Cultre Power
collector / art critic & journalist 針生一郎/Hariu Ichiro
contents

01
02
03
04
05
06
07









Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

インタビュー

針生一郎×沢山遼

学生:神野智彦、藤本浩二
日時:2009年10月23日
場所:針生一郎自邸

01 夜の会

沢山遼:本日は今回ぼくも初めて関わるのですが、カルチャーパワーという国内外のさまざまな美術関係者の方へのインタビューを掲載しているウェブサイトがありまして、今回は日本の戦後の美術批評を牽引してきた針生先生に、新人の美術批評家の一人としてぜひお話を聞きたいと思いまして伺いました。以前にもこのご自宅で伺ったことがあると思うのですが、改めて、針生先生にとって批評家として活動の出発点にあると言ってもいい「夜の会」のことからお聞きしたいと思います。花田清輝と岡本太郎が参加していた「夜の会」のことを、針生先生は新聞の告知で知ったのでしたよね?

針生一郎:そう。

沢山:その時は花田清輝と岡本太郎、安部公房などのことはすでにご存じだったのですね?

針生:もちろん。安部公房はぼくと同じで、同人ではなかった。若手の一人として会に参加するうちに常連になったんだ。美術では山口勝弘とか池田龍雄とかがいた。ほかに関根弘が安部公房と並ぶ常連の、一番年上のような感じで。 夜の会は岡本太郎が花田清輝の書いた文書に共鳴して訪ねていったというふうにある時期までなっていたけども、違うんだ。花田清輝が岡本太郎の家を訪ねて、それで一緒にやろうじゃないかということで始まった。埴谷雄高、椎名麟三、佐々木基一、野間宏。だいたいそのあたりを同人として、東中野の「モナミ」という喫茶店で、この間まであってもうなくなったんだが、一流レストランだけど敗戦直後はコーヒー一杯の代金を払うと午後中ずっとねばっていられる。だから会場費というのは別に出したかどうかよく知らないけども、そこで月2回の例会をやってた。

沢山:それは実際夜間に開かれていたのですか?

針生:いや、昼間。僕が東京に来たのが1948年で敗戦の3年目。東北大の国文学科を卒業したんだけど、当時人気だった太宰治よりも幅が広いというか、常識があるなと思っていて、卒業の直前にかねてから傾倒していた坂口安吾が『文芸新潮』に「日本風土記」というエッセイを書き、ちょうど仙台の場面になった。仙台は東北一の都会で、かつて戦争中は第二師団があったし、戦後も東北帝大、その後の東北大学があり、それから私立の大学、専門学校などがいくつもあったし、官庁の支所、大企業の支社は揃っていると。ただ、どこでも一番偉いのは必ず中央から派遣された人で、地元の連中は非常に従順で中央から来た上司を盛りたてて助けようとするから、まるで街全体が下宿屋みたいな感じだと書いていて。
 僕は小学校から大学までずっと仙台だったから、ちょっと下宿屋みたいなこのローカリティを抜け出さなきゃいかんなと思って(笑)、それで東大の大学院に行くことが東北大の教授に対しても両親に対しても一番いい口実になるから東大に48年に来たわけだ。 それで最初に下宿していたのが東中野の知り合いの家でね。4月からそこに住んだんだけど3月頃、もしかしたら仙台で見たのかもしれないけど、新聞に戦後派の作家、批評家が集まって「夜の会」という総合芸術の運動を始めたという記事が大きく掲載されたんで、モナミは近所でもあるし、じゃあ行ってみようと。2回目くらいから、なんとなく常連になった。

沢山:年譜によるとこの頃は卒業論文として島崎藤村論を執筆しておられた。まだご専門としては文学だったわけですよね。その後『美術批評』誌に美術批評を書くことになるんですけども、それ以前から美学を専攻していたとはいえ、その後の批評の照準になるような実質的な現代芸術との出会いは、この「夜の会」に始まると言ってもいいのでしょうか?

針生:「夜の会」の頃じゃなくて、「夜の会」の安部公房、関根弘を中心に若手常連だけが「世紀の会」っていうのをつくったんだ。ほかに田中英光もきていたな。「夜の会」というのは実は半年しか続かず、ぼくは「世紀の会」だけに参加することになった。「夜の会」の流れで、モナミから本郷の喜福寺で絵も制作していた住職、名前は今思い出せないが、彼のお寺を借りて岡本太郎を中心に美術、文学を中心として、作品を持ち寄ってみんなで合評するという「アヴァンギャルド芸術研究会」ができたんだ。だがそれも半年しか続かなくて「世紀の会」がすべて統括することになり、安部公房が何年か経ってから芥川賞を受賞し、その後、共産党に入るわけだ。東京都内の南部文学集団っていうサークルに出かけていって、「世紀の会」として指導したりね。
 美術でもそういうことをやったらしいが、僕はその頃、大学院の美学研究室にいて私費の月謝を払っていて、その一年後に東大の学部卒業生をさておいて特別研究生になれた。その年から育英会の貸与になったけれども、研究費を貰って研究室に常勤するという待遇の特別研究生に選ばれたんだね。常勤すると「世紀の会」の方に出られないので、しばらく出なかった。 そしたら、パリ祭があって、1951年かな。「世紀の会」の後に安部公房に会ったんだ。そのパリ祭で「今やっている「現在の会」というのがおもしろいよ。君も来てみないか」と言うもんだから、行ったら後から知ったんだけど、いわゆる文学の第三の新人たちを集めてさ、第三の新人というのは第一の戦後派と違ってみんなノンポリなんだけど、安部公房はその第三の新人を共産党の党員にするという魂胆だった。
 でも吉行淳之介とか三浦朱門とか、その第三の新人たちは、安部の政治的引き回しに嫌気がさして来なくなるの。 まだ生きているけど眞鍋呉夫が残って、九州大学から眞鍋と親友であった島尾敏雄が、第三の新人がみんな出ていったけども、いったいこの会はどうなるのかという興味で集まってた。僕が行ったのはそういった時期。そのうちに僕は『新日本文学』や岩波の講座『文学』だのに文芸評論を書き、それから『リアリズム芸術の基礎』という題でルカーチのマルクス主義芸術論の翻訳を出した。特別研究生5年で満期のときに、これは教授コースなのにどこからも大学選任教授の口がかかってこない(笑)。やっぱりマルクス主義が非常に警戒されていたんだと思う。

