Cultre Power
coordination ナンジョウ・アンド・アソシエイツ/NANJO and ASSOCIATES
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

インタヴュー

南條史生×岡部あおみ

学生:大塚加織、館南月子、橋本めぐみ、船木尊子、吉村一機
日時:2000年7月25日
場所:南條事務所(現:代官山AITルーム)

01 好不況で組織は伸縮するー国際性をもつこと

岡部あおみ:まず、ここのナンジョウアンドアソシエイツの組織についてお聞きしたいと思うのですが。いつごろ事務所を作られて、スタッフは今何人でしょうか?

南條史生:この事務所を作ったのが1990年。今は何人いるのかな?5人ぐらいかな?僕以外に(2003年度は7名)。あとアルバイトが1人。でも正規のスタッフとアルバイトの境はちょっと曖昧。アルバイトは他に突然作業が増えた時に来てくれるような予備軍が何人かいる。

岡部:急に仕事が決まったり増えたりすることが多いわけですね。

南條:そうそう。それから郵便物の発送とかの事務処理は、アルバイトに頼むでしょ。ただ、今はむしろ不況の中で縮小している状態。一番仕事があったのが2000年でその時は大きい展覧会が2つ、それからパブリック・アート計画が2つ、そして国際シンポジウムが1つ。全部で5つ大型企画があった。そのときにはスタッフは10人ぐらいいた。その後、仕事が減ったっていうよりも1人はパリに移住したし、1人はトリエンナーレの事務局に入るのに、本当は出向にしたかったけどそういう形もとれないということだったので、事務所を辞めて国際交流基金に臨時に移った。あと外国人が1人いたんだけど、ちょうど帰った。

岡部:外国人の方々を常時スタッフとして雇われているのですか? 1年のヴィザで来ているんですか?

南條:毎回更新するんじゃないかな?この事務所が保証人になってヴィザを取る場合もある。それから国際交流基金の奨学金で日本のリサーチで来ていたキム・スンヒーという韓国人のキュレーターも籍を置いていた。彼女はうちがやとったわけではないけど、一応この事務所に、籍を置くということで来ていたわけ。ここに籍を置いた人は他にオーストラリアのブリスベン現代美術館の館長がいたね。オーストラリア政府のキュレーター・イン・レジデンスみたいなプログラムで1年間ぐらい来ていたけど、ほとんど旅行していた。

岡部:韓国のキュレーター、キム・スンヒーさんには光州でお会いしたことがあります。外国人を受け入れられるような組織は日本では少ないですね。

南條:そうだね。役所的に考えると「その人の身元は?」とか、「もしその外国人にお金がなくなって不法滞在した時には誰が責任を取る?」とか考えるからみんな受けないんだろうね。行政のお役人は要するにその人を知らないから。でも僕は美術業界にいるから、ある程度素性はわかるから余裕があればどんどん受け入れる。

岡部:今まで問題はないですか?

南條:相手は美術館の館長だから、もう十分大人でしょう。問題なんて起こすわけがない!スンヒーも光州ビエンナーレのスタッフで光州市美術館の学芸課主任。今ここに籍を置きたいと言ってきているのは、韓国のサムソンの美術館の学芸員。それとロジャーっていうイギリス人で博士号を取った青年(彼はトリエンナーレの時に南条氏のアシスタント・キュレーターになった)。

岡部:組織自体がすごく国際的なわけですよね。仕事しているスタッフも外国人といつも一緒に仕事ができる状況。

南條:本当はもっと国際化したい。日本人のスタッフももっと国際化したい。それこそ英語で議論ができるようにしてもいいと僕は思っている。でも日本人のスタッフがそこまでついていかれないってこともある。


南條史生氏と学生
©Aomi Okabe

02 「アゲインスト・ネイチャー」展で日本の現代美術の見方が変わる

岡部:1990年に事務所を作った最初の頃は細々とやっていたわけですね。

南條:始めた時は隣の部屋1室だけで床に電話1台と美術に全然関係ないアルバイトの女の子が1人。その子と僕とで椅子を買いに行って、それから始まった。なにしろ一番やすく家具をそろえることに頭を悩ました。その子がNECのパソコン持ってきてね、しばらくそれで管理していた。だけどそのあとにデーナというアメリカ人のキュレーターがマックを買ってくれって言って、結局全部マックに変わったね。<

岡部:そういう話を聞くと、何か自分たちでもオフィスを始められそうで、元気が出ていいですね。

南條:そうそう。でもデーナが来た時にはすでに3、4年経っていたけどね。

岡部:独立してオフィスを作られるずっと前、南条さんは国際交流基金にいらしたのですよね?

南條:そう。で、国際交流基金にいた頃に最初にやった現代美術展があって、公演課のセクションにいたんだけど、ダニエル・ビュレンとジョセフ・ボイスとジュリオ・パオリーニとブルース・マクレーン、それにダン・グラハムの5人を招いてパフォーマンスのイベントをやろうとした。僕は美術とは違う課だったけど美術の仕事をしようと思って現代美術の作家を呼んじゃった。矢萩さんという、今は有名なグラフィックデザイナーだけど、その時はまだ若かった彼が美術界で初めて作ったカタログがこれ。お金が無いからラッピングペーパーで出来ていて、写植はタイピストを雇ってIBMのタイプライターを打たせて、それをそのまま原稿にして印刷したもの。

岡部:でもそれがすごくいいデザインになっていますね。実際に打った感触がでている。この企画が南條さんがアートに行くきっかけになった最初の体験かしら?

