Cultre Power
museum 豊田市美術館/Toyota Municipal Museum of Art
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
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インタヴュー

青木正弘氏(学芸担当専門監)×岡部あおみ

日時:2003年5月24日
場所:豊田市美術館

01 高校と美術館 捨てる神と拾う神

岡部あおみ:青木さんは長いあいだ学芸員をなさっていて、責任のある職務につかれているので、すでにあちらこちらで、インタヴューもされていらっしゃるのでしょうね。

青木正弘:古いところでは美術手帖とかDOME。美術館に関しては、2001年の8月にロンドンのホワイト・チャペルで「美術館のコミッション・ワークについて」というテーマでスピーチしました。内容は豊田市美術館で1999年に開始して現在も継続中の「川俣正−ワーク・イン・プログレス プロジェクト・イン・トヨタ・シティ」についてです。同じ年の11月末から12月の初めにかけてテート・ブリテンで3日間連続シンポジウムがあり、初日はキュレーター、2日目が建築家、3日目が日本文化の研究者ということで、1日に5名ぐらい、朝から夕方まで連続でスピーチするんですね。その時は「豊田市美術館の建築と活動のコンセプト」というタイトルで、特に作家と一緒に美術館のためにやってきた仕事についてスピーチしました。また昨年の夏には、『aica JAPAN』のために、「建築家と美術館建築」のテーマで草薙さん、塩田さんと鼎談をしましたね。

岡部:青木さんはこの美術館の最初の立ち上げからコレクションの形成に関わっていらっしゃいますよね。
それ以前は、美術館の創設には関わられたことはなかったのでしょうか。

青木:初めてですね。僕、もとは岐阜県の高校の美術教師だったんです。養護学校からスタートして美術教師を12年間やっていました。1982年に岐阜県美術館がオープンして、その翌年に間接的に美術館への転勤の打診があったんだけど、当時は彫刻家を目指していたし、美術館に行くなんて考えたこともない。もちろん学芸員の資格も持ってないし、美術館には行かないって断ったのですが、次の年に突然、「美術館に転勤しなさい」という辞令が出た。また僕がノーって答えることを予想していたのでしょうね。僕のいる高校に、僕には転勤の話がないのに新しい美術の先生が来るっていうんですよ。おかしいなあと思って聞いてみたら、「いや、それは何かの間違いだよ」って言われた。ところが内示がギリギリであったんですね。で、岐阜県美術館に勤めることになったんです。内示があった時に「断ったらどういうことになりますか?」って聞いたら、「それは岐阜県の職員を辞めることだね」って言われて、それも困るなあと思って、転勤した。それが最初ですね。

岡部:それは学芸員としてですか?

青木:学芸員としてです。岐阜県美術館の場合は高校の先生や小・中学校の先生が学芸課に入っていた。学芸員としてか、特に教育普及担当学芸員として。僕は学芸員として入りました。後になって分かってきたのですが、要するに小・中学校の美術の先生は2、3年美術館に勤めて、教頭先生とか、校長先生になっていく。つまり美術館で学芸員勤めをすることが、一つのステップになる。僕の前にも高校教師で美術館に入った方が一人いました。館長をやっておられて、今年退職された方です。その方の場合は、美術館の前に博物館にも勤めていて、教員をやっていたのは最初の6、7年間だけということでした。結局、僕は岐阜県美術館には7年間勤めました。最初に担当したのが、加藤幸兵衛と卓男の陶芸の展覧会。ほとんど毎年、現代美術の展覧会を企画して担当していましたが、自分で学芸員らしい仕事が出来たと実感できたのは、1988年の初めに開催した李禹換の展覧会からです。ところが、この美術館から再び高校に転勤する時も突然だった。1991年3月の終わり、自分が担当していた企画展の最中に突然内示がありました。これにもまたびっくり。僕は12年間教員やったんだけれど、あと3年間教育現場をこなさないと教頭にはなれない。それを聞いて「えっ、俺が教頭?それはちょっと違うなあ」と思ったんです。これからどうしようかなと考えながら再び美術教師として勤め始め、しばらくして豊田市の話を伺った。その時は「捨てる神あれば拾う神あり」って気がしましたね。

photo Masahiro Aoki

02 ジャコメッティに惹かれて

岡部:つねに、ご多忙で、内示による移動で大変でしたね。これまで青木さんは1ヶ月とかの長期滞在を海外でなさったことはないのですか?

青木:ないですね、全然。もちろん27、8歳の時に1度、1ヶ月間ぐらいのヨーロッパ旅行はしていますけど、海外に滞在したとか、専門的に美術史を勉強したとか、まあ学生時代と美術教師の時にちょっと勉強した程度で、岡部さんが想像されるような経験と体験はなかったですね。

岡部:岐阜県美術館で担当のお仕事をする機会に、海外に個性的な現代美術などを見ることができたということでしょうか。豊田市美術館の開館時にすばらしい海外の現代美術を収集なさっているので、それまでどのように感性を磨かれたのかを知りたくて、お聞きしているのですが。

青木:岐阜県美術館にいる時は、イタリア彫刻の展覧会準備のためにイタリアには何回か行きました。韓国にも何度も行っています。ただ自分は、美術の先生の影響で彫刻を創り始めた高校生の頃から彫刻家のことはよく知っていたと思います。その先生の友人で大学の彫刻の先生が、ジャコメッティとかヘンリー・ムアの洋書を持ってこられて、よく見せてもらいました。彫刻をやっていましたから、ジャコメッティは憧れの彫刻家。当時はまだ彼も生きていましたしね。美術部の仲間と、誰のデッサンが一番ジャコメッティに似ているかを競ったりしていた。そう言えば、僕はジャコメッティと親しかった矢内原さんの講演も学生時代に聞きましたよ。当時はジャコメッティ、ヘンリー・ムア、それからマリノ・マリーニとかに惹かれていましたね。話は前後しますけど、美術館に転勤になった時、僕は学芸員として展覧会をつくる手法はまったく分からなかったですね。

岡部:教職の講義はとられていても、ミュゼオロジーの勉強はなさっていないわけですしね。

青木:全然していないわけですね。でも現場で仕事を覚えていく段階で、ほかの学芸員がやっている方法に「何かちょっと違うんじゃないかな。」って感じがしてきた。先輩たちのやり方を見ていると、現代美術の展覧会でも、例えば作品をじかに観るとか、あるいは生きている作家に会うことをしないで、画商さんと話して出品作品を決めていく。それはちょっとおかしいと思った。また先輩を見ていて、作品の評価の仕方が、帰納法的な感じがしたんです。つまり自分の目で作品を見て判断するのではなくて、資料をもとに「かくかく、しかじかだからこの作品はいいはずだ」とか、「歴史的にみて重要なはずだ」とかという判断の仕方をしているという感じがした。コレクションにせよ、展覧会にせよ、作家と仕事をするときは作家が生きていれば必ず会う。作品をコレクションする時は、まず自分がこの作家においてベストの仕事をしている時期はいつかっていうことを自分で探る、そして自分の目で作品をじかに観て判断することをしなくてはいけないのではないかと思った。まだ分からなかったからそういう方法をとったという事もあるんだけど、当時は本当によく動きました。ひとつの展覧会で30人以上の作家に会うとか。今になって思えば、それが学芸員としての体力をつけてくれたのだと思います。

岡部:どのぐらい大変かはわからないままに、ただどんどん仕事をしていくうちに、たくましくなったということですね。

青木:そうそう、分からないから。僕ね、“土”をテーマにした「土と炎」という展覧会をやったんですよ。どういう展覧会かというと、僕の学生の時に辻晋堂と八木一夫という先生がいた。で、辻晋堂も八木一夫も土を使っているんです。辻は彫刻家で八木は陶芸家。八木さんは器も作るけど、器じゃないものも作っている。「二人の作品は、いったい何が違うのか」ということを自分で確認したかった。たまたま大学の辻先生の仕事場に来て仕事をしていたイサム・ノグチにも会っていて彼の陶の仕事にも興味を持っていました。展覧会の時には彼はもう亡くなっていましたが、彼の作品も何点か出品しました。この展覧会のために土を使う彫刻家と陶芸家を30人程選んで、一人ひとり会っていった。で、その時に作家に会うって本当に大変だ、苦しいことだなと思いました。僕も分からなかったことがあったけど、陶芸家には今から思うとずいぶん失礼なことを言っていたと思います。「陶芸家は芸者のように見える。現代美術の中に、自分からは出て行かないけれど、お声がかかるとすぐにお座敷に出て来るって感じがする」とか生意気なことを言っていた。中村錦平さんは、怒って出品してくれましたね。作家に会うということは、「お前は何者だ?」って逆に問われることで、非常に厳しいことだとその時に分かりました。でもやり方を知らないから、とにかくぶつからなきゃいけないし、それはもう言葉には出来ないんだけどね。

