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museum 東京都写真美術館/Tokyo Metropolitan Museum of Photography
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

福原義春氏(館長)×岡部あおみ

学生:芦立さやか、河野通義、斉田圭一郎、佐藤美保、じゃんゆんそん、戸澤潤一、巻木かおり、ぱくちゃんほ
日時:2003年5月13日
場所:資生堂本社

01 お役人的タブーを壊す

岡部あおみ:東京都写真美術館館長としての最近のご経験について伺いたいのですが。

福原義春:入場者が最近急増して36万4000人になったんですね。どうしてそうなったかといえば、要するに、1つのミッションを明確にして、それから東京都写真美術館のアイデンティティ、ブランドをはっきりしていく、ということです。存在感を高めたということ。展覧会自体はそんなに変わってない。ただ、今までこういうものをやるのはどうかとか、いわゆるこういうものはやりたくないとか、学芸員の人達は一種のタブーみたいなものを自分たちでつくっている。それを全部ぶち壊したということにすぎないわけです。2003年は36万人からさらにまた上がるかというと、どうもそうはいかないと思いますが、少なくとも入館者20万台の美術館が、30万台の美術館になることはもう間違いないと思います。

岡部:写真美術館の学芸員のかつてのタブーというのは主にどういうものだったのでしょうか。

福原:いろいろあるんですよ。たとえば、ヌードはやりたくないとか。都立美術館ですから、都の議員の奥様方が見にきて、都の建物でヌードの写真があったなどと、いろいろ言われるわけです。だからどうってこともないのだけど、写真美術館にいる人たちは、みなさんお役人ですから。そういう方々に対しては非常にデリケートに反応されるわけです。でもそんなものは構わないじゃないかと。それに本当にいい作品だったら何だって構わない。
それからもう一つは、こういうことはあまり申し上げたくないんだけども、写真家の仲間は、どの社会でもそうなのだけど、ジェラシーの塊ですよね。例えば、秋山庄太郎さんみたいな作家がおられると、あの人は、写真家の仲間では芸術的な意味での作家ではないととる方もある。秋山さんは写真美術館の指定収蔵作家で、コレクションも持っていますが、秋山庄太郎さんの展覧会は一回もやったことがない。じつは、そんなことは構わないので、秋山さんの展覧会をやろうと言ってやりましたら、これはもう大変な人数の集客力があったわけ。秋山先生も大変満足されて、まもなく亡くなってしまうというハプニングが起きたんで、結局僕が殺したようなものだと、よく反省して言ってるんですけどね。そういうふうに自分たちで規制してしまうことが多い。
それからもう一つは、毎日新聞社の130年記念事業で仏像と写真のコラボレーションの展覧会を持ちかけられたのですが、ある新聞に、まだ展覧会が始まってもいないのに、写真美術館でそんなものをやっていいのかということを書かれた。美術館の会員の人たちにも、これは実はずいぶん引っ掛かるところがあったんですけど、結局やってみましたら、仏像を見にこられる方々はそれで満足し、写真を見にこられた方は、写真の方がまた良かったと言う。結局、展示のコラボレーションはあまり上手くいかなかったのだけども、集客の方は物凄くあった。批判した新聞記者の方は、写真美術館が余計な人気取りみたいなことやると困るということを言われたんです。写真美術館は、ヴィンテージの写真だけを見せろと言われても、それだけでは観客のニーズもマーケットも変化していますし、お客様の幅広い見方についていけない。これまでと異なることをやることも大切で、その結果今までの最高の観客数を集めることができた。しかも展覧会が始まってから、批判はまったく出なかった。それよりも、観客としての不満は、むしろ美術館の出入り口をはっきりさせたり、今何をやっているのかプログラムを明確にしたり、要するにサイン計画を非常に大事に考えてやっていくことが必要で、それをやってみると、入場者数がまたのびてきたということです。

岡部:写真はメディアですから、ある意味では、いろいろなジャンルの間を繋ぐものでもあるわけですよね。先程おっしゃっていたような日本美術と写真というような関係もありますし、そういう意味では、むしろジャンルを超えたものへどんどん発展していくことは良いのではないかと思います。もちろん本来のヴィンテージの写真も見たいですが…

