Cultre Power
art apace & alternative space 佐賀町エキジビットスペース/Name
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

小池一子(佐賀町エキジビットスペースディレクター)×岡部あおみ

学生:江上沙織、笠原佐知子、國井万紗子、鈴木さやか
日時:2000年12月12日
場所:佐賀町エキジビットスペース       

01 オルタナティヴ・スペースの誕生

学生:初めまして。よろしくおねがいします。

小池一子:今、みなさんがいらっしゃるのは、昭和2年、1927年に建った建物で、お米の市場だったところです。その時代の建築物としては非常にゆとりのある建物で、私は1年半ぐらい場所を探してたんです。アーティストにとって快く活動ができる空間で、自分で主宰できる場。よそでキュレーションしたりしながら、物理的な事と、経済的な事、思想的な事の管理や内容について疑問も感じていたからです。その時に私はデザインの仕事もはじめていました。編集とか、企画のスタジオをつくって。

岡部あおみ:それがキチンですか?

小池:そうです。キチンというのはね、私のイニシャルで、Kで始まるいい言葉を見つけようと思って、ドイツのブレヒトという劇作家の言葉で「私は客間より台所で振る舞ってくれる東ドイツの方が好きだ」というのがあって、「アイデアを練る場所」、「発想の料理場」っていう意味を社名に盛りました。そこで、スタッフたちとやがて自分たちの場所を作ろうと思って少し蓄えてきたお金があり、ここを見つけてここに開くのを決めたわけね。この部屋は床が80cmぐらい上がってたんですよ、フェイクの床ね、ビニールのシートがはってあったりした。天井も汚かったし、それを全部外せば素晴らしい空間が出現すると。物理的な制約をかなり乗り越えられる空間だなって思ったんですね。「物理的な管理」とは、例えば美術館の中で火を使っちゃいけないとか、重いものでも制限があるとか、色々ありますよね。壁とか、間仕切りのない広い空間で柱がないのはすごく重要な条件。それで資金を修復につぎ込んだけど、ここのメインの部屋だけで1000万じゃ足りなかったんですよ。

岡部:古いからですか?何年からでしたっけ?

小池:私たちは1983年から。私は京都の近美で衣装の展覧会なんかした時にすでに自分の場所を持ちたいという構想はあったんですね。当時の文化的な風土で大事なのは、若い人が新しい仕事を美術館で発表する機会がほとんどなかった。今はもういろんな美術館で20代のアーティストもたくさん表現の場を得るようになっていて、キュレーターも若い人達が提案したり、発表のチャンスを提供するのが普通になってきてますけど、80年代の終わりまではそれが非常に難しかった。しかも公共の美術館は税金で運営されているから、そんなに冒険できない。あとは貸し画廊だけ。日本では、当時、自主企画でアーティストの活動を支えながら販売もするというギャラリーも少なかったんですね。それで私は1980年代の前半に日本で美術館でもない、商業ギャラリーでもないところ、第3の道、オルタナティブなスペースを作ろうと思った。この第3の道は、60年代の終わりに、フランスで1番盛んだった文化革命の考え方で、より良い生き方とか、物の作り方を考えてきた社会や世界の精神的な風潮の中ででてきた考え方です。もう1つの道、つまりシステムや二者択一ではない、もう1つの選択、よりよい方向ですね。それにはいくつかヒントがあって、N.Y.でP.S.1というのができたり、ロンドンでもICAや、様々な動きがあるんですけど、そういうのをずっと見てて、東京にも欲しいなと思った。無謀なんだけど、始めれば理解者が増えると思って、とりあえずは自分達で作って、活動を始めようと、ちょっと焦ってましたね。1番象徴的な言葉は「焦り」だと思うんだけど、つまりこんな事してたら日本の新しいアーティストが発表の場もきちんと持てずにどこかよそにいってしまうという「場作り」への危機感ですね。企画はスペースの主催者が行い、展覧会としてまとめ、収蔵品を持たないエキシビジョンスペースとして成立させる。そのための経済的な基盤は、社会や個人、あるいは企業の協賛で、自分たち自身ももちろんここの販売に頼らずに、何らかの収益を外であげながら、続けようと思った。まあすごく大変でしたけど、それが基本でしたね。もう1つギャラリーのことで言うと、貸し画廊は、日本の1番悪い習慣で、つまり新しいアーティストが貸し料を払って、画廊で展示させてもらうのは、本当に健康的な事ではなくて、それぐらいはしてあげられる社会であってほしいわけでしょ。そういう器を用意してあげる事を個人の分際で始めたって事ですね。


食糧ビル中庭
photo Aomi Okabe


食糧ビル内部
photo Aomi Okabe

02 食糧ビルの由来と運営

岡部:その頃のスタッフにはどういう方々がいらしたんですか?

