃないかと思っています。だから、ものとの関わりが僕は浅いというか、浅いんだけど浅いまま時間をすごいかける。作るための素材として全てを見ていたい。どうやって作るかしか考えていないんです。接着剤を使わないのも、素材がもつ構造をそのまま活かすという意味では、「もの派」と近い気もするけど、僕がそうしている最大の理由は接着剤を使うとなんでも出来ちゃうからなんです。なんでもくっつくし、重力にも逆らえるので自由が多すぎる。僕は、作るという行為が最大限に発揮されるのは、不自由な状況や大ピンチな時だと思っています。不自由から制作を始めることで、それでしかあり得ないもの=作品を作る。「もの派」も僕の作品も、表面的にはものがそのままあるかの様に見えるのかもしれないけれど、制作に対する具体的な姿勢は全然違うと思うんです。

woods  2005年 ハンマー 34.7×29×23(cm)
©Motohiro Tomii

03 「みるための時間」の意味

森:「もの派」の作品が「世界が開かれる」というのに対して、冨井さんの作品は今回の展示では、見られることが重要だと言われていました。今回の展示を実際やられて考えたことや、作品が見られることで存在しているということについて、お話いただけますか?

冨井:作品が見られることで存在しているのはその通りだと思います。人に見るという行為を続けさせるために存在しているとも言えます。そして、展覧会というのは見るための時間だと思っています。少し話がそれますが、民俗資料室ギャラリーで展示することになって、この場所の特徴を考えた時に思いついたのは、民俗の展示とは技術の展示だということでした。普段見過ごされている生活の知恵や技術に、民俗の視点をはめることで、元々備わっていた凄さや面白さが現れてくる。その面白さが、今度は民俗という技術を照らし返す。僕は、「みること」を作る技術、彫刻で例えると塑像や木彫、溶接と同じだと考えています。今回の展示では美術という枠と作品を使って「みる」という技術を展示したいと思いました。それによって「みること」、「作ること」、「作品」、「美術」が一本の線でつながることを期待しました。今回の前にも小品のみで台座を使った展示をしたのですが、あとで問題だと思ったのは、台座を30×30cmの高さ90cmで用意したことです。高さは今回と同じなのですが、30×30cm角の台座は周囲を回れるんです。見る人は回ったりしゃがんだり自由に動いて見ていたのですが、僕はじっと見てもらいたかったんです。今回の展示では、基本的に二方向でしか見れないわけですね。二方向でしか見れないから、それ以外の側面というか、そのものについての想像を膨らませることができるんじゃないかなと思いました。不自由であればあるほど、その分そうじゃない技術がその人の中で出てくるというか、ひらめきが出てくるんじゃないかと思って。そういうことが見る技術じゃないかと思うんです。それで、今回あえて幅の広い、全部を見回すにはつらい展示台を作ったんです。

森:冨井さんのご友人が、「作品は展示台に置いてあるんだけれども、まるで床に置いてあって、鑑賞者はそれを這って見ているようだ」とおっしゃっていたのが、印象的です。まさに、冨井さんが画策したとおりじゃないかと思いますが、「這う」、つまり一点で集中して見ることは見る技術につながると思うので、その点では今回の台座は成功しているんでしょうね。

冨井:僕は、気になっている素材でも実際に作ると決めるまでは、そのものを手に入れないんですよ。ハンマーの作品も、ハンマーを実際ああいう風に並べると決めるまでは、買わないでおくんです。そうすることで、ハンマーに対する意識が先鋭化されて、高くなっていくんです。それで、本当に決めた時に手に入れる、手に入れた時に初めて制作のための素材として扱うのですが、それまではハンマーという情報を自分の中で反芻しているというか、基本的にその距離感を大事にしています。今回は、僕のものに対しての距離感を、作品と台座の関係に置き換えてもいます。

森:なるほど。素材を直接見れない環境に、あえて自分を置くことで、逆に意識を研ぎすますんですね。

four color sponges 2006年 スポンジ 149×34×34(cm)
©Motohiro Tomii

04 マイクロ・ポップ

森:今、素材として使うものの距離感を大事にしているとお話がありましたが、今年の春に、茨城県の水戸芸術館で、美術評論家の松井みどりさんがキュレーションされた「夏への扉-マイクロポップの時代 」展(註3)という展覧会が開かれました。松井さんは、ドゥルーズ=ガタリやミシェル・ド・セルトーらの論理を用いて、日常生活におけるマイノリティーによる実践がアートの中でも行われていて、その中でも周縁としての日本でのアートの状況を「マイクロ・ポップ」という概念を用いて企画されました。そのマイクロ・ポップにおいて、重要なキーワードとして扱われていたのが「日常性」です。冨井さんと素材としての日用品との関係性は、僕のことばでいうと「自然的態度の判断中止への抗い」となります。つまり日用品については僕らはそのまま使ってしまい、普段何も考えない。冨井さんの制作はそのことに対しての抵抗として位置づけられると思うんですね。冨井さんは、先ほど日用品と距離をおくとお話されていますが、一度気になったものを寝かせておくという点では日用品というのは、遠いけど近いものとして捉えられているんですか?