松沢宥 「宥密法」展 2003 photo Masahiro Aoki

03 コレクションを召し上げる現代が主軸

青木:豊田市美術館の最初の彫刻家の展覧会はトニー・クラッグでした。彼のことは全然知らなかったんだけど、横浜で開催されたアート・フェアだったかな、そこにロンドンのリッソン・ギャラリーが小さなブースを出していて、床に変な形のガラスが何個か置かれていました。立派なカタログが積んであって、それを見て彼の仕事にびっくりして、豊田でやる最初の彫刻家はトニー・クラッグって決めたんですよ。

岡部:直感的に?

青木:うん。で、その次の年の97年にはジュゼッペ・ぺノーネ展。この展覧会はボンの市立美術館のシュライヤー副館長から「うちでペノーネ展やるけど、豊田でもどう?」ってオファーがあって、開催したんですけどね。ペノーネには前から目を付けていて、コレクションするために会いにも行っていたし、よく知っていた。すでにアルテ・ポーヴェラのコレクションがかなりのボリュームになっていましたし。クラッグの話に戻りますけど、展覧会のためには、とりあえず彼に会わなきゃいけない。で、クラッグにすぐ会いに行って、「あなたの展覧会をしたい。しっかりしたコレクションもしたい」と。幸い、当時は作品収集のための予算も十分にありました。クラッグにも会って、彼がこれは絶対に売らないと言っていた作品も召し上げたしね。(笑)

岡部:そうなんですか。作家が嫌だって断って、渡したくないっていう作品まで収集できたのですか。

青木:もういくつもの美術館が購入したいといって来てるけど、これは自分で持っていたいって。

岡部:いったいどうやって召し上げられたんですか?

青木:それはねえ、もう根気と粘り。「豊田はあなたの展覧会をするんですよ。だからこの作品はどうしてもコレクションにしたいんだ」と勝手なことを言って。ひとつは1979年の『スペクトラム』という作品。ソフィー・カルの『盲目の人々』も根気と粘りという同じ手法でコレクションにできました。

岡部:あれも素晴らしいですよね。彼女の家に訪ねて行って、「どうしても欲しい」って言われたんでしょうね。

青木:『盲目の人々』はフランス語版のものがひとつしかない。彼女、フランス人でしょ。『なぜこれがアートなの?』という展覧会の時にお借りしたのはアメリカのコレクターのもので英語版だった。これはいい作品だと思って、カルと仕事をしている東京の小柳さんに言ったんです。「欲しい」って。彼女がそれをカルに伝えて交渉してくれたんだけど、その時は「カル、駄目って言っています」で終わった。でも諦めきれなくて、今度は自分で会ってお願いしてみようと思って、ヨーロッパに出張した時にパリに会いに行った。それで「あなたの持っているフランス語版をコレクションしたい」と言ったら、カルは「ポンピドゥーが欲しいと言っているから駄目だ」と。「じゃあ、アメリカに英語版があって、ヨーロッパにフランス語版があるんだったら、アジアに日本語版を作ったらどうか」って提案した。「うーん」って考えて「考えてみる」って答えてくれて、作りそうなところまでいったんだけど、しばらくして「やっぱり作らない」って返事が来たんですよ。それから2年か3年の間、ことあるごとに「欲しいんだ」ってカルにメッセージを送り続けて、それで彼女が根負けした感じだけど、どういう訳か結局、アーティスト・プルーフのフランス語版をコレクションすることができたのです。
実は今日もそんな話をしていたんだけど、スペインのアントニー・タピエスについては、だいたい僕の中でコレクションしたい作品の序列がついているんです。当時、タピエスの作品で一番欲しいものがあったんだけど、その作品はタピエス財団が買い戻して美術館の中に入れちゃっていたから駄目だった。「でも何とかならいか」ってまだあきらめ切れずにいたんです。そうしたらタピエスが「そんなに言うなら一度俺に会いに来い」と言ってくれた。それでバルセロナまでタピエスに会いに行ったら、確かにその作品があったんですよ、美術館に。「あ、あった」。その後でタピエスが仕事場でいろいろな作品を見せてくれたんだけど、「お前が欲しいのはどんな作品だったかな」って聞かれて、「美術館のあの作品だ」と答えたら、「あのような作品なら、今でも俺は描くよ」って彼は言ったけど、この時の答え方は難しく厳しかった。「それは望まない」って言わなければならないでしょ。だってねぇ、90年代と60年前後の作品とは違うわけだから。そうでしょ?だから、「それは望まない」って恐る恐る答えました。1番手は駄目だけど2番手の可能性がちょっとでもあるから、それがどうなるか。3番手ぐらいまで決まっていますから。で、その水準以下の作品のオファーが次々とあっても全然手が伸びないんですね。現在もタピエスはコレクションしていません。ここまでのコレクションと展覧会に関する話は、見事に反役所的で反行政的でしょ。今、脇の下に汗をかいていますよ僕は。でもそのように決断していかねばならないのだという確信もありました。トマス・ホーヴィングの『名画狩り』や『謎の十字架』、それにアーロン・エルキンズのクリス・ノーグレン学芸員にはずいぶん勇気付けられました。(笑)

岡部:例えばソフィー・カルの作品にしても公立美術館ですから、年度内予算などの問題もあったでしょうし、もし作家がオーケーを出したときに、ちゃんと予算を取って支払えればいいけれど、それがスムーズに出来ないケースもでてきますよね。その場合はどうなさるおつもりだったのですか?逆に、予算があるので、それを使うために買わなくてもいいような高いものを買うという話も、昔、ある公立美術館で聞いたことがあります。

青木:難しい質問だけど、ここ2、3年は他の美術館と同じように一般会計で作品の収集をしていますが、それ以前は、財団を作ってそこが作品を収集して、それを市が買い戻すという方法だったんです。したがって、議決を経ないで財団が作品を買うことができた。で、そのシステムの時は我々も足が早く、対応力もありました。多い時は年間に20億円の予算がありましたから、年に2、3回収集委員会を開きました。

岡部:普通は1回が多いわけですが、数回なさったわけですね。

青木:はい。だからそういうことができたのです。豊田に来る前に前市長に始めてお会いした時、「開館までにコレクションを100億。建物に100億」と言われたんです。なおかつ、その時に非常にワンマンな市長だとお見受けした。それで「あらっ、これはいける」と思った。

岡部:その直感の通りだったのですか?

青木:その通りでしたが、バブルの崩壊直後という時期で、開館までに85億しかコレクションは出来なかった。しかし開館までに85億円コレクションできる美術館は、日本では他に類をみないでしょ。建築は123億円かかったんですが。

岡部:つまり建築の方に予算の比重が24%ほど傾いて、使われてしまったということですね。

青木:そうです。今年で準備室から数えて13年目ですけど、コレクションに費やした費用は130億ぐらいです。ここは近・現代美術館ですが、現代美術館というよりも現代美術を美術館活動の軸にしなければいけないと。

岡部:それは最初から決まっていたのですか? 