南條:そう。もともと美術の仕事がしたかったからというか、美術の専門家として国際交流基金に入ったからね。そういう人は3人しかいないんだけど。東京都現代美術館で学芸部長やっていた矢口さんと尾子さんと僕の3人が美術の専門家として入ったの。その時翻訳協力として公立美術館の学芸員を大勢巻き込んでいった。今、庭園美術館の館長になっている井関さんは当時、国際交流基金の課長さん、小西さんは今、ニュースキャスターになっている。近藤幸夫さんは現在、慶応で教えていて、斉藤さんは筑波で教えているし、猿渡さんは今も横浜美術館、中村さんはそごうの美術館から出て、今はどこかの大学で教えている。古川さんはイタリア文化会館にいたし、松本さんは近美に今もいる。という具合。

岡部:みなさんそうそうたるメンバーですね。

南條:そう、今は皆中堅。その時は若い学芸員。そういう友達関係で頼んでいった。そういう違う組織の人を巻き込んだから、日本の美術界にこのプロジェクトを認知させることができた。それから僕自身には人脈ができた。で、次の仕事をする時でもいろんな美術館に知り合いがいることになる。そうやってネットワークを広げる。だから、1つの展覧会をやるということは1つのネタなわけね。それを使っていろんな事をする。例えばそれ自体が商品のようなもので、企画としてそれを売ることができる。つまり資金集めもできるし、ジャーナリズムに売り込むことによって、ジャーナリズムに人脈ができる。それから翻訳や巡回展によって他の美術館との関係を作ることもできる。企画を実現することはもちろん重要なんだけど、それ以外の付帯的なメリットが生じてくる。それが専門家としての自分の将来の資産になる。そこまで考えて、誰と組むかも考える。これをあんまりやるといやらしいけど。でもただ漠然と頼むのではなくて、例えば翻訳ができるのと同時にどの美術館の学芸員だからあの人に頼もう、ということもある程度ありうる。この段階ではみんな駆け出しみたいなヒラだけどね。国際交流基金にいるときに、オックスフォードMOMAでやった「日本の戦後美術」展の手伝いもやった。海藤和さんという元読売新聞の事業部長だった海藤日出男の娘さんとデイヴィッド・エリオットがやった展覧会。日本の戦争直後の動きを伝える企画で、非常に社会主義リアリズム的な作品が多い。あと「具体」と「日本のダダ」とか紹介している。この後でポンピドゥー・センターの大規模な「ル・ジャポン・デ・ザヴァンギャルド(前衛芸術の日本)」展を岡部さんたちがやったでしょ。1年後かな?

岡部:私たちがパリで準備を始めたのは、オックスフォード近代術館よりずうっと前ですよ。ただ、大規模だったので時間がかかり、その間にイギリスで「こっちは小さいから先にやってしまう」って、先を越されてしまったわけです。

南條:そう、そう言っていたよ!あのタイミングでやることに意味があるって言っていた。1年前では早すぎる、一年あとでは遅すぎると。キュレーターもジャーナリスティックなセンスが必要だね。

岡部:でもなかなかいい展覧会で、スタッフと3人で見に行きました。

南條:僕は今も戦後美術のところでこの資料をレクチャーに使っている。スライド資料全部コンピューターに取り込んで。

岡部:この企画のあとで、南條さんは名古屋のICAナゴヤという高木さんのスペースのディレクターをなさって、マリオ・メルツをはじめいろいろな国際的な作家を招待して展覧会をすることになるわけですが、それはどういう経緯で?

南條:国際交流基金で専門家不要論が出てね、美術とは全然違う部署に回された。役所というのはいろんな部署を3年ぐらいずつ回って、それに応じて出世するというシステムだから役所に専門家は馴染まない。最初は慶応の経済学部を出て銀行に勤めていて、でもあまり向かないから銀行を1年で辞めて、もう1回学校に戻って美術史にいった。それからカナダに2年間行って、戻ってから卒業した。だから経済学部4年、文学部4年で計8年間遊んでいたの。それで終わりの頃旅行会社でアルバイトを始めてね。ツアコンやっていた。旅行業界誌の編集もやって、面白かったけど、その頃国際交流基金から声が掛かって、基金に移ったわけ。

岡部:国際交流基金には採用試験はなかったのですか?

南條:その時は面接だけ。今は入るの大変なようだけど。当時は国際交流基金といっても、外務省本省から見れば、窓際族が行くマイナーな組織だったみたい。国際交流基金時代には、「アゲインスト・ネイチャー」展もやった。アメリカ人2人のキュレーターと僕と京都国立近代美術館の河本さんと4人でこの展覧会を作った。それまでの日本の現代美術の主流は基本的に「モノ派」で、「モノ派」は強かったよね。いつのまにか1番オフィシャルなアートになっていた。というのは「モノ派」には危険なもの、裸とか、政治とかが出てこないので無難。ある意味では素材主義と抽象で、「アゲインスト・ネーチャー」ではむしろそうではないものを出そうとした。

岡部:タイトルも良かった。

南條:そう。この「アゲインスト・ネイチャー」は、英語圏ではユイスマンスの「さかしま」っていう小説の英語訳でもある。だから文学を知っている人にとっても、意味深いんだね。

岡部:ユイスマンスは古めかしい感じですね。もっとずっと新しいイメージがしたのですけど。

南條:もちろんアートとしてはそう。でも、たぶん、アメリカ人がそのタイトルを聞いた時にはユイスマンスのことをダブらせると思う。相当インテリだろうけどね。参加者に選んだのはダムタイプの古橋、平林薫、前橋彰子、宮島、森村、大竹、椿なんかで、多くが具象的でカラフルで、インスタレーションやテクノロジー主体で、反「モノ派」的。で1987年にこれが動き出していたけど、実現するより前の1988年に僕がヴェネチア・ビエンナーレのアペルト選考委員のひとりになって、アペルトに宮島や森村たちを先に出してしまった。当時のブリティシュ・カウンシルの人がヴェネチアの委員会に僕を推薦したらしい。そろそろアジアからも人を入れようっていう時代だった。

岡部:各国のパヴィリヨンはその国のコミッショナーがしきることが一般的、ただ若い人をプロモートするアペルトのような総合企画では、コミッショナーにそれまではアジアの人がいなかったわけですね。

南條:そう。でもそれは顔が見えなかったからだね。その時僕が国際交流基金にいてそういう人達と接触していたから、ブリティシュ・カウンシルの当時の部長が、僕の名前を挙げ、その時は調査して、日本人5人をアペルトに出した。その後、宮島にヨーロッパの画廊がつき、森村ももちろん有名になった。ヴェネチアで見せるってことは要するに世界に見せるってことを意味している。アーティストにはいろんな国のギャラリストたちからのアプローチがあって、どれを選ぶかのが問題になる。

岡部:ヴェネチアなど国際展のコミッショナーになったときの条件はどうなのですか?国際交流基金は日本館以外のコミッショナーには資金援助はしないのですか?

