Cultre Power
art apace & alternative space ライスプラス/RICE+
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

インタヴュー

嘉藤笑子氏×河野通義

学生:岡田伊央・今西彩子・佐藤美保・河野通義
日時:2003年6月26日
場所:どこそこ

01 焼け残り続けた向島

河野通義: 向島における町おこしの経過など、簡単な流れについて教えて頂けますか?

嘉藤笑子:向島をまず地理的に説明すると、東東京で、隅田川に沿った浅草の向こう側と言った位置になります。昔、浅草の向こうの島だったためです。隅田川の河川整備が行われる前は洪水が起こり、水浸しになっていた場所で、向島以外にも京島、寺島という島の名称が残っています。業平という地名があるように藤原業平の都鳥という歌にもでてきます。(しかし、この史実はないとのこと:向島学会高木会長弁)
平安時代から向島という土地自体はあったのですが、今の向島の街となる最初のターニングポイントは江戸後期です。いわゆる町民文化が発祥した時代で、その時に向島百花園など民間で始まった茶屋があり、自然豊かなエリアだったので、神社にお参りに行った帰りに、そこへよってお茶をたてたり、歌を詠んだりして町民文化というか、文人文化が発展したのです。向島百花園は2004年で200年になる。今東京都が管理していますが、中で働いている茶屋の主人は初代から続いている家系です。歴史的にも文化的にも基盤がありますが、その時代はいわゆる別荘街で、参勤交代で故郷に帰れる予算が無い外様とかがそこに行っておつとめをしたことにするといった形もあり、殿様が帰っても他の老中とか家中が滞在する屋敷街だった。そのあと、明治政府になり、没収され解体されたわけです。その後工場街が発展していき、企業が買収したりして、沼地だったところを埋め立てて工場にしていった。そういう歴史については、「吾嬬・寺島長屋博覧」という、rice+の改装前にやった展覧会で、その資料に古地図を含めて、向島の産業とのからみで、街の形成の歴史や流れが非常に詳しく書かれているので参考にしてください。

ライス+にて嘉藤笑子氏 photo Aomi Okabe

02 防災による向島のまちづくり

嘉藤:大正末期にあった大震災、関東大震災で、浅草などの長屋木造関係は焼き出されて隅田川に逃げた人がほとんどで、向島に流れてきて長屋を組み立てるという状況でした。向島は不思議なことに、ずっと焼け残るエリアなんです。風向きらしいのだけれど、東京大空襲にしてもなぜかそこのエリアだけ焼け残った。隣町の本所深川はすべて焼き尽くされて、何十万人と亡くなったのですが、向島だけは焼け残り、そこにバラックを建てて、現代に至るというわけで、同じ墨田区なのだけれど、本所深川は都市整備、区画整備がされて、いわゆる碁盤の目になり、木造の建物もなく、マンション街ですが、向島の道はそういう意味で最初から残っている所に家が建っています。それで路地・道が蛇行したりとか、自然な形になっています。車幅を広げたところもありますが、獣道、あぜ道といわれているものが未だに残っていて、そのために街の作りが人の歩く速度にあっているというか、環境的には人間の感覚に近い。その辺が魅力になっている。長屋が未だに残っているのも大きな特徴ですね。
まちづくりについては、私は専門ではないので、向島と出会うことで日本にまちづくりが定着しているということを知ったのです。20年くらい前から向島に関してはまちづくりが始まっていて、木造・木密といわれる木造密集地に対する災害の防災活動で始まっています。東京のワーストワン、つまり日本でワーストワンということになりますが、非常に密集していて危険度が高い地域です。それを知った住民が自主的防災まちづくりを始めたわけです。行政だけの動きではまちづくりはありえないです。
昨年、私が自転車プロジェクトを展開した場所も「一寺言問集会所」といって、防災の街にする会が主催して建てられた建物です。土地の管理は墨田区で、建物自体は「防災のまちにする会」という、まちづくりが主導で設立された建物です。平屋でちょっとした会議室があり、大きい部屋と小さい部屋があり、広場があるといった程度のものですけれど、各町内会にこういった防災組織があります。9月1日は、最近では忘れられつつありますが、「防災の日」として墨田区では大きな防災訓練をしています。

ライス+内部 photo Aomi Okabe

03 福祉からアートへ 向島アーティストネットワーク

河野:アートと地域の関係はどこからでてきたのですか?また、アートは地域にどの程度介入出来ていますか?