福原:広げるのは邪道だという方もあるわけです。だけどそんなことは構わない。美術館としてはお客さまがたくさん見にきていただけることがやはり重要、あるいはそこで何かを学んでいただくことが重要なので、この方向は変えたくない。今年は「写された侍」展をいたします。それは、日本にはサムライという存在があるわけですけども、たとえば徳川慶喜、あるいは坂本竜馬から始まって、日露戦争の人たち、西南戦争の人たちを含めて、サムライはどんなふうに写真になってきたか。
それから、池田筑後守長発を正使とする第二次遣欧使節で、エジプトのピラミッドの前で大勢の武士達が並んで写っている有名な写真があるんですが、その武士達が写真機の前でいかにふるまったか、それから実際に武士が着ていた甲冑とか、そういうものはどうであったのか。ですからこれもお遍路と同じように、実体とヴァーチャルな表現である写真とをコラボレートする企画なわけです。

岡部:写真をある意味でこれまでの美的な基準だけで見たり、見せるだけではなく、その奥にある歴史や文化の問題などを含めて提示するという方向で、文化社会学的ともいえますね。

福原:そうです。私の究極の目的は写真とは何かということをこの写真美術館で表現することです。写真は報道性、記録性、それから美的な表現もある。また本人の内的な表現の手段でもある。だけど究極のところ写真と絵とは何が違うんだ、写真と文章は何が違うんだと。そうなると写真でしかできない分野がやはり残る。

岡部:東京都が運営している美術館は他にもいくつもあるわけですが、写真美術館と東京都の他の美術館との兼ね合いやネットワーク、あるいは東京都の立場から見ての写真美術館の位置付け、写真美術館の館長という立場から東京都の文化行政はどう思われているのでしょうか。

福原:正確に言うと私たちは東京都の外郭団体である財団法人東京都歴史文化財団に属しているわけです。その中には庭園美術館、東京都現代美術館、江戸東京博物館、小金井にある江戸東京たてもの園、東京都写真美術館などがあります。昔はその元締めがあったのですけど僕が来るようになった時期からは、各館の館長に運営を任せるということになってきています。

岡部:そうすると予算の問題以外では、都の文化行政には直接にはあまり関わらないわけですか?

福原:都は文化行政に割くエネルギーは今やないですから、この財団が生き生きと活動することによって、結局、都の文化資源が増えてくるという考えかたです。

岡部:比較的、自立性があると考えてよろしいのでしょうか。

福原:運営の自立性はあるんですが、たとえば企画展の場合の入場料は上限がいくらとか、いろいろ都の条例があります。2階は何に使わなくちゃいけない、地下1階は映像館であるからとか、条例で決まっています。その枠内で私たちはやる。条例をぶっ壊せって知事は言うんですけど、そうしても構わないのだけども、役人達は困るわけですよ。自分たちの評価に関わるから。だからあんまり無茶はできない。だけど僕の考えでは、条例で決められたものの中で、かなり自由度はある。ないと言ってしまうとそれまでなんですけど、あると思ってしまえば何でもできるわけです。

福原義春 photo Tokyo Metropolitan Museum of photography

02 東京に来た「外人」はどのミュージアムに行くのか

岡部:福原さんは長年資生堂における文化事業に携わっておられ、今でも名誉会長でいらっしゃいます。資生堂は企業メセナでアートの分野ではトップクラスといえる支援事業をずっとなさってきて、美術館も持ち、ギャラリーさえあるのですが、民間人の立場から、東京における文化振興とか、東京における文化の拠点というものについてはどうお考えでしょうか?