沢山:そのころルカーチの翻訳なんかをしていたわけですね。

針生:そう。それで「夜の会」の月曜書房(眞善美社?)というところで事務局をやってた河野葉子という女性が、月曜書房が潰れて美術出版社に来ていたんだ。美学会の雑誌(『美学』)ができていて、その編集を僕にまかせるということになったんで、その版元である美術出版社に行ったら旧知の河野さんに会って、彼女が美術批評を書いてみないかと言うんで『美術批評』という雑誌が始まった。そのあと『美術手帖』にも書いたけど、1952年から書きはじめて、特研生満期で教職がないからフリーライターでいくほかないかと思ったのが1954年の春ね。 そのとき、文芸批評はマルクス主義及び左翼ばかりでほとんど稿料にならない。むしろ持ち出しみたいなもん。稿料は低くても一年前から書いている美術はまだ良かった。
 それから千田是也が、ぼくが岩波の『文学』に書いたヨーロッパ演劇論の動向みたいな文章を非常におもしろがって、俳優座養成所で、仲代達矢とか渡辺美佐子とかいた時だけども、一年間講義して、俳優座のなかのブレヒト研究会にもひっぱりだされた。千田さんはどうもね、ろくな劇評家がいないからぼくを演劇批評家にしたてようと思ったらしい。 それから映画雑誌にも書いたね。『映画芸術』という雑誌の編集部に「世紀の会」にも来ていた東北大で一年先輩の小川徹っていうのがいたから、その関係で試写会へみては映画芸術社へ行って雑談していると「じゃあ今度はあんたが書きなさい」っていうことになって。 映画、演劇、音楽というのは、作曲家も音楽批評家も東大の美学出身者が多いものだから大体知っていて、いろいろ注文されたりしたね。
 美学の先輩にはモダンダンスや舞踊をやっている者もいて、アスベスト館という土方巽の本拠に呼ばれて、シュルレアリスムかなにかの講義をした気がする。あとは注文次第で政治でも思想でも書くという姿勢をとって生活できた。女房とまだ結婚式はしてなかったけど同棲してたからね。 研究室を辞めた年に親友であった安部公房が、日本文学学校の教務主任をやってくれんかという話を持ちかけてきた。午後から夜まで週に3日出て平均サラリーマンの給料の半分くらい払うと。ただし、党がつくった学校なんで党員になってもらうことが就職の条件だって変なことを言い出して(笑)。でも給料が魅力的だった。それで1961年ぐらいまで通ったけど。だからずっと僕の本領は美術よりも文学批評だと自分では思っていた。

沢山:じゃあまず美術批評は生活のために書いていた?

針生:生活のためにやったんだけど、文学っていうのは言葉で、言葉っていうのは言い訳とか誤摩化しがきくんだよ。分析し抽象化する能力はあらゆるメディアのなかで文学が一番優れていると思うけど。それに比べると美術というは物として作品が出てくるから、感性や感覚が誤魔化しようなく、そのまま現れる。日本人を感性の根源から変えるためには美術の方が根源的なのかなと思うようになった。

02 オブジェの思考

沢山:美術作品が物として表出されるというお話ですが、オブジェの問題で言うと、たとえば文学でもサルトルはそういう部分を追求したと思うんです。けれども美術の方がむしろ誤摩化しとかレトリックがきかない要素があると。針生先生はそれを初期から一貫して実体というよりは物体としての作品の有り様、美術の有り様として追求してこられましたよね。たとえば花田清輝が「林檎に関する一考察」(1950)というエッセイで、「現実」の寓意としての林檎の話をしていますが、花田が言うには林檎には2種類あって、セザンヌの幾何学的な形象性をもった林檎と、もう一つはダリの「象徴機能の物体」としての林檎があると。
 針生先生は「ヴィルヘルム・テルの林檎―記録芸術のためのノート」(1957)のなかで花田の議論を受けて、そのどちらでもないような現実と芸術を媒介する「あるがままのリンゴ」というオブジェクトのあり方があるんじゃないかと書いていた。それはドキュメンタリー芸術や岡本太郎への高い評価に接近する過程で出てきた考えだったんでしょうか?