嘉藤:それは私の大きなテーマでもあり、向島におけるアートと街の関係は、基本的にアートが街のリヴァイタリゼーション(生気回復)になっているかどうかと言うことがポイントで、現時点では実現していると私は思っています。

河野:向島に興味を持たれたきっかけはどこにあるのですか?

嘉藤:きっかけ自体は、曽我さんが始めた現代美術製作所という現代美術のオルタナティブスペースをオープン時に取材に行くことになったことですね。その時は、まだヨーロッパにいて、たまたま帰国していたときでした。ロンドンではイーストエンドといういわゆる下町がギャラリー街に移行して、ニュ−ヨークのソーホー、ベルリンのミッテ地区など、下町からアートが発生するといったことが、当たり前のこととして受け止められているわけですが、日本ではまだまだ下町からアートが芽生えてはこなかった。それが逆に新鮮で、私自身もがんばって欲しいと思ったし、引き金になるだろうなとその時に既に思っていました。その後、帰国して、この地を訪ねる機会が増えたんです。
日本にはこのような活動に支援できる文化行政がないですから、ほとんどのオルタナティブな活動は1,2年でつぶれてまた新しいものが出来るというパターンを繰り返していますよね。その中で現代美術製作所が定着したのは、ご本人も言っていますが土地と建物があったことが大きい。現代美術という表現が多様化するものに対応できる十分なスペースを持っていて、運営者たちに他に収入源があったのも重要です。つまりコマーシャルギャラリーとして運営していかなくてもつぶれてしまうわけではない。かといって、片手間でできるというわけではないし、実際には24時間関わっていらっしゃるのだけれども、経済的なものは他から得てやっているというスペースですね。
現代美術製作所という拠点を通して関わることはあっても、街自体に出会うことはまだなく、3,4年前に、「向島アーティストネットワーク」というアート・イヴェントがあって、初めて空き家、空き地を使ったプロジェクトを実施しました。企画したのはティトス・スプリというドイツ人ですけれど、教育はドイツ、イタリアなどヨーロッパで受けている人物で、当時、東京大学に留学していて、まわりの留学生に声をかけて始まったものです。参加した人は半分が海外のアーティスト、もう半分が日本人。やはりアートを自発的な活動へと促すとなると、こうした外の力は、アートが街に入るには必要だったのかなと思う。ここ1,2年は変わってきていますが、昔はまちづくり=福祉みたいなことがあり、防災といった明らかに利点が見られるものにしか動こうとしない時代でしたから。今になってやっと文化とか、それ以外の価値観が芽生えるようになってきた。まだ、それが浸透しているかどうかは分からないけれども、少なくともそういうものを受け入れる兆しは見えてきたというのは事実です。
「向島アーティストネットワーク」は、あくまでもイベントとして空き家・空き地を有効利用したわけです。向島には、いま700件もの空き家があると言われています。たとえば木密と言われている長屋が老朽化しており、在住者が高齢化して歯抜けになっていく。かといって、古い町ですから、土地の所有権、建物の所有権、中に住んでいる人の権利がみな違い複雑化していてなかなか壊せないとか、長屋で連結していますから、両隣空いても真ん中は住んでいるとか、簡単にスクラップ・アンド・ビルトにはできない環境です。空き家で、つながっていなくても路地があまりに狭く壊すに壊せないというところもある。いま、壊すのだけでもすごくお金がかかり、それも結構問題みたいです。