南條:交流基金は出さない。切符と経費だけ向こうもち。その後、例えばアメリカのカーネギー・インターナショナルも僕にコミッショナーを頼んできたけど、資料を見ると初期のカーネギー・インターナショナルには審査員に例えばボナールとか、マルセル・デュシャンとかがいる。で、「あなたもその系譜に連なります、さてこの招待を受けますか」って書いていてあった。

岡部:名誉職、栄誉ですね。

南條:そう。そりゃ受けるよね誰だって。でもその後に「謝金はでません」って書いてあった。調査経費もでないから、すぐに推薦するアーティストの名前をパッと出せるくらいの人に頼むってことだね。でも例えばスライドを集めたり、ある程度以上の資料まで作ろうとするとお金がかかる。最近は、経費や謝金をちゃんと出してくれる企画も多くなった。
ヴェネチアの「アペルト」と「アゲインスト・ネイチャー」で日本の現代美術の見え方が変わった。その1年後に原美術館の原さんが、いわばコレクターなどから期待される日本像のような感じで「プライマル・スピリット」っていう展覧会をアメリカでやって、それがわりと「モノ派」的な流れの素材を見せた感じ。思想的な意味の強い「アゲインスト・ネーチャー」はその対極にあった。

03 ICAナゴヤの最高の展覧会、マリオ・メルツ展<

岡部:国際交流基金をお辞めになって高木さんの所に行ったのは、南條さんがプロジェクトを持ちかけたのですか?それとも高木さんが何かをやろうとしていたからですか?

南條:高木さんが何かやりたがっていることは分かっていた。高木さんはギャラリーも持っていたし、現代美術を分かっていた。それにバブルの始まる頃だったし、彼も勘で何かした方がいいと思っていたんじゃないかな?だから辞める時にすぐ飛んでいって「アートセンターやりましょう」と言った。でも一抹の不安はあったよ。高木さんはワンマン経営の中小企業の社長だから、本当に美術の為にやるのかなって部分もあった。役所と違って、オーナー社長がいる時はその人の気に入らなければなかなか事は運ばない。そこで僕が小さい会社を作って、そこが仕事を受ける形にした。

岡部:それがここ代官山にあるナンジョウアンドアソシエイツの最初の小さいオフィスですか?

南條:いや、その会社はこれより前に中野でジャーナリストと作った「見聞録」という会社。というのは昔、雑誌を作りたかったの。旅行雑誌の編集をやっていたからね。それはそれで面白かったんだけど。でも旅というのは結局メディアであってコンテンツではない。旅の目的は人によって違うわけ。観光したいとか、スポーツしたいとか、ショッピングしたいとか。で、雑誌は毎回それを部分的に記事にする。人気のあるものは大体決まっている。国内だったら萩、津和野、京都・奈良でしょ。海外だったらパリ、ニューヨーク、ロンドン、ハワイ。そうするとインドとかアフリカとか、本当に面白い所は、広告料も入らないし、お金にならないから記事にならない。で、繰り返し繰り返し同じような記事をやるわけ。それでこれは先が見えるなって思った。

岡部:いろいろな経験をされていますね。ICAナゴヤのディレクターとしては自由にやれるようになったのですよね?

南條:そう。それで最初にやったのが、クネリス展。ボイスが死んだ後で誰が次の巨匠になるか、ずっと考えてた。僕はヤニス・クネリスじゃないかと思って会いに行った。「日本では現代美術はあまり理解されてないけれども、状況を変えたいから、一緒に展覧会をやってくれないか」と話しに行った。で、三回目くらいににマリオ・メルツ展を開催した。これはICAナゴヤの企画では最高の展覧会だった。作品は全部現場で作っている。彼は奥さんのマリサと一緒に1カ月間滞在してこの作品を作った。マリオ・メルツが床に新聞紙をしいて、「この形にテーブルを作ってくれ」って言って棒の先にチョークをつけてバーッと書いた。奥行き20メートルある空間にね。それを近所の工場の人達が、そのままテーブルの形に作るような展覧会の作り方だった。

岡部:ICAナゴヤのスペースは広かったですよね、行ったことあります。

南條:そう。それで近くの鉄工所の人は全部あの現場で溶接しながらスパイラル状のテーブルを作った。その後、メルツが石を探しに石屋まで行ったんだけど、気に入ったのがなくて、いつの間にか、京都まで行っちゃった。テーブルにはガラスの天板に鉛が敷いてある。0.5ミリぐらいのね。そしてインスタレーションが終わって、最後に市場から野菜を買ってきて中央に積み上げた。

岡部:新鮮な野菜に何度か変えるのが大変だったでしょうね。

南條:それがぜんぜん変えないの。この写真よく見るともう大根の芽が出てきているでしょ?

岡部:あっ本当!

南條:メルツはそれでなおかつ、最後にすごく空間が大きいからこれじゃダメだって言い出して、周りの壁に黒い布を張った。そこにチョークで線を書いて大分空間が締まった。それでも物足りないからレーザー光線もってこいっていう。そしてそれを設置したら、レーザー光線がまっすぐ机から上5センチくらいのところを走っているわけ。そして、石の穴を通り抜けて後ろの黒い布に当たっている。最初みんなレーザーに気づかないんだけど、レーザーが空間を突っ切っているって分かった瞬間に部屋が感覚的にもっと狭くなる。これはさすがに空間というものを知っていると思った。あとイグルーも二つ作って、これは、一つは今豊田市の美術館に収まっている。メルツはこういうイグルーを何個も作ってるんだけど、その中でもこれが1番きれいなんじゃないかな?ガラスが何十枚も重なって、そこにネオン管がついていて、中に靴があったりして。

岡部:メルツは高木さんが扱っていた作家のなかから選んだのですか?