針生:いや、むしろね。安部公房が言うには、文学学校は共産党がつくった学校だから、まず入党してくれることが就職の条件だと。僕ももう入党してもいいかなと思っていたころでね。安部公房や野間宏は、新日本文学会の会員でありながら、それと対立する人民文学の方の日共主流派に加担して、文学学校は人民文学社に事務所をおいていた。 つまり、ぼくが文学学校で教えると、人民文学側に入ることになるんだということは、迂闊にも仕事をはじめるまで気づかなかった。
 そのうち新日本文学会で『勤労者文学』なんていう雑誌を出したこともあるんだけど、大体はインテリ中心の文学団体。それに対して、労働者、農民、市民の書くものを育てていくことも重要で、文学学校はそのためにあった。ただそれをつくった人たちはちょっとね。半年ぐらい養成すれば、たとえばあの頃は基地反対闘争とかそういうものの要求に応じるような詩や短編がすぐ書けるみたいに思ってたけど、そうはいかないんだね(笑)。 そこらへんが随分違うなと思ったけど、僕のなかでこういうものも運動の一翼として絶対必要なんだと思うようになった。六全協で党の分裂抗争に終止符が打たれて統一ということになったが、統一は結局、宮本顕治独裁の布石でもあったわけ。だからそれに対してはまったく反対の立場で、ずっと国際派、新日本文学会の立場を貫いていた武井昭夫が言う、宮本独裁のための盲目的統一反対という意見に、立場はまったく違うんだけど共鳴したわけよ。
 ところがその武井がね、六全協の後、わざわざ『美術批評』に針生一郎批判を書いた。彼は花田清輝の一番弟子みたいなもんだから、花田清輝の政治のアヴァンギャルドが今まで外部に向けていた眼を内部に向け直せば、たちどころに芸術のアヴァンギャルドになるであろう。その逆も真である、と。これ非常に図式化して言っているけれども花田さんはそうやって対立する二項をつき合わせてああでもない、こうでもないといろんな角度から論じて、弁証法的統一としての最後のところを方向だけ示すか、矢印のようにそういうものが求められるっていうふうに書くか、そういうことで終わる人なんだよ。それを武井は一番最初に引用し、あたかも金科玉条のように、針生は芸術のアヴァンギャルドから出発して政治のアヴァンギャルドになれるはずだったのに、人民文学っていうへたくそ万歳の俗流大衆路線に加担したために、芸術のアヴァンギャルドでも政治のアヴァンギャルドでもなくなったと批判した。
 シュルレアリスムの連中が集団でアンドレ・ブルトン以下フランス共産党に入党する。だけど結局、文化政策の根本に関わることができず、普通の党員と同じ肉体的な下働きをさせられたといって不満を述べて、また集団で脱党するわけだね。しかし、共産党の魅力に勝てない、共産党の言うことも正しいところがあるっていうんでルイ・アラゴンとかポール・エリュアールがまた入党する。それはシュルレアリスト陣内では批判されるんだけど、ダダイストであったトリスタン・ツァラも戦争中のレジスタンスの時代に入党するわけだし。
 だから政治と芸術のアヴァンギャルドの関係というのは、花田がかなりおおまかに図式化したほど簡単じゃないんだということを、実際にそのような例をいちいち挙げながら武井に反論を書いたわけ。そうするともう亡くなった小野二郎に言わせると、武井がもう一太刀で針生の首をとったぞと言っているのに、針生の方は「まだまだ、まだだ、ただのかすり傷に過ぎない」と言って、一年もずっと反論を書き続けるという奇妙な論争であったと(笑)。
 でもそれは自分にとって非常に重要な論争だったということを書いたことがある。自分の立場を特にシュルレアリストの動向に即して武井の反論に刺激されながら、こっちも緊張して書いていたから、自分の中であの時期はとてもいい、水準の高いものが書けたと思ってるわけ(笑)。最初の『芸術の前衛』という本の書評で佐々木基一が「これだけ外国や日本の多くの芸術家を取り上げながら、針生が全面的に支持できるのはルイス・ブニュエルただ一人らしい」と書いていたけど、それはその通りなんだ(笑)。

03 ドキュメンタリーとルポルタージュ

沢山:ブニュエルなんかは、いわゆるドキュメンタリー芸術というもののモデルになったというふうに思うし、また針生先生もそのように解釈されていたと思うんですけど、ドキュメンタリー芸術や、先ほどお話に出ましたけどもオブジェクト志向を全面に押し出したダダ、あるいはシュルレアリスムなど、アヴァンギャルドの問題にいつも付きまとうのは、それが自律的な展開を形成するものなのか、それとも民衆的な機構に接続されるのかという問題があるかと思うんです。先生にとってのドキュメンタリー芸術とはアヴァンギャルドの自律性を擁護するものではなく、むしろ外部あるいは他者の問題に接続されるような問題だったわけですか?

針生:武井との論争の時に『美術批評』の編集長だった西巻興三郎が花田さんにもなにか書かせようとしたのかな。花田の家に行ったらしいんだな。花田清輝はシュルレアリスムを否定的媒介としてドキュメンタリー芸術というものに進むことが主題であって、あまり政治的な方向に手を広げたらつまらないというようなことを言ったらしいんだ。僕も若干それに力を得たところがあって、ドキュメンタリーの問題をその論争の中心に据えたわけだけどね。 たとえば毎日新聞記者の三田晴夫君は非常に真面目によく調べて書いていたと思うんだけども、1950年代のことを全然知らずに、社会主義リアリズムがソビエトでも日本でも全盛の時代だったというんだけど、社会主義リアリズムを信じていた人なんて日本に誰もいなかったように思う。
 ドキュメンタリー芸術ということを最初に言い出したのは、花田清輝か安部公房かよくわからないんだけど。イタリア映画ではネオ・リアリズモが出てくる。これはいいところもあるけれども、シュルレアリスムを経過していないという点もあって、だめだと。これは花田清輝の言葉だったと思うけど。だからシュルレアリスムを否定的媒介とするドキュメンタリーでなければいかん。そういう考えで、やがて花田清輝が『新日本文学』の編集長を中野重治によって解任というか更迭されたんだけど、それは結局、宮本顕治の差し金だと思う。その時、武井たちが画策したというか、花田清輝を担いで「記録芸術の会」をつくった。それはドキュメンタリーという考えの発展形だと思うんだ。

沢山:同じ頃、ルポルタージュの問題も浮上してきますよね。

針生:あの頃ルポルタージュ論もなかなか盛んで、僕も書きましたけどね。ただ、前衛美術会と青年美術家連合が共催の第1回「ニッポン展」という、とてもいい運動もあった。以前、目黒区立美術館が多摩美の先生たちに企画を求めて、「1953年展」というのをやった。1953年っていうのは「ニッポン展」が始まった年で、僕としては実際の展覧会批評をその「ニッポン展」で最初に書いたんだよね、だから忘れられない。 ところが、峯村敏明君がそのカタログの序文に書いたところによると「1953年」っていうのは敗戦後の混乱も変革も終わって、何もめぼしい動きが無かった任意の年として挙げたんだという。
 しかし僕にとっては全然任意じゃない。「1953年展」には、「ニッポン展」の出品作と作家が全然とりあげられていない。そこで「ニッポン展」の出品作家の一人だった池田龍雄が、『新美術新聞』紙上で、なぜ「ニッポン展」を無視するのかと疑問を呈すると、峯村君は同じ新聞に応答して、「ニッポン展」のなかでは河原温ぐらいが方法論が明確で、後は基地反対だのそういうことだけやって、全然方法論議がない展覧会だったから無視したんだということを言うんだけど。「ニッポン展」のとき、実際に出品者懇談会などが会期中何度も開かれていたからわかるが、あのくらい方法論議を熱くなってやっていた団体は他にないと思う。たとえば一番若い中村宏が映画のクローズアップの方法を絵画に取り入れて、基地反対闘争なんかもドキュメンタリーで表現すると言ってたのも覚えてる。だから峯村君ともそこらへんの認識が全然違うなと。

