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museum 福岡アジア美術館/FUKUOKA ASIAN ART MUSEUM
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

後小路雅弘(福岡アジア美術館学芸課長(当時)2002年以後、現在、九州大学教授)×岡部あおみ

学生:船木尊子、橋本めぐみ、笠原佐知子、田中慎一
日時:2000年11月12日
場所:国分寺のカフェ

01 福岡市美術館から福岡アジア美術館へ

岡部あおみ:福岡市美術館が設立され、アジアの現代美術を手がけるようになったのは、日本の公立の美術館でもっとも早かったと思いますが、その由来というか、市長の意向などがあったからですか?学芸員の方たちの意見も含まれていたのですか?

後小路雅弘:最初は、学芸員の意見は全然なかったですね。ブレーンみたいな人たちがいて。

岡部:文化政策に関する市長のブレーンですか?

後小路:ええ。そのあたりは僕も究明しようとしているのですけれども。

岡部:そのころすでに福岡市美術館に後小路さんは学芸員としていらっしゃったわけですね。

後小路:いました。結局、国際造形芸術連盟(IAA)というユネスコの組織のひとつで、職能的な世界中のアーティストの組織ですけど、そこの人たちが、いつまでも欧米中心じゃなくて、それぞれの文化的な地域で展覧会をしながら、それぞれの良さを見直していこうという決議を1973年にしているんです。それを受けて、IAAの日本委員会―日本美術家連盟がその代表権を持っているのですけれども―そこにいた人たちがわりと国際派だったこともあり、IAAの下部組織を作ろうとアジア中をオルグして回った。一方国内では、アジアの現代美術展をやりませんかと、例えば国立国際美術館やいろんなところに声をかけたんですが、当時は、どこもとてもできない、興味ないという反応だった。展覧会はなんの知識も方法論もなければできませんからね。福岡の市長はアジア志向がわりと強く、アジア大会、アジア・オリンピックの立候補をして、シンガポールに負けたこともあった。それでアジア美術のオリンピックにしたらいいという意見があったり。最初は福岡市美術館の開館記念展としては、アメリカ現代美術展をやるつもりで、アメリカに調査にも行っていたらしいのですけど。

岡部:アメリカ?

後小路:そう、ところが急遽、アジア現代美術になって、学芸員も当初はわりと抵抗していたみたいです。僕が福岡市美術館に入ったのはちょうどそのころで、そういう事態を横目でみながら、いきなりアジアに行ってこいと言われて行くことになりました。就職して間がなく、まだ試験雇用期間で、海外出張の規定なんて市役所にはなかったけれど。美術館を代表してインドネシアとタイに最初に行きました。まあそういうところから福岡市美術館におけるアジア美術がスタートしたわけです。

02 美術館の体力とは

岡部:後小路さんは福岡市美術館に勤務する前はまだ学生だったのですか?ご出身は福岡で?

後小路:その前は学生していました。大学は九州大学で、美術史を勉強して、就職活動はしなかったので、卒業後2ヶ月ぐらいはブラブラしてました。

岡部:それで学芸員になろうと。その後、福岡市美術館からアジア部門が独立するかたちで、福岡アジア美術館が新設されたときに、市美からアジ美に勤務先が変わられるのですが、ずうっと学芸員稼業ですから、キャリアが長いですね。

後小路:そうですね。20年以上になりますね(2002年までで24年間)。

岡部:黒田雷児さんなど他の学芸員の方たちも、福岡の場合はみなさんキャリアが長いんじゃないですか?

後小路:そうですね。顔ぶれはあんまり変わっていないのかもしれません。福岡アジア美術館が新設されたときに福岡市美術館の中堅の人が移り、その市美の抜けた部分に若い人を採用して補充してます。だから、福岡市美は、オヤジ系ベテラン学芸員と若い女性のギャル系学芸員に二極分化して、その中間が福岡アジア美術館に来ている。こちらは、今、力がピークですけれども、だんだん衰えはじめている。

岡部:学芸員の年齢構成は大事ですよね。アジ美はしばらくするとみんな一緒に高齢化するわけですが、あと十年間ぐらいはパワー保てますよ。

後小路:もうそろそろ危ないんじゃないですか。

岡部:(笑)中間の起動力のある人たちがドンっと抜けて、新たな美術館創設に向かったのは、いい面もあるけれども、時間が経って一斉に体力が衰えていくのは問題ですね。

後小路:そうですね。だからアジ美でも若い人も一人採用してます。本当はもっと採用できるはずだったのですが、雇用のポストを獲得するのが難しかった。少し血を入れ替えていかなければとは思うのですが。

03 福岡アジア美術展からアジアトリエンナーレへ:キュレーションの主体性

岡部:これまで福岡市美術館時代に、大規模なアジア美術展を4回開催なさって、福岡アジア美術館に移って行うようになってからはトリエンナーレと名称を変え、すでに2回なさっていますね。市美の頃の第1回アジア美術展のオーガナイズはどのような方法をとられたのですか?