青木:それは最初から決まっていなくて、美術館構想委員会などでは、近代を軸にした方向性を持っていましたね。僕はここで仕事をすることになってから、しばしば書いてきたけど、「人々が潮干狩りを終えた浜辺で大きな蛤を採集しようとしてもそれは無理」。つまり、自動車でいえば生産性のないクラッシックカーですね。

岡部:近代美術を収集や活動の軸にはしないと最初から考えておられた。

青木:そう。豊田市美術館は近・現代の美術館ですから近代美術のコレクションもするけれど、それにはむしろ時間をかけよう、チャンスがあったら収集しよう、と。でも軸は、現在生産されているものじゃないといけない。だから、クラッシックカー集めはしない、と。生産されているものに軸足を置いた収集活動と展覧会活動をしないと将来性がないじゃないですか。質の良い作品のほとんどはすでにどこかに入っていて、残りものに高いお金使って。でそういうことをまだまだやっているところもありますね。お金は将来性のある生きた物に使う。何というか美術館を背負っていけるようなパワーのあるコレクションをつくりたいと僕は考えていた。僕自身の中では、現代を活動の軸にした美術館をつくるということに何の迷いも無かったです。

井田昭一、ジョゼフ・コスース、ジェニー・ホルツァーの作品 photo Masahiro Aoki

04 展示空間がともかく大事

岡部:美術館活動は、まずコレクションからとおっしゃってますからね。

青木:そうです。それは最初からの一貫した考え方で、「日本の美術館の問題点は何か?」と。それはコレクションがしっかりしていないこと。予算が少ないこともあるけれど、でも予算だけのせいにはできない。それはね、欧米の美術館を見れば分かります。 

岡部:言わなくても当然ですよね。

青木:そうでしょ。まず、学芸員としてどんなレベルのどんな作品がコレクションされているところで仕事ができるか。もう7、8年前ですが、ヴェネチア・ビエンナーレでたまたまポルトのセラルヴス美術館のトドリ館長に会ったんです。それから彼がほんとに几帳面にポルトの美術館の展覧会案内などを送ってくれました。でもその美術館のことはそれ以上には知らなくて、まあ一度機会があったら行ってみたいなと思っていました。ところが今年の初めかな、ポルトの美術館でフランシス・ベーコンの展覧会があって、豊田のベーコンを借りたいとその館長から出品依頼がきて、お貸しした。その時に豊田の学芸員がクーリエで行ってトドリ館長に会い、彼がセラルヴス美術館のコレクションカタログを持って帰った。僕はそれを見てびっくりして、これはやっぱりお金じゃないな、と思ったのです。そんなに大きなお金をかけたわけじゃないけれど、アメリカの現代美術もきちっとコレクションしている。小さいけれど本当に良いものを。そういう意味ですごいな、と思いました。そうしたら、2003年の4月末だったか、トドリ館長がベーコン展をやった後で、テート・モダンの館長になった。僕はトドリ館長も偉いけれども、それを受け入れるイギリスも偉いなと感心した。だってイギリスにはそのレベルの連中がいっぱいいるじゃないですか。それでも外国人の彼だ、というその懐の深さに。

岡部:評価ですよね。

青木:そう評価。だからね、そういうことを聞くと僕は焦りを感じます。日本の美術館はもうどれくらい引き離されているのかと思うと。今、仕事をしながら美術館の将来のことを考えると、これからは日本だけで閉じていてはいけないと切実に思います。僕は言葉はよく分からないけれど、外国に行った時に感じるんですよ、空気で。次に美術館の展示空間ですが、建築家の谷口吉生さんには実施設計の段階から豊田市美術館のヴィジョンをきちんとお伝えするように努めました。それを実現するためには、どのような導線でなければならないか、またどのような展示室でなければならないかを課題の中心にすえて、谷口研究所のスタッフと美術館のスタッフでアイデアを出し合い、両者の間でずいぶん議論しました。谷口さんと考え方の違うところもありましたよ。僕の考え方はやっぱり自分自身の体験に基づいたものです。例えば、オープニングの展覧会は、自動車の町として豊田市と姉妹都市関係にあるデトロイト市の「デトロイト美術館展」でしたが、その準備で何度かアメリカにも行きました。で、その時にデ・メニールとかフォート・ワースなどアメリカ中部の美術館を見た。たまたまフォート・ワースにある有名な建築家ルイス・カーンがデザインしたキンベル美術館を訪れた時に、キュレーターが向かいの美術館でピカソの展覧会をやっていると教えてくれた。確かニューヨークのグッゲンハイムで開催された「ピカソと鉄の時代」という展覧会が巡回していたんです。客はほとんどいなかったけれど、自分にとってその展覧会の展示がものすごく強烈だった。要するに展示がいかに大切かをはっきり教えてくれた。例えばジャコメッティの彫刻が小さな作品なのに広い空間の中にポンって置いてある。それからアメリカの鉄の彫刻家、デヴィッド・スミス。彼の作品はとても大きいのに狭苦しい所にぎゅうぎゅうに詰めに入れてあるとか。それを見た時に「なるほどなぁ。展示するってことは、やっぱり作品が解ってないと出来ないことなんだな」と思った。それで、これは展示をきちっと出来るようにならないといけないと思いました。日本の美術館の展示を思い返すと、ほとんどが並べているだけだ。したがって、やっぱり展示がきちっと出来る空間を美術館の中に造ることが大事。だから豊田市美術館の特徴は移動壁が無い。壁を床からきちっと造るという構造を谷口さんにお願いしたんですね。展覧会ごとに壁を造るのはお金がかかるので、その面ではあまり評判がよくないんだけど。(笑う) キンベル美術館は、珍しく移動壁を使っていますが、海外の美術館ではほとんど移動壁はない。ここは基本的に展覧会ごとに壁を立ち上げる方針にして、お金はかかるけどきちっとした空間ができる。特に現代美術を展示する時には大切です。日本の場合はほとんどの美術館が移動壁です。それから移動展示ケースもこげ茶色の普通のではなく、全部自分で基本デザインをして谷口さんに渡し、それをドイツのグラス・バーハンという会社が作ったんです。そうやってひとつ一つ考えながら整理して見ていく。要するにお客さんに観てもらう最良の展示環境を造る必要がある。ただしね、建築家と我々とはまた視点が違うので、それはバトルもありました。

岡部:谷口さんがデザインした香川県丸亀市の猪熊弦一郎美術館と比べると、豊田市美の展示室の半透明のガラス壁は、氷のようなイメージがあって、やや冷たくて寒い感じもしますね。

青木:ちょっとクールな感じがあると思います。

岡部:あのガラス壁は青木さんと谷口さんのお二人のアイデアだったのですか?

青木:いえ、谷口さんです。あの空間は議論のひとつだったんですね。特に通路のところにあるガラスはいいんだけど、展示室の周りがガラスという部屋があるでしょ。あれはやっぱり最初、抵抗があった。

岡部:展示する作品が、立体とか彫刻だけならいいのですけど。

青木:まあそういう意識はあったんだけど。美術館の中の彫刻って可哀相ですね。日本の美術館は、絵画を展示する事が第一に考えられていて、彫刻は観葉植物並みに置かれていることが多い。今ではどちらかというと彫刻を展示するスペースとして考えていますが、ご覧になってビックリしたでしょ。僕も周りがガラスの展示室は考えたこともなかった。

岡部:美術館としては難しいですね。

青木:ところが谷口さんにとっては最も大切にしたいスペースの一つだった。だからこれは彼も譲れない。でも僕も譲れなかったこともありましたから、お互いにぎりぎりのところで折り合いを付けた箇所は幾つかあります。例えば僕が豊田に来た時は、クリムトだけで、そのクリムトが何かこう、一点豪華主義というか、そんな感じがしたんですね。今はもうそういう時代ではないと思った。それで、ちょっとお金がかかったのですが、エゴン・シーレとココシュカ、そこまではとにかくタブローでいこうと。つまり、ウイーン分離派を何とかまとめようとしたんですね。で、谷口さんは、そのクリムトとシーレ、ココシュカの作品は当時の時代の雰囲気がある部屋を造って展示したい、という考えだった。僕はどうかというと、作品の額の外に何もそんなことをする必要はない、と。絵には額の内側で語ってもらえばよいと。そこが全く違っていて。

岡部:もし、世紀末風な特別の展示室をひとつ作ってしまったら、それ以外にはその部屋は使えなくなってしまいますからね。

青木:そうですね。分離派専用の展示室にしてしまうと後に影響があるので、そこはお願いして僕の主張を通していただいた。展示室は全てホワイトキューブを基調にした今の形になったんです。それに豊田市美術館は常設展示室と企画展示室を固定化していません。つまり、それぞれが特徴を備えた9つの展示室にフレキシビリティを与え、展覧会の内容に相応しい部屋を使って展示ができるようになっています。

