Cultre Power
biennale & triennale 独立行政法人国際交流基金/Japan foundation
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
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インタヴュー

古市保子×岡部あおみ

参加者:芸術文化政策コース大学院1,2年生
日時:2010年5月13日
場所:武蔵野美術大学大学院

岡部あおみ:今年の大学院の授業のテーマはアジアにおけるアート、美術館、アート・センター、ギャラリーなどの活動から文化政策を考えてゆくことなので、今日は国際交流基金でアジア美術に関する展覧会や日本の現代美術をアジアに紹介する仕事などを長年手がけてこられた古市さんに講義をお願いすることになりました。古市さんご自身の活動、そして国際交流基金におけるアジアとの交流・文化事業の変遷などを伺えればと思います。
 
古市保子:はじめまして。国際交流基金の文化事業部造形美術チームの古市と申します。
国際交流基金は外務省所管の独立行政法人ですが、本日は、アジアとの美術交流という視点から国際交流基金の中でもアジア地域との交流を推進していた「アジアセンター」およびその前身の「アセアン文化センター」での事業を中心にお話したいと思います。まず、前半にアジアセンターが国際交流基金の中でどういう目的で設立され、どのような組織であったかをお話しして、後半で、そこで実施してきた事業を、担当者の視点から具体的にご説明したいと思います。

01 国際交流基金の創立からアセアン文化センターまで

 国際交流基金は1972年に外務省管轄の特殊法人として発足しました。国際交流基金法は、その附帯条項において、「国際交流基金の設立にあたり国際文化交流に関する政府の基本姿勢としては、わが国に対する諸外国の理解を深めるだけではなく、わが国民の諸外国に対する理解を深めることも同様に極めて重要であるということを特に留意すること」と規定しています。つまり、国際交流基金は基本的には、日本の文化・芸術を海外に紹介するということで発足したのですが、それだけではなく、外国の文化を日本に紹介することにも留意しなくてはならないというわけです。特に、アジアとの交流は国際関係を考える上で非常に重要であると基金内で認識されており、1976年からアジア伝統芸能の交流(Asian Traditional Performing Arts:ATPA)という国内事業を3年ごとに実施していました。この事業の中心は、どちらかというと舞台芸術とか音楽などパフォーミング・アーツが中心でしたが、アジアの伝統的な、例えば仮面や民俗工芸などの展覧会も行われていました。これが基金がアジアと本格的に関わった最初の事業と言えます。

 1987年、当時の竹下登首相は「東南アジアの大型文化ミッション」を東南アジア6カ国に派遣して、その提言を基に、同年12月に「日本アセアンの総合交流計画」をマニラでの「日本・ASEAM 首脳会議」で発表しました。その中で、東南アジアと日本との文化交流を活性化していくことが明言されたわけです。ミッションの提言、および竹下首相の提案を受けて、基金は、1989年に「アセアン文化センター」の新設を予算要求しました。その結果、アセアン文化センターは職員の増員は認められなかったものの事業予算は付いたので、渋谷の雑居ビルの3階に新しいオフィスを設けて、1990年1月、正式にオープンしました。
 現在はASEANと言えば10ヶ国ですが、1990年当時ASEANは6カ国でした。インドネシア、シンガポール、フィリピン、ブルネイ、マレーシアの6カ国がアセアン文化センターが活動する地域範囲だったのです。アセアン文化センターは、開発途上国に対して日本が資金提供をするODAの資金で運営されていて、当時約2億3000万円の予算でした。施設としては、情報資料コーナーとギャラリーとオフィスがあって、その中の130平米のギャラリーは多目的ホールであり、小規模な展覧会、映画上映、講演会など、様々なイベントに利用されました。
 基本方針として、いくつかありますが、第一に「現代の文化」を重視しました。先にお話ししたATPAは伝統芸術や芸能を重視していましたが、80年代後半から東南アジアの経済発展が顕著になるにつれて東南アジアの社会や文化は大きく変化を遂げている状況で、従来のように伝統ものばかりを紹介しているのではアジアの"今"をすくい取れない、アセアン文化センターは現代の文化を紹介するんだ、という方針でした。従って、必然的に美術の分野については現代美術を中心に紹介していくことになりました。第二に、質の高い事業を継続して実施すること。つまり、何でも紹介すればいいというものではなくて、東南アジアの質の高い文化芸術を紹介することによりお互いに尊敬する土壌をつくり出すことを目標にしていました。第三に、国別の公平性、平等性を考慮し、長期にわたって何ヵ年計画で紹介が偏らないようにバランスよく紹介していくことも重要でした。
 さらに、選考の決定は専門家の意見や現地事情を考慮しますが、あくまでも、センターが中心となって決定する方針でした。つまり、当時日本においてアジアの現代の事情に通じて、現代美術やパフォーミング・アーツや映画の知識がある人材は殆どいなかったので、アセアン文化センターは職員のほかに美術、映画、パフォーミング・アーツ等の分野別に専門員を置く制度をとり、その専門員が継続して地域の状況を調査し事業を策定する方法をとったわけです。そのほか、シンポジウム、レクチャー、資料収集などを継続して行いました。
 アセアン文化センター時代の一番大規模な事業は、1992年に東京、大阪、広島、福岡の4都市と基金が共同して実施した「東南アジア祭'92」です。東南アジアの文化芸術を総合的に紹介しようとするイベントでしたが、12のプログラムのひとつとして「美術前線北上中―東南アジアのニュー・アート」展という現代美術展を4都市に巡回しました。これがおそらく、日本で初めてまとまった形で東南アジアの現代美術を同時代的に紹介した最初の展覧会であったと思います。

