インタヴュー
藤原えりみ×岡部あおみ
日時:2005年
武蔵野美術大学芸術文化学科 岡部ゼミ
01 「アノーマリー」展で犬を使った村上隆
藤原えりみ氏
© Erimi Fujihara
藤原えりみ:自分では肩書としては美術ジャーナリストと名乗っているのです
が、主な仕事は、雑誌の編集と翻訳事、文章を書く仕事です。私は東京藝術大学の芸術学科の卒業生で、
大学院修士課程での専攻は美術史ではなく美学です。
仕事の上では、西洋美術史の流れからコンテンポラリーアートの流れまでを視
野に収めつつ、日本の美術史および近代のアジアの状況をもう少しリサーチし
ていかなければいけないなと思っています。
デザイン情報学科で非常勤講師を務めさせていただいて数年になります。専
門というわけではないのですが、「メディアアート」という枠で、特に美術に近
い実験映像の流れとインタラクティブアートの流れを中心にお話させていただ
いてます。基本的には映像の展開を歴史的に抑えることを主眼として、いろい
ろな作例を見せながら講義をしています。今日は、岡部さんより、奈良美智と村上隆をめぐる最近の状況についてとい
うテーマをご提案いただきましたので、2001年の雑誌BRUTUSの特集号の仕事を
中心にお話したいと思います。
村上さんとは、私がBRUTUSのアート欄担当をしていた頃で、彼が現代美術家としてデビューしたての頃に知り合いました。
タミヤのロゴマークやフィギュアを使った作品、ランドセル作品を発表していた頃です。
この頃はアート欄で村上さんの個展を紹介する記事を書いたりもしていましたね。
当時、大森に巨大な倉庫空間を利用したレントゲン藝術研究所というギャラリーがありました(その後、青山を経て六本木に移転)。
若手作家中心の展覧会を開催していて、かなり盛り上がっていんですね。
ただ、椹木野衣氏キュレーションの「アノーマリー展」の時、
彼は野球場で使う照明をいくつも組み合わせた「シーブリーズ」という巨大作品を展示していました。
その時ぞっとしたのが、強烈な照明を浴びる位置に柵付きのベビーベッドが置いてあって、そこに犬を入れてパフォーマンスをやったらしいんですよ。
私はパフォーマンスには間に合わず、すでに終わった頃に着いたんですが、
集まってきた人々は多いに盛り上がっていて、会場は熱気と人々の体温でむせかえるばかり。
私も会場にいてものすごく暑くてしょうがなかったのに、犬に誰も水をあげないものだから、犬が自分のおしっこをなめているんですよ。
私はかわいそうになって、ある友達に「アート作品だからって何でもやっていいもんではないでしょう、あの犬を外に出しなさい」って言い続けた。
村上さんを探してもどこにいるのかも分からないほどの混雑ぶりで、その時はそれっきりになってしまいました。
それからしばらくしてから、村上さんに合った時に「あれはおかしいよ」といったら、
「だってあの犬、保健所に連れて行かれるところだったんだよ。その犬をパフォーマンスで使って、
人にもらわれていってちゃんと幸せになっているから、いいじゃないですか」って言うわけ。
そして、「藤原さんって愛護動物団体に入っているの?」って言うから、「だめだこいつ、何話しても通じない」
って思っちゃいましたね。そんなことがあって、「アノーマリー展」以降、彼をフォローしようという気持ち持ちが薄れてしまって、
しばらく没交渉だったんですよ。このBRUTUSの特集仕事で、10年振りとまではいかないけれど、本当に久々に会いました。
実際彼に聞いたらあの頃は、彼自身もいろいろ迷走していて、ACCでニューヨークに行ったときが一番つらかったと。
2003年のBRUTUSの「New York High & Low 特集」の中に「NYがアーティスト村上隆を作った。」という小特集がありまして、
その頃のことを記事にまとめています。「アノーマリー」とかいろいろやったけど、作品作っても業者さんに払うお金がたまるばっかりで、
僕もこんなことやっていてもしょうと思って、どうしようかと思っていた。そんな時に、白石コンテンポラリーアートの白石さんに会い、
ACCを受けてみないかと誘われて受けてみた。受かってスタジオを用意されたのは良かったけれど、何も描けなくて、
ひたすらアニメのキャラクターを真似てドローイングしていた、と言うんですよ。
90年代の初めですね。一番彼がダウンしていた時期みたいです。
ちょっと私がその辛い状況をオーバーに書きすぎたのか、記事を読んだ方がみな村上さんに、
「村上さんも苦労したんですねえ」って言うのですって(笑)
02 奈良美智と村上隆のブルータスの特集
岡部あおみ:結局、村上さんがアートを続けられたのはニューヨークに行った からかしら?