福原:今、観光立国とか、東京の観光を盛んにしようとかいろいろやっていますけど。私はよく言うのは、ロンドンにはテートギャラリーがあり、パリにはルーヴルがあり、ニューヨークにはメトロポリタンがある。大都市に行く人たちは、仕事で行く人たちもあるけれども、必ずグランパレだとか、ルーヴルなんかは見るわけですよ。でも東京に来る人はどこに行くのか。そういう魅力のあるところはないじゃないか。小さな美術館はたくさん良いのがあるけれど、大規模ミュージアムでは上野の東京国立博物館しかない。よく外国の方が来られて、日程がもうあと1日しかない、東京で見るべきミュージアムはあるかと聞かれると、東博しかないので、東博をご紹介するのですけど、ほとんどの方々のご意見は、あれは日本じゃなくて中国じゃないんですかという感想ですよね。フランス人にとっては日本と中国の差は全く分からないし、実際日本で雪舟だって言ったって中国の影響を非常に受けてるわけですから、外国の人に雪舟は日本だってわざわざ言ってみても始まらない。といって、たとえば上野には松方コレクションで有名な国立西洋美術館や、京橋にはブリヂストン美術館もありますけど、これまた、一級のパリの美術館とはちょっとかなわない所があるでしょう。そうかといって今から新しい美術館を作るのは大変です。また、六本木に新設される森美術館には収蔵品がない。いろんなものを集めて企画展をなさるわけですけど、これが一体どのくらいの魅力を出せるのかはまだわからない。さらに近くの防衛庁跡にも国立新美術館ができるわけですが、これも箱で収蔵品がない美術館です。この新美術館で一体どんな展覧会をするのかはこれからの課題ですけどね。僕はそれには関係してないから、まずは、写真美術館をどのように充実させられるかが僕の使命で、余計なことは言わないようにしておりますけどね。

岡部:先程写真美術館にはこれまでプレゼンス(実在感)が少なかった、人の認知度と言いますか、心理的なアクセスみたいなものが遠かった。物理的にサインを良くして、来やすく見やすくすると同時に、心理的にも親しみをもてるというようなプレゼンスが重要だと考えておられると思うのですが、日本、いや東京においてさえ、いわゆる美術館には、一般的にプレゼンスがないと感じられているのでしょうか?

福原:そうです、全くないわけです。

03 日本における写真の地位は非常に低い

岡部:内容はかなり豊かな小さい美術館はたくさんあるけれど、それらもプレゼンスが足りないのではないかと問題にされているわけですね。

福原:そう。ただ、写真美術館の場合は、本当はもっとそのアイデンティティとかプレゼンスをはっきりしていてしかるべきなんですよね。恵比寿ガーデンプレイスみたいな立派な所にありますし。だけどいろいろな条件があって、ガーデンプレイスの裏側になっている。それから、人々に知られていないのはどういうことかというと、日本における写真の地位は非常に低い。それは何故かと言うと、たとえばフランスの場合はヴィンテージプリントのマーケットがあるわけです。ヴィンテージプリントだけを扱っていくようなギャラリーがいくつもあります。ところが日本は、主要な作家はほとんど、あの名取洋之助の日本工房の系統になってしまう。その頃の人たちは、ヴィンテージプリントが大事だという観念がない。フォトジャーナリズムの世界なんですよ。ですから写真は非常に命の短いもので、それを印刷原稿にしてグラビア製版した方がよほど長もちするという風に彼らは考えていた。したがって原稿を送ると、原稿が返ってこなくてもほっておいた。だからヴィンテージプリントがほとんどないんですよ。したがって、日本には写真のマーケットが育たなかった。でそれに気が付いたのが細江英公さんで、そのあたりからはきちんとヴィンテージプリントをとっておくことができるようになったんです。
今やっております展覧会、川田喜久治さんは、ヴィンテージプリントをきちんと保存してらした。今回展覧会やるときにヴィンテージプリントで劣化したものについては改めて焼き直しするぐらいネガの整理もきちんとしていたわけです。ですから川田さんの場合には将来的にヴィンテージプリントのマーケットに出てきます。おそらくこれから先は日本も、今パリであんなに写真の値段が上がっていて、そして写真がギャラリーで売れるようになっていることを考えると、多分日本の作家も、これから先は、きちんとヴィンテージプリントを残す、あるいは出版社に原稿を送ってもそれを取り戻す、自分で取っておく、というようなことになってくるのではないかと思うんですけどね。