02 アジアセンターと国際交流基金フォーラム

 次に「国際交流基金フォーラム」についてお話します。国際交流基金が、溜池山王にある赤坂ツインタワー・ビルに付属するラフォーレ赤坂というスペースを「国際交流基金フォーラム」(当初は「国際交流フォーラム」)として1994年から借り上げます。基金が自前のスペースを確保することにより、基金独自の事業展開が可能になりました。アセアン文化センター時代は、130平米しかなかったわけですが、国際交流基金フォーラムは600〜700平米と格段に広くなったので、大規模とまでは言えなくても、見ごたえのある規模の個展やグループ展が可能になりました。アジアセンターと国際交流基金フォーラムのできた時期が少しずれていて、アジアセンターが発足したのは1995年10月ですが、国際交流基金フォーラムは1994年の10月から借りていたので、フォーラムでの最初の展覧会である「幸福幻想」展は1995年2月から実施可能でした。アセアン文化センターも赤坂ツインタワーに1994年10月には引越をして、一年後にはアジアセンターとなるわけです。
 アセアン文化センター時代は1年に4つくらい展覧会をやっていたのですが、これはアセアン文化センターのギャラリーが130平米と小さかったので、小規模な企画を数多く実施したわけです。しかし、国際交流基金フォーラムのスペースは大きくなりましたが、予算は変わらないので、アジアセンター時代の展覧会は規模が大きくなった分、本数は少なくなって、1年に1本か、2年に3本の割合の実施件数となりました。
 次にアジアセンターの発足について説明します。細川首相が設けた「国際文化交流に関する懇談会」は1994年の6月に当時の村山首相に答申を出します。それを元に1994年8月に村山首相は談話を発表し、「平和友好交流計画」を発足させました。つまり、戦後50周年にあたる1995年を機に、日本は未来志向のアジア・太平洋との交流を促進していくという決意を明言したのです。この答申を受け、かつ平和友好計画の実践を目指し、国際交流基金はアセアン文化センターを拡充することとして予算要求をし、1995年10月に地域範囲と事業内容を拡充してアジアセンターが設立されました。アジアセンターの対象地域は、東はモンゴルや中国、西はパキスタンまでのアジア21カ国が対象地域になり、地域が格段に広くなりました。
 また、事業も拡大しました。アセアン文化センターの時はひとつの課しかなかったのですが、アジアセンターでは知的交流課と国内事業課の2つの課になります。1989年に事業予算だけで新設されたアセアン文化センターが、晴れてアジアセンターになり予算的にも、機構・定員的にも充実してひとつの部として承認され、活動を新たにします。
アジアセンターの目的のひとつは「アジア地域各層に置ける対話と交流を通じて相互理解を促進すること」。つまり、アセアン文化センターでは、ASEANの文化・芸術を日本に紹介するといういわば一方通行の紹介事業だったのですが、これが相互交流となったわけです。もうひとつは「アジア地域が共通に抱える課題を解決するために国境を越えた共同事業を推進すること」です。この大きな2つの目的があり、そのために知的交流課と国内事業課があったわけです。
旧アセアン文化センター事業は、改組により国内事業課として、美術、舞台芸術、映画の紹介事業を継続していきます。日本におけるアジアの美術理解促進が継続してあるのと同時に、アジア域内の交流、美術交流を推進するというミッションも加わったわけです。その流れとして、事業内容に中に共同企画事業が入ってきます。
 さて、アジアセンターは2004年の4月に基金全体の機構改革によって解消しました。私を含め、アジアセンターで事業を担当していた専門員はそれぞれの分野に従って異動しました。私の場合は、現在、文化事業部造形美術チームにいますが、パフォーミング・アーツの専門員は同じく文化事業部の舞台芸術チーム、映画の人は映像出版チームというように、それぞれ配置換えがあって、現在に至っています。
 全体の流れとしては、1972年に国際交流基金ができ、1990年に東南アジア6カ国を対象にしたアセアン文化センターができ、1995年にアジアセンターがなって、そして、2004年に基金の組織改革でアジアセンターが解消し、アジアとの芸術交流事業は造形美術チームに継続されていくという流れです。
 急いで補足すると、基金の発足当時から展示課という課があって、ここは日本文化を海外に紹介するのがミッションなので、アジアへも日本の現代美術を紹介する事業は実施していました。
 一方、アジア地域を対象とした美術事業の1990年から現在まで続いているのは、日本におけるアジア美術理解の促進です。しかしこれも補足すると、最近は文化庁との事業の仕分けもあって、国内における外国文化紹介は基金では減少しています。

岡部あおみ:きっと、それは普及したこともありますよね。当時はあまり美術館などでアジアに関する展覧会を開催する機会は少なかったのにひかえ、最近は交流基金以外でもかなり開かれるようになったことも影響があるのでしょうね。

古市:それもありますが、文化庁との事業の仕分けの影響が大きいのも事実です。

03 アジアセンターの国内展示事業

 ここからは後半に入って、画像を見ながら具体的に事業を説明させていただきます。
 まずは、歴史をさかのぼりながら、国内で行われたアジア美術を取り上げた現代美術展をご紹介します。
 1990年のアセアン文化センター設立から美術展事業が開始されますが、先にお話したようにセンター内の多目的スペースを使って基本的には国別に規模の小さいものをやっていました。当初は、現地の情報も少なかったので、その方面で蓄積のあった福岡市美術館の協力を得て展覧会を実施していました。80年代初頭から福岡市美術館が「アジア美術展」という網羅的な展覧会を5年おきに実施されており、アジアの美術を国内で紹介するのは80年代を通じて福岡市美術館しかなかったという背景があります。しかし、アセアン文化センター設立と同時に、基金でも、日本の美術評論家やキュレーターの方々をアジア各国に派遣して、実際に現地の美術状況を調査して、その成果を展覧会として発表するようになります。
 これは、「東南アジア祭'92」の12の事業のひとつとして実施した「美術前線北上中:東南アジアのニューアート」展です(fig.1)。ASEAN6カ国から19名の作品を展示しましたが、カッティングエッジな東南アジアの作家と作品を同時代的に紹介したということで、当時、この展覧会は新聞や雑誌にも数多く取り上げられて評判になりました。規模が大きくアセアン文化センター・ギャラリーでは実施不可能だったので、東京では池袋の東京芸術劇場のギャラリーで展示し、福岡は福岡市美術館、広島は広島市現代美術館、大阪はキリンプラザ大阪(当時)で実施しました。
 アジアセンターになった1995年は第二次世界大戦後50周年の年です。アジアとの過去の戦争の歴史に限らず、世界的にも20世紀も終わりに近づき、当時日本でも世界でも20世紀美術を再検証しようとする風潮があって、日本では美術制度の見直しが国民国家の形成の過程と共に語られるようになりました。今思えば、その背景も手伝ってだと思いますが、アジアの近代を再考することを目的に、インドネシア、タイ、フィリピン3ヵ国の近代から現代に至る美術を比較する展覧会を企画しました。「アジアのモダニズム―多様なる展開:インドネシア、フィリピン、タイ」展です(fig.2)。
なぜその3ヵ国かというと、3カ国とも民族、宗教、言語等が全て異なり、アジアの文化や歴史がいかに多様なのか、比較するのに非常にわかりやすい良い例となるからでした。この展覧会は、東京は国際交流基金フォーラムで開催し、その後、対象国の首都であるマニラ、バンコク、ジャカルタに巡回しました。
 さて、アジアセンターになって対象地域が拡大したので、インドや中国の展覧会もできるようになりました。そこで、それまで取り上げていなかったインドの現代美術を取り上げて、当時活躍していた8人の作家を紹介する「インド現代美術展:神話を紡ぐ作家たち」を実施しました(fig.3)。画像は、出品作家の一人がラビンダル・G・レッディという作家の作品で、非常にエキゾチックなインドらしいモチーフを使って巨大な彫刻を作っていました。
グループ展と併行して個展も実施しました。方力鈞(ファン・リジュン)展(fig. 4 )です。1989年6月の天安門事件以降90年代初頭、シニカル・リアリズムやポリティカル・ポップというムーヴメントが中国現代美術を代表して話題になっていましたが、は方力鈞はシニカル・リアリズムの代表的な作家です。彼の初期の作品から1996年の新作まで世界各国から集めて実施した規模の大きいものでした。中国現代美術は当時まだ日本でも珍しかったにも関わらず方力鈞は既に世界的に注目を集めていたので、多くの入場者数を数えて注目を集めました。
 そして、2000年にインドネシアの作家、ヘリ・ドノです(fig.5)。このときはタイ人のキュレーター、アピナン・ポーサヤーナン氏にインドネシアの作家をキュレーションしてもらいました。次に、インドの作家でアトゥール・ドディヤ(fig.6)。そして、韓国のイ・ブル(fig.7) 。日本にはなじみのある女性作家です。
最初のアセアン文化センターのときにお話ししましたが、事業を企画する際は、地域のバランスはいつも考えています。例えば、個展も東アジア(韓国)、南アジア(インド)、東南アジア(インドネシア)という具合です。