後小路:ともかく最初はただやった。ひとり一点で、空前の500人ぐらいのアジアの作家が網羅されていました。

岡部:(笑)ただやったにしても、すごい量。

後小路:今観たらすごいメンバーで、とにかくその時は何も知らないもんだから、それがどれだけすごいメンバーかも、全然わからなかった。

岡部:調査も始めたばかりだし。

後小路:調査というより、もう行って、信頼できる相手の美術館や文化庁などで話をして信頼関係を作り、とにかく、先方のキュレーションで作品を持ってくるというだけで精一杯でしたね。二回目は、もう少し若い人、一回目の後の世代の人を選んでくださいとお願いした。

岡部:最初はわりとシニアばかりでしたか?

後小路:ええ。そういう国際展が無かった時代ですから、みんな日本の展覧会に出品するのはすごくうれしいわけです。たとえ小さい絵でも、偉い人から全員、順番に出さないといけない。だからあなたの場所はこれだけですよと、スペースだけは決めていた。そうすると、その中に詰め込むだけ詰め込む。

岡部:(笑)そうなんですか。

後小路:だから、そのときのカタログは、ある種の人名辞典みたいな役割を果たすことになります。

岡部:今でも売っているのですか?

後小路:今でも売っています。たくさん売れ残っています。アジア美術展は、われわれが徐々に主体性を確立していくというか、キュレーションを確立していく過程でもあった。第三回展は、テーマを決めて一定の主体性を確保して、どうしても、自分の国で選ばなければ参加できないという国に関しては、そうしてくださいとお願いしましたが。

岡部:国の事情がありますからね。自薦したいと言ったのは、たとえばどこの国ですか?

後小路:インド、ミャンマーなど。ミャンマーは閣議で決めますから。

岡部:それはどうしょうもないですね。

後小路:第4回展はテーマを決めて、国別の展示を廃止し、学芸員が一定の小テーマを持って、セクションごとに分け、一つの展覧会として構成する形をとりました。

岡部:すでに3回開催した経験で、資料も情報もかなり集まり蓄積されてきて、日本側の学芸員が主体的にオリジナルなテーマで新たな展開をしたわけですね。人的・機関間の交流も、ある程度は確立してきた時期ですし。

後小路:やっぱり人間関係ですね。ノウハウとか、それから、この人に相談すればいい意見をくれるとか、そういうことも分かってくる。だから意見交換をしながら、調査もできて、今一番タイムリーな動きなどを教えてもらいながら組織できました。


アジア・ギャラリー1
©Fukuoka Asian Art Museum


アジア・ギャラリー2
©Fukuoka Asian Art Museum


アジア・ギャラリー3
©Fukuoka Asian Art Museum


アジア・ギャラリー4
©Fukuoka Asian Art Museum


情報コーナー
©Fukuoka Asian Art Museum


彫刻ラウンジ
©Fukuoka Asian Art Museum

04 アジア美術のネットワーク

岡部:アジア美術展を一般の市民の方々に普及させるために、何か特別に行ってこられましたか?また作家との関係性の変化などもありましたか?

後小路:第三回展からワークショップをはじめたんです。その前はシンポジウムをしていましたけれども、滞在制作を行うようになって実際に美術のあり方が変わってきた。つまり会場で作品がインスタレーションされるようなことが多くなり、そうしたなかで、各作家同士が友達になって、じゃあ今度パキスタンで展覧会するから君も参加してくれよみたいな、作家同士でのネットワークが強くなってきました。美術館が別に中核になるという意味ではなく、福岡で知り合ったという人が結構多い。福岡アジア美術館の創設時に、日本で福岡が巨額なお金を使って、アジアのネットワークをコントロールしようとしているといった言い方もされましたけれど、それまでの流れやよく事情を分からないでされた批判です。そのようなことはもちろんできるはずもないし、むしろ僕らがきっかけになって、あとは世界中で展開してくれればいいことです。それには貢献していると思います。

05 欧米一辺倒の価値観の問い直し

岡部:当時の福岡市美術館では、アジア美術展を手がけてきたにしても、通常は他の美術館と同じように、重要な欧米と日本のコレクションをもちながら、美術館活動をなさってきたわけですよね。だんだんアジア志向が強くなっていったのですか。他の美術館と比べて活動の質がどんなふうに変わってきましたか?