岡部:ものを保存・収蔵しないで、捨ててしまうという日本的な習慣などもあるでしょうし、結局マーケットがなかったから、捨ててしまったという逆の面もあったかもしれないですし、かなり深い所からいろいろ問題があったわけですね。また、海外で最近問題になっているのは、アートと写真の境界線ではないかと思うんです。現代美術館に展示されている作品にも最近はかなり写真が多くなっています。その辺の仕分けはどう考えてらっしゃるのですか。

福原:これから先は、ミクストメディアっていいますか、写真とCGとリトグラフとエッチングみたいなものと、いろんなものが一つの作品の中に混ぜこぜに入っているものも増えている。これは一体写真と分類すべきか、プリントにするべきか、なかなか難しいところです。だから写真をもし先程の記録だとか報道性だとかということだけで考えていくなら、こうした作品は写真には入ってこない可能性がある。

岡部:難しいですね。写真の定義にかかわりますが、その定義自体が時代とともに変わりますから。

学生:東京都写真美術館で作品の購入予算はどのぐらいあるのでしょうか?

福原:今はまったくないのです。創立のときから2年間ぐらいで2万2千点ぐらいの収蔵品を持てたんです。そのときは結構安く良いものを買っている。先程日本にはヴィンテージプリントの市場がないと申しましたけども、ないだけに、値段がなかった。したがって、法外な安い値段で2万2千点を集つめられた。ですから、収蔵品はかなり濃厚です。ただし、収蔵予算のない美術館なんて、世界にないですよね。

岡部:何年か後に購入予算がつくという見通しはないのでしょうか?

福原:今の状況ではないですね。東京都の財政は大変なものですからねぇ。収蔵予算がなくて、何故収蔵品が増えていくのかというと、作家が寄贈してくださるわけです。写真美術館にご自分の作品が残っていれば、名誉にもなりますし、自分のうちにあると、息子の代になってどうなるかわからないですし。だいたいお亡くなりになる時に、一括していただいたり、生きている間にも良い作品を入れていただいたり、そういう点では、良い作品が少しづつ集まっているんです。

岡部:ネガの管理からなさってるんですか?

福原:ネガの管理は写真美術館ではできない。フィルムセンターなんかでも大変お困りなところですね。ネガはある時点で劣化する恐れがあり、写真とは違った温度条件で保存しなくてはいけない。それにも関わらず、ベースが劣化してくる。ですからネガの管理は今どこでも頭を痛めてます。何十万という大事なネガが出てきた場合には、いいものだけを電子的に記録してあとは捨ててしまう以外に手がないんです。それからもう一つは、フィルムの技術的な進歩の問題もあり、古いものは膜がめくれてきてしまって、これはもうどうにもならない。実は写真を保存する学問があり、私どもにも写真保存の専門家が一人、お年を召した女性がおられたのですが定年でおやめになった。後任を探したんですけども、一人もいない。しかたがないので、お年寄りの方に、似た分野で仕事をしてこられた後継者を養成していただいている最中なんです。ただその人がおやめになったら、またこの分野の人はいなくなってしまう。

岡部:ますます保存管理が難しくなりますね。

福原:そうなんです。

岡部:写真はみなデジタル化していくという方法もあるのではないでしょうか?

福原:デジタル化はどこまでも進みますから、今デジタル化しても10年ぐらい経ったら、こんな画質では、と言われないとも限らない。たとえば今のマイクロフィルムがそうですからね。あれも膨大な費用をかけてやったけど、今やマイクロフィルムよりもっと小さなスペースでもっと再現力の高いものができるわけですから。

04 日本は文化予算も企業メセナもまだ小規模

岡部:企業メセナ協議会の創立者でもいらっしゃるわけですけども、日本における企業メセナのあり方、これまで、福原さんが関わってこられていろいろな民間の企業の方達ががんばってきた場面も身近にごらんになっていて、実際に日本でそうしたメセナの人たちの業績はどれくらい根付いてきたのか、あるいは、海外などと比較してどのような問題を抱えているのか…