美術前線北上中:東南アジアのニューアート展アジアのモダニズムー多様なる展開:インドネシア、フィリピン、タイ
(左)fig.1「美術前線北上中」(右)fig.2「アジアのモダニズム」
インド現代美術展:神話を紡ぐ作家たちファン・リジュン展
(左)fig.3「インド現代美術展」(右)fig.4「方力鈞展」
イ・ブルアトゥル・ドディア
(左)fig.5 ヘリ・ドノ(右)fig.6 アトゥール・ドディヤ
イ・ブル
fig.7 イ・ブル

04 次世代の共同キュレーション「アンダー・コンストラクション」

 2000年代に入ってアジアセンターの美術事業で最も推進してきたのは、共同キュレーション・プロジェクトです。というのも、ゼロ年代に入って、90年代アジア地域の美術活動を担っていた人たちの次の世代、つまり60年代後半から70年代生まれの人たちの活動が目立ち始めました。ITの発達が彼らの活動を後押ししました。インターネットで情報を得てメールで自由にコミュニケーションできるようになってきて、交流がスムーズで多様になってきたわけです。このような大交流時代を背景に企画してきたのが、共同キュレーション・プロジェクトです。連続して3つ実施しました。
 まず「アンダー・コンストラクション:アジア美術に新世代」(2000-2003年)です。これは中国、韓国、インド、インドネシア、タイ、フィリピン、日本の7カ国、9人のキュレーターが協力して行ったプロジェクトです。次は、日本・韓国・中国の3人のキュレイターと作家による「アウト・ザ・ウィンドウ」(2003年)。次が、「Have We Met?」(2004年)。インド、インドネシア、タイ、日本のキュレイターと作家の展覧会です。共同事業は、「アジアのなかの日本」を意識して組み立てている事業です。アジアと日本という二項ではなく、アジアのなかの日本を意識して、共同事業では必ず日本を入れていくことになります。
 「アンダー・コンストラクション」を例に取り、プロセスを具体的に紹介します。「アンダー・コンストラクション」は、企画、調査の次にアジア各国でローカル展を実施し、そのローカル展を東京に集合させて総合展をやるというプログラムでした。2000年代に入って、自分たち若い世代にとって「アジア」という概念のアクチュアリティーは何か?アジアって何だろう?というのがプロジェクト全体を覆う大きなテーマでした。それに対して皆が考え、その答えを展覧会という形にしていくというのが、この「アンダー・コンストラクション」です。2000年8月の3日間に第1回ワーキング・セミナーをやり、ここで若いキュレイターがはじめて顔合わせをします。1回目のセミナーでは皆が自分の考えるアジアについて発表し合いました。それでどういう展覧会を作ろうかということを話し合います。その過程で明らかになったのは、参加者が自国以外のアジアの国の美術状況を知らないという現状でした。そのような状況では、共同事業はできないわけです。従って、会議後の数ヶ月間に個々人の関心で計画を立てて、2〜3カ国を回って現代美術調査をすることにしました。調査の際は、ワーキング・セミナーの参加者がお互いの調査に協力する態勢を取りました。
 調査のあと、自分たちが作りたい展覧会のアイディアを持ち寄って第2回目のワーキング・セミナーを東京で行いました。その会議で、全体の枠組みのタイトルをつけなければならないということになって、喧々諤々と議論をして、「アンダー・コンストラクション」というタイトルに決めました。もう1つのタイトル候補としては「リミックス」があったのですが、多数決を取ったら4対4になったので、2つに分かれて説得し合い、最後は「リミックス」側の2名が説得されて「アンダー・コンストラクション」というタイトルになったわけです。このプロセスも、英語が母語の人とそうでない人の言語感覚の違いや、それぞれの国の文化的背景がにじみ出て、とても興味深いものでした。
 ローカル展にはそれぞれタイトルがありました。
日本の芦屋市美術博物館で実施された展覧会で、現在は、滋賀県立近代美術館の学芸員をされている山本淳夫さんキュレーションの「樹海より」(fig.8 )。山本さんとのコラボレーションで、フィリピンのパトリック・フローレスさんが「クラフティング・エコノミーズ」(fig.9 )という展覧会をマニラで行いました。「ファンタジア」は韓国のキム・ソンジョンさん、中国のピー・リーさん、日本の神谷幸江さんが3人で共同して作った展覧会です。「ファンタジア」はソウル(fig.10)で行った後に北京(fig.11)に巡回しました。それから「ドリーム・プロジェクト」(fig.12)はインドネシアのアスモジョ・ジョノ・イリアントさん。これが奇抜なアイディアで、インドネシアには現代美術のギャラリーがないからギャラリーをつくてしまおうというプロジェクトで、バンドゥンで大作家から土地を借りてギャラリーを作ってしまいました。インドのランジット・ホスコテさんが「クリッキング・イントゥ・プレイス」(fig.13 )という展覧会。タイのクリッティヤー・カーウィーウォンさんは、「ご迷惑をおかけします」(fig.14 )という楽しいタイトルの展覧会をつくった。このように、それぞれの展覧会を自国で行った後、東京での総合展の計画を策定し、最終的には、2002年の12月から2003年3月にかけて国際交流基金フォーラムと東京オペラシティアートギャラリーの両会場での同時開催ということで総合展「アンダー・コンストラクション」(fig.15)を開催しました。
 総合展企画のために、各国のローカル展は参加のキュレーターは全部ではないけれど、できるだけほかのキュレイターが作った展覧会を見に行けるようにしました。例えば、インドネシアのアスモジョさんは中国の北京に「ファンタジア」を見に行くという具合です。
 ローカル展での1人のキュレイターの予算は1万5千ドルです。1万5千ドルは展覧会を作るには日本では小額ですが、当時のアジアでは国によってですが、結構使い甲斐があって、大展覧会ではないけれど、それなりの展覧会ができたのです。それ以上必要な人は、自分でファンドレージングしてくださいという条件でした。いろんな工夫もあって、例えば、神谷さんたち3人組はそれぞれの分を持ち寄って、ソウルと北京で分けて使った。
 「アンダー・コンストラクション」は作業過程で、それぞれ個人の考え方の違いとか、その国の美術制度の違いなどに出会い、意見をぶつけあいながら、うまくいったりうまくいかなかったりしながらも、とりあえず踏ん張ってひとつのものをつくり上げるというプロセス重視のプロジェクトで、最終的には、キュレーターは9人で、参加した出品作家は43人になりました。
樹海よりクラフティング・エコノミーズ
(左)fig.8「樹海より」(右)fig.9「クラフティング・エコノミーズ」
ファンタジアファンタジア2
(左)fig.10「ファンタジア(ソウル)」(右)fig.11「ファンタジア(北京)」
ドリーム・プロジェクトクリッキング・イントゥ・プレイス
(左)fig.12「ドリーム・プロジェクト」(右)fig.13「クリッキング・イントゥ・プレイス」
ご迷惑をおかけしますアンダー・コンストラクション
(左)fig.14「ご迷惑をおかけします」(右)fig.15「アンダー・コンストラクション」