小池:今は小柳ギャラリーをやってる小柳敦子さんと、竹下都さん。竹下さんは、私がデザインプロジェクトをするので参加してもらっていた方だったんですが、こういう活動をしようという事で、3人が中心になって始めました。

岡部:最初はスタッフという形じゃなくて、みんなで何かしたくて集まったという感じですか?

小池:いえ、スタッフですね、基本的には。キチンのスタッフで小柳がデザイナー。竹下さんは、プロジェクト単位で契約していて、キチンの運営にはもうあと何人かいました。

岡部:キチンの他のスタッフは、佐賀町とは直接的には関わらずに、3人が別の1つの活動を持ったという感じですね。

小池:ええ、そうですが、キチン全員の支持のもとにね。

岡部:ここを見つけたのは、どういう経緯だったのですか?

小池:1年半くらい色んなところを探して、倉庫の空間でとてもいい大きな所なんか見せられても、もう1つなんか空間の魅力が感じられなかったので迷ってたんですけど、たまたま、小柳さんのおばさまがこの近所に引越してきて、不思議なビルがあるっていうのですぐ見に来たんですよ。新しい人の実験の場であるならばコストをかけないで、しかも豊かな空間っていうと、赤坂、青山の都心ではできないわけですよ。それで倉庫など下町周辺を探して、その足でここを見に来て、ゴミだらけのドアからのぞいたら、「あ、これはすごくなる」って直感で思った。

岡部:ここを見に来たときに3人でやろうと思われたわけですか?

小池:そうね、小柳と私が決めて、竹下さんに改めて聞いて参加を頼んだ。もう、みんなボーナスなんか我慢して、お金貯めてたってところもあるんですよ。薄給でみんな働いてたけど、やりたいことをやりましょうと。

岡部:最初の立ち上げの時は、スタッフが個人的に資金を出し合って1000万をつくったのですか?

小池:いえ、キチンの収益でとってありましたから、最終的な出費はもっとになりましたけど、我々の場として開けられると、ある程度の見とおしは立ててはじめたわけです。

岡部:オープンしてから他に誰か、受付の人とかが増えたんですか?

小池:そうですね。その時々でアルバイトとか、ボランティアもいろんな形で来てました。基本的にはパートタイムが常時2人くらい必要でしたね。3人も常駐できるわけじゃないので、最終的には竹下さんがここの主となって。

岡部:奥にオフィスがあり、ここの講堂は佐賀町エキジビット・スペースが使い、他のスペースはどういう会社が使っているのでしょうか?

小池:ここのビルの本来の職業の「江東食糧組合」、その人達がこのビルの所有者なんですね。向こう側が事務所です。ここは会議室。

岡部:今でもその人たちがかなりのスペースを使ってるわけですね。そこから借りている形ですか?

小池:そうですね。「米」って、日本の国の農業政策が駄目だったから市場開放となると混乱した。お米の産業は今非常に沈んでいるんです。そういう意味で、私達がメインのテナントになっちゃって、その家賃が大事というように、逆になってきている。初めは私達がお願いしていれてもらったんですけどね。こういう下町の場所だから、街中から比べたら安いですよね。

岡部:全部で何部屋くらいあるのですか?広いですよね。家賃はどの程度かお聞きしてもいいですか?

小池:広さは240平米くらいかな。倉庫に使っている部分もあります。家賃は100万を越える。収納スペース、プラス人件費と、展覧会を作る経費。2年ぐらいの余裕を持って、アーティストの仕事を見ながら、作り上げていくでしょ。そうすると年間やっぱり3000万はかかるんですよね。非常に省力化していこうと努力はしましたけど、うんとそぎ落とした時に何ができるかって思って、1度ここをクローズしようと思ったのね。しっかりした経済的な基盤がないと、我々が倒れるだけじゃなくて、アーティストにも苦労をかけますよね。