05 外国の画商に舐められてはいけない

岡部:豊田市美術館のコレクションはある意味では青木さんの独断という感じでコレクションが形成されてきたといえますね。

青木:それはどの程度の声の大きさで言ったらいいかのか分からないんだけど、独断と言ったら独断かも知れない。僕はいろんな所のコレクションを見てきて思ったんだけど、一般社会のほかの事と比べると、作品の良し悪しに決定的な答えはない。そこで、僕が自分の中で考えている美術館の、特にコレクションについて基本的に重要なことは、責任と強いリーダーシップを持って、誰が実践するかということが、その内容に大きく影響するということ。

岡部:ヨーロッパなどはやはり館長が大きなリーダーシップをもっていますから、全体的な美術館の方針はあるとしても館長によってコレクションの実質はかなり変わってきますよ。

青木:そうです。だからそのようにしないと、多数決で手を挙げて決めた作品、僕の感覚だとそうやって入ったものは、やっぱり弱い。それより誰かが、僕じゃなくてもいいのだけど、強い思い入れを持っているとか、強い主張で「絶対にこれ!」という作品のほうが展示室で働いてくれているように感じます。

岡部:日本で豊田市美以外に、そういう美術館は他にもありますか?

青木:先ほどお渡しした『REAR』という小雑誌上でもそんなことを話していて、「青木さん、あんまりそういう事ははっきり言っては良くないんじゃないですか」って自分の部下には言われたのですが、そういう事をまた言わないのが、日本です。

岡部:だから風通しを良くするためにも言ったほうがいいですよ。

青木:僕は、はなから褒められることはほとんどないのだから、はっきり言わないといけないと思う。自分の目で見ていると「なぜこの作品を選んだのか」、それは僕も誰かに言われているのかも知れないけれど、他館に行ってコレクションを観ると、例えば、なぜタピエスの作品を買ったのか僕には分からない。タピエスはいいけれどなぜこの年代のものを選んだのか。そういう事が分からないものが多い。そういう意味で、豊田が制作年代に非常にこだわってコレクションしてきたのは、まだまだ小さなコレクションですが、シュルレアリスムの時代ですね。ダリとかエルンスト、ミロ、タンギーなどがありますが、かなり厳密にこだわりました。金額も高いですが。マグリットの作品は恐らく、代表作の一つだと思います。購入時のその判断は、もう間違ったらごめんって言うしかない。でもその代わり何人かの作家に対しては、絶対的な自信を持ってないといけない。多分作家と作品に強い思い入れがないと、皆で多数決で決めた作品は、当たり障りのない中庸のものが選ばれるというだけで、強い作品とか、人を引き付ける強い吸引力のある作品は選ばれてこないように思います。なぜそういう事が言えるかというと、美術館に来るお客さんは、仮に千人が来ても、それは千人というマッスではなくて、作品と対峙するのはいつも一人。つまり一人対作品という関係が千通りあるということだと思うんですよ。

岡部:たとえ思い込みの強い人がいたとしても、その人が美術館できちんとその作品を買えるようなシステムになっているかどうかも問題ですよ。毎回、十人近い人数の委員会を通さなくてはならないとか。

青木:そうです。びっくりしたのですがこんな経験もあります。フランスだったか、イギリスだったか、外国の画商さんが実際にオファーに来て話したのですが、ファイルを出して、一枚一枚作品の写真を見せる。それに対して僕がいちいち「これはおもしろくない」とかコメントする。で、全部終わった時に「こんなつまらない物しかないの?この作家の良い作品がひとつも入って無いじゃないか」と言ったら、「じゃ、こっちのファイルはどうだ」って、もうひとつ出す。(笑)

岡部:つまり、最初からいいものは見せない。相手の眼をためす。(笑)

青木:だから僕はひょっとしてと思って「ほかの美術館ではどうなの?」って聞いたら、ほとんど最初のファイルで「じゃ、お預かりしてちょっと相談します」と。呆れますよねえ。だからもう、すぐ喧嘩腰になっちゃう。相手が「舐めているな」って分かると、九割九分スパッと切る。そうしてその後、やっとまともなお付き合いができるようになる。「青木は顔は日本人だけど、ハートは全然日本人じゃないね」って言われるけれど。残念だけど、外国の画商が日本を舐めてきているという気がしますね。

06 6億と12億の展示室

岡部:現代だと、作家から直接買うことも多いのではないですか。

青木:価格も高くなるし、何でもギャラリーを通すということはないですね。作品によっては作家とダイレクト。ドイツのウルリッヒ・リュックリームとか、フランスのロマン・オパルカとか、何人かはダイレクトで、画商を通さないことは多いです。

岡部:東京都現代美術館は前からのコレクションがあったので、新たなコレクションを一からはじめるわけにはいかなかったのですが、豊田市美以降、熊本市現代美術館や金沢21世紀美術館など、学芸員が自分の時代の芸術というかたちで、現代のコレクションをやりやすくなったように思いますね。それまでは割と難しかったのではないですか。

青木:そう。現代は分からないという先入観が行き渡っていますからね。でも豊田は少し違っていたかな。随分前の話だけど、東京の方から来られたお客様から頂くお褒めの言葉で、「青木さん、豊田のような田舎でよく現代美術を軸にした美術館が出来たね」と言われた。「違います。豊田だから出来たのです」って答えていた。本当に正直な気持ちなのね。東京だったら圧力がすごいし、まして僕なんかにそんな仕事をさせてくれるはずもない。豊田は雑音が少なく、静かに考えて大胆に実践することが出来た。だからその点は非常にハッピーですよ。僕が豊田でやる気になったのは、コレクションにかなりの予算を出してもらえそうだということと、建築家の谷口吉生さんにお会いしたことが大きい。それで自分の中でコレクションの骨格のプランを考えることができた。それは大変なプラン。この展示室はこれでいくと12億円、これでいくと6億円とか。そういうことを具体的な作品を想定してやっていましたから。最初はアメリカの抽象表現主義からでした。自分が特に関心があるからということではないけれど、シュルレアリスムをやろうとも思っていました。市場を見ていて、まだ大きな蛤が採れる可能性があると判断したんです。シュールがある程度出来れば、抽象表現主義だろうと、最初にそれをやろうと思っていた。丁度その頃、都現美もやっていたでしょ。で、そのコレクションとお金のかけ方を見て、これは多額の予算を使うだけで大変だなと思ったから、急ブレーキを踏んだ。アメリカの現代美術は、ミニマルとコンセプチュアルの方にそっと移行して、ヨーロッパの方に焦点を移したんです。

岡部:状況判断ですよね。やっぱり。

青木:市場を見ていないといけないし、結構熱くならないといけない。熱くなって強い思い込みを持ってないといけないんだけど、一方で冷静に市場の状況を見て、状況判断しないといけない。自分が引き受けた以上は、決まった予算の中で可能な、最高のコレクションはこれだと決めて、確信を持って進めるしかありません。間違っても責任の取りようもない。だけどベストを尽くす。もちろん内側にはいろいろ小さな抵抗もある。だけれども、自分の信念っていうか、志というか、それしかないと思う。収集は客観的な視点で、と言うともっともらしく聞こえるけれど、それは違うな。

岡部:青木さんとしては実際に豊田市美のコレクションをここまで育ててこられて、今、振り返ってみたら、ご自分に何点ぐらいつけますか?かなりやりたいところまで出来たのではないかと思うのですけれど。

青木:そうですね。70点で合格点あげます。(笑い)

07 評価のジレンマ

岡部:日本ではすでに豊田市美の実績は確立されてるところもあり、高い評価もされているわけですが、美術館がオープンしてからの時間の流れの中で、美術館と観客との関わりは青木さん自身はどのように変わってきたと思われますか?