05 組織間の共同キュレーション「アジアのキュビスム」

 「アンダー・コンストラクション」は次世代キュレーターの、個人を対象とした共同キュレーションでした。先行世代の関係者から意見を聞きながら、アジアからこの地域の美術界を担っていくであろうと考えられる若い世代のからピックアップして、その人たちがキュレーターとして実施する展覧会でした。次に、個人ではなく組織間での共同キュレーション事業を始めました。それが「アジアのキュビスム」展です(fig.16 )。これはキュビスムという20世紀初頭の西洋美術史を代表する様式がアジアにもたらされた時、各国の美術家がどのようにそれを受容し、変容させていったかということを通じて、アジアの「近代」の特質を浮かび上がらせようという試みでした。東京国立近代美術館、韓国国立現代美術館、シンガポール美術館の国立美術館3館と基金が共同して行った展覧会です。
 しかし最初は、キュビスム作品がアジアにあるのかというところから始めなければならなかった。私自身はアジアの各地に調査でいった際に垣間見たことがあったので、作品があることはわかっていたのですが、どういう作家がいてどのくらい作品があるのかは全く見当もつかなかったので、まずは2004年に情報収集の意味もあって、アジア各国の研究者に集まってもらい、国際セミナーを開催しました。それに基づき各国での近代美術調査を実行して作家と作品を選び、展覧会にしたわけです。この展覧会は3ヵ国を巡回しただけではなく、その後に改定版を作ってパリ日本文化会館にも巡回しました。つまり、キュビスムというパリで生まれた様式がアジアを経て姿を変えて本家に戻ったということになります。
 共同事業を成功させるのに重要なのは共通の土俵に乗るということで、具体的には国立美術館が合同で調査をするということでした。つまり、企画者が調査から一緒にやって意識を共有して一体感をつくっていくスタイルはアセアン文化センター時代からやってきたことではありますが、単純に展覧会を受けるだけでは生まれない一体感は、調査の中で培われていきます。「アジアのキュビスム」はアジア域内版は2005年から2006年にかけて行い、11ヵ国76人の作家の約120点を展示しました。韓国国立現代美術館は果川(クァチョン)に本館があるのですが、本展は徳寿宮美術館という市内中心にある近代美術を扱う分館で展示しました。
 「アンダー・コンストラクション」が次世代のキュレイター個人の共同キュレーションであるならば、「アジアのキュビスム」はアジア域内の国立の美術組織間の共同のプロジェクトであったということです。
 アジア域内版「アジアのキュビスム」では、アジア各国がキュビスムをどのように受容したのかを国別ではなくアジア地域として考えるために展示はテーマ別にしました。「テーブル上の実験」、「キュビスムと近代」、「身体」、「キュビスムと国土」という4つに分類して展示しました。しかし、フランスで展示する時にはシンプルに、地域別、国別という順序で展示しました。東アジア、東南アジア、南アジアにまず分けて、東アジアを日本、韓国、中国に分けて時代順にシンプルに展示していったわけです。このアジア域内版とフランス版の違いは、鑑賞者がアジアの美術に対してどのくらい情報や知識があるかないかということを考慮したからです。その背景には、日本では過去10年間余にわたって多くのアジアの近現代美術展が実施されてきたという認識があったからです。しかし、フランス版を見た日本人企画者たちは、日本の鑑賞者も一般的にはそんなに知識があったわけではないので、展示としては、地域別、国別にやると鑑賞者には親切だったかもしれないという感想を漏らしたことも事実です。

アジアのキュビスム
fig.16「アジアのキュビスム」展

06 国際シンポジウム

 次に、「アジア美術の批評のフォーラム作成」、「ディスコースの形成」という大きな目標のもと、具体的には国際シンポジウムを3年ごとに継続して実施してきました(fig.17〜fig. 22)。
 一番初めは、1994年の「アジア思潮のポテンシャル」です。アジア各国の近現代美術はどういう流れにあるのか、今どのような状況であるのかをパネリストに発表してもらい、議論しようという企みでした。あとで作った記録の報告書はよく出来上がったのですが、実際にはディスカッションはまるで成立しなかった。つまり、共通の地平に立つことはできなかったということを確認できたということが最大の収穫でした。宮島達男さんや蔡國強さんなどの作家にも参加していただきました。90年代の半ば、アジアセンターや福岡市美術館が国内のアジア美術紹介に力を入れていたことや、1994年に広島市で行われる「アジア大会」にあわせて広島市現代美術館が「アジアの創造力」というアジア美術をテーマにした展覧会を実施したりして、「アジア美術ブーム」と言われるような現象が日本国内の美術界で巻き起こりました。その状況を検証をしてみようということで、1997年に2回目のシンポジウム「再考:アジア現代美術」を行いました。ここには村上隆さんがいたり、アジアソサエティ・ギャラリーの館長、クイーンズランド・アート・ギャラリーの副館長など、90年代を通じてアジア美術の紹介を推進している組織の代表者に集まっていただきましたが、アジアの美術についてやっと議論ができるようになったという実感を持ちえたシンポジウムでした。次に1999年のシンポジウム「アジアの美術:未来への視点」は、世紀末を迎えて90年代のアジア美術状況全般を見直してみようという目的で実施しました。
 ゼロ年代に入り、2000年から2003年にかけて先にお話した共同キュレーション企画「アンダー・コンストラクション」を実施中でしたが、このプロジェクトのテーマは「アジアとは何か」ということでした。展覧会を理論的に補完する意味もあって展覧会にあわせてシンポジウムを開催しました。それが2002年の「流動するアジア:表象とアイデンティティ」です。この時は、レイ・チョウ、酒井直樹、トニー・ベネット、ワン・フイ、グナワン・モハマド、吉見俊哉の各氏の参加を得て、社会学、政治学、文化表象論、歴史学、舞台芸術など美術史や美術評論だけではない分野の研究者に入ってもらいました。パネリストもバラエティがあり、アジアの概念について第一級の研究者による多角的な議論は刺激的で時宜を得た面白いシンポジウムだったと思います。
 次は2005年の「アジアのキュビスム」。これも展覧会の「アジアのキュビスム」と合わせて実施し、この展覧会の試みを学問的に深く掘り下げようとしたものです。
 最近では2008年の「Count 10 Before You Say Asia」があります。「アジアという前に10数えろ」というわけです。「アジア美術」ということで、アセアン文化センター時代から約20年、この期間、どういうことが語られてきて、何が達成できたか、できなかったかを考えてみようとするものでした。
 シンポジウムの報告書はいつも日本語と英語の併記です。それは海外発信という意味があり、日本人だけではなく海外の人にも文献として使ってもらいたいという目的があるからです。
これまでのシンポジウムの画像を見ていると、重複して何度も出てくる人が出ています。事業を企画する場合、長期で関わってもらう人と1事業ごとに企画内容によって関わってもらう人がいて、長期的展望にたって事業展開を考える場合、両方を組み合わせています。つまり、平等性ということを強調するあまり毎回いろんな人に単発で関わってもらうと、結局、蓄積になっていかないこともあるからです。アジア美術の研究は、新しい分野であり、国内の美術館は福岡アジア美術館以外は継続して展覧会を実施していくわけではないので、現在日本で情報をもって研究を蓄積している人たちはそんなにいない状態です。従って基金事業のなかで積み重ねていって、荷い手を作っていくということも重要であろうと考えています。
シンポジウム画像シンポジウム画像
(左)fig.17「アジア思潮のポテンシャル」(右)fig.18「再考:アジア現代美術」
シンポジウム画像シンポジウム画像
(左)fig.19「アジアの美術:未来への視点」(右)fig.20「流動するアジア―表象とアイデンティティ」
シンポジウム画像シンポジウム画像
(左)fig.21「アジアのキュビスム」(右)fig.22「Count 10 Before You Say Asia」