岡部:1983年の頃はどういう形でなさっていたのですか。

小池:基本的には、キチンで編集なんかで売りあげを上げてましたから、ほとんどキチンが中心になって80%は支えて、20%から50%は、展覧会によって違いますけど、協賛ね。バブルの頃って、私の世代の仲間である大会社の部長とかに、このインスタレーションの柱のために50万円分出して!というと、「えー!」といっても、出してくれた(笑)。そういう意味を感じての決済は今の日本にはなくなっちゃった。文化活動に共鳴する人達が、応援することもできないような経済状況になったんですね。

03 国際的にアーティストを押し出す

岡部:最初の6、7年は、わりとやりたいことができたわけですね。

小池:そうそう。もう1つは、日本のアーティストのことをまず、きちんとしたいと思ったのね。さっき言った美術館でチャンスがない、画廊でやるには貸し料を払わなきゃならない、のを少しでも変えてチャンスをここで作ってもらいたいと思った。だから日本の人達がまず大事で、その新しいアーティストがやる表現や発表を始めからグローバルなものにしたかった。全てバイリンガルでインフォメーションをだしたので、その成果はあったと思います。だから成田空港についてここにまっすぐ来た海外のギャラリストとか、キュレーターの人が多いです。それでだんだん海外の人達からの問い合わせとか、希望がよせられて、最初の10年ぐらいは我々日本の、またアジアのアーティストだけ、と思ってたんですけど、80年代の終わりには、ヨーロッパやアメリカのアーティストからも問い合わせが増えました。でも基本的にはつねに、私プラススタッフでキュレーションを決めた。申し込んできたアーティストはほとんどやったことがないんですよ。こちらの企画でノミネートしたアーティストに、空間をどうとらえるかをプレゼンテーションしてもらうのね。だから皆さんの模型も残ってますけど、この空間に自分はこれを置きたいっていう、そうするとその立体がどういう光を受けるかというところまで言えないと、展覧会やりましょう、とはいわなかったですね。私達が説得されなければ。

岡部:作家を選択するときに、送られたポートフォリオで決めなかったなら、どういう経路が多かったのでしょうか?

小池:信頼する友達の目とか、アーティストからの推薦を大切にしました。ある感覚のフィルターを通すということかな。美術雑誌の編集者や、美大の作品展に出ているものに面白いのがあると聞くと、芸祭の展覧会に飛んで行ったり、多摩美の駒形克哉さんとか、ムサ美の内藤礼さんに会ったり。私がムサ美に行くようになる1年前だったと思いますよ。

岡部:まだ内藤礼さん学生の頃ですよね?

小池:そう。ムサ美の及部先生が卒業制作ですごく面白い作品があると電話くれて。それでここで、同学年の建築の人と視覚デザイン科2人と、もう1人日本画だったかな、4人展をしたんです。その後、内藤さんがこのビルが気に入って、どうしてもここでやりたいってことになったのね。内藤さんは、ものすごい微小な世界から作りあげる人。それがこのビッグギャラリーで、えーどうするのよっていう、ほとんど恐怖に近いものを感じたけど、私もやりたくって、それで2年の時間おきましょうと。2年の間に彼女の構想が見事に実って。大変でしたけどね。

岡部:1番いいのが出来た時に重要な人々にすぐ見てもらえるのは幸運ですね。内藤さんは佐賀町の個展以後に、フランスでも発表できる形になりましたね。「やりましょう」と決められた時には、制作とか構想はもうアーティストにおまかせるのですか?

小池:それはケースバイケースね。搬入まではアーティストにしてほしいんだけど、搬入のお手伝いをしたことも多いです。

岡部:日本の場合は、契約書などをとりかわさないで仕事をすることが多いと思うんですね。そうすると、間違って了解してしまうこともあるし、アーティストで思いこみが強い人などとは、その辺の問題はなかったのですか?資金面などでも期待されすぎたりとか。

小池:そうね、アーティスト側にはあったかもしれない。でも、表面に出て難しい問題になったことはないですね。森村さんの場合なんかは、グループ展でね、何人かで大阪の「イエスアート」っていうグループの東京版で「デラックス」とさらにタイトルに付けて、ここでやったんだけど、その中で森村さんが非常に頭角を表した。その展覧会で際立った作品がヴェネチア・ビエンナーレのアペルトという新人部門にいくんですね。すごくユニークな方向を出す作家。自分をメディアにするなんて、今までなかったから。それで、個展をしたいなあと思っていて翌年に決定するんですね。で、つぎの秋にロサンゼルスに一緒によばれたプロジェクトがあったんですよ、その時に絶対やりましょう!といって、それで「美術史の娘」という、森村さんが力を1番発揮してみせた展覧会を開いた。