藤原:そうですね。そうじゃなかったら彼は現代美術をやめたか、続けていたとしてもこうではなかったと思います。
自分が好きだったアニメという原点に立ち返れたのがニューヨークだったんでしょう。でも、すぐには成功しないわけ。
その間いろいろなことをやってモヤモヤしながら、日本とアメリカを行ったりきたり。
そして、DOB君というキャラクターが生まれたことで何かが動き出した。
でも、皆さんに一つだけ申し上げておきたいことは、奈良さんにしても村上さんにしても、
主に海外の個人コレクターの手元に作品が渡ってしまっていて、2001年に開催された二人の展覧会
(奈良美智は横浜美術館、村上隆は東京都現代美術間)を見られなかった人は、
彼らの代表作の実物を見ることがなかなかできないという状況なんですね。
確かに、美術でビジュアルのプレゼンテーションされたものは実物を見なくても伝わることがありますよね。
ただ、奈良・村上に関しては、実物を見ないと軽々しくは批評できないんかじゃないかと思う部分があります。
村上の作品はとにかくデカイ。大きいというよりも、「デカイ」というスケールです。
それから村上さんの作品はキャンバスの折り目がわからない。
ということは、
それだけ絵の具を重ねて塗っているということ。奈良さんの場合も、一枚一枚の絵が、
素材との細かいやり取りがあった上で成り立っているので、印刷物ではそれが見えなくなっちゃうんです。
やっぱり、村上さんの作品をきちんと見ないでみんながあれこれ言っているのは気になります。
ただ今や、代表作は海外の個人コレクターの手元に渡ってしまったので、日本でいつ作品を見ることができるかどうか、わからない状況です。
この特集号の仕事の話が来たのは。2001年の2月だったと思います。
私は、しばらく仕事をする意欲がなくなってボーとしている時だったんですね。
ブルータス編集部から電話があって、2001年の夏に奈良美智さんが横浜美術館で個展を、村上隆さんも東京都現代美術館で個展を開催すると。
たまたまそういうめぐり合わせになっている年だったので、編集部としては何かアート特集をやらなければいけないけれども、
この二人で特集をできないだろうかという話がありました。
そしてこの特集号を見てわかりますように、これは2001年9月1日発売号でして、
つまり奈良さんの個展が8月11日に始まりまして、村上さんの個展は8月25日から始まるのですが、
この号は8月15日に書店に出ました。
ですから展覧会の前うち情報として作りたいと、私はこの号が出るまで2月からほぼ半年ぐらい、実はこのブルータスの仕事しかしていなかったんですね。
私はそれまで数年の間、小学館の仕事に比重があって、しばらくBRUTUSの仕事をやっていなかったのです。
しかも、2001年の1月、2月という時期は、奈良さんと村上さんの海外での評価が高くなっていた時だったんです。
それで、「今、BRUTUSで特集をやるならどうすればいいか」と、考えちゃったのです。
普通BRUTUSでアート特集を組むときには、きわめてわかりやすい手法をとります。
例えば、奈良・村上なら、奈良・村上をテーマにして、奈良ファンである日本の著名人、村上ファンである日本の著名人に登場していただいて、
ドローイングでも所有していれば、それを紹介しながらおうちの様子をショットに収めてインタビューを聞くとか、
二人をサポートしてきたギャラリストの話を聞く。特に村上さんに関して言えば、
ずーっとサポートしてきた評論家の立場としては椹木野衣さん、
また奈良・村上を含めて若い世代の作家たちを擁護している松井みどりさんがいらっしゃるので、お二人に一文を寄せてもらう。
あるいは、松井さんと村上さんの対談でもやりましょうとか。そういう風に考えていくのが順当だったと思うんですよ。
ただ、私自身が奈良・村上の日本の美術界での評価がどうなっているかを冷静に考えたんですね。
奈良さんは多少メディアにも取り上げられていたし、本も売れていて、若いファンもついている段階でした。
ただ、奈良さんも村上さんも日本の美術界ではまったく評価されていないに等しい状態。
というと、美術に直接関係ないフィールドの人は「えっ、そうなんですか」ってびっくりされますけれど、
今でも現代美術の世界のコアな部分では、デリケートなというよりもアンビバレンツですが、
正当に評価されているとは私は、受けとめません。
個展をする前だったこの当時は、ましてそうなんですね。
で、色々考えまして、BRUTUSはアートの専門誌ではないわけですから、日本の美術界の顔色を伺う必要はまったくないし、
日本の現代美術界の評価が分かれているというきわめて特殊な話題を、BRUTUSの一般読者に提供しても意味がないと。
BRUTUSという雑誌は昔からアート特集を定期的にやってきていまして、実際アート特集はどうしてだかわかりませんけれども売れるんですね。
岡部:いつもはどれくらい出ているんですか?
藤原:正式な部数はわかりません。実は、BRUTUSの起死回生の特集号は1996年の「フェルメール特集号」だったんですよ。
この前に部数がが―んと落ちまして、編集長が代わってフェルメールの特集号を出してから以降、もち直していくんです。
この時の編集長が、今のヴォーグとGQを統括している斎藤和弘さんという非常に有名な方ですね。
特集号自体の部数が何十万部いくかが問題ではなく、BRUTUSという雑誌をもう一度広告クライアントに印象付ける、
そして読者にも印象付けるための手段として、あの時期にフェルメールを持ってきたのは卓見だと思いますね。
ですから、彼がコンデナスト社に引き抜かれるお別れ会のときに、こっそり「フェルメールのときは助かった。ありがとう」と言われまして。
私、今更そんなことを言われてもうれしくともなんともない。言うんならもっと早く言えって思いましたけど(笑)。