07 アジア域内の美術交流の推進

 次に、アジア域内の美術情報交流の推進、観客の育成についてです。90年代の初めから「アジア各国のどこに行けば現代美術が見られるの?」とか、「古市さんは仕事で調査に行ってるからアジアの状況がわかるけど、でも、普通にそんなに頻繁に行けないからわからないよ。」と言われて、「それはそうだ。」と思っていました。一握りの人がその地域の美術情報と人脈を占有するような状態であると広がりが出来てきません。また、特定の人物だけの視点で現地の事情を語ると、偏っていく可能性もあります。このような状態を是正することはできないかとずっと思っていました。2000年代に入ってIT技術が発達して情報の交換が画期的にスピードアップしてやりやすくなったので、それを機会に作ったのが、『オルタナティヴスーアジアのアートスペースガイド』(fig. 23)です。
 最初のガイドブックは、2002年に作成したもので、アジア8カ国の現代美術関係のアートスペースや美術館約80件を紹介するものでした。ガイドブックには、その国の美術概説をつけて、よりアートスペースを取り巻くその国の美術環境が理解できるように工夫をしています。2002年版は非売品でしたが、2005年版は淡交社から出版し、一般の人にも入手しやすいようにしました。2005年版はオーストラリアや南アジアも入れて15ヵ国1地域の170件。次に、2009年は日メコン交流年だったのでこれを機会に、ラオス、カンボジア、ミャンマー、ヴェトナム、タイのメコン5カ国を掲載するガイドを作りました。これまで取り上げていない国もありますが、目標にしたのは、情報は平等に行き渡るようにしたいということと、アジアにはオルタナティヴ・スペースが多いので、そういう人たちがこの冊子を活用して、お互いにコミュニケーションが取りやすいようにして自主的な交流を促すことでした。日本の人たちにとっても、どのようなスペースがどこにあるのかわかるようになれば、自分で現地を訪れたり、自分でコンタクトをして情報収集をしたり、さらには一緒に事業をやったりする機会が増えるようになるのではないかと期待しました。実際にガイドをもってアジアのスペースを訪ねていった人もいます。そんなことを聞くと、とてもうれしいですよね。今後も活用されることを期待しています。

オルタナティヴス
fig.23『オルタナティヴスーアジアのアートスペースガイド』

08 アジア次世代キュレーターの育成

日本のキュレーターの方々に望まれているのは、以前であれば日本以外に欧米の美術のことを知っていればよかったかもしれませんが、現在では地域を越えた交流の時代がきているので、アジアの作家のことだけではなくキュレイターや美術制度についてももっと知っていなくてはならないということです。その意味もあって、2006年から「アジア次世代美術館キュレイター会議」(fig.24)を始めました。「美術館」とついていますが、2005年に「アジアのキュビスム」をやって実感したのは、アジア域内の美術館同士のネットワーク化が必要だということです。ネットワークはいくつかの重層したレヴェルがあって、これが、縦にも水平にも目的別にいろんな繋がればいいと思っていますが、このプログラムでは対象を次世代の美術館キュレイターのネットワークに限定しました。
 2006年、2007年、2008年、2009年と続けて5回やりました。特徴は参加者が自費で参加すること。つまり、アジア地域の中で皆がつながらなくてはいけない、という問題意識をもっている人たちや美術館に、経費を自分たちで負担して参加してもらうという点です。経済発展をしたアジアの国々の状況を見るに、平等な立場で参加するフォーラムを作るべき時代が来ていると考えていました。そのために、美術館のキュレイターに限定したという現実的な理由もあります。インディペンデント・キィレイターはなかなか自費参加は難しい現状ですし、かつ、インディペンデント・キュレイターと美術館キュレイターではミッションや目標も異なるからです。また、会議の開催は持ち回りです。最初の2006年3月は日本。2007年ソウル。2008年3月マニラ、11月はもう一度日本。2009年がシンガポールとマレーシアの共同開催でした。

アジア次世代美術館キュレーター会議
fig.24「アジア次世代美術館キュレイター会議」

09 日本現代美術のアジアへの発信

ここからは日本の現代美術のアジア太平洋地域への継続的な紹介についてです。
 2006年オーストラリアで「Rapt! -20 contemporary artists from Japan」(fig.25 )。2007年中国で「美麗新世界:当代日本視覚文化」(fig.26)。同じく2007年にインドで「消失点―日本の現代美術」(fig.27)。2008年インドネシアは「KITA! : Japanese Artists Meet Indonesia」(fig.28)。「KITA」というのはインドネシア語で「我々」という意味で、単に日本語の「来た!」だけではなく、「我々」と「来た」の両方をかけたタイトルです。「KITA!」はジョグジャカルタ、バンドゥン、ジャカルタの3カ所で実施し、特に大きかったのがジョグジャカルタとバンドゥンです。昨年2009年タイで開催した「Twist and Shout : Contemporary Art from Japan」(fig.29)。これはバンコクで2008年にオープンしたばかりのバンコク芸術文化センター(BACC)で実施しました。ニューヨークのグッゲンハイム美術館のように吹き抜けでらせん状のスロープになっていて鑑賞者はぐるぐると昇っていく構造の建物です。同じ年、ハノイで「Flickers : new media art from japan」という小規模な映像展も実施しました。

Ract!美麗新世界
(左)fig.25「Rapt!」(右)fig.26「美麗新世界」
消失点KITA!
(左)fig.27「消失点」(右)fig.28「KITA!」
Twist and Shout
fig.29「Twist and Shout」