南條:いや、高木さんは荒川修作に心酔してもっぱら荒川だけ、彼の言う通りにやってきた。だからメルツは全然関係ないところから僕が持ってきたという感じがある。

岡部:では高木さんのOKを取りながらやっていたわけですね。新作は販売したのですか?

南條:というより最初の頃はむしろ高木氏がまるごと全部買い取ったんだよ。

岡部:ちょっとやりすぎかもしれませんね。

南條:その時は僕もやりすぎたと思ったんだけど、今にして思えばあれは正しかった。あのままいけばよかった。というのは買うときに安く買うわけでしょ、作家から直接買うんだから。買っておいて、10年以上たった今売れば数千万の利益が出たかもしれない。でも僕は途中で怖くなって高木さんを止めちゃった。高木さんはガンガン買おうとしていたけど、「もうそんなに買わないほうがいい」って。けれどお金のことに関しては高木さんの方が分かってたんだろうね。ギャラリストだから。安く買って持っていることに意味があるって知っていた。キュレーターやっているとそういう発想はない。そんなにお金をつぎ込んだら危ないって思う。美術のコレクターの世界も資本家の世界も、サラリーマンの人間には分からない。ということが今なら分かる。

岡部:コレクターはある種ギャンブラーみたいなところがあるし。勘がないと。

南條:投機であって、投資であって、例えば1000万や2000万のお金なんかどうにでもなるって思っているアメリカ人なんかいっぱいいる。その人達が世界の美術マーケットの経済基盤になっているから、そういう人達のことが分からないと今のような美術の流通構造は分からない。僕はあの時やっぱり分からなかった。

岡部:高木さんは買うのを辞めて、がっかりしているのでしょうか?

南條:そう思っているかもしれない。グッゲンハイムでメルツ展やった時にわれわれが作った名古屋産の大作があの吹き抜けの真ん中に飾られていた。僕にとっては、それは勲章だね。次に印象に残るのはボルタンスキー展。この場合カタログを2回出している。クネリスのときも事前のカタログには展示風景を載せられなくて2回出した。

岡部:新作のインスタレーションはぎりぎりになって出来るものが多いから難しいですよね、カタログを作る場合。

南條:そう。ボルタンスキーは水戸芸術館に巡回した。それからダニエル・ビュレンの展覧会も。彼らの展覧会中では最もいい展覧会の1つだと僕は思っている。ICAナゴヤではボルタンスキーが最後の展覧会だったと思う。バブルが消え始めて高木さんが「これ以上お金はつぎ込めない」って言い出して。1989年に僕は独立した。独立してから、ビギという会社の京都のスペースで展覧会をやった。最初の展覧会は、「ハイブリッド・ガーデン」というタイトルで、椿昇や、森村泰昌などを出した。かれらは関西だし、「アゲンスト・ネーチャー」の経験を踏まえた展覧会だった。それから「マルセル・デュシャン」展も手がけた。

岡部:これが企業と仕事をする最初ですか?

南條:そうね。でもその前後にアムウェイと組んで世田谷美術館で「拡張する美術:アメリカンアート1960−1990」展というアメリカの現代美術展をやっている。

岡部:結局、独立してからのメインはパブリック・アートでしょうか?

南條:そうとはいえない。むしろ大きな収入はパブリック・アートで確保して、表現としての展覧会はしばしば赤字でやっている。

04 自由に企画できたスパイラルの「人間の条件」展

南條:スパイラルでやった「人間の条件」展は、「トランスカルチャー」展につながるもので、ちょうどバブルが崩壊した後でみんながいろんな事を問い直そうという時に、もう1回人間の生き方を考えたらどうかという気負いがあって、そういうタイトルを付けた。最初僕は「クオ・ヴァディス」とタイトルをつけようとしたら、知っている人がすごく少なかった。それでやめたんだけどがっかりした。「クオ・ヴァディス」はキリストが処刑された翌日、キリストが復活する。でもみんなそれに気づかない。道の上で出会って、たしかパウロが「お前、どこに行くんだ」とキリストに問いかけられる。その言葉をラテン語で「クオ・ヴァディス」と言う。「あなたはどこに行くのか」という意味。だからこの展覧会は「私たち人間はどこに行こうとしているのか」という意味合いで使っているわけね。その言葉を僕はずいぶん昔から知っていたし、そういう本もあるし、ハリウッド映画もある、でも知っている人がすごく少ない。アメリカ人のデーナも知らない。それで僕はがっくりきた。この展覧会のユニークなところは、こうした普通の建物のあらゆる場所を展示の場所に使って、オリエンテーリングのように見て回れるようにしていたこと。

岡部:そうそう、面白かったですよ。トイレとか変なところにもたくさんアートが出没して。

南條:非常階段にアラーキーの写真が300枚貼ってあったりする。森村にしても非常に黙示録的ないい作品を展示した。そういう作品ばっかり選んでいる。それから非常に小さい太田三郎の「切手」の形をした作品なんだけど、これは第二次世界大戦で行方不明になった人の家族が、今でも人探しの広告を朝日新聞なんかに載せていて、それを切手にした作品。だから日本の社会の隅々まで実はまだ第二次世界大戦の傷痕が残っているのね。それを現した作品。これもいいと思ったな。あとハワイに住んでいる日本人で浮世絵のスタイルで現代の問題を描いている寺岡政美。日本ではキッチュだって思われているところがあるんだけど、古いスタイルを使って現代社会を風刺する方法論。こういう方法論は重要だと思う。今なら会田誠とか、村上隆とか要るけどね。彼のそのときの作品はエイズの問題を取り扱っていると同時に、国籍や人種の偏見も描いている。

岡部:寺岡政美の作品を所蔵している美術館はあるのでしょうか?