後小路:だんだんアジアの美術の居場所がなくなってきた、という感じはしました。というのは、結局、福岡市美術館は他の美術館と同じように、欧米対日本という二項対立というか、二元論をベースにしてできているわけです。コレクションにしても、展示にしても。だから進んだ欧米の20世紀の美術があって、それを学んだり、それに反発した日本の美術がある。極端に言うと、進んだ西洋のモデルと、遅れた日本、それを学んだ日本。そういう風に最初は展示しているわけですよね。そうするとそこでアジアの美術を扱おうとすれば、さらに日本より遅れたアジアというひとつの図式でしかない。
だから、最初、どうしたかというと、展覧会とは別に国際交流という名目をかかげた。まとまった収集展示に関わるようなことではなくて、交流ですと。ただ作家を呼んで、みんなと交流してもらいましょう。僕らはアジアの美術について知らないので交流のお手伝いをします。というような、極端に言えばそういう位置づけで逃げていたわけです。でも、だんだんその僕らが主体性を確立していこうとするにしたがって、欧米対日本、進んだ欧米と遅れた日本、遅れたアジアというような価値観では、アジアの美術を捉えられなくなってくる。その図式でいうと、永遠にアジアは欧米の遅れた亜流でしかないから、取り上げる意味が無い。むしろ欧米中心の、欧米一辺倒の価値観の問い直しとして別の枠組みを考えなくてはいけない。そうすると、物理的にもそういう部屋が市美にはなかったですし、福岡市美術館にはもういられなくなる。
欧米対日本、欧米の20世紀美術の流れ、日本の美術の流れには、アジアの美術は入れようがない。ただ、本当に一部の作家、たとえばナム・ジュン・パイクだとか、アニッシュ・カプーアだとか、欧米の文脈で活躍した人は、その文脈で展示するしかない。しかも、だんだんアジア美術のコレクションを見せて欲しいと言って来る人が増えてきたのです。アジアで買ってきた作品は、市美では収蔵していても、展示しようがなかった。まったく違う枠組みが必要になり、必然的にアジア美術館ができるんですね。いわば、時が満ちて美術館から子供が産まれるように。

06 アジア美術の値段

岡部:それで、作品を積極的に買い始められたわけですね。

後小路:最初から買っていたんですよ。うちは賞制度がない代わりに、作品は国ごとに最低でも1点は買いますと。それを魅力にして、出してくださいと。でもだんだん僕らも価値が解ってきて、1点づつではなくて買えるものはほとんど買うような感じになってきた。第三回展からそうなりました。だからアジアの作家で、今すごく有名になって、作品がどんどん売れる人でも、初めて美術館に売れたのは、福岡市美術館だったという人が結構います。だから最近の新作も、他のところには売らないけど、アジア美術館には売りましょう、とか実際に言ってくれます。

岡部:信頼関係ができたのですね。初期のころから作品を購入していた作家で、国際的にも知名度があがって、すごく売れるようになった作家の場合、どのくらい市場価格が上がったりしたのですか?

後小路:やはり上がるときはすごく上がりますね。近代美術では億を超えるものももちろんあります。

岡部:とくにどこら辺の国の作家ですか?

後小路:東南アジアでしょうかね。中国は全般的に高いです。

岡部:韓国はどうですか?

後小路:韓国は国内市場がすごく高い。韓国・中国ですか。中国だと、アジ美の方力鈞(ファン・リジュン)の作品は1千万円以上しますので、同じ時代のイギリスやアメリカの作家より高いんじゃないでしょうか。

岡部:方力鈞の場合はむしろ国際市場とのかかわりですよね。中国はまだ国内市場があまり発達していないので、多くが国外市場ですね。

後小路:そうですね。方力鈞の場合は、欧米のコレクターから買っているから高くなった。本人が持っているものは、2百、3百万円程度で買えますけども。

07 アジア美術の特色と多様性

岡部:後小路さんはアジア美術を見つづけてこられたわけだけど、日本の作家と比べると、どのような見方になってきたのでしょうか?

後小路:第三回展から統一テーマを決めて、アジア全体を見て作家を選ぶようになって思ったのは、日本だけがちょっと当てはまりにくいという感じです。日本からの作家選考にいつも苦労しています。90年代のアジアは社会的政治的主題がすごく強い。80年代の終わりから90年代にかけて調査に行った時は、天安門事件もあれば、政治体制もどんどん変わる激動の時代でしたから、それに対してみんなどんどん活発に発言している。日本の場合はまったくそれとは反対に平和ボケみたいな、いわゆるバブルの時期でした。そういう時、たとえ80-90年代のアジアのアートで稚拙だったりしても、そこにはなんかこう絶対今、これを語らないといけないという、すごく切実な何か、熱いものが感じられた。これこそがアートなんじゃないかと思いましたね。
1992年に国際交流基金と一緒に「美術前線北上中 東南アジアのニューアート」という展覧会をまずやって、そこに見られた社会的政治的な傾向を、アジア中に広げたのが1994年の第4回アジア美術展です。その時、今でこそ多少はありますけれども、日本には社会的政治的なメッセージ性を強く打ち出している作品は、ほとんど無いに等しかった。