沢山:河原温は「浴室絵画」連作のころですね。

針生:河原温は19歳で浴室シリーズのペン画だけを出品したんだけど、日本ではあれだけが取り上げられるのは彼としては非常に不愉快なんだな。もう今や全くコンセプチュアルなデイト・ペインティングになって……。

04 アンフォルメルと岡本太郎

針生:そのニッポン展の途中だけども、1956年に朝日新聞主催で「世界今日の美術展」というのが開かれて、アンフォルメルがはじめて全面的に日本に紹介された。その前から少しずつ読売アンデパンデンなんかには出てたんだけど。あれは非常にショックを与えて、その後批評家のミシェル・タピエや、当時はまだパリで暮らしていた今井俊満がしょっちゅう日本に来て講演し、勅使河原蒼風や堂本印象、あるいは「具体」の作家を含めて日本の作家を取り上げて外国に紹介するということを、おそらくタピエが初めてやったんだと思うんだよね。タピエは、幾何学的抽象はユークリッド幾何学の延長であり、シュルレアリスムはロマン派文学の延長だと。そうすると創造の根源にあるアナーキーなものに迫ったのはダダだけだと。
 戦前の運動ではね。それで、それをもう一回取り戻す必要がある。アンフォルメルはダダの中にあるアナーキーの要素を再評価することから始まったという風に主張する講演をしたことがあって、僕はそこに非常に共鳴したんだ。アンフォルメルを全体としてどう受け止めるかはともかく、アンフォルメルがダダのアナーキズムを再評価してそこから出発したっていうことにね。『みずゑ』にも「世界今日の美術展」の感想として書いたことがある。
 そうするとね、ニッポン展の連中は、今まで支持者だと思っていた針生が転向したと。時流に乗るために転向したという風な見方なんだよね。 だけどその時、山下菊二だけがね、あの人はいろんな鳥を飼っていて、鳥の羽みたいなものが画面に一杯散らばっている、そういう意味でアンフォルメルな、しかもその中にダダ的なものを取り入れた、そういうものを制作していた。山下菊二という人はね、そういう意味で先んじたり後になったりしながら、絶えず僕と雁行した作家だった。あのくらいスケールが大きく、それでいて方法論も明確な作家は他にいないと思う。

沢山:アンフォルメルが日本アンパンを中心として大流行するじゃないですか。「アンフォルメル旋風」とまで呼ばれて。宮川淳さんが、「アンフォルメル以後」(1963)という論文で書いてますけども、「マチエールとジェストのダイアレクティックな統一による表現過程の自律」という命題、すなわちいっさいの外的な参照項なく、物質と行為の衝突によって絵画の最終段階を実現するという反芸術的な命題があったにもかかわらず、それが新たなひとつの芸術様式として流行してしまうという状況があった。
 そのことを針生先生も指摘されていますよね。アンフォルメルというある種のアナーキーな個我の表出が、「様式」として展覧会の中で模倣され、流行してしまうという部分では、先ほど転向したというふうに批判されたということがありましたが、アンフォルメルに対しては一歩距離をおいていた部分もあったというか。

針生:勿論距離を……。とくにね。そうやってタピエが何度も来て、日本に可能性があると思って日本の作家を発見し、外国に紹介したけど、タピエは、ある意味で批評家であると同時に、画商、プロモーターみたいな面もあるからね。それで、今の草月会館を建設中に草月の仮事務所を借りて、そこでタピエがスライドを見せて講演したときに、その創造の根源にあるアナーキーを、作家はやがて超えて、まったく新しい体系や秩序を作らなきゃいけないと言って、ダリがカトリックに転向して描き始めた頃の具象絵画をスライドで示した。しかしダリこそ文学的ロマン主義の延長で、パターンが決まってるし、僕にはやっぱり一流作家とは思えない。二流の上ぐらいの作家だと思うんだけど、それを絶賛するわけだ。 そのとき、「具体」の作家たちも何人か来てたんで「君ら具体の連中はどうなんだ。こんな風にタピエの思想自体が変わっていったときに、あなた方はどうするんだ」というようなことを言うと、嶋本昭三が「僕らは全くタピエさんと同じ考えであり、疑問などは露ほどもありません」とか言うから、これはダメだと思った(笑)。
 もともと吉原治良さんによって促成栽培みたいに養成されたのが、具体グループだけども、ダメだなと。それから岡本太郎がヨーロッパへ行ってアンフォルメルに注目して、それで朝日新聞社に働きかけて「世界今日の美術展」が成立した。岡本太郎が会長であった「アートクラブ」で、我々若手批評家もカタログやなんかに協力したんだけども、タピエは岡本太郎の名前をあげて、「あれは非常に古い意味のボスである」と。あれを倒さなきゃいかんみたいな話をする。瀧口修造さんが「岡本くんは日本にとっては大変重要なんだけどね。あんなふうに言えるかな」なんて言ってたけどね。そこらへんも疑問点だった。 岡本太郎はそんなこと言われてもなんてことなかったかもしれない。でも彼が二科展の「太郎室」と言われる第9室に、今まで二科と関係がなかった藤沢典明、多賀谷伊徳、吉仲太造、早川重章らをリクルートしてきて、二科を少しでも活きのいいものに変えようとした。
 ところが全然東郷青児独裁が変わらないから、岡本太郎が失望して二科をやめる。 やっぱり芸術運動をやるには自分に匹敵するくらいの強烈な個性がもう2、3人いないと駄目だというんで、結局何から何まで一人でやって、アウトサイダーとして反抗するんだと。自分で時代を作るんだっていうんで、大阪万博の《太陽の塔》まで行くわけだけども。この、芸術運動を否定して自分一人で反抗するというのも不毛なんだが。だけどそこに追い込んだひとつのファクターがタピエなんでさ。別にタピエに否定されて、太郎自身はそんなに脅威でもなかったろうけど。

