日時:2003年1月12日 岡部あおみ:立木さんは青森県美術館整備・芸術パーク構想を学芸員として手がけられていますが、インタヴューをさせていただいているこの弘前の地には浪岡映画祭があり、その重要メンバーでもあります。まず、1987年に学芸員になられた川崎市市民ミュージアムのときに、映像部門学芸員として「レンフィルム祭」等の映画祭を担当なさったときのことを伺えればと思います。
立木祥一郎:「レンフィルム祭」の企画はなにか運命的な感じがしていますね。これを開催したのは川崎市市民ミュージアム。私が最初に学芸員として仕事したところだったわけです。都市をテーマとして、そこに生まれた大衆芸術、複製芸術、具体的にはグラフィック、写真、映画、映像、漫画といったジャンルを収集・研究の対象としていました。私はその映像部門で特に映画担当の学芸員でした。川崎のミュージアムは映像部門をはじめ、漫画とか写真とか、それぞれ各部門に学芸員が1〜2人いて、一つの専門ジャンルを任されていて、その分野の企画ならなんでも自分の決断がすべて。そのかわり研究、収集、展示、教育普及、広報計画、予算要求や、ついた予算のやり繰り、すべてを一人でやらなくてはならない状況でした。つまりその学芸員が主体的に判断したことを実現するしかない。誰にも仕事をしろとも言われないし、こういう仕事をしちゃいけないとも言われない。幸か不幸か、企画の成功や失敗、ほとんど責任のすべてを実戦経験のまったくない新人の学芸員がいきなり負う。そういう意味では、アナーキーなほど、とても自由であったわけです。まともな予算もないのに、東大総長の蓮實重彦さんたちと崩壊したてのソ連、レニングラードという名前もなくなり、サンクト・ペテルブルグという名前に戻ったばかりの街にある映画スタジオに忍び込んで、お蔵入りの映画を掘り出して映画祭を企画しようというのだから、こういう仕事環境じゃないと無茶は出来なかったでしょうね。それと、当時、川崎でフィルムを集めていた時に、館に所蔵したフィルムは館外で上映できないというクローズな権利関係だった。それでは面白くないと思っていて、公立美術館などに巡廻展のような形でフィルム・プログラムを巡回させるというシステムを作りたいと思っていたところに、レンフィルムに映画がごっそり封印されているという情報を得たので、それを何とか発掘してツアーさせることはできないかということで、企画を考えたんです。そうしたノンシアトリカルで映画作品を上映するためのネットワークもこの企画をきっかけに立ち上がりました。それは現在大きな役割を果たしているACE JAPANなどの映画上映ネットワーク会議やコミュニティシネマみたいなものに発展していっているのです。
岡部:「レンフィルム祭」が実現したのは、何年でした?
立木:1991年です。
岡部:その時、一般の人たちの受け止め方とか反響はどうだったのですか?
立木:当時、川崎市市民ミュージアムと朝日新聞社、それと国際交流基金の三者がメインの主催者だったんです。僕ら映画祭マフィアなどとふざけて呼んでますが、蓮實さんを中心にそういう連中が結集した。ジャン・ルノアールは映画撮影は銀行強盗みたいなもんだといってますが、それと同じで、それぞれの組織に潜り込んでた映画狂が、あそこにはお宝があるぞっていうので、各々の得意技を生かしてチームを組んだと言う感じでしょうか。当時は、映画を美術館に回したりすることを考える人はだれもいなくて、お金もそんなにありませんでしたから、それぞれが、みんな自分達の組織をなんとか言いくるめてやってたんです。まあ、蓮實先生もまだ、東大の教養学部長になられたばかりで、おめでとうというべきでしょうかと聞いたら、ご愁傷様でいいです、なんていう時代ですから。みんな若かったので、冒険しまくった。そんな勢いみたいなのが、企画にでていたのでしょうね。反応としては、これまでの映画の常識を覆すような作品がごそごそでてきて、驚嘆という感じでしょうか。世界的にも初めて公開するものも沢山ありましたし、朝日新聞でカラー一面で企画特集を映画で組んだのも、創刊以来初めてのことだった。まさに「画期的」な映画祭となったのだと思います。
岡部:予算規模はかなり大きかったのですか?