南條:ワシントンの美術館で展覧会やっているし、日本でもこの後僕の事務所で1度かなり大きな展覧会をやっている。この作品は僕が見つけてきたリン・フォークスという作家で西海岸ではけっこう大物。ものすごく盛り上がった凸凹のレリーフ状になっていて面白いんだけど、よく見ると絵の中に漢字で“人”って書いてある。それで人の頭部が目隠しされていて、脳の中が文字で埋まっている。自由の女神が海岸にあって、トコトコ歩いているホームレスみたいな人がいる。僕の解釈としてはこれは西海岸だから向こうが日本、アジアなんだよ、そして人を探してるんだよね。もう一度人を見直そうとしてるんじゃないかな。西海岸は西洋文明の一番西の端。そこから先はアジアなんだ。で、その西洋文明の行き着いたアメリカの西海岸の果てに立って、自由の国のはずのアメリカという国で、でもホームレスがいるじゃないかと。自由だといいながら一方では殺伐とした社会であるわけだ。そういうことを言っているんじゃないか、と思った。しかもなんと、この作品の中に出てくる本のタイトルが、「The Human Condition」(人間の条件)、展覧会タイトルと同じだった。

岡部:面白いですね。偶然見つけた作品ですか?

南條:そう。資料で偶然見つけたの。だけど横2メートルぐらいあるすごく重い作品。いい作家だよ。展覧会全体で見ると、要するに人間の生き方について問い直すっていう重い意味を込めているんだけれども、見る方はそうでなくても楽しめる。所々にスタンプが置いてあって、スタンプラリーもやっていた。

岡部:この展覧会は全部スパイラルから資金が出たのですか?

南條:スパイラルがあの時かなりの金額を用意して、加えてうちの事務所から出して、あとは企業や財団からファンドレージングした。だから、いろんな展覧会をやっているけど、自分でゼロから全部作れて自分の表現になる展覧会は2年か3年に1回しかない。多くの場合ある程度枠組みが与えられていて、その中でやるしかない。そういう意味で、完全に自由にやれたのはこれが初めてだったかもしれない。記念すべきチャンスを、スパイラルはくれたと思う。「トランスカルチャー」展が、そうした自由につくった展覧会の第二弾って感じがするね。


南條史生氏と学生
©Aomi Okabe

05 ヴェネチアの宮殿で開催した「トランスカルチャー」展の予算

南條:ベネッセ・コーポレーションと最初に付き合ったのは、「アウト・オブ・バウンズ」展と「トランスカルチャー」展。「アウト・オブ・バウンズ」は、直島の自然を使った野外彫刻展。そういうのははじめての試みだった。それから、「トランスカルチャー」をやることになった。あるとき、社長の福武さんに「ヴェネチア・ビエンナーレというのがあります、これにあわせて独自の展覧会を出品したい。町の中にもいろんなパヴィリヨンが出るのだけれども、日本はそういうことをしたことがない。1回やってみるべきだ」と説明した。中身は「日本人だけを見せてもしょうがない。国際的な展覧会として出そう。それで日本人も入っているものにしましょう」と言ってね。最終的に多額の予算を保証してもらって、国際交流基金からも出してもらい、公的な企画に持っていった。今は会社が株を上場したから現代アート展に多額の資金を使うことはできないだろうね。なぜかというと一般の大衆が株主になり会社のオーナーということになるから、アートなんかにお金を使うと文句を言いだす可能性がある。だからオーナー社長が会社をやっているときが、美術展を援助してもらうのにはいいチャンスだね。

岡部:上場すると株主に説明しなくてはならなくなりますからね。

南條:そう。でも自分が会社全部を持っている限り、何をどうしようと勝手でしょ。高木さんもオーナー会社、ビギもそう。

岡部:ベネッセの現代アートとホテルを組み合わせたスペース作りや経営方針に関してはどう思われますか?

南條:あの・・難しいんだけどね。美術館は沢山の人に見に来て下さいというのと、分かる人だけ来て下さいというのと、どっちかなんだ。趣味と経営は対立する。あそこのテント村は“キャンプ場”という言葉を使って、マス・マーケットに開いている。福武さんの態度はどちかというと、みんなに分かってもらう必要はない、あそこにはアートのユートピアがあって、興味のある人だけ来ればいいという感じがある。だから他の現代美術のイベントのような宣伝はしていない。だから、ホテルは彼の迎賓館みたい。テント村は、研修所の感じ。
「トランスカルチャー」展の入場者は2万人ちょっとだった。この展覧会は最初、ヴェネチア・ビエンナーレのオフィシャル・プログラムとして向こうのキュレーターやディレクターにも認めてもらえたけれど、ある時期から一切広報宣伝に入らなくなった。憶測だから確証はないけど、僕がべつの形でヴェネチア・ビエンナーレに出ることに日本館の関係者が非常に恐れを抱いたということだと思う。でも、外国の専門家には「トランスカルチャー」展はすごく受けて、僕自身はとてもポイントを稼いだ。福武さんには最初から「これは一般受けする展覧会じゃない。だけれども専門家には評価され、歴史には残りますよ」と、はっきりとターゲットを絞っていた。そういう方向でやりますと。オープニングのときに3000〜4000人の専門家が集中的に来て、その人達に評判が良ければ世界中にうわさは広まる。そういう別な効果がある。

岡部:でも、美術雑誌とか専門誌は取り上げたのでしょう?<

南條:ある程度はね。キュレーターとクリティックにはものすごく評判がよかった。

岡部:自由につくることができた希少な展覧会だったわけですが、本当にやりたい展覧会をやれるための条件はなかなか揃わないですよね。

南條:そう。意欲だけあっても、ゼロからスタートして、場所もなくて、お金もない場合にはほとんどの場合、形にならない。スタート時点でどっちかがないと難しい。スペースはあるけどお金はないとか、お金はあるけどスペースはないとかだったらまだいい。「トランスカルチャー」展の場合は資金があったから、ヴェネチアという場所で展覧会が実現できた。ヴェネチア市庁舎の中の建築部に行くと、17世紀ぐらいからのあらゆる宮殿の図面が集まっている。それでここは使えます、ここは廃墟になっていて使えません、ということが分かる。市が持っている建物も分かる。使えるところを聞いて、交渉に行ってみると「3ヶ月で1500万円」と言う。だけど「そんな金出せない」とずっと粘って1200万円ぐらいまで金額を落とした。