10 これからの日本の文化政策の課題

 いろんな事業をやってきたのですが、今後、方向性としてどういうものがこのアジア地域で必要かと考えた時に、やはり継続して、いろんな担い手が交流できるような環境づくりが重要だと思います。そのための具体的プログラムとしては、一つ目に情報交流。二つ目はやはり共同企画と協働作業。つまり「アンダー・コンストラクション」や「アジアのキュビスム」などの事例にあるように、共同でやっていくことで実感する、体験型でアジアに関わっていく事業。このような機会を増やすことが引き続き重要だと思います。
 また、日本も含めたアジア地域の評論家や歴史家がもちろん基本としては個別に自国の美術史を研究するのは重要ですが、もう一方で地域の中で、どういう美術運動があって、どのような関係性があって、どのようにその国の美術史ができてきたかを、客観的に地域として考えて、それを言語化し、アーカイブ化する作業をしていかなければいけないと最近は思っています。
 以前であれば日本でも、アジア地域と交流をしていれば、それは良いことだ、ぜひやるべきだとそれだけで評価されたのですが、現在は、日本以外のアジアの国々、つまり韓国、中国、シンガポールなどがすごい勢いでネットワーク化を進め、展覧会の幅を拡げ、質を深めています。その中で日本がどういう立ち位置にいて、どういう役割を果たしていくのかということを改めえて検討しなくてはならない時代にきています。改めて政策的に考えていかなければいけない難しい時代です。90年代は、日本はほかのアジア各国に対して経済的に余裕があったし、情報量も多かった。ところが、現在はそれが怪しくなっています。一般的に、現代日本の社会状況を反映して、公平性とか透明性などを基準とした外部の事業評価の導入をもとに事業内容を評価するようになって、より確実なものを、と言われる昨今では、失敗することは許されず、前例主義で新しいことに挑戦することがかなり難しくなってきていると実感します。振り返れば、アセアン文化センターやアジアセンターの時代は、社会的にもまだ余裕があったと言えます。しかし、厳しくなってきた分、これまでの蓄積を生かして、皆が知恵を絞ぼらなければならないと同時に、他のアジアの国々と一緒にやっていく、同じ土俵に乗らないといけない状況にもなってきて、その環境がやっと整ったとも言えます。2010年代は始まったばかりですが、隣人たちとの関係性はますます複雑で深まるばかりだと実感しています。

(テープ起こし 竹内那美/パク・ヒジュ)

 

インタヴュー

尾子隼人(独立行政法人国際交流基金芸術交流部展示課長)×岡部あおみ

学生:岡内秀明、越村直子、清水友紀、白木栄世、田中恵郁、光井彩乃
日時:2001年6月11日
場所:国際交流基金

11 予算と国際展への参加活動

岡部あおみ:国際交流基金は非常に多くの活動をなさっていますが、予算規模と事業概要をまず簡単に教えていただければと思います。

尾子隼人:国際交流基金には、芸術交流という部門がありまして、そこでは、いわゆる美術展や公演事業などをやっています。まず、予算の話からしますと、87年度から99年度までの移り変わりですが、だいたい事業予算が132億円から190億円(2003年度82億円)ぐらいです。国際交流基金には1千億円の基金がありますが、それの利息でやる事業と、あと政府の補助金を得てやっている事業があります。

岡部:さきほど、500億円の基金をもっているとお聞きましたけど、1千億円というとその2倍になりますが、何かべつほうからの資金が含まれているのでしょうか?

尾子:本部の基金と日米センターの500億円を合わせて1千億円ということです。(2003年度は支出項目も予算額も異なるので、詳しい内訳は財務諸表・損益計算書を参照:http://www.jpf.go.jp/j/about_j/financial/2003/zaimu_soneki.html)。たとえば、平成12年度の例をお話すれば、国庫補助金が166億円(2003年度62億円)、それに運用益や寄付金その他を合わせてやっているということですね。予算の内訳をみると人物交流で24億円(2003年度6億円)、日本研究が7億9千600万円、日本語教育が26億円(2003年度は日本研究等事業として25億円)など。芸術交流は全部で17億円です。その内美術展に使えるお金は5億円ぐらいです。で、それを元にいろいろ事業計画を立てるのです。展示事業の内訳ですが国際展、国内展主催、海外展主催、助成という形になっています。

岡部:ヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展に参加なさっているわけですが、あとはどこでしょうか?

尾子:国際展への参加は、ビエンナーレとかトリエンナーレへの参加で、国際交流基金が参加しているのは、まずヴェネチア・ビエンナーレ、これは、私共が日本館を運営しておりますので、美術展と建築展を交互に行っています。それと、インドのトリエンナーレ、バングラデシュのビエンナーレなどです。国際展参加の中には主催と助成があり、以前はシドニー・ビエンナーレも主催だったんですが、現在は助成、ブリスベンの彫刻ビエンナーレも助成ですし、フランスのリヨン・ビエンナーレも助成、サンパウロ・ビエンナーレは国別参加部門にコミッショナーと作家を送っています。

岡部:国際交流基金が主体的に選抜などに関わっている場合は主催、助成というのは資金提供をするけれど、企画の内容に直接関わらないということですね。

尾子:違いはそういうことです。私共の組織の中に「国際美術協議会」(任期2年だが再選可能、2003年度に解散、2005年度のヴェネチア・ビエンナーレの選抜からべつの新組織によって行われる)というのがございまして、これは美術館長が4人、美術評論家連盟と美術家連盟と団体推薦が2名、あと学識経験者など10人で構成されていますが、この協議会で国際交流基金が参加する国際展のコミッショナーを推薦していただきます。決定するのは基金ですが、この協議会で選ばれたコミッショナーが参加作家を選定するという手続きを経て、主催として参加してきました。日本の現代美術を積極的に海外へ紹介していくことが国際展参加の目的です。

12 横浜トリエンナーレ2001

尾子:横浜トリエンナーレについて簡単にお話します。国際交流基金はヴェネチアの日本館を運営していますし、海外のサンパウロ、インド、バングラデシュ等の現代美術の国際展にはずっと参加してきました。そういう経緯のなかで「日本でも開催して欲しい」という内外からの要望があります。日本のように経済力もあって歴史的な文化の蓄積がある国こそ実施すべき、という意見は前からありました。実は毎日新聞が東京ビエンナーレを開催されていたのですが、現在は中止になっていますし(1952年に開始、1990年に廃止)。

岡部:あれは残念でしたね。参加したことのある海外のアーティストや批評家などから、東京ビエンナーレのことを聞かれたりました。1970年の東京ビエンナーレが非常に斬新で話題になったためですが。