福原:その答えは今ネットで出ているメセナ白書を御覧になっていただくとわかると思います。去年までは毎年出していましたが、今年から2年に1回になっているので、まもなく出ます。要するに、企業メセナ協議会が行っている企業へのアンケートから知る限り、メセナをやってる会社は不況になってもそれほど減ってはいないし、バブルの時はもちろん高かったわけですけども、バブルが弾けても最低限の状況はずっと継続できているので、まぁ一度は下がったんですけれど、下がってから逆に上がったりまた下がったりしている、そんな状況なので、それほど大きな変動はないわけです。でも全体的にみても海外に比べれば、まだあまりにも少ない十何億円という単位ですからね。そもそも国の文化予算だって、だいたい文化庁の予算が1000億円程度というのは、1000億越したって彼らは大喜びしてますけども、国防予算だとかに比べたら、とんでもない小額です。

岡部:公的な予算規模も非常に小さく、民間はそれにもまして少ない。結局、文化にみんながお金を投じないというか、習慣的にもあまりそういうことを意識してこなかったということですね。それは何故なんでしょうか。

福原:何故ということもないけど…特に今のような不況になると経営者はまず自分たちの利益を問われますので、余計な費用は全部カットしていく感じになってくるわけです。メセナの費用が余計な費用かどうかは経営哲学の問題になる。余計とは考えないのが私たちの立場ですが、余計な費用と考える立場ももちろんある。ところが最近はコーポレート・ソーシャル・レスポンシヴィリティ(CSR)がうたわれ、会社は社会的な存在だから、社会的な責任を実現していかなくてはいけないというようなことがまたアメリカ発信で言われるようになってきた。こうした主張は私からすれば別に新しくないんですけども、これが最近の状況なので、これから先どうなっていくかですね。

岡部:日本人はかなり貯金好きな国民で、みなさん貯蓄をたくさんもっています。また個人的には、たとえばあちらこちらに行って入場料を払ったり、高いチケットを買ったりするのは他の国の国民に比べても活発なのではないかという気がします。文化の自己負担額に関する各国の比較といった統計があればより具体的にわかるのですが、国という公的な機関とか、企業という組織や団体の単位で出費する費用と、個人的に投じる資金を合計すると、もしかしたらみんなかなり払っているのではないかと考えることもありますが、どうでしょうか。

福原:それはたしか、生活統計で出ていると思いますけど、国民全体としてはそれほどにはならないと思います。これは別な要素、むしろ家計調査の方から統計を出したり、ライフスタイルサーベイみたいなもので出してかないといけないんですけどね。

岡部:新たなライフスタイルをみんなが求めていて、その中に文化が入っていけば、また別の出費の方向が出てくるようにも思うのですが、最近は若い人でも気に入ったデザインの椅子などの家具を購入するとかの傾向はありますし、はっきりとこう見えてきてはいないにせよ、若い世代には、少しずつアートやデザインを要求する傾向は高まっているように思います。

福原:そうかもしれませんね。

05 資生堂の歴史 仕事をしながら人生の価値を創る

学生:資生堂の場合は、さまざまな活動をなさっているわけですが、企業理念と社会に還元するための文化事業とのかかわりなどはいかがでしょうか?

福原:私たちの商品の半分はシャンプー、リンスというような必需品で、また化粧品などの分野は、かなりシンボリックな商品なんですね。したがってシンボリックな商品をはっきりとうったえるには、かなりの文化性が必要で、1930年頃から日本で超一流のデザイナーによるデザイナー集団によって商品を作ってきたわけです。20年ほど前にポンピドゥー・センターで「前衛芸術の日本」展という展覧会をイヴォンヌ・ブルナメールというキュレーターがデザイン工芸部門を担当して、大成功とまではいえなかったんですけどそこそこ成功を博し、その展示に資生堂の商品や販促用のポスターがいくつか取りあげられています。そのとき私が目を見開かされたのは、私たちは芸術を作っているつもりでものを作ってきたわけではなく、商売をするつもりでものを作ってきたのだけれど、30年も経つと芸術文化と考えられるような高度なものとみなされているということでした。つまり、仕事をしながらそういった人生の価値を創っていくことは非常に重要なことじゃないかと思っているわけです。何年か前に、3万8千円ぐらいする『資生堂ギャラリー75周年史』という本を作りました。ここには75年間の日本の近代芸術の発展を私たちが助けてきたことが著されています。こうした活動はずっと継続していきたいと考えているわけです。