青木:僕は美術館に来てくれる人のために美術館の仕事をやっているわけです。ところがそこからが問題で、我々の大きなジレンマは、結構遠い所から、あるいは美術の専門の方からは良い評価を頂いているけれど、現代美術は分からないと言って、市民がなかなか来てくれない。この美術館の来館者は、地元が3割で外からが7割。普通は割合が反対になるのだそうです。豊田市美術館に興味を持ってくれた大学の先生が詳細なアンケートを取ってくれて、それを分析した結果、「この美術館の地元とそれ以外の来館者の比率は理想的だ」と評価してくれています。ところが、行政から見ると・・・。

岡部:それは逆だろ。市民の税金使っているんだからって言われますよね。

青木:ええ。だから市民にもっと還元しなきゃいけない。それが大きなジレンマ。美術館だけの問題じゃなく、市民に最大公約数的に満遍なく、享受してもらう、皆に喜んでもらうのが行政の本分です。ところが、美術の本質はそういうものじゃない。心の中では、基本的に相容れないと僕は思っている。そこのところを上手く折り合いをつけながらやるんだけれども、今は不景気で皆、考え方が縮んでいますから、政治もリーダーシップがないでしょ。そうすると、僕はよく上手いこと言うな、と思うんだけど、どのレベルのトップも小泉さんも同じような事言っていますよね。「国民の目線で、県民の目線で、そして市民の目線で」なんて。それは、今、行政で流行っている「市民のニーズ」っていう標語です。ある意味で市民を馬鹿にした話で、行政とか政治のリーダーだったら、リーダーシップを発揮して引っ張っていかなきゃいけないのに。ヴィジョンを示さないで、市民のニーズとか言ってポイントを曖昧にする。

岡部:人任せ。昔から日本ってそういうところがあったのではないですか?つまり、きちんとした文化政策がないとおかしいのに、その努力をせずに、身近な手ごろな理由をつけて済ませてしまう。

青木:責任回避ですよ。市民には耳触りが良い言葉で、「あなた方の望む事をやります」と。でも、それだけをやっていたら美術館は何だか訳の分からないものになる。もちろん美術館はお客さんに来てもらわないといけないので、そこが難しいところだけれど、最近は啓蒙っていう言葉も全然聞こえてこない。ほとんど興行施設と一緒。少々難しいとか抵抗があっても、お客さんに来て観てもらおうというのではなくて、たんに気持ち良いとか分かり易いとか、そういう方向を目指してきている。最近の美術館のチラシのフレーズを見れば明らかですよね。豊田市美でももちろん、パリのプチパレのコレクション展とかやるんですよ。今年から導入するようにしたから。でもそれだけではなく同時に現代美術の「宥密法」もやりますと。そういう工夫が必要です。それでプチパレ展を観に来たお客さんには現代美術とコレクションも観てもらうように、まあこれは美術館の普及活動とも関係があるんだけれど、そこで我々も頑張らなきゃいけない。去年は若林奮さんの展覧会を開催して、ベスト5にも選んでいただいた。若林さんも文部科学省の芸術選奨をお取りになったのですが、それは「本当に良かった」と思う一方、それは「専門家だけの話だろう、市民はあまり観に来てないじゃないか」と、これで済んじゃう。なんかもうひとつ割り切れないですね。それと、僕が美術館教育の担当者に言い続けているのは、子どもの問題です。以前、毎日新聞の夕刊の一面だったと思うけれど、美術館教育を紹介した特集記事があって、それ見て、「ああ、間違っているなあ」と思ったことがある。要は子どもに媚びるような美術館教育が随分多いと思った。僕は美術館は基本的には大人の場だと考えています。子どもの遊び場ではない。子どもがクイズをして楽しみに来る場所ではない。美術館は働く大人の場所だというのが大前提。で、そういうところに子どもが来てこそ意味がある。大人の場所にお父さんかお母さんに手を引かれて来た子供が、「何かお父さんは、不思議なところに来るんだな」と思う。これが大事なのであって、クイズやって面白いから来る子どもにしてしまってはいけないと思っているのです。

岡部:子供たちはかなり来ているのですか?

青木:毎年、市内の小学校5年生は全員来ますし、中学校も2年生だったかな、全員来る。ただ、授業の時間数とか先生が子供を引率して外に出る時の責任問題などがあって、対応の仕方が堅いんです。学校のシステムも改善しなきゃいけない。まだまだ問題が多い。日本に最初の近代美術館が出来てほぼ半世紀経ったんだけどね。

08 六本木にできる国立新美術館

青木:このところずっと自分の中で、放っておくわけにはいかないと思う問題があった。それまではそれほど感心はなかったのですが、2001年11月にロンドンのテート・ブリテンで日本の美術館をテーマにした3日連続のシンポジウムがあって、僕は1日目に「豊田市美術館の建築と活動のコンセプト」についてスピーチした。2日目に黒川紀章さんが、六本木の仮称「ナショナル・ギャラリーの建築」(名称を公募した結果、「国立新美術館」に決定)についてスピーチされた。そのスピーチの最中に、聴衆からいかにも馬鹿にした感じの鼻で笑うような嘲笑が起きた。びっくりして、その時同じように招待されていた南條君とか、水戸の逢坂さんとか、金沢の長谷川さんたちと、「いや、これはちょっと大変な事だ」って、スピーチの後で話し合った。日本のズレを実感して帰って来て、それ以来、ナショナル・ギャラリーの事を話しています。僕は東京の人に会うと、「豊田に来て僕と話す時は声が大きいけど、東京に帰ると声が小さくなっているんじゃないの」ってよく嫌みを言う。新しい美術館が出来ることは仕方がないかも知れないけれど、とりあえず「ナショナル・ギャラリー」という名称だけは止めてくれと。

岡部:ナショナル・ギャラリーは、ロンドンにしても、ワシントンにしても、もっともその国の代表的なコレクションをもつ象徴的な美術館の名称ですから、そういう名前だったら誤解されるし恥ずかしい。

青木:イギリス人はロンドンのナショナル・ギャラリーをイメージして、来てしまいますよ。で、会場に入ったら、裸婦が林立している団体展だったなんて、僕はそれだけは許せないと思った。去年、愛知県から出ている民主党の伊藤英生という国会議員が豊田に展覧会を見に来た。館長が案内すると言うのを、「いや僕がします」と言って、彼を案内した。案内しながらナショナル・ギャラリーの問題を話したのです。そうしたら彼はちょっと関心を持った。それでナショナル・ギャラリーの資料をどんどん送って、電話でなぜこれが問題かという事を彼に説明した。つまり「ナショナル・ギャラリー」という名称では、関係のない日本人までみな恥をかいてしまうと。特定の偉い方がそういう力をお持ちでやられるのはいいんだけれども、「関係のない人が恥をかく事は許せん」と言って、彼に「それをなんとかしてください」とお願いした。そうしたら去年の7月に、彼から内閣総理大臣の小泉さん宛てにナショナル・ギャラリーに関する質問状を出したという電話がありました。しばらくして小泉さんから、「今は仮称でナショナル・ギャラリーと呼んでおりますが、おっしゃる事を考えて、今後関係者と相談して、新しい名称を考えます」という内容の答弁書が届いたという連絡があり、彼は質問状と答弁書のコピーを送ってくれました。今年の3月まで名称の公募をして、何人かの美術関係者が委員になって協議をして決める事になったはずです。蜂のひと刺しになればいいかなと思って、僕は伊藤英生さんに賭けた。それが何とか良い効果が出てくれるといいなと思います。

09 ギャンブラーの勝負勘

岡部:20世紀の時はこんな状況は19世紀の話で、1世紀も遅れてるとか言っていたのに、もう21世紀ですから、2世紀も違ってしまいますね(笑)。

青木:だからほんとに焦ります。行政とどこかで折り合いをつけないと、予算にも影響するんだけれども、過激にならざるを得ないところもある。まあ自分があと現役5年だというのもあるけれど。それと豊田市が誤解されているのは、予算も豊富で、現代美術にも理解があると思われていること。僕からすると、現代美術を軸にした美術館活動に対して、豊田市は他の自治体よりも厳しいかも知れないと思うことがあります。