尾子:国際交流基金は東京国立近代美術館とともに、東京国際版画ビエンナーレを何回か共催した経験もあるし、なおかつ多くの国際展に参加している蓄積もありますので、基金が主体となって国際展の日本での実施可能性について勉強会を開いたり、先生方の意見を聞いていました。これも結局は予算要求をするんですが、平成10年度に調査費がついたのです。10年度が調査費で、11年度が準備費、12年度も準備費で金額が増額されまして、13年度に開催費が認められました。このように、日本で国から理解を得て国際展をやるのは、大変に意義のあることだと思います。開催地については国際美術協議会からも答申を出していただいて、最終的に横浜となりました。会場については赤レンガ倉庫と、展示ホールそのほかです。2001年9月がオープンという段取りです。初回は、他の国際展を追い掛けるのは止めて日本独自のやり方を考えたかった。要するに、古美術を外国の人が理解するのも重要ですが、それはある意味で日本の歴史的な美意識を学ぶことにつながっていくと思います。しかし、現代美術は作品によって対話が成立するのです。まさに同時代を生きる作家達の作品と空間を共有し、同じ問題を考えることに非常に価値があると思います。それに、これまでの基金の展示事業の内訳を分析すれば、古美術より現代美術の方を多くやっきているといえます。
 横浜トリエンナーレ2001に参加する作家の年代は20代から70代までの作家で、日本人は30名、他のアジア諸国から30名、ほとんど半数がアジアの作家です。現代美術は難解で理解しにくいというイメージがありますが、現代美術はこんなに楽しいものだよ、と新たな喜びを見出すきっかけになってほしい。もちろん、作家によっては政治的な意味合いを込めたもの、暴力的なもの、性を扱ったものと、いろいろありますが、今回は学童に見せられないものは駄目、という1点だけが約束になっています。教育も重要な目的ですので、学童に動員をかけています。また横浜のトリエンナーレ事務所では、ボランティアの募集もしています。会場、展示、事務局、プログラム、作家アシスタント、作品監視、制作アシスタント、通訳とかいろいろとお手伝いしていただきたいのです。

岡部:ボランティアになりたい人に対して、何か試験などがあるのでしょうか?それとトリエンナーレ事務局の構成はどのようになっているのでしょうか。

尾子:試験はありません。トリエンナーレは展示課とは別に、トリエンナーレ準備室というところで担当していて、準備室は横浜市の職員と基金の職員、また業務委嘱をした人たちで構成されています。常勤が10名で、非常勤が30名です。

岡部:もう開催時期が迫っているせいか、大所帯ですね。

尾子:言語の媒介を要しない視覚芸術、造形芸術の交流は文化交流の強力な手段になるということですね。


横浜トリエンナーレ
手前フェリックス・ゴンザレス・トレスのキャンディ
photo 岡部憲明アーキテクチャーネットワーク


横浜トリエンナーレ
スン・ユエン+ペン・ユー『文明柱』
photo 岡部憲明アーキテクチャーネットワーク


横浜トリエンナーレ
photo 岡部憲明アーキテクチャーネットワーク


横浜トリエンナーレ
photo 岡部憲明アーキテクチャーネットワーク

13 文化協定と周年事業

岡部:現代アートの祭典としてのビエンナーレやトリエンナーレ以外では、どのようなかたちで芸術文化交流事業をなさっているのでしょうか。

尾子:海外展の主催の企画は、たとえばロサンゼルスのカウンティ・ミュージアムで草間彌生展をやるとか、また日本と文化協定、あるいは行政取り決めを結んでいる30数カ国と、2年に一度くらい相手国と日本で交互に文化混合委員会をやっていますが、その中で展示事業が話題になる場合もあります。最近の例でいうと、「フランスにおける日本年」と「日本におけるフランス年」があります。「フランスにおける日本年」の時は私共と文化庁が百済観音をルーヴル美術館で展示し、「日本におけるフランス年」の際はドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」が東京国立博物館で展示されました。また、2000年は「ドイツにおける日本年」ということでドイツ各都市で日本文化紹介事業がたくさん行われ、ケルンの東アジア美術館では東大寺の秘仏の展覧会をやっています。それで、2001年は「イギリスにおける日本年」です(2005年は日本におけるドイツ年)。イギリスの場合は10年一回何かやるということになっているようです。私自身は81年に日英協会100周年で、ロンドンのロイヤルアカデミーオブアートで開催した「江戸大美術」展を担当しましたが、これが非常に成功して、この後オックスフォード大学に日本語研究の講座が出来たりして、文化事業を契機に、日本自体を考えてもらえるようなものが生まれてくる。そういった傾向は、非常に良いことだと思います。こういった事業は、文化協定に基づいていますが、一方で日本と相手国との友好関係の節目を記念して行う、たとえば日蘭修好50周年とか日本人のブラジル移住何年とか、そういうことを契機にして事業が組み立てられることもあります。つまり展示事業が周年事業の核になることが多いのです。

学生:イタリア年の話ですが、2001年はイタリア年で、原美術館でイタリア関連の催しをやってますよね?あれも国内展助成に入ってるんですか?

尾子:もし資料に助成と書いてあればそうですが、かなわずしもすべてというわけではないです。そんなにお金ないですし(笑)。日本の新聞社とイタリア政府が共催していると思います。

岡部:日本の芸術文化を紹介する大規模な展覧会は、これまでフランスやイギリスなどでよく行われてきたわけですが、それは協定があったためなのでしょうか。

尾子:開催地についてですが、主催がどうしても先進国に偏っているというのは、特に日本の古美術を展示する為には温湿度や展示ケース、作品を会期中安全に管理するためのかなりの条件を満たす必要があるからです。アメリカとの間にはカルコンの委員会の中に、日本の美術品の取り扱いに関する小委員会がありまして、そこでの報告書の中に、照度、温度、湿度、それも材質によって、木彫、工芸品、染色の場合、それから軸物などの展示条件が示されています。日本では文化財の指定制度がありまして、文化庁で国宝、重要文化財、重要美術品、その他という風にランク付けしています。そういう文化財を海外に持って行く為には、文化庁の許可がいります。今は、事後でもいいと規制緩和になったんですが、文化財保護審議会の委員会にかける時には会場の図面ですとか、会期中の温湿度、随伴するキュレーターがどういう計画で随伴するのか、輸送はどうするのか、といった作品の借り受けから展覧会会期中の保全、そして返却までの計画を示さねばなりません。また海外に持ち出す場合には、特定の材質の作品を青酸ガス等で燻蒸します。何日もかけて中の虫を殺しまして、美術品専用車で成田に運びます。そこからは貨物便、普通の旅客機には乗せません。私も貨物便で作品を輸送したことがあります。輸送中の警護も大変で、フランスの場合、グラン・パレの興福寺展に日本の重要な木彫をたくさん持っていったんですが、シャルル・ド・ゴール空港から護衛の車がつきましたし、アメリカの場合もそうでしたね。ワシントンはジャンボが着陸できなくて、ニューヨークから護衛車と雨の中、走ったりしました。しかも、貨客便じゃないから変な時間なんです。明け方の2時に着くとかね。旅客便の飛ばない時刻に到着するので。ま、そういう形で美術品の輸送の際は、人間と違って「あなた行ってくださいね」という訳にはいかないので、いろんな人が関わります。繰り返しになりますが、作品の安全が最優先ですので、そのような条件を満たせるヨーロッパやアメリカのきちんとした美術館で開催される事が多いのです。

14 美術品の保険と国家補償

尾子:展覧会の開催経費の中でかなり大きな部分を占めるのが作品に対する保険料です。例えば作品評価額合計が200億円の展覧会を計画しますと、評価額の千分の2%ぐらいつまり4千万円ぐらいが保険料になるのです。無事に終了したら「半分返して」とかやるんですけどね(笑)

岡部:交渉次第で保険代を返してくれたことは本当にあるのですか?