冨井:近いのになぜか遠いという感じかな。僕の制作には、気になった素材はすぐ作品にしないで1、2年距離をおくという自然にできたルールがあって、それができたのは主に2つの理由があります。ひとつは、さっきも言ったような、ものとの距離感を作るため。もうひとつは、すぐに(見つけた素材で)制作してしまうと「日用品=制作の素材」という図式も日常化されていくことになるので、それを避けるためです。森さんが指摘された抵抗というのは当たっていると思いますが、それに加えて制作も油断すれば、日常にのまれて何も考えない垂れ流しの行為になっていくことへの恐れもあるのだと思います。日常についてですが、僕の場合は日用品を「作品を作る為の素材」として見ているので、日用品を日用品として使おうと思ったことは一度もないですね。偶然、日常のイメージを作品が背負い込むことで(作品が)面白く見えたりすることがあるんですが、それは成功していないんじゃないかという思いがあるんですよ。日常にあるものを使っているけれど、制作に関しては日常讃歌のような感情はあまりないですね。むしろ最近は、美術として作品がどこまで自立するのか、そのために矛盾するようだけれど、日用品を使っています。

05 彫刻と絵画の物語性

森:「マイクロ・ポップ」では、ドゥローイングや絵画では、奈良美智さんやタカノ綾さんに代表される、個人の幼少期の記憶や空想世界が描かれていました。それは、絵画がもつイリュージョンを創出しうる幻想性が関係していると思いまして、絵画と彫刻について比較できるかなと感じます。例えば、2003年に東京都現代美術館で行われた「MOTアニュアル」は「おだやかな日々」(註4)というテーマで企画されました。そこでは、押衣千恵子さんや小林孝亘さんが出品されていて、小林孝亘さんは《Dish with Chopsticks」という、皿の上に箸が乗っている作品や、枕、火のついたコンロのような日用品が描かれていました。今回の展示にもある冨井さんの箸の作品は、小林さんの作品と比較して、物語性が排除されているように感じます。一方で小林さんの絵画は「物語絵画」といわれたりしますが、そこには絵画を見たときに物語を感じてしまう鑑賞者としての僕たちがいるわけで、それは彫刻と絵画のメディアの違いなんでしょうか?

冨井:箸を描くことと、実際の箸を素材として使うことには相当の違いがあると思いますが、物語性があるかないかはメディアの違いではないような気がします。彫刻で言えばモニュメントなんかはわかりやすくてものすごくベタな物語性の例でしょう。ただ、彫刻の場合、物語性が政治や制度への言及に安易に結びつけられやすいという質の違いはあるような気もしますけど…。僕個人は、作品に物語性や内面性は求めないですね。誰が見てもわかる作りであってほしいと思っています。そんなに難しいものじゃないんですよ。ゴムチューブやスポンジは見ればわかる。スポンジなんかにはひょっとしたら誰かが物語性を感じるのかもしれないけど。

0.9×19.6×1.2 2005年 箸 0.9×19.6×1.2(cm)
©Motohiro Tomii

森:もう少し箸を例にこだわると、今回の展示で箸を片方だけ逆さまに置いた作品がありますよね。例えば、ロラン・バルトは箸が、西洋のフォークやナイフと比べて様々な機能をもっていると述べています。それは、箸の食べ物を指し示す、つまむといった機能を指摘しているんですが、その機能は両方とも箸の先がそろえられて同じ方向でないとだめで、冨井さんの作品のように片方だけ逆さまで使うことは日常においてはまずないですよね。その点で作品の構造の面白さを感じるんですが、ただ小林さんが描かれた箸では、あれは本人の私物だろうか、何か食べた後だろうかという物語が見る人の中で生まれる一方、これは彫刻というメディアの特質かもしれませんが、冨井さんの作品ではそのような物語、つまり冨井さんがこの箸を使うというような日常の光景が思い浮かばないんですね。その意味では、物語が排除されているというよりは、物語以前、物語が生まれる前段階として作品があるのかなとも思います。