立木:ぜんぜん予算も無いですね。国際交流基金といっても、当時、映画祭は視聴覚部というところがやっていた。ここには予算がたっぷりあるのですが、ソ連の、しかも、一地域のスタジオの特集にお金などださない。もっと外交的な配慮が必要なわけです。国際交流基金の企画室というところに、古賀太というのがいた。この男の熱意で無理やり自分のセクションで、映画祭をやることにしちゃったけど、金などないわけです。私も川崎で小規模な展覧会をやろうと思っていて予算を、一千万円くらい持っていたのですが、展覧会をつぶして映画祭に回した。実際は三千万円くらいかかりましたので、入場収入でまかなった。この映画祭で上映された作品は、全部ではないのですが、ロシアで新たにプリントして焼いて持ってきた物に関しては、川崎に所蔵してあります。
岡部:それはすごいですね、何本くらい残っているのですか?
立木:20本弱ですね。
岡部:ただ翻訳の問題がありますよね。
立木:はい、翻訳して日本語字幕を付けました。
岡部:翻訳にかなりお金がかかったわけでしょう。ロシア語ですからね。日本語の字幕を入れるにも、20本ではなかなか大変でしたね。
立木:ただ本来なら、上映権利料というのが発生するのですが、ほとんど発生しなかった。日本で紹介できるならぜひということだったので、スタジオも非常に協力的でした。
岡部:川崎市市民ミュージアムで見ようと思えば、ヴィデオブースで見られるのですか?
立木:ヴィデオにはなっていないのですが上映プリントはありますので、上映は可能です。セミョーン・アラノヴィッチとか、日本では、ぜんぜん知られていないものを公開して、当時は、驚きを持って迎えられました。モスクワのモスフィルムの作風とは、ぜんぜん違う。レニングラード・スタイルというべき映画があるんだと発見できたと思います。
岡部:「レンフィルム祭」が終わってから、2、3年くらいで青森に移られたのでしたね。
立木:そうですね、1994年に青森に移りました。青森県美術館整備事業で、総合芸術パークという三内丸山遺跡の隣に芸術公園を作るんですけど、その中に青森県立美術館を建設するという計画です。コレクションの中身はシャガールの「アレコ」という高さ9m、幅14mの舞台背景画3点や映画などを含む、近現代の美術となります。
岡部:日本最後といわれる県立の大規模な美術館になる訳ですが、他の県の美術館と比べると、どの様な新たな方向性を打ち出せるのでしょうか?
立木:そうですね。青木淳さんの設計の展示空間にも端的にその構想が反映されていると思いますが、美術館が、創造の場になるということじゃないでしょうか。青森県の美術館は完璧なホワイトキューブの空間もありますが、それだけではない。三内丸山の発掘現場から構想された巨大な土のトレンチと、そこに被さる逆凸の建築構造との隙間が展示空間になるというコンセプトです。美術のために計画されたと言うより、たまたま、構造とトレンチの隙間に巨大な空間が出現したという感じです。これはなにを意味しているかと言えば、現代美術におけるサイトスペシフィックなアートが美術のための空間から出現したのではなく、学校や工場といった場所から発生し、そうしたアート以外のための空間をリノベーションしたほうが、アートの創造を喚起するという問題と繋がっている。三内丸山という歴史的なサイトに近接した場所でしかなしえない創造の場として美術館がある。展示空間は新築であるけれども、予定調和的な計画を超えた偶然の創造を召還する余地をもつ。リノベ空間のパワーを展示空間に導入しようと言うことに挑戦しているところです。
岡部:施設としてアーティスト・イン・レジデンスは作られる予定ですか?