でもこの時ですら10万部刷っていないと思うので、ましてや現代美術ですのでそんなに刷っていないと思いますね。
まあ、BRUTUSで一番売れて、クライアントもつくとなれば、それはファッション特集でありインテリア特集。部数も伸びるし、
クライアントもつきます。アート特集と言うのは、部数もそんなに伸びない上に広告もあまり入りませんのでね。
やっぱり雑誌媒体としてはある目的意識を持ってアート特集をやるという、
ちゃんとしたポリシーがない限りはまったくお金にならないのが現状です。
美術関係の特集で広告が入るということは、日本の現代美術の世界ではほとんどないので、
それを承知でやっているというところがありますね。
要は、広告クライアントが高級ブランドなんですよね。欧米におけるコンテンポラリーアートの位置って日本と違うじゃないですか。
ポール・ゲッティが美術館を作ったのと同じように、社会的に成功した企業家というのは社会に利益を還元していく、
ある種の社会的貢献をしなくてはいけない。アメリカでは本当にそうですよね、そのような文化伝統がありますから、
BRUTUSからしてみれば、雑誌のステータスキープの一つの手段だと思います。
ただ、やっぱりアートが好きな編集者がいなければ特集として成り立ちませんよ。この場合も奈良・村上の動向に関心を持っている編集者が一人いて、
彼から話があって、実現しているんです。実際、あの半年間、私はほとんど二人のストーカーのようでした。
とにかくくっついて回って材料を集めなければいけないんですね。
03 村上・奈良をサポートしているのは誰かー海外のキュレーター
岡部:大変ですね。
藤原:大変でした。私が考えたように、日本国内の二人の評価を聞いたってしょうがない。
なぜ海外で人気が高まったのか、その理由を追っていく必要がありましたし、それを私も知りたかった。
まず彼らの評価はアメリカで火がついたわけですね。アメリカの西海岸からスタートして、
アメリカでコレクターがついて、それがヨーロッパに広がっていった。
ちょうどそれが一巡した段階の時期だったので、だったらそのコレクターに会いたいって思ったんですね。
どういう人たちが作品を評価していて、どういう人たちが作品をコレクトしていて、
それに関して、アメリカやヨーロッパのキュレーターがどう反応しているかということを知りたかった。
で、タイミングよく、村上さんがキュレーションした「スーパーフラット展」
のアメリカでの第1回展がちょうどロサンゼルスで始まった。
さらに、ボストン美術館の現代美術ギャラリーで村上さんの個展が始まる。
そうした出来事ががものすごい勢いでリンクしていった年なんですね。
なので、あれを追っかけこれを追っかけしていくうちに、私は半年間ストーカーみたいな状態になって、
年がら年中二人のどちらかを追い掛け回している状態になって、ある意味特殊な状況だったと思います。
他に仕事をまったくしていませんでしたので。編集部も力を入れてくれまして。久しぶりにアート特集ということで……。
岡部:経費は雑誌の編集部が全部出してくれるんですか?
藤原:交通費や宿泊費等の実費は出してくれます。私は10年以上、BRUTUSのアート特集に関わってきていたのですが、
BRUTUSからお金出してもらって海外行ったのは、実はこれが初めてです。
例えば、フェルメール特集ですと、キーポイントとなる都市のパリ、ロンドン、ニューヨーク、ベルリン、
ミラノなどに優秀なコーディネーターさんがいれば、私が現地に行かなくても仕事になってしまうんです。
向こうで専門家の話をインタビューして、書き起こし原稿をもらって、こちらで編集すれば仕事になってしまうんです。
だから、10年近くアート担当をやっていましたけれど、お金を出してもらったのはこれが初めてでしたね。
この特集では、とにかく基本的には日本人は取材しない。
だから、奈良・村上をサポートしているギャラリストは取材しているのですが、
一番肝心な小山登美夫さんにはあえて取材していません。
海外でどういう人たちが、奈良・村上のアートをサポートしているのかを日本人が知らないといけないと思ったんですね。
特集号の扉には、海外の小規模な雑誌も含めてですが、メディアに取り上げられた記事からの抜粋文の翻訳をリードのような形で掲載しています。
「村上隆の新しい発想」「日本文化を巡る新しい趣向の後継〜」というこんなシンプルなフレーズですら、
当時の日本の美術のメディアでは一文も見られませんでした。
ところが海外のメディアではそれなりにあると。だったらそれを出しちゃえばということで、トップページに持ってきました。
特集タイトルは、「奈良・村上は世界言語だ」と断言しているんですが、本当はこれずっと編集の間、
「世界言語か?」とクエスチョンがついていたんです。ところが、こういう一冊を作ってものすごい量の情報が集まってきますので、
アートディレクターがもう断言したほうがいいんじゃないか、と。私は本意ではないですが、
別にこう断言したからといって、私の判断ということで人からあれこれ言われることはないだろうということで、こうなりました。
こういう雑誌の特集仕事に関しては、自分のコミットメントをどうオープン
していくかということがすごく難しくて、今回は私は全体の構成にも関わり、
文章も書き、例えばコーディネーターさんに何か依頼するときでも、ディレクションをかなりやっていたんです。
ですから、編集者としての仕事が相当多いんです。ただ、ある段階からトップに名前を出してくださいとお願いするようになったんです。
署名原稿でもいいんですけど、全体のトーンがありますから、いちいち個人名を出すよりはこういう形にしてくれとお願いしています。
実は、この特集はこういう風にお見せしていくのは不自由なんです。というのは、
作りが複雑なのです。まず、奈良さんの主な仕事が見開きにきます。で、観音開きに来るのが新作ですね。