04 アーティストの欲望を刺激する空間とキュレーション

岡部:美術史の世界を新たな視線で読解しなおす作品でしたよね。

小池:そうね、それから彼は美術史の検証をした。森村さんの作品が欲しい人はたくさんいるし、彼も経費をださなくちゃいけないから、それで販売するでしょ。ギャラリーは普通はだいたいアーティストのために力をつくし、それでそのプロジェクトを推進するわけだから、販売価格の50%を取る。100万の作品は50万は画廊の運営費にして、50万はアーティストっていうのが一応世界的な基準なんですけど、私達の場合にはオルタナティブなスペースを目指しているのと、アーティストになるべく差し上げたいので、場合によっては70%がアーティストで、30%がスペースで、森村さんの場合もそうだったと思います。物によっては60%40%で、だから、その貢献度よね。私達がプレスをどれくらいできたか。空間をどれくらい整備できたか。搬入費用を出したかとか、そういうことで比率が生まれてくるんですね。アーティストに90%、我々は10%くらいの評価を自分達でする場合は10%しか受けないと。そういうことなんです。

岡部:かなり販売できたのでしょうか?そういう形で売ってさしあげたというか。

小池:特定の人は売れるの。

岡部:まあ、もちろんね。森村さんとかは売れるのでしょうが。

小池:ほとんど新人ですから売れないですよ。画商の背景があるわけじゃないから、私にももう1つ売るためのノウハウが必要だったんだけど、うちの中ではついに育たなかったですね。だから森村さんなんかはハラハラしていたでしょうね。成果があったのは森村さんとか、大竹伸朗さんとか、若い人のそういう展覧会を繰り返している間に逆にエスタブリッシュしたアーティストもここでやりたいというようになった。この空間ってすごくアーティストの欲望を生むのよ。

岡部:歴史との対決みたいなところがあるからでしょう。日本にはとても少ないですから。古い歴史建造物だったりすると、それに対してエネルギーやファイトがわいてくる。

小池:その例は秋野不矩さんとアンゼルム・キーファーかな。

岡部:キーファーも手がけられたのですか?

小池:キーファーは売ることには関わらないですよ。キーファーは日本ではここで展覧会がやれなきゃやらないってくらい気に入っていた。で、来た時が内藤さんの展覧会だったからますます気に入っちゃって。自分も若いアーティストとして苦労してやってきた、だから若い人達をプロモートしている所で、こういう空間でやりたいと。1度お忍びの調査があったんですけどね、その時からもうすっかり意気投合してたくらい。結局セゾンが主催館で「佐賀町」を共催にしてもらいました。

岡部:展覧会のなかでも、作家の個展ですと、作家のアイデアで展示ディスプレイなどのコンセプトの大枠が決まると思うんですけど、話し合いながら決められたのですか?

小池:それもアーティストによって違いますね。なるべくアーティストが個展で力いっぱい発揮できるようにしました。だから、キュレトリアルなテーマで、なんらかの思想をだし、それでくくっていったことがキュレーションの核となってアーティストが選ばれて空間を共有することになる。それと、私の場合は時間でつなげていったと思う。個展でしっかりした仕事をすることを非常に大事に思ってきたし、それがアーティストの力を開花させることにはなったと思いますね。

岡部:そう思います。テーマ展に参加するのと自分自身の個展では、規模の違いはあるけれど、十分に自分の世界を見せられるっていう点では、格段の違いですからね。

小池:テーマのあるキュレーションは非常に魅力があるんだけど、いろいろ問題もありますね。

岡部:プラスの面は、作品を1・2点しか出品できなくても、みんなが興味持っているテーマや話題性のあるテーマ展で取り上げられる事で、普段はあまり見てくれないような人たちが、見てくれるというメリットはありますね。

小池:それとね、キュレーターの主張ができるっていうことと、アーティストも思わぬ面がでる、って事はありますね。うまくいくと非常にテーマ展ってのはいいんですけどね。

学生:さきほど、小池先生が時間でつなげていったとおっしゃっていたのは、アーティストの波にのってる時期とか、成熟している時期とかに相応して選ばれるということですか?