岡部:それなのに、イメージとして、なんかすごく理解のある自治体に思われていますよね。

青木:美術館が出来た時に美術手帖から、豊田の美術館の学芸員を行政と闘った英雄のように取り上げ、取材したいと言われたんです。でも僕はノーって言った。そんなことしたら三日天下で、その後はね、冷や飯食いになるに決まっている、と。僕が原稿書くから、それでやってくれれば僕たちはもうちょっと頑張れると。そちらを記事にしてもらった。そんな事をやったせいもあるかもしれないけれど、豊田は理解があって、なおかつお金があるから出来ると誤解している人がいる。僕はお金があっても出来るわけではないと思っている。単年度の枠のなかで、年間20億円もの予算を費やして、皆さんに納得してもらえる内容の作品をコレクションにするということは、決して容易なことではありません。これは多額の予算を持って収集の仕事をやった者にしか分からない、などと言うと、また嫌味かな。開館時に出したコレクションカタログには、「良い作品は高くても買え」と堂々と書いています。あの頃の青木は強かったです。新しい市立美術館を造る計画があると、視察に来られるでしょ。そうすると、役所の方が、「いやあ、うちも青木さんのように、中心になってやっていただける方をこれから探さないといけないんだけど、どういう人がいいでしょうね」って時々聞かれることがあった。確か府中市の役所の方も視察に来られて聞かれましたね。「そうですね、特にコレクションに関しては、第一にギャンブラーじゃないといけないですね。次に演じられる人。思い込みの強い人。出来れば美術史をちょっと知っていて、語学が出来れば言う事ないですね。そして涼しい顔してやっていける人。美術史の知識があって、語学が堪能なら出来ると錯覚しないように」って念を押したんですけど。非常にしんどい仕事だけれども、何かひとつ具体的なヴィジョンを持ってやらないといけない。僕たちの仕事は、要はヴィジョンや言葉を具体的にする事です。日本の美術館はそこのところの力が弱い。例えば豊田のエルンストの作品のことだけれど、最初のオファー価格は確か一億円程だった。その後、シカゴの美術館のエルンスト展で偶然その絵を観て、僕は一目惚れして、絶対にこの作品を豊田の美術館の壁にかけるぞって思った。ところがね、絵って表は芸術だけど、背中にはいっぱい人間の欲望を背負わされていることが多い。人間の欲、お金を儲けたいとか、良い生活をしたいとか。豊田のエルンストは利権が三つの国にまたがっていて大変だった。

岡部:一般の公立美術館の考えでは出来ないことですからね。

青木:まずやってないでしょ。オークションもやってないぐらいだから。

岡部:それにそんな事をやった事が発覚したら、スキャンダルになったりクビになってしてしまうわけでしょ?

青木:そうですよ。それはね、僕もそういう事ではないけれど、東京で出された、まあこれくらいのビジネス関係の本に、背任行為をしていると実名で書かれたことや、スキャンダルをFAXで流そうとしている人がいるとか、いろいろやってくれる人がいましたよ。何千万とか何億とかという作品の売買があるとどうしてもね。僕がここにいる限りビジネスができない人達がいるから。困ったこともありました。

岡部:それは何の展覧会の時ですか?

青木:それは展覧会ではなくて、やはりコレクションに絡んで、マグリットだったな。東京の画商から300万ドルでオファーが来て、僕がそれを確認に行った時には期限切れで、売買の権利が元のベルギーの画商に戻っちゃった。僕は別のルートからそれを追っていって、結果的に350万ドルでコレクションにすることはできました。つまり簡単に言うと300万ドルで購入できる作品を、「350万ドル、50万ドル高い方の画商と青木は組んでやった」というわけですね。それが背任行為だって。そういうことを言ってくる人は、ある時は市民、ある時はちょっと怖い人。僕が「最初に300万ドルでオファーした画商さんははっきりしていると。これは良く分かっている。そのほかにもう一人300万ドルで豊田にオファーした人がいるんですね?」って聞いたら、「もう一人自分の知っている画商がオファーに来ている」と怖い人が言う。でもそういう事実はないんです。「それだったら、僕が忘れているかも知れないから、画商さんの名前を教えて下さい。僕は300万ドルで最初にオファーした画商も350万ドルで購入した画商も言えますよ」って言った。「それはちょっと」と、こうでしょ。つまり、いないって事。普通だったらそこで「言えないなら、あなたの負けですね」ということになりますが、その怖い人は、半分市民の顔をしているから、理不尽だと分かっていても行政は「はい、この件はここまで」というように歯切れ良くはいかない。で逆に僕のほうが、「何でそんなやっかいなものを買ったんだ」ということになる。行政の中での立場としてはやはり悪くなる。でも僕自身は痛くも痒くもない。「マグリットの代表作のひとつを豊田の美術館にゲットしたぜ、でもよく出来たなあ」って。

10 ワン・ルーム・ワン・アーティスト

岡部:そういうことがあると、今後作品を買う度に、行政がいちいちチェックしたいとか言うのではないですか。やりにくくなるかもしれませんね。

青木:やりにくくなりますよ。でも、それもひっくるめて、でもちょっと楽しい。学芸員の仕事って、「しんどい、しんどい、しんどい、でもちょっと楽しい」っていう仕事かなって、よく言うんです。大きく捉えると、学芸員の仕事は、コレクションにせよ、展覧会にせよ、やっぱり自分が描いているヴィジョンを具体的にする事。日本の色々な美術館のコレクションを見ていると、その多くが真面目で几帳面だけど、パワフルじゃない。ある時までは几帳面にコレクションをしていて良かったし、それで良いコレクションを作ってきた美術館もある。しかし豊田のように1995年にオープンする美術館なら、開設準備室の5年間で、どこに軸足を置いて、どういう手法でどこを狙ったら一番パワーのある美術館にできるかを考えなければならない。予算はこれだけだと。そういう事が最初は分からなかったけれど、少しずつ進めていくうちに、「そうだ、一人一点ずつでは駄目なんだ」。取り敢えずワン・ルーム、ワン・アーティストで展示できるくらい、バンっと持とう、と。あるいは、アルテ・ポーヴェラをきちんとコレクションしよう、と。そういう考えで、トニー・クラッグも李禹煥も若林奮も複数の作品を収集してきた。椅子に関しては、マッキントッシュはたぶん世界的なコレクションになっていると思います。豊田市美術館を外から眺めた時に、まずコレクションがパッと分かるようにと思って形を考え、収集も展覧会も日本人の作家を先にやるのが普通だけれど、僕は意識的に外国人作家の方を先にやりました。豊田市美術館を外国へしっかりアピールしたいと考えてやったのです。その戦略は、思い通りに旨くいったかな。

岡部:それでは、これからはどうなさるご予定ですか?

青木:これからはね、今言ったワン・ルーム、ワン・アーティストとか、ワン・ルーム、ワン・コンセプトというのは、当面の目標であって、最終目標であってはいけないと思う。作品は時代と地域を越えて、もっと交差し合わないといけない。今度は美術館の多様なコレクションの中から何を紡ぎ出すかが学芸員の最も重要な仕事になる。ロンドンのテート・モダンのコレクションの展示の考え方もこれだと僕自身は理解している。これまで豊田市美術館は個展が多かったけれど、最近はそれだけではいけないなと思います。やはり学芸員が今の時代の中で、現代美術も含めた多様なコレクションの中からどのような問いを紡ぎ出すか、ということが重要。ただ、美術史の教科書通りにやっていたら、黒田辰秋とマッキントッシュは絶対に出会わない。でも修蔵庫の中では出会ってしまっているわけです。僕は、作品たちは収蔵庫の中で、ずっと背負ってきたものを一旦脱ぐというイメージを持っていますが、その時に裸の作品たちから何を紡げるかが、まあ取り敢えず学芸員の力量ということになるのではないかと思います。それがひとつ。それともうひとつは、現代美術は踏み込み良くコレクションをしていく。近代のものは逆に時間をかけてじっくり行う。近代の作品の収集、実はこれが大変難しい。近代のコレクションを急いで無理に作ろうとするといろいろな意味で間違いを犯す。

11 河原温の『デート・ペインティング』を3倍の価格にして買う

岡部:とくに90年代後半、ここ7、8年ですが、わりと現代アートのシーンに映像が多くなってきましたよね。
豊田市美でも映像に力をいれてらっしゃいますか?