で、村上さんのフィギュアの作品、過去の作品がここですね。で、ここに年表があるんですが、
情報がギュウギュウ詰めですごいんですよ。読むのも大変ですし。編集者といろいろ悩みましたが、しょうがないと。
奈良さんが年上なので奈良さんを先に持ってくると。
赤いページが奈良さんです。で、こちら側の青いページが村上さん。
さすがに、これに関してはいくらストーカーみたいに追いかけていても一人でやるのは無理で、
私が村上さんを担当しました。基本的にこの特集のメインの担当の振り分けとして、私が村上氏担当。
奈良氏担当は、今フリーランスになられているんですが児島やよいさんが担当しています。
児島さんがどのようにしてこれだけの文字データを集めてこられたのかは詳細には伺っていないんですが、
私のほうはとても大変でした。
時間があるときに話を聞きに行って、それでもまだまとまらなくて、最後はですね、
タクシーをチャーターして、フランスに発つ村上さんと一緒に成田まで行きました。
車の中から話を聞き続け、ANAのフライトまでずっと話を聞いていてまとめたのがこれです。
村上さんの場合、この年表が定本になって、その後の活動がこれにつけられていく形みたいですね。
それから、これはおまけです。裏表に二人の作品を印刷した卓上ミニ屏風。
雑誌から切り離せば、村上さんでも奈良さんでも、お好きな方を屏風にどうぞというぜいたくな作りですね。
次に、キュレーターがどういう風に考えているんだろうという「キュレータ
ーズ・アイ」というコーナーが始まります。
これは、村上さんの個展を担当されたボストン美術館の現代美術ギャラリーのキュレーター、シェリル・ブラットヴァンさんと、
アジア美術部門担当のキュレーター、アン・ニシムラ・モースさんです。村上さんの希望で、
どうしてもボストン美術館所蔵の曾我蕭白の作品と自作を並べたいと。
日本では考えられないような展示が実現した企画ですね。
この展覧会は4月に始まっているので、この時私はまずニューヨークに行き、ボストンで取材してキュレイター二人の話を聞いて、
その後マイアミ大コレクターのルベルさん一家を訪ねました。マイアミから、終了直前だったスーパーフラット展を見にロサンゼルスへ行ったんですね。
だから、ほとんどアメリカ大陸横断しているに等しい旅でした。
ニューヨーク、ボストン、マイアミ、ロサンゼルスでは、人口構成や生活習慣が違うので、それぞれが別の国みたいで驚きでした。
この時は、LA MoCAのパシフィック・デザイン・センター内別館で開催中のスーパーフラット展を担当していたキュレーター、
マイケル・ダーリングさんと、LA MoCAゲフィン別館で同時に開催されていた「パブリック・オファリングス」
展のキュレイター、ポール・シメルさんに話を聞いたりしました。
その次のコーナーは、6月のパリです。話題になっていたセレクトショップ「コレット」で奈良さんの個展があり、
またカルティエ現代美術間の企画展に村上さんの作品が出品される直前だったんですね。
この時も、パリで、二人にぴったりくっついて歩きました。
04 ビッグコレクターたち
藤原:パリのコレクターにも取材に行きました。この方は、名前を出してくれ
るなということでしたので「ミスターX」としました。どうも、元銀行家、しかも、
ものすごく知的レベルの高い、フランス的な皮肉なコメントの上手な方でした。
それから、ゲランという香水のメーカーがありますよね。
その一族のご夫婦のダニエルさんとフロレンスさん。パリから南の古い農園の敷地を買って、
コレクション展をやっていました。ほとんど趣味でやっている方でしたね。
いずれの場合も、入り口からちらちらと、目に飛び込んでくる作品が凄いものばかり。
キーファーの大作がさりげなく置かれていたりとか。マイアミのルベルさんは倉庫をギャラリーに改装していますから、
どんなにでかい作品があっても驚きはないんですけれども、ヨーロッパのコレクターは自宅を訪ねさせてもらったので、
あれっというところにとんでもないものが置いてあることも。
ゲランさん夫妻の場合、コレクション展とは別に、個人の住まいにも作品が置
いてありました。階段の壁に舟越桂さんのドローイングが置いてあったり。た
だ収集のポリシーがちょっと雑多かなあという印象でしたね。
ミスターXの方が、古代ギリシャ彫刻もあれば、モダンな抽象画もあるんだけれども、
ある程度のポリシーを感じましたね。16世紀ぐらいの小さなペインティングもありました。
自分自身の好み、感覚が変わってきているうえに収蔵できる空間も限られているので、
手放しながらそれでもアートに触れていたいとおっしゃっていました。
あと、アメリカの奈良・村上のコレクターをちょっと紹介します。ルベルさんたちはものすごいコレクションで、
ミュージアムとして一般公開しているのかどうかはっきりしませんが、
彼らの経営しているホテルに泊まれば、ただで見せてくれると思います。
村上さんに「行ったことあるの? 自分の作品がどう扱われているのか知ってる?」と聞いたら、「知らない」と。
コレクターはアーティストの全てを欲しがるんですよ。
それが、村上さんにとってはちょっと付き合いきれない、という感じなのかもしれませんね。
奈良さんはここに行ったことがあるかもしれません。ここに掲載した写真だけ見てもわかるように、
とてつもない空間にとてつもない奈良作品を展示しているわけですから。つい
でにおまけ的にしか掲載できなかったんですが、キーファーの巨大作品もありました。
それから、シュナーベルもデミアン・ハーストも。キース・へリング作品は、
彼が生きているときからコレクションしていると言っていましたし。この一家の熱の入れ方は特殊です。
岡部:通常はどんなお仕事をなさっている方々ですか?
藤原:ホテル経営者です。奥様のほうがディベロッパーで、旦那様の方が元医者だったと思います。
岡部:奥様が中心にコレクションしているのですか?