04 アーティストがまちにくるーコミュニティの形成

嘉藤:空き家を使った展覧会を見た若い作家たちは、空いているなら住みたいとイベントが終わった後に移り住んできたのが、次の流れです。都市の再生がまちづくりの課題だと思うのですけれども、東京自体は非常にある程度発展している。今の問題は再生とか経済的な問題も含めて、生まれ変わる必要性が出てきている。つまり老朽化している建物をそのまま残すのは危険性がある。空き家が残ることによって犯罪が生まれる。そういったところで子供がたばこを吸うとか放火をするとかですね。向島の半数が放火といわれているくらい、空き家問題は深刻化しているのです。ですから、防災の意味でも空き家を活用していくのは非常に有効なのですけれども、アーティストが住むのが良いのかというのとはまた別の問題で、こういった古い長屋に住みたいと思うのはもうアーティストくらいしかいないというのも事実なのです。
彼らにはそれをリフォームする能力がある。ご存じのようにアーティストは不動産屋からはかなり嫌われ者ですから、常に住み心地のよい家を探しているというのが事実らしい。で、家賃が安く、自分の家をデザイン出来るのも非常に魅力ということで、アーティストが先ほどの空き家に移り住んできて、現在は20- 30人くらいいるのかな。共同生活している人たちもいますね。向島の問題点はハードの部分、ソフトの部分の両方にいえることですが、ハードは建築の老朽化と、利権がらみで速やかに解決出来ない部分があって空き家・空き地が増えていることです。震災対策として迂回道路を作ろうとして作っているのですけれどもそれほど成功していないようです。向島の持っている魅力は結局路地なので、新しい道路をつくってしまうと、急に違和感のあるものが突然やってくるという感じで、街の景観が変わってしまう。歩いてみればわかりますけれど、ある種、突然開けた道があると、急に寂しい感じになっている。それだけ、人が住む環境、自発的に出来た環境が、いかにコミュニティと密接しているかを証明する環境でもあります。

05 スローライフ、イージーライフ

嘉藤:隅田川沿いに1970年代にできた白髭防災住宅団地というのがあるのですが、大震災に隅田川を通して高温の風がふき、木造を燃やしてしまい、団地自体が防壁になるほどのすごく大きな建物で、そこに鉄砲水が噴射するような水鉄砲みたいな装置が装着されて、自動でシャッターが降りてきて火災を防ぐというもので、地下にものすごい数の布団とかがある。これは阪神淡路大震災がある前から存在するのですが、景観的には非常に醜く独立しているわけです。同じ下町という場所の意識も生まれてこないし、そこに住んでいる人も分断されて、同じ向島の人間とは思えない状況が出来てしまった。そういう失敗があって、コミュニティとは何か、人と人との関係、まちの作り方の考え方が大きく変わったのです。
ポケットパーク構想という、小さい子供たちが遊べる公園を町中にいくつか作るという計画が始まります。向島は最近表彰されたことに、雨水利用があるのですが、雨水をタンクにためて、何かあったときに防災につかう。消防車も入れないような路地も多いのでそういうところに活用しようと、やっているわけです。実際には夏場が暑いですから、水まきに使うとか、庭のない家がほとんどなので、路上のガーデニングの植物の水につかうとか、子供の水遊びにつかうとか、これもコミュニティに使われているのです。
また当然ながらソフトの部分では、現在他のまちでも問題になっている高齢者の孤立。寝たきり老人が非常に多くなっている。9割がた、家庭内工場といわれているエリアですが、高齢化にともなって閉鎖された工場が多い。また、後継ぎ問題で、商店街とか風呂屋とかですね。未だにお風呂がない家が割と多いのです。半数くらいがそうじゃないかな。それでも風呂屋が消えていく。こうして問題を抱えているからこそ再生の基盤があったといえると思います。
一つの要因としてスローライフといわれているライフスタイルの変化をあげましたが、バブルによってある程度贅沢をした我々の中に、ものの価値だけではなかったというバブルはソフトの価値観にも影響を与えている。そういう意味で、意識的にスローライフ、スローフードといわれているようにある程度住宅志向も変わってきた。特に長屋に住んでみたいという若い人たちの話を聞くと、地面の上が良いとか、近所にお醤油を借りられるところがあるのが良いとか、お総菜屋が近くにあるところにすんでみたいという、価値観に変わってきた。若い人たちがそういう価値を持つのも、いわゆるデザイナーズ・マンション・オンリーだった考え方とはかなりずれてきていることのしるしですね。
アーティストが住んでいる界隈は若い人にとっても魅力であり、これも住宅志向にからんでくる。それから、美大と関係している我々はあまり意識しないのですが、建築学科なり都市デザイン、社会学部とかにとって、まちづくりや教育のアウトリーチは、非常に重要なサブジェクトになっていて、向島を研究対象にしているゼミが多いです。千葉大、早稲田、慶応、理科大、東海大、大阪外大とか。こんなに大学が来ていて、何するんだろうというくらい、リサーチに来ています。理科大はいくつかの成果を発表するまでになっているし、千葉大もかなり長いことやっています。慶応は「rice+」(ライスプラス、嘉藤笑子氏が運営しているレジデンス)に2ヶ月滞在して研究したり、「アーティスト・イン・空家」というプロジェクトを行っている。教育としてフィールドワークが行われていることも多少影響して、学生たちは、まちを歩くことによって、楽しいとか長屋の風情に接する機会が増えるのですね。行ったことがなければ再発見することは出来ないのですけれども、理由はともあれ、まちを歩くことで再発見する機会を得ているわけです。