岡部:高いですね。

南條:そう、ヴェネチアはすべて高い。なおかつビエンナーレのオープニングの時期はすごい値段を付ける。オープニングを外せばもっと安く出来るけど、「オープニングの1週間には、これだけ出せ」と言う。それに対して交渉していくわけ。でも他にはそれだけの金を出す人はめったにいないという見込みを僕らは持っていて、向こうの言い分を受けないで、実際の準備の一ヶ月ぐらい前に最終的にこちらの言い値で向こうが折れた。

岡部:大変ですね。開幕直前に動き出したわけですか?

南條:というか「やる」という前提で動いている。一応ね。向こうから見れば建物を維持するために出来るだけ稼ぎたいわけですよ。ヴェネチアの町中が朽ち果てているんだから。オーナーは何とかしてその建物を維持する現金が欲しい。でも、借り手がいること自体が大変なことなんだよ。修復には数千万円かかる。だからそういうことを読んで、こちらも粘る。何とかして予算から足が出ないようにして。足が出たらこの事務所が被るわけ。1000万被ったらこの事務所が潰れる。だからすごく怖い。でも最終的に1000万円残って、ベネッセの福武さんに戻した。

岡部:もともと予算には経費とプラス仕事料が入っていたわけですね。

南條:それはもちろん計算に入っている。人件費が何人で何カ月だからいくら、それからキュレーションのソフト分がいくらとか。全部積み上げていって1億近い予算の見積もりを最初に出した。ヴェネチアでも事務所が必要だから、ヴェネチア大学の建築科の学生を15人ぐらい雇った。向こうでまず事務所を三木あき子が行って立ち上げたわけ。それでデーナが行って、僕が行って、その頃にはもう学生が15人ぐらいアルバイトで働いていて、その学生達を使ってやっていく。そうすると英語と日本語とフランス語とイタリア語を使うことになる。三木あき子はフランス語とイタリア語が出来て、デーナはイタリア語もフランス語も出来ないけれど日本語が出来る。例えば蔡國強は中国人だけど外国語は日本語しか出来ない。英語が出来ない。それだからアメリカ人と中国人が日本語で話してる。そういうヴェネチアス事務所を作った。だから僕としては理想的だったよね、ああいう形。キュレイトリアル・オフィスはそうあるべきだと僕は思っているからね。

06 パブリック・アートの意味と発注プロセス

岡部:これまでも事務所にはつねに女性のスタッフが多いですよね。応募者も女性が多いのですか?

南條:そうそう、女性しかいないんだよ、見回すと。大体美術業界が一般にそうじゃない。どうしても比率としてそうなる。男性では1人長田君というのがいて、建築科から来てパブリック・アートの図面引きとコーディネーションを全部やっていた。彼は1995年のヴェネチア・ビエンナーレのときに伊藤順二のキュレーションのために日本館のスタッフで行っていて、僕がサンマルコ広場でお茶飲んでいたら隣に座っていたの。それで「働きたいんですけど」って言うから「あ、そう」って、日本に帰ってから入ってもらった。彼はすごくよかった。建築の図面を…実際にその時点で彼はコンピューターを使えなかったらしいけど…入ってからどんどん自分でやっていって、キャドを使えるようになって作品の図面を作っていた。アーティストが出してくる図面は非常にいいかげんなものが多いのね。それを建築的に翻訳して、発注する段階までもっていくには、この事務所がやらねばならない。だからアーティストの立場を分かった上で大きな作品を作るという彼の役割は、けっこう特殊な仕事になる。

岡部:アーティストと図面上でやりとりができないと、発注もできないですものね。

南條:そう。だから、例えばアートが入る建築も高さとか幅とかが決まっているでしょ?それにあわせて作品の構造を割り付けていくと大体こういう風になりますよとか示すべきなので、例えばその柱の太さはこのくらいで、こういうふうな割付で、これでいいですかという話を、やはりだれかがまとめて、作家と施工会社と両方に話す必要がある。そういう作業を全部彼がこの事務所でやっていたから、大きなパブリック・アートのマネジメントをここで処理出来た。

岡部:そういう裏方の話はみんなあまり知らないですよね。パブリック・アートはアーティストに頼めばすぐに出来てしまうような気がしますからね。

南條:そう。1回、あるところでパブリック・アートの話があって行ったら、事務責任者が「大体仕事はもう終わっていますから」と言うわけ。「何でですか?」と聞いたら「コーディネーションだけやって下さい。作家はもう選びましたから」って。僕から見たら作家を選ぶなんて仕事のうちに入らない。作家の出した案が果たして実現可能かどうかということを見切るのが難しいのに、作家を全部勝手に選ばれてそれを押し付けられたら、たまったもんじゃない。この作家じゃ出来ないだろうから落として、こっちに切り替えようという判断もあり得るわけ。いくらいい案を出させても、出来なくてはボツ。例えば謝礼払ってお引取り願って、べつの作家に頼むこともある。頼む時だって、ある程度、どんなものがいいか、作家のこれまでの仕事を知った上で、こんなことはできませんか、という風に持ちかけたほうがいい。それはこちらのイマジネーションだけど、そういうことを暗中模索しながらやってかないといい作品にはならない。それなのに、多くの建築家や美術関係者は作家を選ぶことが仕事だと思っている。

岡部: 90年代半ばにパブリック・アートが盛んになって、いっせいに花が咲いた感じですが、今はどうですか?