学生:日本で行われているメセナ活動で福原さんが注目とか評価をしている企業があったらお聞きしたいのですが。

福原:メセナ協議会がメセナ大賞を出しているのはご存じでしょ?で、過去11年間のメセナ大賞のリストを見ていただければ、そこにほとんど網羅されています。なかには、西武美術館みたいに大賞に選ばれたけれどもやめてしまった所もありますけど。ほとんどは継続しています。それから文化経済学的な意味での地域起こし、地域の活性化みたいなものにつながったメセナとして北海道の六花亭など、いくつかの会社がありますね。

岡部:メセナ大賞をいただくと、公に評価されたということで励みになるし、会社の内部的にも認知度が高くなって、より継続しやすくなるというようなことがありますよね。

福原:そう。この間、実はワタリウムで講演した時に、TOYOTAさんみたいに1兆円を越えるような収益が上がって社会活動は何をしているのかといった質問が出て、ちょっと適当な答えができなかったのでTOYOTAに申し訳ないんですけど、TOYOTAさんは、豊田美術館とか豊田の特定の作家支援とか、そういうことはやっていないんですが、地方を回って、アートマネージメントの講座をやってらっしゃいますね。これは大変な力になっているはずです。

岡部:そのアートマネージメントの講座の一環で、「大学との連携」というテーマのシンポジウムがあり、私もパネラーとして参加させていただいたんですけれど、大変大勢の学生や聴衆が聞きに来ていて、とても良いシンポジウムでした。

福原:いまや実行力のある人を育てることがもっとも大事なわけですからね。

06 日本を感じる作品と東北アジア圏

学生:先程、日本と中国の作品が似ているというお話をなさってましたが、福原さんご自身はどのような作品に日本を感じていらっしゃるのでしょうか?

福原:中国の影響はもちろん雪舟なんかも受けていますけど、それ以後の人たちで、かなり装飾的になってきた時代があるでしょ?琳派とか。それ以前かもしれませんが、たとえば、うたたね草子なんていう草子がありますよね。一度見て私もびっくりしたんですけど、その手法はずっとごく最近まで使われています。内容は多分うたたねしている間に夢を見るというような絵巻物で、墨一色で描かれています。よく源氏物語の絵巻なんかにも結構あるわけですけども45度の俯瞰で描かれています。こうした手法は西洋では、アールヌーヴォー、アールデコまでは起きなかった。あのパースペクティブ、あるいは琳派のような装飾的な空間は、西洋とは違うし、韓国とも中国とも違うように思える。李御寧先生がお書きになった『縮み思考の日本人』は出版されてから、34、35年前に僕が買った時には、すでに36版になっていましたから大変なベストセラーです。李御寧先生は初代の韓国文化長官、つまり文化大臣をされていて、ついこの間、湘南国際村での講演のときには、東北アジア文化圏ということを言われていました。東北アジア文化圏は、中国、韓国、日本。アングロサクソン流な言い方をすると、北東アジア圏になる。だけど自分たちは東北アジア圏だと思っている。で、この東北アジア圏の持っている独自の哲学や独自の美的表現は、非常に大きな力になるのではないかというのが李御寧先生のお話です。とくに世界に、今、異文化の衝突みたいなものが起こってるわけですから、そういうときに、東北アジア圏のものの考え方が重要だと。三カ国は大変似ているけれど、その関係はかなり違ったところがあり、いわばグー・チョキ・パーの関係にあるって言うんですよ。韓国が独立して非常に強い力になってくると、このグー・チョキ・パーの関係が極めて明確に成立するのだけども、そうでないとパーの中国と、グーの日本だけになってしまって、日本は飲み込まれてしまうというのが彼の意見なんですね。韓国にいらして韓国の芸術文化を御覧になると、僕たちの目から見ると中国とも日本ともかなり違うことがお分かりになると思うんです。タンスの飾りなんかを見ると結構三角形、ひし形の模様が非常に多い。本来日本と中国にはこの両方はなかなかない。それから、韓国では山の上に太陽が描かれるような大変スタンダードな図柄があるんですけど、日本や中国にはないんですね。