沢山:岡本太郎自身、日本に前衛が成立しにくいっていうのは、わかっていたんでしょうね。しかし前衛は運動として集団性の問題がかならず介在するから太郎は孤立してしまう。ただ岡本太郎の、2つの異質な要素を統合的にひとつの画面の中にまとめるという方法論は、針生先生が評価されてきた部分でもありますよね。抽象と具象、あるいは抽象とダダ/シュルレアリスム的なものの統合であるとか。

針生:「夜の会」のあと、僕が美術批評始めたときに、太郎の上野毛の自宅に呼ばれて、「君が美術批評をやってくれるのはとてもうれしい。だけど君はなんで鶴岡政男とか、麻生三郎とか、小山田二郎とか、自由美術の自然主義をあんなに誉めるんだ。彼らは画壇への妥協をし過ぎである」と言う。「岡本太郎がいいと思えば岡本太郎一辺倒で行かなきゃだめなんだよ」って言うんだけども、岡本太郎はヨーロッパで長く暮らし、しかも抽象芸術とシュルレアリスムの両方にメンバーとして誘われながらどっちにも不満で、「アプストラクシオン・クレアシオン」のメンバーであるクルト・セリグマンという作家と一緒にネオ・コンクレティスム(新具体主義)としてもっと現実的な運動を始めようとしているところに、ドイツ軍がフランスを占領して、パリに迫ってくるっていうんで、南仏に逃れてそこからマルセイユから船で帰ってきてしまったから、その運動は具体的にはならなかった。ただその前に、彼は「国際シュルレアリスム展」に正式に招待されている。それから岡本はジョルジュ・バタイユの社会学研究所というグループに一番近かったし、「アセファル」という無頭の怪物を名前に掲げたバタイユの秘密結社にも入ったらしい。そしてマルセス・モースのところでソルボンヌに入り直して文化人類学を専攻したわけだから、日本に帰って縄文土器などを再発見するのは、何でもなかったと思うんだ。
 もうひとつ岡本太郎にとって良かったのはね。帰国してすぐ、一年後ぐらいかな。軍隊に召集されて中国の戦場に5年ぐらいいた。戦友で同じ隊にいた連中に聞いた話だけど、とにかくあのぐらい不器用で、下士官に殴られてばかりいる奴はいなかったと。ところが、その戦友たちがみんな殴られる太郎を、哀れんだり、蔑んだりするかって言うとそうではない。下士官が殴るときに、最初は力が入らない。段々力が入って、殴られる方が吹っ飛ぶくらいに全力をあげて殴るのが4人目だと。そうすると太郎はわざと必ず4番目になるように並んで殴られる。だからみんなでその点を笑いながら、太郎を愛していたって。僕はね、この軍隊生活が太郎にとっては非常に良かったと思う。つまり西洋帰りのアヴァギャルド芸術論じゃなくて、生活の変革のため勇気を持って反抗しろという、そういう論に戦後なってるよ。それはやっぱり軍隊生活のおかげだと、僕は思う。
 戦後すぐに対極主義、つまり抽象とシュルレアリスムの対立でも、我々がぶつかる人生にはそういう相容れない両極というか対極があって、その対極のどっちにもつかないで、その間に自分の身を横たえて統一を考えるというのがね、一番いいんだという。 弁証法というのは正・反・合の三段論法だけども、これは凄く形式的な論理でさ。特に日本人にとって、そういう弁証法的な思考は非常に難しい。対極主義ぐらいが、対局の間に自分の身を横たえるぐらいが現実的なんだと思うんだよ。そこは、良いところをついていると。

沢山:昔岡崎乾二郎さんが指摘されていましたが、岡本太郎が発見した縄文は、階級無き市民性みたいなものが体現されていて、個人が横並びに並列している。そのことでいうと、岡本太郎の対極主義っていうのは、異質なもの、対立するものを調停する論理であるというよりは、横並びに並列しているものの隙間に身を置きながらその状態を肯定するという感じがしますよね。敗戦のときに、針生先生が防空壕の中に何日か隠れていて、そこから出てきたときに焼け野原ですでに通常の生活に戻っているたくましい人たちがそこにいる、その民衆の力に衝撃を受けたと書いてらっしゃいましたけども、その衝撃は岡本太郎の考え方に感銘を受けた部分とも通じてくるんでしょうか。

針生:さっきの中国の戦場で、芸術論というよりも生活論を掴んできたという話の延長で言うと、光文社というところで神吉晴夫という編集長が「創作出版」というものを言い出し、その初期に岡本太郎は『今日の芸術』という論集を出すわけだ。それで読者新聞で秋の読書週刊に、『今日の芸術』について読者の書評を募集して、僕がその選者だったわけ。そしたらね、主婦と高校生と二人が、この本について、芸術論というよりも、生きるための勇気を呼び起こすものとして読んだっていうことを書いていて、それを入選に選んだんだ。
 芸術論以上に生きる勇気を呼び起こすというところに、こう言われたら著者冥利に尽きるだろうなと書いたら後で「あの時入選した高校生というのは、僕です」と名乗りでたのが村上善男だった。岡本太郎に、東京に来ないで東北でやった方がいいんじゃないかって言われて、ずっと東北で暮らして、評論も書き、絵もかなり認められた。 その後岡本太郎は「《太陽の塔》を保存するという声と、一回限りのもので万博が終わったら壊した方がいいという声と出てるが、君はどう思う」と言ってきて、「僕は壊した方がいいと思いますよ」なんて言ったんだ。そしたら、それから一年後ぐらいに「おかげさまで太陽の塔は残ることになったよ」なんて僕に言ってたけど、おかげさまも何もないもんだ(笑)。
 その頃、NHKの「10代の時間」とかいうテレビ番組で、岡本太郎が高校生としゃべるわけだ。それで自分はピカソが現代最高の芸術家だと思ってるが、「我々アーティストって言うのは職人ではない。アウトサイダーとしてピカソのような権威に挑戦しなければならない。それでやっと一流の芸術家になれるんだ」っていうような話をする。ところが、高校生たちから言わせると、《太陽の塔》を作り、日本各地のデパートで回顧展をやり、しょっちゅう外国にも行っている。テレビにも出る。その岡本太郎がアウトサイダーとは思えないわけよ。それで「どうやったら岡本さんのように有名になれますか」とか、くだらない質問ばかりなんだ。太郎は「今の高校生たちの方がずっとぼくよりも保守的だなぁ」なんて言う。もちろんそうも言えるけどね。太郎はいわば若者から見ると、ユニークなアウトサイダーというよりも、大量生産の使い捨ての商品の一つみたいなものになってるんだ。実際何を作っても、あぁなるほどこれは太郎らしいという。みんな、なんていうかな、そういう「型」に落ち着く。もう《太陽の塔》自体がそうだよ。だから芸術家としてはちょっと終わりつつあるなと、太郎には言わなかったけどね。そういう感じを抱いた。