藤原:二人とも相当熱いです。その遺伝子を息子さんが受け継いでしまって。
小さい頃、お父さんお母さんは何て変な人たちなんだろうと思ってたら、自分もそうなっちゃったって。
それで、笑い話なんですが、奥さんに「僕を愛しているんだったら一つお願いがあって、
新婚旅行にまず日本に行って村上の朝霞のスタジオに行きたい」と。成田に到着後直ちに、
小山登美夫ギャラリーに行き、その足で朝霞のスタジオに行って作品を買い、それから京都に行ったんだそうです。
奈良さん・村上を発見したのは息子さんなんですって。
95年頃が二人がアメリカでブレイクしていく時のポイントなんですけれども、
アートフェアで小さな作品を見てとても興奮してご両親に電話したそうです。
次に登場していただいたのはロサンゼルス在住のコレクターの方々です。ま
すは、ケーブルテレビの経営者、バレンティンさんですね。それから、ハリウ
ッドを中心とするセレブの人たちを顧客としている弁護士でブルーノさんとそ
の奥様。
この時にどうしても取材させていただきたい方がいらしたんですね。ノートンさん。
岡部:ノートンさんって、村上さんのオブジェを作って、知り合いへのクリスマスの贈り物にしていらっしゃったことがあるでしょう。
藤原:はい。そうですね。ノートンさんはノートン・ユーティリティのもともとの開発者。
ノートンさん今は権利をどこかに売ってしまわれたみたいですけれども、
巨額の利益を得たんだと思います。
彼はコンテンポラリーアートのコレクターなんですね。村上さんたち以前からコレクションしていて、
年に一回記念品をアーティストに依頼して作らせていたんです。
森村さんの女優シリーズの一点を扇子の絵にしたものもありましたね。
村上作品で重要なものを持っているんですけれども、取材を断られたんですよ。
いろいろ詮索したら、どうも離婚をするとかしないとかの話で、
財産分与の問題に関わってくるので表に出たくなかったんでしょうね。
2年後、村上さんがロックフェラーセンターの前で「とんがりくん」
(「二重螺旋逆転」)を展示した時には、目の前にノートンさんがいたんですが、
とにかく大盛況のレセプションであまりも人が多すぎて、声をかけそびれてしまいました。
あと、ボストンがらみで重要な方がいらっしゃいまして、ケネス・フリードというこの方ですね。
一番古いDOB君のシリーズを買った人ですね。この間、オークションで手放してとんでもない値段になったみたいですよ。
でも、彼がいたおかけでボストンでの個展が実現しているんですよ。
というのは、最初コンテンポラリー・アートギャラリーで誰か日本人をやりたいという話が出たときに、
ハワイに住んでいて浮世絵風のテクニックで絵を描いている画家の名前が挙がったらしいんですよ。
それをこの人に相談したら、今やるんだったら村上をやれということで実現したらしいんですね。
だから、この一連の流れの背後には、ギャラリーやコレクターがいたわけですね。
それから、2003年のニューヨーク特集の中で村上小特集をつくった際には、
村上作品の大コレクターにお目にかかったりしています。
この時も1週間べったり村上さんにくっついて取材しました。
この方はアダム・M・リンデマンさん。スペイン語系ラジオ局の持ち主で、
ヴェネツィア・ビエンナーレにクルーザーで行くようなお方でしたね。
さらにコレクターとしてすごいのがマイケル・リンさん。
ロード・オブ・ザ・リングを配給しているニューラインシネマの共同経営者です。
このページに掲載しているのは彼のオフィスです。自分のコレクションを自分自身でキュレーションしてオフィス内に展示していて、
説明してくれているところです。
05 ギャラリストのパワー
藤原:ここはギャラリストのページ。
でもギャラリーの人たちにページをあげると宣伝みたいになってしまうので、
スペース的には小さめです。ミュンヘンのミハエル・ツィンクさんのところを大きめに扱ったのは、
新しいギャラリーだということと、ちょうどこの時に奈良さんの個展が始まったからです。
これもすごいタイミングですね。
この年の冬から夏にかけて、奈良さん・村上さんがらみのグループ展や個展などがアメリカとヨーロッパで同時に動いたんですよ。
2月からロサンゼルスでスーパーフラット展が始まり、4月にボストン美術館での村上さんの個展、
同時期にロサンゼルスのMoCAゲフィン別館で奈良さん、
村上さんを含む1960年代生まれの作家たちに焦点をあてた「パブリック・オファリングス展」、
6月にパリのコレットで奈良さんの個展、7月に始まる予定のカルティエ現代美術館の企画展(村上さん出品」)、
ミュンヘンでの奈良さんの個展……。
奈良・村上の欧米の展開で忘れることができないギャラリーが三つあります。
ブラム&ポーがまず西海岸で奈良・村上を取り上げたことから火がついて、
ボストン美術館と村上さんをつないだのもブラム&ポーなんですね。
その次が、パリのエマニエル・ペロタンです。
で、このブラム&ポーの二人の写真が笑えるんですね。
いったい、あなたたちどこの誰よみたいな、怪しい……。
岡部:マトリックスの悪役みたいですね。
藤原:そうそう。でもこれでいいっていうんだもの。
ブラムさんの方は東京にいたことがあるんですよ。
たぶん80年代の終わりぐらいから90年代の頭にかけてだったと思います。
現代美術のコレクターで、当時PERSON'S社長だった岩崎隆弥さんと親しくて、
岩崎さんの持っているビルの一室を借りて、マーズギャラリーというギャラリーを運営していました。
その頃から、彼は村上さんを知っていたんですね。だから、この三つのギャラリーの中では最も関係が古い。
私もその頃から彼を知っていました。2000年頃に彼の話を聞いて西海岸のアートの動向を知りました。