南條:北川フラムさんのところ見ていると仕事たくさんあるみたいね。あちこちの開発事業で営業もかけているようだし。ただ僕はやっぱりそういう事をする気にはなれなかった。根本的にやっている仕事が違うと思った。僕の場合はキュレーターがパブリック・アートを手がけましたというスタンス。パブリック・アートもコンセプトを立ててキュレーションできるということを証明したいと思っていた。

岡部:仕事のやり方や領域やコンセプトが違うかもしれませんね。北川さんは地域を中心にしていて、立川の仕事も地域の活性化で、まちおこしに関連しています。おふたりは同じようにみえてもアプローチが違うのではないかしら。

南條:質が違うよって言いたい。そりゃ1点ごとを見ればいいものもあると思うよ。だけれども例えばアートにとってデメリットな場所に僕は置いてないつもり。北川さんのはここにあると周囲が明るくなるからって置いている物がたくさんある。作品にとって、けっして良くない場所もある。ここにわざわざこんなものを置かなくてもいいじゃないってものがけっこうあるわけ。僕はそういう部分を極力排除して、アートを使うんだったら使い方があると考えている。で、それは日本の床の間の思想だと僕は思う。床の間は、掛け軸と花を見せるために露払いをしてある空間で、余計なものは何もない。だから、あそこに何かを置いたときにそれが良く見える。アートを置くにはそれぐらいのことをしないとだめでしょう。周りにデザインを作りすぎるな、と建築家とは喧嘩する。周りをすっきりさせておけばよく見える。でもバッティングしたら意味がなくなる。そしたら何千万円もの作品が置いてあっても、効果があがらないわけだから無駄になる。何をやるにしても美術は質が問題。沢山やる必要はない。

岡部:南條さんは、地域の人や市民とのかかわりよりも、大林の本社ビルとか、企業のビルとの関わりでの仕事があるのではないですか?でも今は、日本全体が、比較的まちおこし的な意味でアートとの関わりを持ち始めている時期だから、その見地から言うと、北川さんだとこれまでもそういう方向を考えながら、なさってきているから頼みやすいのかもしれませんね。

南條:北川さんのところは営業力があるけど、ぼくの事務所は10年間1度も営業したことがない。向こうからやってきたのをやってきただけ。生き残るためにはそういうことは必要かなと思うこともあるけれど…だけど要するに、無理にやるとアートにとって良くない。本当にやりたい人がやったときにはいい形で出来るけれども、やりたくないのに無理にやると良くない。

岡部:品川の大林組の本社にあるアートは、外にあるものしか見られないのですよね。重役の部屋とかも見られるといいのですけど。

南條:あれはコーポレート・アートだからなぁ。だけど金曜日にツアーをやっていますよ。今度、メセナ協議会から30人ぐらい見たいと申し込みがあったので案内する。でもここで一つ言っておきたいのは、アートは誰のためかといったときに、市民のためとかみんなのためというと、NHK的に正しく聞こえるけど、アートは本質的にそういうものじゃない。啓蒙普及を僕は否定しないし、民主主義の時代に、それは言えないけど、でもアートは本質的に、みんなのため、ということにならない。そんなものから かけ離れた別の論理で作られ、その精神を本当に理解するのは、決してマジョリティーの鑑賞者じゃない。で、ま、見られない人のために大林組のプロジェクトはCD‐ROMになっていて、お配りしています。CGも作家のインタヴューもある。アーティストの経歴、文章が入っている。

岡部:すごいですね。このCD‐ROMは立体的にものを見られる。事務所で作ったんですか?

南條:大林組と組んでうちの事務所が編集・監修したの。あそこはいいんですよ、デジタル技術が。だって要するに今、建築は全部コンピューターでやっているから、スタッフがすごくいいのね。


南條史生氏と学生
©Aomi Okabe

07 国際展はどんどん見るべき

岡部:台湾の台北ビエンナーレのコミッショナーもなさっていますよね?

南條:そう、97年に台北から「コミッショナーやってくれ」と話が来た。それまでも台北ビエンナーレというのはあったんだけど、地元作家だけのイベントだった。で僕は国際化した台北ビエンナーレをやった。東アジア、つまり韓国、中国、日本、台湾の4カ国の作家だけを対象にして、38人で構成した。これも大きい展覧会だった。例えば中国人の蔡國強が美術館全体をバナーで包んだりとかしてね。

岡部:海外の国際展は台北とヴェネチア以外に他にはどこか…

南條:関わったって意味で言えば、カーネギー・インターナショナルの委員、今やっているシドニー・ビエンナーレの選考委員、ヴェネチアはアペルト1回、日本館のコミッショナー1回、ベネッセの「トランスカルチャー」展で、3回かかわった。

岡部:南條さんは日本で初めて開催する横浜トリエンナーレのアーティスティック・ディレクターですよね。日本で行う国際展の問題、海外でこれだけたくさん行われている国際展の問題はどう思われますか?

南條:国際展をいまさらやる必要があるのかという意見があるけれど、僕は日本人一般を考えたときに意味があると思う。なぜなら、彼らはあまりにも現代美術を知らないと思うから。対象は日本人一般なわけ。トリエンナーレのような大きい現代美術展をやって、現代美術のような世界があることを知らしめていくことは十分意味があると考えられる。ヴェネチアでビエンナーレがあろうとドクメンタがあろうと、一般の日本人は誰も知らない。ただトリエンナーレのやり方の問題点はある。日本は集団統治でいこうとする。キュレーターも4人でリーダーなし。それから事務局もいろんな所から出てきた集合体でやっている。国際交流基金のメンバーとか、横浜市とか、朝日新聞とかね。そうすると責任がどこにあるのか分からなくなる。責任がないようにするのが日本のやり方だから。だけど責任がないと誰も本気ではやらなくなる。あるいは、非常に厳しい判断を下すときにどこに決定権があるのか分からない。最後に誰かが「いろいろ意見はあるけど、この方向で行くぞ!」って言わないと話が終結しないことがたくさんある。やっぱり日本の仕事の在り方は問題多い。というのは仕事には2つのタイプがあり、1つは管理型の仕事で、例えばビルを持っています、管理しますというもの。これはもう性格上保守化せざるを得ない。あれはやっちゃいけない、これはやっちゃいけないということになる。ところが展覧会を主催するのは攻める方の仕事、表現行為なの。そうするとね、管理型のシステムはだめ。やっぱり個人に最終的には責任がいくような形で責任を負わせて、その代わりその人にかなりの権限を渡して、自由にやってみなさいという方向でないと成功しない。その点で、トリエンナーレも非常に問題を抱えていると私は思っていますよ。4人でやっていて、組織だって役所が2つ集まっていて、ややこしい。