沢山:それは70年ごろですか?

針生:そう。72、3年だろうね。そのNHKの番組にホストとして出演したのは。そのくせ太郎は初期には「アルチザン、職人としての画家ぐらいつまんないものはない。アルチザンじゃなくてアルチストにならなきゃいけねぇんだ」というのが、持論だったのに、一年に一度か二年に一度か僕を呼んで、決してマスコミのタレントなんかになってない、絵も描いていることを示すために、晩飯をごちそうした後で自分の作品を見せるわけよ。ところがね、見せながら、「待てよ、ちょっとここはまずいな」なんて、僕の見てる前ですぐ手を入れだして。美術家は、少なくとも10年ぐらい同じことをずっとやって、スタイルが成熟してきて、また変わっていくという道をたどるんだけども、太郎の場合はファイルにいっぱい入った作品を取り出してはすぐ客の前で手を入れちゃうから、スタイルの大きな展開というものが無いんだよね。

沢山:手を入れるのは結構以前に描かれたものなんですか。

針生:うん。

05 芸術と制度

藤本浩二(学生):ところで針生先生は、「芸術の制度」について、どういうものだとお考えになってますか?

針生:制度のことは物凄く複雑だから一口では言いにくいけど、1960年代に、ポップアート、ライトアート、キネティックアート、プライマリー・ストラクチャー、そしてミニマルアート、コンセプチュアルアートまで行くわけだが、それらを総称して東野芳明が「反芸術」と名付けた。この「反芸術」は芸術の概念を根本的に変え、新しい潮流がどんどん出てくるという、そういう考えが、多分東野の中にあった。東野は最初の奥さんが出光興産の娘さんだったから、最初の新婚旅行の時から、世界中の出光の事務所が彼を足場として迎え入れてくれて、かなり積極的に若い作家たちと付き合い、それをまた日本で紹介していくから、急速に国際的にも知られるようになった。 その反面、彼はなんていうかな、相撲の何々部屋みたいに自分の「部屋」を作っちゃって友人や弟子やなんかを、自分の部屋に抱え込んでそればっかり褒める。それは勿論売れることを目指して。そういう批評なの。
 それに対して中原佑介と僕は作家の売値の値段が変わるということがあっても、直接売買にはタッチしない。間接的にマーケットに影響することはあるかもしれないけど。したがってそういう部屋を作らないという主義なんで、中原に対してはある種の同士関係みたいなものがあったね。1960年代に、岡本太郎中心のアートクラブまではいかないけど、公募団体に属していて、公募団体の中ではいい仕事をしてるんだけども、また、アートクラブにも入れないからっていうんで具象に逆戻りするような、そういう作家たちを集めて、一種、落ち穂拾いのように彼らに作品を持ち寄らせて、みんなで合評するという会を、僕が中心だから「針の会」と名付けてやってたんだ。ところが3年目ぐらいから一人じゃなかなかそれを面倒見切れないことはないけど、そこに中原を加えて、「針の会」から「ハナの会」と改称して、2年くらい続けたことがある。
 つまりね、それで「反芸術」について60年代の終わりに、宮川淳が芸術の概念を変えるような風潮がこの10年ぐらい続いたけれども、むしろ「反芸術」は「芸術の消滅不可能性」を、つまりダダと同じでどんな材料、どんな技法でも作品になる、ということを逆説的に証明した。つまり制度としての芸術には一指も触れることができなかったと。それは非常に正確な反芸術の総括だなと僕は思ったわけだ。宮川淳は大体あまり美術の時評などをやらないで、自分の書きたい作家、書きたいテーマだけを書くという主義だから、なかなかそういう論が見えてこないんだけども。ある時僕が「宮川君の制度論というのに大変興味があって、その展開を待っているんだ」と言ったら宮川自身がね、もう制度論については大体見当をつけて、むしろ今は例えばルドンという作家を中心に、イマージュがどう現前するかという、そういう方向に向かってるというわけよ。
 その頃ぼくは自分なりに各国の美術にまつわる制度みたいなものを調べて、そういう論が大事だなと思ってた。ところが宮川淳のものを読み返したり、あるいは、彼の親友だった阿部良雄の書いたものなんかを読むと、宮川淳の制度というのは、作り手がいて、作品があって、それで受け手に伝わっていく、この3者の関係が、彼のいう制度の中心なんだよね。つまり美術が商品となって、それがスポンサーなりコレクターなり、美術館なりにどう受け止められていくかっていうような、僕らが考える制度じゃないんだっていうことがわかってなんだと思ってがっかりもした。ところがごくわずかの期間宮川とそういう話した2、3年後に亡くなってしまった。
 つまりね、美術は作品が一点売れると100万ぐらいの金が動く。だからスポンサー、コレクター、美術館、パトロンというようなものも、資本と権力に結び付きやすいし、作家自身もね、売れないときには僕らの書くものを一所懸命読むんだけど、売れ出すと「ふふん」なんて言って読まなくなる(笑)

06 芸術と他者

門田光雅(画家):針生先生は現在の状況についていかがお考えですか?