06 向島学会とツママレ

嘉藤:アート・ヴィレッジになっているかどうかはまだわかりませんが、特徴としては、アーティストだけが集うアート環境ではなく、むしろ、まちづくり関係者もいれば、アーティストもいれば、企業・大学という組織もいれば、アート・プロジェクトをオーガナイズしている人物などがいます。rice+もその一つになると思うのですが、アートプロジェクトを運営しようとする組織が一緒に入り込んでいるという状況が、さらに発展要因の一つになっているといえます。しかし、現状では公的資金は全く介入してきてなく、区役所からのサポートもいっさい受けていません。そう意味では非常に自主的な活動に依存している。
ほかのまちづくりに比べると、ある意味で自然発生的なケースであるといえると思います。そういう点ではロンドンのイーストエンド、ニューヨークのソーホー、ベルリンのミッテ地区に感覚的には近い。空いている部分を生かそうというアーティスト側の働きがあったというわけです。アーティスト同士も何らかの形でトップがいて、ディレクターがいて、アーティストが動くといった形ではなくて非常に緩やかな共同体としてやりたいときにやる。最初の1,2回は、「向島博覧会」とか「アートロジー」とか大きな冠がついていたのですけれども、それ自体に意味を持たせないで、今は「ツママレ」というプロジェクトを主体に動いていますが、これも組織といえるものではなく、大きいワークショップという言い方が正しいかもしれません。コミュニティの形成自体も飲み会とか、近所付き合いみたいなものが中心になっています。2003年で2年目になる「向島学会」には、私も理事として参加していますけれど、博覧会みたいなイベントではない形で継続する会が欲しいという、まちづくり関係者の動きです。アーティストより建築関係者、まちづくり関係者が向島について、歴史や文化の背景、防災の問題などを話し合う機会を増やす場になってます。実際的な学会事業というより、向島についてもっと知りたい人たちの緩やかな集まりとして機能しています。