冨井:物語はないんです。結果として物語を感じる人がいても気にはしないし、その事実を否定するつもりもないですけど。箸は色々な使い方があって、それによって箸の形が決定されているのだけれど、箸だけを使った他のやり方で何とか作品にできないか、けれども箸は箸のままで出したいというのがあるんです。物語が生まれるのがプラスで、以前がマイナスだとしたら、僕の場合はマイナスの方に行くのではないかと思うんです。ゼロを目指すのだけれども、目指し方としてマイナスの作法を使ってしまう。絵画の場合は、物語性を感じられる絵画を描く人なら、それを取り入れることで絵画を成立させているので、プラスの作法を使っているのだと思います。けれども、絵画や彫刻が自律するという点がゼロだとすれば、結局みんな最後はゼロを目指すのであって、ゼロにどこまで近づけるかといった時に、プラスを使うかマイナスを使うかの違いがあるだけの様な気がするんですよ。

フラットバー#2 2006年 針金 1×30.5×1(cm)
©Motohiro Tomii

06 彫刻とアフォーダンス

森:ここでもう一回視点を変えてお伺いしたいと思います。「見るための時間」という展示として「見る」、「見られる」という問題が今回は非常に重要視されました。そこで、僕は認知心理学を専攻していた関係で、「アフォーダンス」の問題に触れたいと思います。アフォーダンスというのは、「アフォード」つまり、「提供する」という意味で、ジェームズ・ギブソン(註5)というアメリカの心理学者によって考案されました。従来では僕たちは眼や耳という感覚器官で主体的にものの情報を獲得していっているという概念が一般的ですが、「アフォーダンス」では環境が情報を持っていて、環境側から情報が与えられているとされています。つまり、自分の中で情報の獲得が完結するのではなく、情報の獲得は環境との相互作用に関わってくるということです。例えば、箸を片方だけ逆さまにした作品がありますが、私たちが通常箸を片方だけ逆さまにしないのは、日用品としての既成概念があると同時に、箸が片方だけを反対にして使うという情報を私たちに「アフォード」してくれないとも言えます。その意味で、冨井さんの作品は、日用品がもつ情報のただ単に「アフォード」されるものだけを受け取っているとは言いきれないと思います。
また、「アフォーダンス」は見ることだけに特化した概念ではなくて、ギブソンは「知覚システム」ということばで、「見る」システム以外にも、聞いたり、嗅いだり、味わったりするシステムや、接触(ハプティック)のシステムを提案しています。その接触のシステムは、冨井さんの作品が生まれる際、つまり冨井さんの制作過程に大きく関係するのではないかなと思います。接触のシステムの中でも、特に重要なのが、「ダイナミック・タッチ」というもので、環境の中に情報を探索するために、ものに触れたり、振ったり、突ついたりする直接的な手の動きのことを指します。冨井さんの制作行為では、ただ単に見るだけではなくて、日用品という素材に対して「ダイナミックタッチ」のような、触覚的な試行錯誤をされているのかなと考えたんですがいかがですか?

冨井:実際、作品を作るためには何らかの作為はしなければいけなくて、見るだけでは作品にはなりません。でも、見ることで触ったり叩いたりもしているんだと思うんです。例えば、針金を叩いた作品はペラペラですが、元は針金で断面は丸いわけですね。これは、叩く行為をするために針金を選んだわけではありません。針金を見た時に、叩こうと思ったのです。叩けると思って、実際に叩いて、結果ペラペラになりました。アフォーダンスでいえば、「僕は針金に叩く行為をアフォードされた」ことになります。見ることで叩きたいという衝動が生じたわけで、触ることで叩きたいということはないですね。ただ、いろいろなものを見て、プランを考えるけれども、最終的には行為がないと作れないですよね。針金を見て、叩きたいと思って、叩いて、ペラペラな状態になって、これが針金かどうかはどうでもいいんだけれども、叩いた時の感覚がかたちになっていれば作品になるし、なかったら駄目なだけ。そういうやりとりはかなりします。箸も散々見て、いじくりまわして最終的にひっくり返している。ハンマーも何で立てて並べようかと思ったときに、ハンマーが単純に重いからなんです。重いから立つんです。軽い木の棒に重い金属の固まりがついているからハンマーであって、その事実をそのまま伝えるにはどうしたらいいかという時に、立てたいと思ったんです。ハンマーを見て重そうだと思うだけではそうはいきません。ハンマーを見て重そうだと思って、実際に持ってみないといけない。ある時ホームセンターで持ってみたら重かったんです。これは重いぞと思ったんです。普通、ハンマーを使うということになったら、木を持つわけです。逆にすることで振れるし、打撃力が生まれる。だけど、ひっくり返したら上が軽いから立つんじゃないか、立つならいっぱい立たせてみたいなという感じになったんです。要は、ハンマーの柄は軽くて下は重いんだということを作品で言いたかっただけなんです。ハンマーの頭が重くて柄が軽いかたちは、人間の色々な思考錯誤の末に生まれた合理的な姿のはずですが、当たり前に使っていると忘れてしまうんですよね。ハンマーが日常に回収されてしまうんです。それを白紙の状態から扱うことが、素材としてハンマーを見るということになるんです。ハンマーの素晴らしさに改めて気づくことに意外と時間がかかるんですね。それを、作品にしようとすると更に時間がかかる。今回展示内容を「見る」ことに特化したのは、僕がものに対して関わった行為や感情を、作品を見ることによって経験してもらいたいと思ったからです。僕は、接着剤を作品にほとんど使わないのですが、もし使うなら接着剤というものを見せるために作品を作ります。続けていけば、いずれは気づいてもらえるんじゃないかと期待しています。