尾子:いや、ありません。現在、文化庁がアメリカやイギリスのような国家補償制度について検討中ときいています(文化庁で懸案され2005年から施行予定)。国家補償も全てがカバーされているわけではありません。ちょうど自動車の保険と一緒で、下限があります。この金額以下については対応できないという。それで、それを補填する民間の保険をまたかけるんですよ。だから、その場合にはまたお金がかかります。もちろんアメリカやイギリスの場合も、適用を受けるための審査はあります。その制度がない国ではすべて民間の保険をかけることになり、この保険料が開催経費をかなり圧迫することになるのです。その点現代美術作品は古美術作品と比較しまして、まず保険料は安いのですが壊れやい(笑)。これが泣きどころなんですよね。いろんな素材があるし、形態があるし…まあ、インスタレーションみたいに材料だけ運んで現地で制作するものもありますが。結構これは、保険会社泣かせ。評価額が作家が「500万」と言ったって「こんなの5万円じゃないか」って(笑)。一応作家の申告額を評価額にするんですが、作品に事故があった場合には、現代美術の画廊を3つくらい集めて「この作家の評価額について」意見を述べてもらうこともあるようです。

岡部:いわば、第三者によって客観的に再評価するような方法ですね。

尾子:そう。「この作家この値段だけど、本当にこの値段でおたくの画廊買う?」みたいなね。事故があったらそういう作業も出て来る訳です。私は各地の国際展を担当しましたが、サンパウロ・ビエンナーレを担当した時に困ったことがおこりました。素材を輸出して向こうで組み立てて作品として日本に「戻す予定でしたが、ブラジル側にとってみれば輸入したときと輸出するときの形体が異なっているわけです。さなぎと蝶は違うという論理なんです。「入ってきたのは、さなぎだろう。チョウチョになったら、これは別もので、さなぎにして戻せ」と。そういうことがありました。私共が海外に作品を持って行く時は、無為替輸出という、税関・通関上の手続きを踏みます。「これは、展覧会の為に一時的に輸入するもので、必ず全部日本に戻します」という申告をします。横浜トリエンナーレでは各国から出品される作品に対して会場全体を保税倉庫扱いにして下さいという手続きを考えています。つまり輸入・通関しない。外国のものをそのまま置き、そのまま返すという手続きです。でも、これの適用を受けた作品がもしなくなったら大変。密輸入になってしまいますので。

岡部:作品の集荷・輸送・通関のあと、会場への搬入なども、環境の異なる海外での展覧会だと、とくに古美術に関してはデリケートな手続きが必要ですよね。

尾子:ある展覧会の企画が出された場合に国際交流基金が所有している作品で対応する場合もありますが、ほとんどは北海道から沖縄まで作品の所蔵者を回って、「この展覧会に出品いただけませんか」という出品依頼をします。それが集荷で、承諾を得たら、作品の借り受け先からまたその場所に戻すまでの全期間をカバーする保険、オールリスクという何があっても補償しますという保険をかけます。作品の通関にかんしても美術館で通関する場合が多いです。係りの人が来て、箱を開けてチェックします。全部チェックすることはあまりありません。それから、古美術品だとシーズニングをします。開催美術館の館内の条件が、こちらの指定する温湿度になっていても、輸送中に湿度を調節する薬を入れるんですね、湿度が高くなると吸収し、湿度が少なくなると出すという。それを入れて木で送るんですが、普通は1週間くらい木箱をちょっと開けて、向こうの館の温湿度に慣らすというのをシーズニングといいます。それが終わったら展示作業にはいるのです。それだけ神経を払ってやっています。それは古美術品の場合が多いのですが、もちろん材質によって条件は変わります。展示ケースもそのために作ってもらって、館全体として温湿度調節すると同時に、展示ケースのなかでもやっています。ですから、すごくお金がかかります。

15 施設が完備していない国への巡回展セット

岡部:こうした複雑なプロセスに慣れていない初期の頃は大変だったでしょう。今はスタッフの方々も慣れてプロ並になってきた人たちがいるとしても。毎回、はじめて担当する方々だとやはり非常に大変ではないですか。また、施設が完備していない国々とはどのような交流があるのでしょう。

尾子:美術館の施設のないアフリカとか南米とかアジアでは何をやっているかというと、うちの所蔵品を回してるんですね。巡回展セットというものです。

岡部:確かに、日本と重厚な文化交流をしているフランスにいたときは、巡回展セットはあまり見たことがありませんが、カナダのトロントで一度ポスター展を見ました。パッケージ化しやすい作品で、保存に問題なく、回しやすいように最初から購入した作品などで創ったセットですね。

尾子:版画とかね。日本人形の巡回展セットが結構人気者なのです。全体を日本の年中行事とかと合わせて構成して雛人形とか武者人形などを展示するのです。でも作品が展覧会中になくなることもありますが。

岡部:トロントの会場は日本文化センターだったように覚えています。美術館ほどには、警備も厳重ではなかったように思いますが、巡回展セットというのは、巡回できる内容というわけですね。

尾子:そうです。温湿度が関係ない作品で基金の所蔵品は構成されています。版画、写真、立体としては現代の陶芸や彫刻、そしてさっきいった人形、こけしのセットは壊れないのでいいですよ。でも、創作こけしは結構値段が高く、1点100万円以上するものもあります。写真パネルで日本のお祭りを紹介したり、日本の著名な写真家の写真などもパネルにして銀行のロビーや学校のなかで展示したりします。一方日本国内では商業ベースには乗りにくい展覧会をやっています。アフリカの現代美術やをスロバキアの工芸、オーストラリアのアボリジニ美術など。

16 助成が偏りがちなのは

尾子:また、第三者が企画する展覧会に対して、経費の一部を助成するプログラムもあります。ただ、この制度があまり知られていないせいか、申請される機関が偏っていますね。このプログラムをもう少し多くの関係者に知っていただくことが必要だと思います。

岡部:申請申し込みがつねに同じ団体などから何度も来て、他からの要望がないために、そこにばかり助成してしまうということですね。それで助成先が偏ってしまう。

尾子:そうです。企画にもよりますけど、新しいところに助成してあげたい。あと、日本国内で行われた展覧会のカタログを集めて、1部をアメリカのスミソニアンの美術館に送り、(財)国際文化交流推進協会と一緒にやっておりまして、もう1部をこの協会が設立した「アートカタログ・ライブラリー」に保存しています。赤坂1丁目の森ビルの4階にあります(http://www.acejapan.or.jp/acl/index-j.html)。自分の館の所蔵品をウェブサイト上で公開しているところもありますが、この事業は非常に大切だと思います。

岡部:それはすごくいいことですね、東京にカタログのアーカイヴがあったら便利だろうと、前々から思っていました。ぜひ活用させていただきます。

(テープ起こし田中恵郁)


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