小池:そうね。まず社会の空気との関係もあります。それからキュレーションのリズム。例えばある1年で、初めに陽性の、派手な表現力の人をやって、その次に非常に沈静、内省的な人をやるっていうリズムもあるし、で、次はグループ展といったリズムも考える。だけど、流れとしては社会の中のアートの位置とか、表現したい事にきちんとした考えのある人が大切と思いますし、そういうキュレーションをしてきたと思います。

05 海外とは異なるサポートの現状

岡部:森村さんと内藤さん以外に、やはりここで比較的早いうちに小池さんが取り上げられて、その後国際的にも活躍されている方々はいらっしゃいますか?基本的にはノン・プロフィットで、売れたとしてもここの維持費に回るという感じですが、もちろん作家にとっては、参加するだけではなくて、売れてリターンがくるのは喜ばしい。海外にはわりとノン・プロフィットのこうしたアートの施設がありますけど、日本でオルタナティヴ・スペースの運営をする時に、やはり理解や文化状況の成熟度などで問題がありましたか?見てくれる人が少ないとか、協力してくれる企業が、どんなにバブルでも少なかったとか。

小池:サポートや協賛、寄付とか支援の判断の基準が日本ではなかなか持てないのね。例えば江東区でこんなに江東区の文化に寄与してるんだから、区からなんとかならないかと思ったりするでしょ。しかもここは文化地帯とかっていって、江東区カルチャー・ゾーンとかっていう表示を建てたりするんですよね。それなら、運営を江東区が手伝ってくれてもいいじゃないっていうんだけど、お宅だけを応援するわけにはいかないっていうのよ。だから、私の言葉で言うと「個人のミッション」、使命感みたいなもので始めてもそれが様々な共感を呼んで大きな仕事に広がることが日本では少ない。もう、ほとんどないっていう感じですね。

岡部:海外では、個人や有志のグループがはじめた小さなアートスペースの実績が認められて、リヨン郊外の美術館のように、国や地方公共団体が出資するようになるケースよくありますね。

小池:ですよね。私が一番勉強したのはメトロポリタン美術館の衣装部門。そこはロックフェラーだから大金持ちだけど、僅かなサポートで衣装部門を開いたキュレーターたちがだんだんメトロポリタンの中でも認められて、きちんとした研究機関、衣装研究所になっていく。だけど、芸術は世界観を見せるわけだから激しい毒もある。きれいな花よ蝶よでやってるんだったら、ああ、きれいですねで、お手伝いしましょうって人が現れるけど、社会の問題はこういうところにあるんじゃないかみたいなことをドンと見せられたりしたら、やっぱり逃げることもある。でも、そういう考え方を出したい。つまり、反体制的なことよね、コントラバーシャル(議論を呼ぶような)なものがむしろ私はしたかったんですね。それが芸術の重要な役割だと思っているから。だから、もともと困難は承知で始めたわね。単に平面で美しい絵画というより、場所のこと英語で“site”(サイト)というでしょ。この場所でしかできないことを“site spectific”(サイトスペシフィック)と言いますよね。この場所性を重要と考える設定って言うかな、サイトスペシフィックな仕事としてはすごく成果をあげたと思いますし、逆にいうと1点のアートの商品が成立することはその場合は難しい場合が多かったということにもなるわね。

06 場の魅力

岡部:ここの場所のクオリティには、初めて来たときにまずびっくりして、日本にもこうしたスペースがあるんだって本当にうれしく思いましたね。

小池:うれしい。エキジビット・スペースを閉める今回の展覧会のオープンの夜に海外の美術雑誌の方が見えて、驚いてました。その方初めて見えたんです。すごく面白いし、懐かしい感じがあるでしょ。みんなどこの都市の人が来ても私の通った小学校みたいとかって言うのよ。そういう1920年代の同時代の感覚がある建築、それを作ったのは建築家ともいうより、棟梁ですって。そういう人たちがいいビルを建ててくれた。これは建築的にはそんなに優れたものではないけど、当時のしっかりした建物ね。

岡部:アーチなどのレリーフ装飾もみんな前からのものですよね。オルセーみたい!なんて感じですね。フフ。

小池:そうです。お米のビルがオーナーだったから今もそうですけど、お米の穂、稲のね。上でちょっと花開いて。修復する時すごく気を使いましたよ。床もね、全体の修復は友達でムサビの空間デザイン学科主任の杉本貴志先生。「あ、いける」と思って翌日には杉本さんに来てもらい、彼らの仕事に託して、まあ、その時ポストモダンの全盛期だったから、ドアは裏表全部黄色にしたのね。ウインドー枠はピンクにして。そういう楽しみ方をしましたよね。芸大の彫刻の学生たちに修復手伝ってもらって。もう、この稲穂が欠けてたりしてたのね。漆喰で補修した。過去を受け継ぎながら新しい刺激的な仕事を入れたいと思っていたから。