07 銀座の未来

学生:資生堂の本社は銀座にあり、ギャラリーも銀座ですけど、私自身の銀座のイメージはやや保守的な感じなのです。画廊とかも結構あるけれど、絵画が多かったり。銀座の町について何かお考えがあればお聞きしたいのですが。

福原:銀座の画廊は今や撤退気味。ただおっしゃるように、一時期の近代作家などはみんな銀座の画廊で仕切ってらっしゃった。ただもっと最新の方は銀座じゃない画廊、六本木界隈などに移りつつあります。となると、銀座はどうなるか。いろいろな意見がありますけども、八重洲の新丸ビル近辺、六本木、お台場といった新たな盛り場と競争できる場ではない。ここはちょうど130年前にできたわけです。そこには3つの目的があった。一つは西洋から来る人たちに日本の一番新しい文明を紹介する町、もう一つは日本の人たちに西洋の新しい文明を紹介する町、もう一つは火災を予防できる町。つまり、東京には普通紙と木でできた日本家屋がありますから、江戸時代の大火のように、いっぺんに全部焼けてしまう。当時銀座の1丁目から4丁目には不燃ブロックの耐火街をつくることで、そこで1度火の勢いを止めることができるんじゃないかと考えられていた。だから当時の東京都知事の計画によると、道の幅は今のシャンゼリゼに近いような幅だった。でもそれはとてもできないことで今の道幅になったわけです。ですから他の町とはちょっと違った性格がある。戦後すぐの時期は銀座が盛況で、それから青山に盛り場ができ、渋谷や新宿にまで広がった。でもその人たちがまた銀座に戻ってきてるんです。

岡部:やはり歴史の香りがあるモダニズムの街という雰囲気は変わりませんし、それにひかれる人が戻ってくるのでしょうか。

福原:そういうところありますよね。それからもう一つは、ある程度エスタブリッシュしてから戻ってくる街になっている。

岡部:それはもう当然、土地や家賃の単価がまったく違うわけですから、経済的にエスタブリッシュしていないと無理ですよね。

学生:歌舞伎座もあるし、日本の文化をそのまま保持できるような街にも見えますね。

福原:そう。ですから銀座の街をどのようにこれからしていくかは汐留との関係もあるし、日本橋地区との関係もあるし、今一生懸命銀座の人たちは考えています。

岡部:どうもお忙しいところを貴重なお話をありがとうございました。
(テープ起こし:芦立さやか)

福原義春氏について

資生堂
1931年生まれ。1953年、慶応義塾大学経済学部卒業と同時に資生堂に入社。1975年、商品開発部長。1978年、取締役外国部長。その後、代表取締役常務・専務・副社長を歴任後、1987年7月、第10代代表取締役社長に就任。経営改革、社内の意識改革を推進。1997年、代表取締役会長。 2001年、名誉会長。株式会社資生堂名誉会長.会長・福原信義の長男として東京に生まれる、資生堂創業者・福原有信 福原義春の講演―「変化の時代と人間の力」 

著書
『リーダーシップの真髄―リーダーにとって最も大切なこと』/マックス・デプリー (著), 福原 義春 単行本 (1999/05) 経済界
『企業は文化のパトロンとなり得るか』/福原 義春 (著) 単行本 (1990/12) 求龍堂
『101の蘭』/福原 義春 (著) 大型本 (2004/02) 文化出版局
『至福の時は「オペラ人」 福原義春サクセスフルエイジング対談』/福原 義春 (著), 佐藤 しのぶ (著) 単行本(ソフトカバー) (1998/05) 資生堂
『僕は映画の伝道師 福原義春サクセスフルエイジング対談』/福原 義春 (著), 淀川 長治 (著) 単行本(ソフトカバー) (1997/06) 求竜堂の孫にあたる


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