立木:美術館がアートの創造の場になるというコンセプトを補強する機能として計画はしているのですが、財政的な問題から、滞在施設は、開館と同時にスタートするのは無理な状況です。基本的には、三人、または三組同時にステイする程度の小規模な施設を考えていました。アーティストが占有できるプランニング室のような部屋を三棟、別棟に建てることも計画していたのです。ただ、滞在機能についていえばハードの問題は、そんなに重要じゃないと今は考えています。美術館とそれをめぐる公園は十分な広さを持っているわけですので、川俣正さんのコールマイン・プロジェクトのレジデンスみたいに、じっくり、プロセスの中からレジデンスなりのプロジェクトが立ち上がっていく方が、青森的なスローライフにはふさわしいのかなと、居直っていますが。
岡部:今までの美術館には、そういった常設の宿泊施設は完備されていないところが多いですよね。ただ現代美術を現地でインスタレーションする場合などを考えて、青森では技術者などをスタッフとして入れる予定ですね。
立木:その予定です。滞在施設は休止して恒常的なレジデンス・プログラムはなくても、当然、アーティストが青森にやってきてその場で作品をつくったり、展示のための壁面やらの造作を行う必要があるわけです。また、デジタル・コンテンツも自給自足していくほうが、経済的にもよいに決まっていますから、そういうクリエイティヴィティのあるスタッフを持ちたいと考えています。
岡部:物作り的スタッフと工房的なものが充実しているという意味で、アーティスト・イン・レズデンス的機能をかなり備えた美術館として、今までにない方向性をもたせるということですね。
立木:簡単に言うと、常設展と企画展という二元論で、今まで日本の美術館の展覧会は、構成されていたわけですが、その中間にあたるプログラムを想定しようと考えたのです。たとえばアーティストが美術館の展示室に合わせて作品を制作する。それは一般的に言えば企画展という枠組みに入りますが、それをニューヨークでディア・ファウンデーションが常設しているウォーター・デ・マリアのアース・ルーム(土を深く敷き詰めた部屋)などのようにずっと維持し続ければ、コレクションとなる。こうしたアートの展開はなにも、美術館の展示室の中だけの話ではない。それを僕たちは、アート・プロジェクトという言葉で定義して常設、企画とならぶ、重要な活動として考えていくつもりです。アート・プロジェクトは、展示室をはじめとする美術館建築に規定されないし、ひいては、展示ということにも規定されない。WEB上や、出版、商品開発あるいは、地域の福祉や産業、街おこしといったファクターと結びつく形であらゆるアートの可能性を試行するためのプログラムと考えています。
岡部:2002年8月から9月にかけて弘前市の旧酒造倉庫を会場として、総合芸術パークのプレイイベント的に奈良美智さんの展覧会を企画なさって、非常に多くの来場者があり、またボランティアがとても幅広く活躍したということが話題になっていましたね。今後もこうした美術館とは別の場所で、倉庫などを使ってやるような展覧会を美術館がプロデュースする事は可能でしょうか?
立木:そうですね。「奈良美智」展は、僕にとっては、県立美術館で想定していたアート・プロジェクトの延長線上にあるといえます。この展覧会は、美術館だけが企画を特権的に占有するのではなく、経済的にまた、企画そのものに市民の知恵をいかに反映させるか、どういう風にたくさんのボランティア・スタッフを組織してパートナーシップをとるかということに関しての試行だったともいえます。
岡部:実行委員は何人ぐらいいたのですか?
立木:50人です。
岡部:50人も!みなさんなんらかの仕事をもっていらっしゃるプロの方々ですね。
立木:ボランティアというと素人と思いがちですが、プロがボランティアで参加していたのです。それぞれの職種を生かして。私のような学芸員や大学教授、弁護士や建築家、写真家、デザイナーから、家具職人、ライブハウスのオーナーまでいました。
岡部:大勢だと、助かる反面、オーガナイズは難しかったのではないでしょうか?
立木:手間が掛かりました。
岡部:準備に何週間くらいかかりましたか?
立木:奈良さんが、弘前の酒造倉庫をみて、「絶対、ここで展覧会やるぞ」って叫んでから、実際に動き出すまで企画から入れると2年かかりました。まずお金をとりあえずは2500万円くらい集めなくてはならなかった。なかなか、それを出す人がでてこない。今でこそ、あたりまえみたいですが、その時は、まだ奈良さんの展覧会がそんな大きな反響をもたらすなんて、みんなわからないわけですので。
岡部:最初、どうやってファンドレージング(資金集め)が出発したのですか?