でもその段階では、西海岸の奈良・村上の人気を聞いても、正直なところ半信半疑でしたね。
それから、スーパーフラット展に関しても、アメリカのマーケットに対するプレゼンテーションとしての展覧会なんだなと正直思いました。
だから、日本人が見てどうこうというものじゃないんじゃないかと思っていましたし。
その後、ロサンゼルスで爆発的に火がついたのが2001年の出来事ですね。
当時、「スーパーフラット」は流行語にもなっていたようです。
岡部:二人のアーティストを早くから扱っていたギャラリストたちは、 急にものすごくお金が入るようになったでしょうね。
藤原:そうでしょう。岡部さん、パリのぺロタンをご存知でしょう。 ぺロタンさんは年齢的には奈良・村上と同じくらい。彼の話を聞いていて面白かったのは、 村上さんの出自についての考え方なんです。日本人の感覚だと「村上さんのお父さん、 個人タクシーの運転手なんだって」と聞いても、「あっ、そう」と、あまりあれこれ考えずに受け止めますよね。
岡部:でもフランスだったら、びっくりする人がいるのではないかしら。
藤原:そうなんですよね。ペロタンさんが村上と出会ったのは、
まだDOB君がキャラクターとして生まれて間もない頃で、
たまたま村上さんがTシャツにDOB君を刷ってニューヨークのアートフェアで着てたときに、
「これはおもしろい」とピンと来たと。
その前にも、NICAF(横浜・東京で開催されていたアートフェア)で出会っていると。
ヨーロッパは、目に見えにくいですけれども、きわめて厳しい階級制度の社会ですね。
アートというのはその中でも、一つのステイタスになりうるカルチャーフィールドなんです。
例えば、F1のドライバーが何回か優勝すれば、モナコでブラックタイ着用のパーティーに出ていけたりするように。
テニスでもそうですね。ウィンブルドンの優勝者はある種のセレブリティの世界に入っていきますよね。
フランスの場合でもこうした階級があって、私は彼の話を聞いて、なるほどなと思いました。
彼ははっきりとこう言ったんですね。「たかがタクシードライバーの息子が現代美術の歴史を変えようとしている。
僕はそいつと一緒に世界を変えていきたい」と。
だから、「村上はすごいやつだ」と。私たちとは村上作品の受け止め方の位相が違うんですよ。
ぺロタンさんもおそらくそんなに裕福な家柄ではないはず。だって彼は10代からこの業界で仕事をしているそうです。
ヨーロッパの場合はアメリカと違って、もともと社会的ステイタスが高く、
ビジネスよりも趣味でギャラリーをやっている方が多いと聞いたんですよ。でも、
この人はのし上がっていきたいという意思がすごく強い。
岡部:今はパリで一番豪奢で、立派なスペースを持っていますよね。
藤原:再開発エリアで、そんなに文化的な場所じゃなかったルイス=ヴァイス通りというのがあるんですよ。 移民の多い人たちが多い。ペロタンのギャラリー開設をきっかけに、 この通りは今ではすっかりコンテンポアートギャラリーの通りになってしまいましたね。
岡部:左岸にある新興ルイス=ヴァイス通りから、 彼はポンピドゥーセンターやピカソ美術館のある右岸の古いマレー地区やボージュ広場の近にあるテュレンヌ通りにギャラリーを新設しています。 すてきな庭のあるすばらしい館を改造したところです。
藤原:この人がカルティエでの展覧会を仕掛けているんです。
例えば、2002年の村上さんキュレーションによるカルティエの「ぬりえ展」も、
「ヨーロッパのコレクターにプレゼンスをもっとアピールしなければいけない」と、
ぺロタンから言われたのでやったのだと。
そのあたりの駆け引きが、アーティストがやりたいからやるんだというだけでなく、
「こいつはこういう風に考えているからこちらから押す」とか、お互いかなり持ちつ持たれつの関係があって、連係プレーでなんですよね。
まあ、ペロタンさんも最初の目的はもっと大きい車に乗りたいとか、もっとおいしいものを食べたいとか、女にもてたいとか。
そういう目標だったかもしれませんけど。村上氏いわく本当にこいつはガールフレンドがよく変わるって。
そういう欲望の段階を、社会的ステータスの梯子を一緒に手を取って登っていくアーティストと出会いたいという気持ちがあるのだろうと思います。
マリアン・ボエスキーさんの場合はまた事情が異なります。
実はボエスキーという名前は、ニューヨークの人なら誰もが知っている名前なんだそうです。
株の世界で、インサイダー取引による大スキャンダル事件を起こした人が彼女のお父さん。
つまり、おそらく経済界に特定のコネクションがある。で、彼女自身もものすごいやり手で、他の二つのギャラリーと比べて、
奈良・村上との出会いは一番後からなんですね。でも、マリアンがいるからブラム&ポーがニューヨークに進出できない。
一番大きなマーケットがニューヨークだから、一番後に出てきたけれど一番大きい。
おかしかったんですけれども、ボストンのレセプションの時に、取材だから村上さんを囲んで写真を取りましょうと、
並んでもらったんですけれどもね。何となくマリアンさんとブラムさん微笑みがこわばっている。
あんまり、近寄りたくないという気持ちが露骨にあるのね。
こうした動きを追っていて気づいたんですけれど、ギャラリストがアーティストと個人のコレクターをつなぐようになっていった近代以降、
何がしかのアートムーブメントが起きる時には、それまでの社会を支えてきた支配層や経済流通のあり方が変わっていく時と重なっているのではないかと。
コレクターとなる人々の階層が変わり、コレクターの求めるものも変わる。アーティストの見ているものも変わり、作品の流通システムも変わっていく。
そういう節目があるんじゃないかなと。