森:日用品は既成概念が強く働くために、ハンマーならハンマーなりに制作行為の中で「気づく」ことが難しいと思うんですね。日用品の場合、あまりにも無意識的に情報が規制されてしまうので、そのような状況の中で「気づく」という点が、冨井さんの制作活動における重要なところでしょう。アフォーダンスの視点から考えてみると、日用品を作品化するために期間をおいて冨井さん自身の頭の中だけで分析されるというよりは、環境との相互作用的な、つまりアフォーダンス的な感覚で制作されているんですか?

冨井:あまり、アフォーダンス的に考えると作品がつまらなくなってしまうので、あまり考えないようにしています。でも、情報を得るために色々なことをしていますし、距離の取り方にも注意を払います。そして、作品でそれを伝えるようにします。

森:今回の展示は、鑑賞者が作品をじっくり「見る」ことで、冨井さんの作品が完成品として見られるだけではなく、行為の過程として感じられるものとしてあるんですね。

冨井:どうやってできているのかとか、どういうふうにやっているんだろうかということを、勝手に推測できる余白は作ったかなと。ただ、それを見せるだけでも作品がつまらなくなってしまう。何これ、何でこんなことをしているんだという、でもなぜだか見てしまうというのが作品だと思う。(作品は)最終的に言葉で落とし込めないものだと思うんです。だから、何度も言葉にしようとするし、歴史の中に体系化しようとするのだと思うんです。結局、今回の展示でしたかったことは、作品というのはいくら見ても解決不能なことで、それを作り続けることはものすごく重要なことなんだと。そういうことをし続けてしまうのは、人間だからだし、そういう人間だから作品を見ることで安心したり納得したり、認識や確認ができる。だから美術作品を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたりすると思うんです。自分は、その営みに具体的に関わっていきたい。そうすると、僕の場合、こういうことをやり続けるしかないということになってしまうんです。

個展「みるための時間」 武蔵野美術大学民俗資料室ギャラリー 展示風景 2007年

(森啓輔 テープ起こし・編集)

註1 江戸生まれの彫師である高村光雲(1852-1934)の子として生まれた高村光太郎(1883-1956)は、日本の伝統的技法である木彫の技術を父から受け継ぎながら、当時の日本で流行したロダニズムの影響を強く受けた。高村光太郎の考えがもっとも顕著に表れているものとして、1910年に雑誌『スバル』に掲載された「緑色の太陽」があげられる。
註2 もの派
1960年後半から1970年代前半にかけて、関根伸夫、李禹煥、菅木志雄、小清水漸、吉田克朗、成田克彦らによって行われた芸術活動。石、木、紙、鉄などを最低限の加工のみで展示が行われた。1968年の関根伸夫《位相‐大地》を出発点とする説が有力。
註3「夏への扉-マイクロポップの時代」展
美術評論家である松井みどりにより企画され、2007年2月3日から5月6日まで水戸芸術館にて開催された。マイクロポップとは、後期ポストモダンの大量消費時代に対して周縁に位置する作家の創造的活動を意味し、「日常性の再発見」、「マイクロポリティカル」、「コミュニケーション」などの概念が提示された。参加作家は、島袋道浩、青木陵子、落合多武、野口里佳、杉戸洋、奈良美智など15名。
註4「MOTアニュアル2003 おだやかな日々」
2003年1月11日から3月23日まで東京都現代美術館で開催された。一見おだやかな表現の作品でありながら、それがもつ表現の豊かさ、美しさといった美術の可能性に焦点があてられた。参加作家は、野田哲也、押江千衣子、上原三千代、染谷亜里可、高木正勝、小林孝亘の6名。
註5 ジェームス・ギブソン(1904‐1979)
アメリカの認知心理学者。アフォーダンスの概念を提唱し、新たな知覚心理学の分野を開拓。