岡部:最初来た時はじつにたっぷりしたスペースに感じたんですよ。1つの空間でこれだけのボリュームがあることにびっくりしました。当時は東京にもあまり大きなアートスペースがなかったせいもありますけど。東京都現代美術館が設立してからは、かつての展示室の空間感覚が変りましたね。

小池:ああいうのできるとね、そうなのよ。でも東京には今でもこれだけの広さはそんなにはないです。今はかえってスケールアウトのところも多い。大きすぎて使えきれないっていう。

岡部:大きすぎますね。現代美術だけなら、東現美は半分でちょうど良かったかもしれません。

小池:そう。それとね、私はやっぱり床の確かさが必要。ここはもとの床を洗い出した後に少しワックスにグレイッシュな色を入れたんですね。日本ではどこの美術館にいっても、ああ、やっぱりうちの床の方がいいわと思う。

岡部:アーティストは床とか壁とか、ボリュームとか空間のクウォリティに大変敏感だから、みんな気に入ってしまうのね。

小池:三好耕三さんという写真家にここを象徴する写真を、修復がきちんと終わったときに撮影していただいた。それで1枚ハガキを作ったの。誰に撮ってもらうかがすごく重要でしよ。みんなその写真のイメージで展覧会構想を練ることもあって、クリエイティブな仕事の仕込みは大切です。その写真に誘発されて色んな事を考えるんですって、こっちに作品置こうかなとか。写真が持ってる空間感覚がある。この裸の空間だけを見てもらいたいですね。この西に向かっている壁の3つの窓から注ぎ込む光が空間を照らしている。

岡部:(学生に)小池一子さんは、ご自身がコピーライターでもあって、「MUJI」を作ったメンバーの一人です。うちの近くにある明治学院大学で、小池さんが「MUJI」の講演会をなさっていたので聞きに行きました。すごく面白かった。初期の頃のブレーン・ストーミングのスタッフのクリエイティブな考え方とか。そういう仕事もなさっていて、一応小池さんご自身が稼ぎあるというか、収入があるので、佐賀町もやってこられたという部分があるのでしょうね。

小池:ここで経済を成り立たせるのは至難の技ですよね。それをきちんと考えたらこの空間は持てない、と思います。私がすごく尊敬してる画商さんにそう言われた。それを私は無理を承知でやってきた。

岡部:もともと所有しているビルや家でやっていたりすれば楽でしょうが、家賃を払うだけでも大変な事ですね。

小池:例えば企画費ぐらいはどこかから出るとかね。でも収入を注ぎ込むという構図だから。それはまあ、盛大なバカみたいな話なんだけど。でも楽しいんだから。

岡部:小池さんの活動を中心にみたら、一種の企業メセナみたいなものではないですか?キチンという1つの組織を持っていて、そこの収入をべつの文化活動に出すという形だったら。

小池:それはもう、メセナだし、賢明な節税。例えば9人で、900万円の税金を取られるより、文化活動で使った方がいいわ、っていうことは堂々とやってきましたけどね。国が経費を認める限り、それは出来る。

岡部:でも、本体の組織に税金をはらうだけの規模の事業があればいいけれど、それがバブルが崩れて難しくなれば・・・

小池:私には大学の仕事が発生してきて。そうするとそんなに仕事はできない。そして人をどんどん減らしていって、その分仕事を制限しますよね。だから2000年にはちょうど区切りがきたのです。

岡部:今、キチンには何人くらいスタッフがいるんですか?

小池:キチンは本来私の個人事務所で、秘書が1人です。2人がキッチンの契約になってるので3人で働いてる。

岡部:1983年に始めた頃は7人ほどいたとなると、ずいぶん減らしたわけですね。小柳さんは独立されてギャラリー小柳をもつようになったのですよね。

小池:やっぱり小柳さんは、最初から商人の娘だから、売らなきゃ面白くない!といっていた。だからご自分の店を開くのは、すごく自然でしたね。

(テープ起こし担当:鈴木さやか)


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