一つの例として言えば、印象派の時代までさかのぼれると思います。
もちろん、18世紀からギャラリーはありました。しかし、近代的な意味、つまり展覧会をギャラリーで開催して、
そこにコレクターに来てもらうことで、作品が購入されてアーティストが食べていけるというシステムは19世紀に入ってからだと思います。
印象派でいうと、デュラン・デュエルとかジョルジュ・プティなどですね。ギャラリーとアーティストとの関係がそれまでにない密度を持ってくる。
社会が変わることによって作品が動く展覧会のシステムができていく。
そして美術館の制度が確立していくんですね。何か違うものを見たい作家たちがいて、何か違うものを欲している需要層がある時に、
コレクターの社会層も変わってくれば、それを動かしていくギャラリストの世代も変わってくる。
その表れがこの三つのギャラリーと奈良・村上の関係にも現れているのだと思うんですね。
そして、そこに最も若いミハエル・ツィンクさんが加わっていく。
20世紀の例では、ポップアートが登場した時、リキテンシュタインとウォーホルをピックアップするのは、
レオ・キャステリなんですけれども、最初に彼らの作品に目を留めたのはレオ・キャステリ画廊に勤めていた若い人なんですよね。
とはいえ、ギャラリストとアーティストは同世代であっても、コレクターが必ずしも同じ世代である必要はないんです。
なぜなら、経済力がないとコレクションできませんので。
ただ、奈良・村上を追いかけていてなるほどを思ったのは、コレクターはIT産業の雄、ケーブルネットワークの社長や映画配給会社の経営者、
ハリウッドのセレブリティの弁護士、ベンチャー産業としてのホテル経営者ということを考えると、
20世紀半ば以降になって経済の中心を動かす業種に携わっている人たちがコレクターになっている。
最初に村上さんの登場を喜んだのはIT産業のベンチャービジネスに関わっているノートンさんたちなんです。
彼らは今までのフレーミングのアートに対しては、だめだ、つまらない、あるいはもっと違うものが欲しい、
自分たちの時代の美術が見たいと思っていたはずです。
そういう欲望に合致したのがまさに奈良・村上世代の日本のアーティストなんじゃないかと思います。
さらに歴史をさかのぼって考えれば、15世紀にフィレンツェが芸術の都として栄えましたが、実験を握っていたメディチ家といえば、
教会の聖職者でもなければ、貴族の出身でもないわけですよね。
もともとは薬種問屋、商人です。そして、貿易に手を染めて銀行として大きくなっていくわけです。
新興のメディチ家がパトロネージしたアーティストがボッティチェリだったり、若い時のミケランジェロだったりしたわけです。
06 村上をめぐる日本での評価と次世代アーティストたち
奈良・村上のムーブメントは、一過性のものだとは私には考えられません。 これにのっかって今、どんどん若いアーティストたちが欧米のマーケットに出ていますね。 ただ、ある種の傾向があります。具象的で漫画的な画風と言えばいいでしょうか。 でも、これとは異なる流れもあるんですよね。例えば、今皆さんの手元に資料をお配りした笠原恵実子さん。 彼女は村上さんと同年齢で、村上さんとも知り合いでニューヨークにいます。 村上さんがネット上で展開していた芸術道場という論文審査システムでも、 彼女は協力して審査員の一人を務めていました。 しかし、作品の傾向はまったく違っていて、彼女自身は村上さんの作品を評価しません。 だけど、その一方で笠原恵実子さん的なタイプの、コンセプチュアルなアーティストがいるということが重要ですし、 コンセプチュアルな系列として、河原温から杉本博司に続く一つの流れもあると思います。
岡部:彼女はフェミニストだと思われますか?
藤原:微妙ですね。彼女の視点の中に当然、フェミニズムは入っているけれども、
単純にフェミニズム・アートとしてくくられるのは嫌だとはっきり言っています。
私は、様々な傾向があっていいと思うのです。村上さんのカイカイキキのグループでは、
一番の売れっ子は青島千穂さん、高野綾さん、そしてミスター。この三人がすごいですね。
それに続けとばかり、村上さんは他の若いアーティストを仕掛けていって、ニューヨークのマリアンのところでグループショウを開いたら、
作品は完売。この傾向がどこまで続くのかがわからないけれども、あるところまではいくと思います。
その後また違う傾向のアートの傾向がおきてくると思うけれども、奈良・村上を代表とするある種のムーブメントは一過性のものとは私は思えません。
村上さんはいずれ時間が経てば、100年200年後に日本で初めてのポップアーティストとして評価されると思うんです。
現代美術関係者じゃなく、日本美術史や西洋美術史の研究者たちが彼の作品を評価していますね。
岡部:だいぶ前ですが、ある公立の美術館で収集委員として委員会に出ていたとき、 学芸部から購入候補にあがったリストに初期の村上さんのアメリカ兵を使った立体作品があったのですね。 買えるチャンスだったので、私はトップに上げたのですが、外部の評論家やほかの美術館の学芸員などからなる7人ぐらいのメンバーの委員会でしたが、 購入の優位順をつけるときに、みんな下位においたらしく、結局購入のグッドタイミングを逃してしまったことがあります。 委員会は若手も多いそうそうたるメンバーだったのに、本当に残念でした。美術館にコレクションがないといっても、 必ずしもその美術館の学芸員の責任とはいえないこともあります。
藤原:奈良・村上の代表作はもう日本にはありません。コレクターがいるので、 奈良さんの作品は多少は日本に残るとしても大作は残らないと思います。 村上さんの場合ですと、金沢21世紀美術館に所蔵された、アノーマリー展に出した初期の「シーブリーズ」と花の絵の屏風くらいでしょうか。