青木:現在は特に映像に力を入れているということはありません。それでも例えば、今僕が準備をしている2004年の秋の企画展「イン・ベッド」では絵画、彫刻、写真、映像という内容で、ビル・ヴィオラ、ウイリアム・ケントリッジ、シリン・ネシャットという3人の映像作家が出品する予定です。ここには真っ暗にできる小さい展示室もありますし、大きい展示室の中に壁で作ることもできるので、これまでも何回か映像の展示をしたことはあります。ヴィデオとかDVDで、モニターで観る作品は何点かコレクションしています。

岡部:映像インスタレーションといった形式の作品の収蔵はまだということですね。

青木:そうですね。展覧会では紹介していますが、コレクションとしてはインスタレーションの作品はないです。これからはたぶん出てくるでしょう。それから写真の問題もあります。豊田はシュールのコレクションをしているわけだから、当然写真も取り込んでいかなければならない。個人的には非常に好きな作家も多いんだけれども、その部分はほとんど手付かず。豊田では、とりあえず作家のポートレートから写真の収集を始めました。一人の作家を紹介するためにその作品だけでひとつの場を作ろうとしても、上手く出来ない事が多い。例えばジャコメッティは、ディエゴの胸像彫刻とそのドローイングしかないのですが、そこにカーシュが撮ったジャコメッティのポートレートを加えて展示したら、ささやかだけど何とかなるんじゃないかと考えていた。お客さんにも分かりやすい。「あっ、ジャコメッティってこんな顔した人なんだ、随分頬の皺が深いな」とか、結構好きですから。マン・レイの撮った物もあります。作家のポートレートから始めて、今ではかなりの数になっている。写真の収集もこれから広がると思います。来年の「イン・ベット」の写真家の一人はナン・ゴールディンですが、彼女も忙し過ぎてなかなか会えないんだけど、アシスタントから伝え聞くところによれば、出品に積極的で、展示にも来ると言っているそうです。彼女もはっきり言いそうだから、展示に来たらまた喧嘩しそうだな、と思って。(笑)

岡部:展示でやっぱり喧嘩なさいます?

青木:ありますね。やっぱり。

岡部:一生懸命考えて会場構成をしたり、コンセプトを練っているわけだから、勝手に変えられたらやはり喧嘩にもなりますよね。

青木:ソフィー・カルも出品する予定で、ナンとはぶつかりそうだし。(笑)なぜ彼女が「イン・ベッド」の展覧会に興味を持っているのかというと、彼女の場合はやはり写真だけの展覧会が多いでしょ。だからペインティングとか彫刻というほかのメディアの中で、自分の作品を観たいという欲求が彼女の中にあるからだと思うんです。彼女には展覧会の中でリード・オブ・マンのような働きをして欲しいと思っています。それは伝えてあります。ちょっと張り切ってくれているようで。で、困ったなあって。(笑)それでも最初に話したように、作家と会って一緒に仕事をすることは、厳しいけれど面白い。
もう一度コレクションの話に戻りますが、最近予算の面でもちょっと厳しいでしょ。それでも豊田は企画展示も何とかやっていけている。ただ、企画展だけではなくて常設展の方で「テーマ展示」と銘打った少し規模の小さい企画展もあり、展覧会の数はかなり多い。でも、もし本当に予算がパタッと減ったら、展覧会の数を減らさなければなりません。聞くところによると、こういう場合に行政は、内容が少々弱くなっても本数は維持しろと普通は言うんだそうです。それはもちろんノーですね。企画展の一本一本がちゃんと出来ないような予算になったら、当然本数を削ります。コレクションも同じ。例えば1年に10億円の収集予算がついていたのが、2億円になれば、1年でやることを5年かけてやるというのが、基本的な姿勢。それをね、本当はペインティングが欲しいんだけれど予算が少なくなったから、「まあ、版画にしちゃおうか」っていうのは絶対に間違い。
本当は年間に5億円あると、コレクションも何とか健全に推進できると思うのですが、今時それは贅沢だってよく他の美術館の方に言われる。でもこれまでの内容をある程度維持してコレクションを進めていこうとすれば必要です。ここ2年程は年間2億円。5億円あればいいのだけど。今の情勢では10億円とは非現実的でちょっと言えませんしね。

岡部:でもきちんといい作品を収蔵するということは、確実に資産を蓄える事になりますよ。

青木:そうです。それに最初の数年間の予算が年間20億円と大きかったから。自分ではこの予算を念頭に置いてコレクションの骨格を形成しようとしてきたわけです。その内容を維持していかなければならないと思う。そうするとやっぱり他館が収集予算ゼロって言われても、5億円出して欲しいと言わざるを得ない。豊田市美術館は恵まれていると思います。それは豊田市民が恵まれているということでもある。他の自治体では収集費ゼロとか、宝くじ協会からもらっているという状況ですから。でも、やっぱり足りない。それにオークションは絶対見てないといけないわけでしょ。直接は出来ないとしても、何らかの方法で参加する。今の状態では個人の収集家にはほとんど勝てないですよ。美術館が開館する前だけど、ロンドンのオークションで苦い経験があります。不景気でロンドンでは画商がいくつも潰れているという最悪の時に、ポール・デルヴォーの1938年の作品がオークションに出た。部屋の中で男と女が抱き合っていて、女の大きな目が男を見つめているという油彩の作品。評価額はそんなに高くなくて、1億円前後だったかな。僕が依頼した人が、「今は景気が悪いから青木さんこの金額で絶対に大丈夫」って言ったんだけど、それでも心配でちょっと多めに乗せて挑戦したけど、最後に収集家の爺さんに負けました。それからほぼ10年、今でも豊田市美術館の壁に、デルヴォーの作品は掛かっていません。オファーは何度かあったのですが、それを超える作品には出会っていない。コレクションにできるチャンスというのは、そういうものだと思います。ああ、次々に思い出すなあ。もうひとつの苦い経験は、カンディンスキーの確か1911年か12年の作品だった。パウル・クレーが所蔵していたカンディンスキーがロンドンのオークションに出たんです。評価額は10億、これはオークションの時期のタイミングが悪かった。その年の予算の半分を使った後だったので、残りが少なくなっていて、それでも残りの予算をかけて頑張ったんだけど、パワーがなくて届かなかった。それはまだ年間の収集予算が20億円の時でした。もうひとつオークションにからんだ厳しい思い出があります。豊田には河原温の1975年5月の1ヶ月の『デート・ペインティング』があるのですが、それがどうして出来上がったかという話です。1975年5月の1週間分、つまり7点の『デート・ペインティング』が、ニューヨークのオークションに出たんです。それをある画商さんに頼んで落札してもらったのですが、その落札価格が非常に高かった。1週間分7点で7千万円。

岡部:それは高いですね。

青木:1点1千万円。いろいろな画商さんが美術館に来て、オークションの後しばらくは、「青木さん知ってる?ニューヨークのオークション。河原温の『デート・ペインティング』が1週間分で7千万だよ。誰だろうね、あんな高値で落とす奴は」って話題になった。まさか僕だとは言えないから、「ほんと困るよね、そういう無茶をする人がいると」って他人事のように答えていました。(笑)それで一人になると、「困ったな。こんな金額では収集委員会に出せないし、弱ったなあ」って。それで僕は思い切って河原さんに電話で、「河原さん、実はあれ僕がある人にお願いして落としたのですが、とても1点1千万円で収集委員会には出せません。困っています」と伝えたの。そうしたら河原さんが、「あ、青木さんあれね、あの続き、1週間の後の残りの1ヶ月の続き、みんな僕がまだ持ってるよ。」って言われた。トータルの価格が高くなるのを承知で、「単価が高すぎるから、1ヶ月のデート・ペインティングにするので、単価が安くなるように調整してもらえませんか?」って河原さんに図々しいお願いをしたら、「うん。まあいいよ」って言われたんです。それで収集委員会には1週間ではなく1ヶ月間という形にして出して、通していただきました。結果的には7千万円が2億2千万円になりました。