針生:特に日本人が昔から非常に感性の面で優れていると言われて、短歌や俳句のように、なんていうかな、言葉を介さないで、それを超えて心を通じ合わせるような「道」、つまり花道、茶道、禅というようなものが日本の伝統に多くあったんだけども、戦後、第二次大戦後ほとんどなくなった。 第二次大戦中は結局ぼくもかなり神道系の右翼学生だったけど、戦争自体をいわば芸術のように見てきたところが、戦争中一番の自分の間違っていたところだと思ったから、そういうのを離れようと思った。ただ何とか道という、言葉を介さないで宇宙の真理に到達するみたいな、そういう道を全部捨てていいのかなという疑いは若干あったんだ。
 その頃。 だけど、今はそこを痛感しますな。というのは、つまり我々は戦中派だから、滅私奉公、私というものを捨てて、公、この場合は天皇であり国家であったわけだけども、そういうものに使えるというスローガンが骨の髄まで染み込むぐらいたたきこまれているわけね。 ところが東大の教授だった日高六郎さんが戦後に書いた、戦後思想について書いた岩波新書(『戦後思想を考える』(1980))によると、戦後の日本はちょうど滅私奉公の裏返し、「滅公奉私」であると。公共的なもの、万人に通ずる普遍的なもの、万人といったってやっぱりそれは公共性というものが媒介になるわけだけど、それをそんなものが無い方がいい、天皇や国に仕える必要は無いと言って結局私利私欲に走り、自分さえよければ他人がどうなってもかまわないという。こんな風にデモクラシーを受け取った国は日本以外ない。
 芸術というのは、どこかに他人の眼が入っていないと成り立たない。受け手としての他人あるいは描写の対象としての他人という立場に立って世界を見るということが無ければ芸術は生まれないんだよね。だから、日高さんの言う通り日本が滅公奉私の社会だとすれば、こんな国から第一級の芸術が生まれるはずがない。私はずっと前からそう思ってますよ。他者を喪失してしまった芸術が、芸術をどうやって生み出すのよ。日本そのものが遅かれ早かれ滅びるほかないんだ。こんなことを自民党の長期政権が続いてるとき特にそう思って、講演なんかに行ってそういう話をすると、「じゃあどうすればいいんですか」って言われる。だけどもう僕は83歳、もうすぐ84ですが、あまり余生は長くない。それをどうすればいいか、日本がどうしたら滅びないですむか、文学や芸術がどうしたら勢いのある水準を取り戻すことができるか、それはもう若い人たちで考えるべきことだと思うんだね。