岡部:それだけでも残って良かったけれど。村上さんのアメリカ兵の作品はどこに行ったのかしら
藤原:おそらく海外のコレクターの誰かがかっさらっていったと思いますよ。 東京都現代美術館で個展を開催する頃から、アートフェアで値段が跳ね上がり、 クリスティーズでも落札価格を3回更新しましたので、おそらく日本では彼の作品は買えないですね
岡部:今の現代系美術館の予算内では買えなくなりますね。
藤原:彼が、「東京都美術館には絶望した、日本では個展をしない」と言うのも、
そういう事情があるのだと思います。しかも、彼は若い人をいろいろ使って大もうけしていると思うかもしれないですが、
それは勘違いです。一つの作品を作るのにものすごい時間がかかるんです。
一枚の大作であれば、最低でも2〜4ヶ月かからないとできないんですよ。たくさんは作れないので、結局ウェイティングリスト状態になって、
いくら注文があっても生産力が追いつかない状態なんです。
そのあたりの動きを考えると、六本木ヒルズの仕事がいいか悪いかは別として、
今、村上さんはいろいろな意味で注目を浴びていて、仕事も動き出しましたよね。
岡部:せっかく大規模な個展をしたのに、購入してくれなかったからでしょうか。
藤原:もちろん。それは無理だと村上さんにもわかっていたんです。 都現美での個展の際に、旧作に1800万円の値段がついてしまったので、、 新作の「タンタン坊」はとても都現美で買えないです。あれはギリシァかどこかに行っちゃったらしいです 。値段が高くて、買えないのはしょうがないし、問題はべつに購入してもらえなかったということではなく、 日本では絶対に評価されないという意味での絶望感。ゲイサイだけは続けたい、でも個展はしたくない。 何にもモチベーションをもてなくなっちゃったって言うぐらい、がっかりしたらしいです。 ただ、そうは言ってもあの個展があったおかげで、以前よりも彼の名前とやっていることがメディアに載って知られてきたと思いますね。
岡部:今は昔よりは美術館レベルでも認められるようになってきたと感じますけれども、違うのかしら。
藤原:うーん。もう少し客観的に見られる世代っていうのもあると思うんですけれども。 単純な村上好きも困ったもので、それでは話にならない。六本木ヒルズのキャラクターデザインをやったことで、 彼は自分のやりたいことのためにお金を回せるようになったみたいです。ちょっと収入は増えたと思いました。 趣味にお金を使えるようになったから。
岡部:サボテン栽培が趣味だと聞きました。
藤原:温室二つもありますよ。去年の秋まで一つだったんですが、二棟になってまして
岡部:ご自分が住んでいる場所も改善されたのでしょうか。
藤原:日本の村上さんの朝霞のアトリエでは、プレハブの一軒を彼の住まいにしていて、 あまりにも本が増えてしまったので重量に耐えうるように補強して、レールつきの天井までの二重の本棚にしているんですね (現在は都内に引っ越している)。
岡部:カイカイキイのスタジオがある埼玉県朝霞市の「丸沼芸術の森」に卒業生が就職したこともあって、 学生とともに訪ねたことがあります。安価にスタジオを提供するという方針のところだから、 どれも見た感じは同じようないわゆるプレハブですから、重量はもたないでしょう。
藤原:でも、寝る時は相変わらず寝袋みたいです。一応、空調入れてますけど夏は暑くて、冬は寒いです。 2003年のBRUTUSの取材で訪れた際に、ニューヨークのアトリエにも行きました。 朝霞に比べると小さい空間の倉庫ですが、道路の反対側にオフィスがあって、こちらはとてもこぎれいでした。 いろいろまずい問題も起きるだろうから、オフィスの入り口は映さないでくれと言われました。 この取材のおりに、90年代後半から村上さんが展覧会を開く時のカタログとかチラシ、 インビテーション関係を一手に引き受けてデザインしている後藤隆哉さんともお目にかかりました。 彼は彼で、ニューヨークでのサクセスストーリーを着々と歩いている人で、そういう関係も面白いです。 ニューヨークのデザインスタジオで仕事をしながら、村上さんの仕事をやっている。リトル・ ボーイ展のカタログも後藤さんのデザインです。ある人が指摘していたんですが、彼は英語の字組みはうまいけれども、 日本語の字組みはだめねと言っていましたけれども。村上さんの周囲には、自分なりの目標を持ち、 努力して自己実現していく人たちが集まってきています。
(テープ起こし 森 啓輔)
追記:このレクチャーは2005年10月26日に行われたものであるため、
現在の状況を補足しておきたい。
まず村上隆に関しては、2006年にニューヨークの受け皿となるギャラリーがマリアン・ボエスキーからガゴシアンに移る。
また、幻冬舎から『芸術家企業論』を出版。朝霞のスタジオは残しながら、念願かなって都内にオフィスを移転してもいる。
2007年10月27日からロサンゼルス近代美術館で回顧展が始まる。
この回顧展はブルックリン美術館を経て、フランクフルト近代美術館、
そして最後はビルバオのグッゲンハイム美術館へと巡回し、終わるのは2009年の5月になる。
2年がかりの大規模な回顧展がどのように評価されるのか、非常に興味深い。
奈良美智に関しては、横浜美術館での個展の後、大阪のクリエイター集団Grafとのコラボレーション活動を展開し、
小屋をテーマとする大がかりなインスタレーション作品を発表。
アジア各地、アメリカ等でもこのプロジェクトは展開し、第二回横浜トリエンナーレ、2006年の弘前での「A to Z」展を経て、
2007年の夏には、オランダのデン・ハーグの現代美術館でGrafとのコラボレーション展を開催。【2007年10月、藤原えりみ】