立木:実行委員会で一人10万円づつ出して500万、あとは、数万ずつ出資と言う形で市民から200〜300万くらい集めました。これは当座の軍資金で、残りは入場収入でまかなうということです。
岡部:800万円集められたので、まずそれでスタートしたという形だったのですね。いってみたら、ボランティア兼メセナですね。
立木:はい、だからただのボランティアじゃない。支払いまであるボランティア。僕も10万円だしましたし。県の役所の上司が20万円もだしてくれたのは本当にうれしかったですね。後で県が後援について、正式に業務として展覧会にかかわりましたが、最初は正業をおろそかにして、ボランティア・キュレーターやってるわけですので。まあ、奈良さんという作家が愛されているということは、何回か展覧会などをやって、実感していたので、呼びかけをしたら集まるだろうとは思っていた。ここまですごいとは思っていなっかたですけど。
岡部:まず横浜美術館で横浜トリエンナーレ2001の会期中に立ち上がり、それから弘前に来たのでしたね。
立木:横浜、芦屋、広島、旭川ときて最後に弘前です。ツアーファイナルとかいってキャンペーンを張った。巡回展の場合やはり重要なのは皮切り館じゃないですか。横浜は人口300万人で東京が隣でしょう、それで9万人入ったんですけど、巡回して、観客はどんどん落ちていった。人口36万人の旭川で2万人ぐらいだったかな。
岡部:観客数、落ちていったんですか。横浜に比べてとても小さい弘前市で6万人も入ったのは凄いことですね。
立木:期間も横浜より短かっかたですし、弘前は人口17万人しかいないですから。街の35%の人が展覧会を見ている計算になる。人口比からいくと凄いです。奈良さんはホームのアドバンテージだといってました。
岡部:この大胆なイベントをファンドレージングから手がけて、成功したわけですから、今後新たな方向性を今回の企画にならってやっていきたいという構想があるのですね。
立木:今回のポイントというのは、ボランティアでやったということが、個人的に新鮮な体験だった。結局、のべで3500人ものボランティア・スタッフがかかわってくれたわけですから。ですが、ボランティアでアート・イベントをやるっていうこと自体は、そんなに珍しい事ではない。まあ今回は、非常に、その展示の質が高く、世界レベルの展示ができたということですね。
岡部:プロのボランティアががんばるというケースは、以前はそれほどなっかたと思います。これから多分美術館なんかでもそういう形でボランティアがかかわるのも不可能ではないという気がします。今回の経験で、立木さんご自身は、大勢の人をオーガナイズしていくのは、やはり大変だという気持ちになりました?
立木:簡単ではないですね。たぶん、ボランティアではなくお金を払って解決した方が簡単で安くつくかもしれません。でもボランティアと展覧会を作るというメリットは計り知れないほど大きい。会場に今までみたこともないような自由な雰囲気が満ちていた。やっていて自分でも感動しました。ただ経費を削減したいからボランティアを使うっていう考え方は間違いです。企画に対して参加した人達が、オーナーシップを持つというか、参加して、自分の企画が社会実現していくっていう感覚を持つことの幸福、生き生きとした自由さは、お金とかの問題ではなく、そのものに意義があるので、それをしっかり認識した上でやるべきだと思います。
岡部:県立美術館での活動でも、ボランティアの役割を、考えていく予定ですか?
立木:アート・プロジェクトということで考えたほうがいいかもしれませんね。単なる美術館活動のサポータとしてではなくて、アート・プロジェクトという形で、企画から運営までをボランティア・スタッフで実行し構成するというのを、ひとつの美術館が提案する新しい活動モデルとして打ち出すことがあっていいと思います。
岡部:そうですね。ありがとうございました。立木祥一郎氏(青森県美術館整備・芸術パーク構想推進課総括学芸員 NPOharappa理事)×岡部あおみ
場所:弘前 立木氏自邸
01 美術館に映画を回すことなんてだれも考えない時代
立木氏photo Aomi Okabe
02 ホワイトキューブだけではない青森県美の展示空間
03 「奈良美智」展の成功と、のべ3500人のボランティア
奈良美智展が開催された弘前の倉庫photo Aomi Okabe
(テープ起こし担当:谷口愛)
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