岡部:すごい話ですね(笑)。

青木:そんなことは普通の考え方ではできない。7千万の方が安いから。でも僕は収集委員会のことも考え、また美術館のコレクションという観点で考えた時にも、7千万円で1週間よりも、2億2千万円で単価を落として1ヶ月間の方が良いという判断をしました。でも有難いことにクリスティーズの正式な保険評価額は、この1ヶ月の『デート・ペインティング』に2億8千万円の評価をしています。議員さんには収集委員会の前に作品を見せますよ、一応。議会を通さずに財団で購入するわけだから。そうすると、「何、これが1点6千万?何じゃこれは?」と。

岡部:私でも描けるよ、と(笑)。

青木:その通り。で、それが分かっているから僕は1回で収集委員会に諮りたいわけです。1回で購入出来る予算もあったから。ところが「青木君、そんな高額なものを1回でやってはいかん。2回に分けてやりなさい」と館長に言われて、半月ずつ2回に分けて購入しました。「あなたは針の筵に座らなくてもいいけれど、俺は2回も座らなくてはならない、どうしてくれるんだ」と心の中で館長を恨めしく思いながら。(笑)でもそうやってコレクションする為に苦労した作品は、いろいろな意味で応えてくれるという実感もあります。

12 自分の館でがんばるのが第一

青木:ジャコメッティの『ディエゴの胸像』もニューヨークのオークションで落札したものです。オークションは駄目と言っても、それは無理。もし「青木さん、まさかオークションなんてやってないでしょうね」って言われれば、「やるはずないでしょ」って答えますよ。また別の人に「オークションやっていますか?」と聞かれれば「もちろんやっていますよ」とも答えます。(笑)はっきり言えるのは、良いコレクションを作ろうとしていながら、オークションに参加できないのは、相撲を取る前に土俵を下りるようなものだということです。

岡部:ヨーロッパだったら落とすのは当たり前で、れっきとした美術館は優先権などももっています。

青木:当たり前ですよ、そんなことは。

岡部:公の機関が参加することは、良くないことになっていて、日本では出来ない規則なわけですね。ただとにかく、豊田のコレクションをここまで高質で世界に誇れる充実したものにしてきたのはすごい功績だし、そのためには裏で、日本の公立美術館であるがための相当なご苦労があったこともうなずけます。

青木:「しんどい、しんどい、でもちょっと楽しい」でしたけど。(笑)

岡部:そこまで冒険をなさってきた方はいないのではないですか?

青木:でもメトロポリタンの館長をやっていたトマス・ホーヴィングにはかないません。当たり前だけど。僕もここの仕事を辞めたら『さらば豊田市美術館』っていう本が書けるかも知れないなあ。(笑)

岡部:そしたらもうベストセラーですね(笑)。日本の美術館でもやろうと思えば出来るって、みんなの励みになりますよ。ただ最初から出来ないと諦めているだけかも知れないし。

青木:楽だからね、出来ないってことにしておいた方が。

岡部:でも現代は、どんなに保身をしたくても無理で不安定な部分が多いわけですから、皆がやろうと思えば出来るし、やらなくてはいけないかもしれないですよ。

青木:知恵と意気込みだけですよね。僕がオークションに出かけて行って、手を上げて「100万ドル!」と言うことは出来ないけれど、方法はいろいろある。だからそういう事をいかに考えて、具体化させていくかです。真剣でも、どこかに楽しむ心を持っていないと、1点で何億もする作品を美術館のために獲得しようという仕事に、自分の生活の経済観念を持ち込んだら、手も足も出なくなってしまう。作品に関しては常にシビアな勉強をしなくてはいけないけれど、ここという時には繊細かつ大胆にいかないと。一時、クリムトの購入価格が高かったのではないかということを言われていたことがありました。それで時期を見計らって、コレクションの中から主な作品を、20点程選ぶから、それらの作品の現時点のインシュランス・バリュー(保険評価額)を出してくれとクリスティーズに頼んだのです。そんな事を美術館から頼まれた事はないって言われたけれど。何点かはマイナスがあっても、トータルでは現在の評価額が購入時より高くなっているという自信が僕にはあった。もちろんクリムト、シーレも含めてですよ。数ヶ月後に結果が送られてきました。で、「この評価額はどこに出しても良いものですね」って確認したら、「もちろんです。現時点で保険をかけるとしたらこの評価額だという正式なものです」という答えでした。やはり20点の中には何点かマイナスのものもありましたよ。でも、購入時よりアップしたものが圧倒的に多かった。マイナスを差し引いても34億円ほど高い評価額でした。つまり簡単に言えばそれだけ豊田市民の資産が殖えたということにもなります。それで、「そういう仕事をした私をクリスティーズは評価できるのか?」って冗談で言ったら、「いや、そういう事はやっておりません」って。(笑)こうした評価額は、美術館の収集活動の意義のひとつを説明するのには、説得力のある資料になると思います。

岡部:議員の方々は、金額で示されれば、より納得しやすいでしょうしね。

青木:でも、あまり露骨にやるのは得策ではない。ここという出しどころを考えないといけない。行政組織の性格として、「青木さん。評価額が上がったのはともかく…」ということで、マイナスの方に目を向けますから。以前、どこかの収集委員会に行った時に、「一度、主だった所蔵作品を選んで、クリスティーズに保険評価額を出してもらったらどうですか」と言ったんですよ。賛成していただけると思って。そうしたら皆さん口を揃えて「そんな怖い事出来るか、君はそんな事やったのか?」と聞かれ、「ええ、やりましたよ」って言ったら驚いておられました。海外から作品を購入する時に難しいのは、もちろん作品の価格ですが、もうひとつ為替レートの問題があります。それでかなりの額を得したこともある。マグリットの時は、何かの都合で支払いを3ヶ月ぐらい遅らせたおかげで、その間に急に円が高くなって、確か3千万ぐらい円の支払いが少なくて済んだこともありました。

岡部:いくら額が大きいといっても、レートの差で数千万円というのはちょっと驚き。

青木:円が110円から80円台の間で動いていた時だったと思います。我々学芸員も素人なりに、為替の変動も頭に置いてやっているわけです。損をさせないようにね。行政組織の中にわれわれ学芸員の働きを評価する基準がなくて、つまるところ入場者数に収斂される事になってしまうけれど、他の部署の行政マンが市民の為に働いているとすれば、我々学芸員も良い作品を少しでも多くコレクションし、良い展覧会をつくろうと努力して、市民に観ていただこうとしているわけです。どこの学芸員も随分苦しい思いをして活動していると思います。中には敵前逃亡して大学に行ってしまう学芸員もいますが。(笑)まだまだ明るい見通しはないですよね。僕はほとんど参加したことがないけれど、全国美術館会議などで、メッセージが出ますね。その多くが、さらに連帯を強くして皆で手を組んでやろうって言うことだけど、僕はその方法は間違いではないかと思う。そうではなくて、個々の学芸員が先ず自分の働いている館を少しでも良くするには何をすべきか考えて、一つひとつ自覚的に活動するのが一番の方法だと思います。会議資料には、館長たちのもっともらしい発言が出ているのですが、それとは裏腹に、彼らの館自体が厳しい状況下にあると思われます。

岡部:そうしたことを続けても、状況は改善しないわけですよね。

青木:つまり具体的なものが活動の中に見えてこないと意味がない。だったらそんな事を言っていないで、そういう思いがある人はとにかく自分の館で少しでも頑張ろう、という事が一番大事だと思うんですよ。でも、僕もあと5年だから。(笑)その後のことは分からないけれど、この館のことはいつも気になって、うるさいOBになるんだろうと思います。僕の後をやる人が責任を持って引っ張っていく。そして僕とは異なった発想と視点から新しいカラーが出てこないといけない。これは活動の活力を生む大切なことだと思います。けれども現代美術を中心に据えた美術館活動という軸がぶれていないかどうか、ポイントは見ていると思うんだよね。だから、辞めてからもやっぱり疲れるかなって。(笑)

岡部:ありがとうございました。なかなか聞くことのできないコレクションの裏話もあり、とてもおもしろいお話でした。

青木:いやいや、恐縮です。僕も楽しく話すことが出来ました。
(テープ起こし担当:安生菜穂子)


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