07 ハンス・アビング『金と芸術』

沢山:最後に、現在の関心といま先生が関わっているお仕事についてお聞かせください。

針生:(ハンス・アビング著『金と芸術 アーティストはなぜ貧乏なのか? 芸術という例外的経済』(grambooks、2007年)をもちだし)これがなぜおもしろいかって言うと、この人はオランダ人だけれども経済学部を出て、オランダのどこかの大学の経済学の先生であり、しかし経済学部を出てから美術学校かなんかに行って絵を描いて、絵の方でもかなり知られている。だから金と芸術ということについて論ずるのに一番ふさわしい人なんだよ。それからおもしろいのはね。ファインアート、つまり美術では展覧会にも値段をつけてない。それから作家自身もあまり値段を言わない。むしろ買おうとする者が聞くとこっそり教えてくれるみたいなところがある。これは岡本太郎も学んだ、ソルボンヌの文化人類学者のマルセル・モースが言うファインアートの、つまり音楽やオペラというものは別としてコンサート、オーケストラみたいなものの「贈与の体系」であると。つまり世の中こういうふうにみると非常に解放されるし、楽しくなるよと、作品で主張する。
 そうすると、ああ、なるほどそれは楽しそうだから自分の家や会社に飾っておこうという人が現れて、それは、本来は金を払うというよりもらう。意気投合したからあげる、そういうものなんだって言うわけだ。それとデザインみたいなマーケットプライスで考えるような金を払うというような、そういうものとは基本的に違うんだっていう。それはね、問題提起として実におもしろい。そういうところが、さっき中原佑介と僕とが直接売買に関わりたくないという態度をとってきたと言った部分につながるんだ。ところが去年の暮れの契約社員切り以後ね、美術なんかは契約以前だから近親者なり友人なりでこの作品がほしいという人が現れないと商品にならない。そういう人がいてかろうじて生活が成り立っている。
 だからこういう状況をなんとかしないと日本の美術は発展しないなと思う。そういう買い手、コレクター、パトロンみたいなもの含めた美術家の集まりをやろうかと考えた。だけど中原と僕とはそういう相手を全然知らない(笑)。誰を呼んできたらいいのか。それで若手の画商に相談したらね。自分たちも同じことを考えてやったことがあるんだと。ところが、ひとりでも買い手が入ってくると2回目くらいまではいいんだけど、しだいに買い手の気心がわかってくると、するとそれに合わせて買われやすい、つまり「売り絵」をみんな持ってくるようになる。そこでその試みは失敗するんだ。やっぱり一緒にするわけにはいかないんだと言われて、それじゃあ、どうしたらいいんだろうなと考えているときに、これは2、3年前に出た本なんだけど、芸術とは贈与の体系の中にあるんでマーケットプライスとは全然違うんだというところが非常におもしろかった。
 それからもうひとつは今単行本を書いているんだ。2年程くらいに亡くなったスイスのハロルド・ゼーマンという批評家が、アヴァンギャルドが国際的に終ったと言われる頃から、それを救おうと思って、後にインスタレーションと言われるようなものを集めて、ベルンの美術館の館長になったばかりのときに「態度が形式になるとき」(1969年)という展覧会を組織した。つまり、物としての作品がはじめからあるというよりは、態度がある状況を設定しそれが情報として作品を構成するというようなそういう展覧会をやった。僕は実際に見たわけじゃないけど、カタログ読んでこれはおもしろいなと思った。そしてゼーマンは72年のドクメンタというカッセルの国際展のコミッショナーとなる。これはコンセプチュアル・アートとハプニングという前衛のなかでも難解と言われている二つの潮流が、しかし大衆文化というものはものすごく貪欲だからどちらも飲み込んで通俗すれすれのところまで、それを俗化しわかりやすくしている、それを世界中から集めてね。300点も並べたのがそのドクメンタだったわけ。そうするとね。会場全体が下手物、際物のごった煮というような感じでさ。結局、展覧会期が終ってからカッセル市とヘッセン州によって、下手物、際物ばかり集めて大赤字を負わせたということで、ゼーマンは告訴される。それでベルンの美術館長を辞めて、その退職金を全部赤字の穴埋めに提供したものだから、原告は感動したかどうかしらないけど告訴を取り下げた。ただ、長年連れ添った奥さんから退職金を全部差し出すようではと愛想尽かしされて(笑)、ゼーマンは新しい画家の恋人と一緒にスイス東南のミラノに近い方のマジョッレ湖というところの北南のアスコーナに住み着いた。
 そしたらね、それが最初から目的だったのかもしれないけども、この一帯に19世紀の半ばに資本主義が爛熟して文化全体が商品化した。それに対して、むしろゴーギャンなどがタヒチに住み着くようになり、あるいはランボーやジョセフ・コンラッドというポーランド生まれの作家などがアジア航路の船乗りになってヨーロッパを脱出する。同じ頃から危機感を持っていた芸術家あるいは神智学者、人智学者あるいはユートピスト、アナーキストなどがこの地帯に集まって、ひとつは19世紀のはじめに成立したロンドン、パリ、ハンブルク、ベルリンなどという大都市がね。機械工場がたくさんできて、巨大なスラム街に農村から人が来て、ものすごく空気が悪いアル中、薬中で病気の巣窟なんだね。それでみんな田園に抜け出そうということになって。ここにつまり商品化以前の自然と単純な生活に直結した対抗文化、カウンター・カルチャーをつくろうということで、巨大なコロニーができる。それのことをね、今単行本に書いてるんだけどね。対抗文化というのがどうやって成立して、どうやって生活の手段になるかっていうことを考えるとこれしかないっていうかな。
 それからもうひとつはついこの間に神戸大学まで行って、こんな近くまで来ることは会期中ないなと思って、福岡のアジア美術トリエンナーレっていうのをみに行ったんだけど。そこでやっぱりアジア諸国もみんな不況で困ってる。そうすると今まで芸術の概念をはみ出すだけじゃない、生活自体をどのように再建したらいいか。それを市民と芸術家が恊働しながらやっている。だからインスタレーションどころじゃない映像も入ってたり色々なものがあってね。アジア各国ともそういうものをつくり出す機運があった。彼が主張する贈与の論理はそういうふうに発展していくんだなと思った。
 だから今日よっぽど芸大でアビングの講演があるから話を聞こうかと思ったけれどもね。もうひとつ、つまんないのはオランダとかベルギーとかはかつては帝国主義の植民地争奪戦の第一線にいたんだけども途中で脱落するよね。小さい国で確かに国際展なんか見ていても、たいした作家じゃないと思う者をオランダやベルギーは全力をあげて押し出してくるんだ。70年代にベルギーの美術家組合の委員長というのが来て、僕に会いたいと言うから新宿で会ったら、日本の美術家っていうのは一体どうやって食ってるんだと。だから僕は60年代に東京近代美術館がアンケートで調査したところでは、作品を売るだけで暮らしているのは10%であとは全部副業だけど、副業のなかで一番多い50%近いのは塾の講師を含めた教師ね。広い意味での教師。それから30%くらいが広い意味でのデザイン。70年代になっても、作品を売るだけで暮らせるっていうのは多分2割くらいにしかなっていないだろうと言った。  そしたら彼はね。上野の公募団体から銀座、京橋などの画廊までかなり見たんだけど、彼は一言でいうとね、日本の美術家は作品で生活のために勝負してない感じだって言うんだ。その通りだと、それは正しいと、みんな副業で食ってるんだから。ベルギーは一体どうなのって言ったらね。ベルギーは発表された作品の80%を国家が買い上げるんだと、そしてそれは公共建造物や広場などに飾るという目的なんだけれども、あんまりにも前衛だったり、異端だったりすると倉庫に死蔵したままそういうところに飾らないということが出てきて、ここにも問題はあるんだと。
 それだけじゃない日本なんかはね。文化行政は非常に遅れているからね。例えば国家が全く無名の作家を買い上げて、それに生活の援助を与えるっていうのは意味あるけれども、日本ではちょっとそういうことは考えられない。マスコミで定評のある作家を国家が追認してむしろ政府のほうに箔を付けたいくらいの、そういう貧しい文化行政だから。政府メセナ、企業メセナに頼るってことは日本ではちょっと芸術の自由な展開を妨げる側面がある。彼の場合、贈与の論理を貫くには政府メセナと企業メセナに頼る他ないみたいな、そこがちょっと問題なんだな。

門田:さっき、カウンター・カルチャーにおける共同性の話が出ましたが、もう少し具体的に聞きたいです。

針生:カウンター・カルチャーというのはね。1960年代半ばにベトナム反戦運動がアメリカ本土まで及んだ時にアメリカの学生青年などの間に起こった主張なんですよ。つまり商品化した、制度化した芸術はダメでそれ以前のところに遡ろうという。ところがそれはゼーマンが発見したように20世紀初頭からスイスなどにはずっとあったわけだ。ダニエル・ベルという有名なアメリカの思想家がね。カウンター・カルチャーの運動がどれくらい広がったかということは別にして。これは要するに、売れるものがいい物だという資本主義の持っている最大の文化的矛盾を正確に突いている。ダニエル・ベルは保守的というか、上から警戒的にカウンター・カルチャーを取り上げてるんだけども、ともかくそれにちゃんと答えることなしには文化は今後展開できないだろうというふうに認めている。
 だから、大体前衛が終ったと言われてもその20世紀初頭からのカウンター・カルチャーにはダダ以後のアヴァンギャルドの源流どころか土台になったものが含まれていたわけで。そこからみるとダダ以後のアヴァンギャルドも決して古びても滅びてもいないという意味で、今わたしはそれに集中している。

沢山:今日はとても貴重なお話を伺うことができました。ありがとうございました。