岡部:実際に歴史や社会の状況の大きな違いを踏まえて、しかも同じ土俵でみせるのは難しい、ということもありますよね。日本だけではなくて、アジアの国々でも。

後小路:そうですね。今もそれはあります。つまりうちの場合は、テーマを決めて、テーマに合うものを選んでくるんじゃなくて、全部の地域を必ず漏らさず入れますから、全部の地域をカバーできるテーマを考えなくてはいけない。だから、シャープに切り捨てて選んでいくためのテーマじゃなくて、多様なものを拾うためのテーマであり、これ自体考えるのが難しい。多少こじつけになってしまうところはあります。ブータンはトリエンナーレに初参加だったのですけれども、西洋的な意味では「美術」という枠組みでの作品がないブータンみたいなところもありますから。

岡部:宗教性が強いから、特別な技能はあるとしても、宗教儀式などに使う祭壇などの実用品の制作や民芸品になるわけですね。

後小路:そうです。たとえば仏壇。これはいわゆる「アート」じゃない。だから、適宜こじつけながら、でもそれによって逆に、美術とは何かといったことも考えさせられます。東京都現代美術館がやったようなアジア美術展は、逆に、テーマがあって、テーマに合うわりとかっこいい、いわば現代美術っぽいものをもって来る。僕らはすごく牧歌的なものとかも、見捨てずに、という表現はちょっと傲慢かもしれないけれども、展示する。ひとつのテーマでも、こんなに表現が違うのですよ、っていうのを見せる。むしろ国によって、こんなに違うのですよ、というような形でみせているので、そこが特色になっていると思います。

08 福岡アジア美術館の運営とボランティア

岡部:福岡アジア美術館の運営予算は市からまとめていただけるのですか?人件費と運営費は別立てになっているのですか?

後小路:人件費は全部、市の方できちんと管理していますので、雇用面のフレキシビリティがあまりないのです。

岡部:運営費とか、展覧会の企画費、特別にトリエンナーレを開催するときは、申請をしてプラスして余分にいただけるのですね。

後小路:はい。

岡部:1996年に福岡アジア美術館の開館展で第一回福岡トリエンナーレをなさったときは、予算はどのぐらいあったのですか?

後小路:まあまあですね。1億5千万円です。

岡部:参加作家は何人ぐらいいたのですか?

後小路:55組。1億5千万のなかで、市が出しているのは、9000万ぐらいで、あとは補助金とか、入場者収入でまかなう。それに国際交流基金や企業などから助成や協賛を頂きます。

岡部:入場者収入は3千か4千万円ぐらいですか?

後小路:たぶんそのぐらいはあるでしょうね。

岡部:カタログの売り上げとか、ショップも入っているのですよね。

後小路:絵葉書とか多少。でも微々たるものでしょうね。

岡部:毎回9千万から1億円ぐらいの展覧会予算があれば、なんとかできますね。

後小路:開館の時は、多めにもらったけれど、後、予算は多少削られていて、今、2002年度のトリエンナーレについて予算を検討中です。

岡部:作品の購入は、予算内で一応定期的に続けていけるのですか?

後小路:そうですね。まあ1億円で、来年は削られると思いますけれども、今はまあまあですね。

岡部:市の実力というか、やはり五本の指の市政のせいでしょうか?予算は多いほうですね。

後小路:いわゆる政令市の中で人口や規模では7番目か8番目ぐらいじゃないでしょうか。

岡部:福岡アジア美術館にはボランティアは何人ぐらいいるのですか?

後小路:ボランティアは500人以上います。オープンの時のトリエンナーレなどですごく活躍しましたし、アジ美の場合は20代の人がとても多い。

岡部:すごいですね。来館者も若い人が多いのですか?

後小路:そうだと思いますね。分析をしたことはないのですけれども。美術館は一応8時まで開いているし。

岡部:8時まで開けているのは、福岡アジア美術館が繁華街に近い博多リバレインというブティックやレストランのあるビルのなかに開館したので、夜でも大勢、人が行き交う場所だからですね。

後小路:そうです。それで、ボランティアの人も、仕事が終わってから来る人が結構います。

岡部:そうすると、学芸員の人も夜まで残っていることになりますか。

後小路:僕らはなにもしなくても、その人たちが勝手にアーティストとか研究者などのお手伝いをしたり、いわばクラブ活動みたいな感じです。

岡部:ボランティアの人は、学生さん、20代が多いのですか?

後小路:社会人もいて、仕事で満たされないものを、なにかこう満たしに来るっていう感じでしょうか。

(テープ起こし担当:戸澤潤一)


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