岡部:国際交流基金と横浜市とですでに2つですからね。

南條:だから唯一の方法はそれを統合する強いディレクターが出てくることだよ。でも今、そういう人がいない。自分の役目を果たす事以上に、違う立場に立っていろんな人を統合して、1つの目標を掲げて、みんなを叱咤激励して走らせる人が必要。リーダーシップ、最終決定権、これを誰かが持ってないと非常に難しいだろうと思う。

岡部:それは困りますね。ジェネラル・コミッショナーを1人立てればよかったのにそれをしなかった。

南條:そう。だけど1つ良い点があるとすれば、50歳代の男4人が1度に退陣するって事、多分、次のキュレーションは次のジェネレーションに移る。女性とかね。違う方向に行くとすれば、女性や、もっと若い世代になる可能性が高くなる。もし4人が別々にやっていたら、4×3で12年間僕らが回し持つことになり、若い人が迷惑するのではないかな?

岡部:日本にはポテンシャルのある人たちが男女ともかなり大勢いますから、今後はどうなるのでしょうね?

南條:今の50歳以上の美術館の館長とかキュレーターに現代美術をやらせたってだめよ。もう時代からずれる。外国の状況だって本当は知らないでしょ。だからきっとピントが外れちゃう。今年の前半だけで、僕はリヨン・ビエンナーレ、シドニー・ビエンナーレ、マニフェスタ、ヴェネチアの建築展なんかを見て、それからオープンしたルッツェルンとブレゲンツの新しい美術館も見てきた。そうすると、どういう事が起こっているか、国際展がどういう状況かを相当体感しているわけですよ。だけどそういうのを見てない人は日本でいくら勉強したってだめ。本当の動きはどこにも書いてない。書いてあることは1年以上前のことだから。

岡部:それに見て自分で考えることが大事ですよね。

南條:そう。自分で見て、考えて、そこにいる専門家と話さないと分からない。例えばこのコンピューターに全部映像が入っている。リヨン・ビエンナーレやシドニー・ビエンナーレなんかの。自分で撮ってきて整理されている。それを20年間体感してきている。それは、異常な世界だけど、でもコンテクストを知ることに繋がっている。

岡部:今回のエキゾティスムを分かち合うという主題のリヨン・ビエンナーレはどうでした?私も見ましたけど。

南條:悪趣味だっていう人もいるよ。死体派とかいう、最近の中国の死体を使う人が5,6人も出ているわけ。“ショックアーティスト”って言って、デミアン・ハーストから影響を受けているけど、彼らは本当の死体を使っている。

08 経理のイマジネーション

岡部:今、講義をなさっているのは慶応のアートマネジメントだけですか?

南條:慶応三田キャンパスのアートマネジメントとあと湘南藤沢キャンパスの現代美術。それから大阪のIMI(インターメディウム研究所)も。三田は毎週じゃないからまだいいけど、旅行が出来なくなる。

学生:ナンジョウアンドアソシエイツのスタッフの方は、役割分担しているんですか?

南條:総務的な人間は決めてある。総務は企画とは全然違うから。あと僕の秘書役と。ただ経理の1番根幹をやっている人は税理士の人。総務の人も企画をやるときもあるけど。僕はお金の大きな流れはチェックしている。

岡部:それが1番大変ではないですか?でも南條さんならやれるんですね。

南條:僕は経済学部にいるときに公認会計士の試験を2回受けている。だから経済だけじゃなくて“商学”って言うんだけど、簿記とか、財務請表とか、そういう勉強を2年くらいやっていた。まぁ意味は分かる。税理事務所から来ている人がやっている処理を見ていて、僕がおかしいって突っ込んで変えさせることはある。だから例えば一見数学のように決まって見える事柄でも、主観的な判断の幅があるわけ。この経費をどう解釈するのかといったときに接待費なのか、会議費なのか、仮払いなのか、前払いなのか、それは微妙な違いなわけ。それをどうするかで赤字になったり、黒字になったりする。だから「この処理は本当にこれでいいのか?」と疑問を持って僕が見る。税法上の解釈は実際にはすごく揺れている。税務署の解釈と税理士の解釈は違うでしょ?だからそういう面でうちの事務所にとってどれが本当にいいのかという観点でみなければならない。

岡部:提案しないとね。大事ですよね、経営していく上で。

南條:そう。だけど簿記をね、みんなが分からなきゃいけないとは言わない。すごいシステムだから。ゲーテがね「これはすごい」と言ったという話がある。簿記は「Book Keeping」という言葉からきてるんだけど、貸し方と借り方のバランスが左右になっていて、両方あわせるとピシャッとゼロになる。で、貸しているものは資産、でも借りているものも資産なんだよね。借りている金を使うとそれが資産からものに変わる。現金と借金が同じ資産に分類されるってことの意味が、何年やっても僕には分からなかった。2年勉強してみても意味は本当には分からなかった。でも今は意味がわかる気がする。

岡部:どちらにしても、データを読み取れることは大事ですよね。数値が、何を、どういう状況を表しているかを理解する必要があるから。

南條:そうそう。それに経理を見ていく時の勘所がある。ずらっといろんなコストが並んでいる。そのとき小さいコストを見てもしょうがない。大きなコストが何を表しているか、何か大きな項目で大きな変化がないか。これは本当に正当なものだろうかって見方をしていって、下の数字に降りていく。下から見ると分からなくなるから。

(テープ起こし担当:大塚加織)


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