07 アートロジーとOKTOKYO

嘉藤:私が関わったのは2001年の「アートロジー」からです。オープンスタジオという形で、アーティストが移り住んだ家を使って展覧会やイベントをおこなったわけです。これはOKTOKYOという三人組のアーティストを向島にアーティスト・イン・レジデンスに招聘したのがきっかけです。これも、自主的に始めようというより外からの力なので、北欧のオスロ大学、オスロ芸大へ行くきっかけがあり、そこの先生から、東京に行きたいアーティスト(学生)がいるのだけれど、アドバイスしてくれないかという相談を受けた。学生だし、どこかへ紹介すれば良いかなという程度だったのだけれど、海外の作家が東京に行きたくても、東京に3ヶ月以上という中期滞在は非常に難しい。2年くらいかけて住むのだったらアパートを借りることができるのですが、3ヶ月といういわゆるレジデンス型の滞在を受け入れられる場所が東京にはない。いまは少し動きが出て来てますが2001年には全くなかった。それを知ってすごくショックを覚えました。
帰国したのは1998年ですが、日本にそれほどアーティスト・イン・レジデンスが定着していないことにとても驚いた。地方にはすごく立派な建物でレジデンスを運営しているところがあるのに、東京にはない。都市にないのは非常に不思議なことだと思った。現代美術の作家は都市を見つめている作家が非常に多いわけで、東京に行きたいのは当然なのです。日本ではアーティスト・イン・レジデンス事業がまちづくりに利用されていて、地方の過疎化しているところにアーティストをよんで、何とかなるのではないかという発想がほとんどなので、田畑山の中にほとんどの施設がある。そうした環境に放り込まれていると、外国から来たアーティストは、自然はあっても全くちがうアジアの都市文化に触れることができないわけです。
そういう状況を知るにつれて、こうなったら自分で助けてやろうかなと。当時個人でやっていたのはジョニー・ウオーカーという日本国籍を持っている白人で、本人は中国生まれといっていますが、彼がテートギャラリーと契約してテートレジデンシー東京というプログラムで、イギリスの作家を3ヶ月ぐらいのレジデンスにしていた。運営者が日本国籍だけれど、英語の教育を受けた人だから、コミュニケーションは楽だし、洋風な環境に住めるけれども、わざわざそういうところで、日本文化に触れることもないのではないかとも思って、こちらも計画的に下町に放り込むことを始めたわけです。3人のOKTOKYOという若者が、下町住まいに非常に苦労する。それがプロジェクトでもあったのです。昨年は、アサヒ・アート・フェステバル(AAF)の一環として、私の企画する自転車プロジェクトを向島で行いました。
このプロジェクトのために撚糸工場を、駐輪場として利用しましたが、前回は、人形作家のアーティストが、水をテーマに天井にパイプを通して人工的に雨を降らすという工場でなければ出来ないインスタレーションを行いました。結構水浸しになりがら、観客も作品を見ていました。それから、アーティスト(作曲家)でもある「ツママレ」の事務局長の家。その人の自宅を改装して茶室にしたものです。いまはコミュニティ・スペースになっています。長屋に茶室はあまりにマッチしてしまって、今やそれを壊すプロジェクトになっています。和物のプログラムだと近所のおばあちゃんが喜んでくれます。一昨年前にやった「自転車バリヤフリー」は、私がキュレーションしたわけではないのですが、新しい自転車専用道路を茶室にして、そば屋さんが入ってきたりして食べたりするプロジェクトです。
長屋のアーティスト・イン・レジデンスをやったOKTOKYOは、3ヶ月間滞在していたときに「アートロジー」があり、ちょうど発表する機会になって、オープンスタジオにした。彼らは隅田川河畔にホームレス、ブルーシート、段ボールハウスが非常に多いことを発見するわけです。初めての東京でそれがショックで家の中にダンボールハウスを造ってしまうプロジェクトです。ここで、近所のおばちゃんに北欧のお茶を振る舞うお茶会もある。私自身もこのときはまだ向島がどういう街か知らなかったので、プロジェクトと共に知っていく形になりました。地域とここまでコミットするということを想像していなかったのだけれど、やり始めると当然ご近所づきあいなしでは成立しえないということがわかってきました。翌年には大西みつぐさんが、この長屋でインスタレーション込みで写真展をしました。

08 300万円で動いた。rice+の運営

河野:基本的なrice+の運営について教えて頂けますか?

嘉藤: rice+は向島に誕生した新しいスペースで、今借りているスペースのリフォーム前は名称の由来となった米屋です。一階が店舗で二階が住居スペース。二軒長屋で隣も空きスペースです。一階をオープンスペースにして、二階をアーティスト・イン・レジデンスとして使っていて、このときは慶応の学生が2ヶ月間、「京島編集室」という名前でオルタナティブ発生を実験的に行うというプロジェクトを実践していました。
米屋を理科大の学生に頼んで、頼んでというかプロジェクトの一環で動いたのですが、早稲田の博士をおえたばかりの真野さん(現東京工業大学助教授)という助手のかたが属する理科大の研究室でデザインしてもらいました。真野さんは「吾妻・寺島長屋博覧会」をやった人です。当然ながら学生たちは実施まで手がけたことはないし、非常にまれなチャンスなので、やってもらうことにしたわけです。そのプロジェクトが動きだした時は全く未知数で、予算もとれてなく、とりあえず彼らが住んでいた環境の中でリフォームプラン自体は出してもらおうと。模型で終わっても向島の中でのケース・スタディにはなるだろうということで、そこまで進んでいく中で、アサヒ・アート・フェスティバルの予算が付き、どんどん転がって進んだものなので、初めから最終的な展開図が出来ていたかというとそういうわけではない。
予算は300万円です。通常カフェの開業資金は1000万円といわれているのですけれど、到底それはないだろうと。工務店に頼むと400万円ほどかかるらしいのですが、ほぼ手作り。大学と現場と二拠点で進め、今ドキュメンタリーを制作中なので、完成したらお見せできるとおもいますけれど、ユニット家具になっています。全部閉じるとフローリングになり、組み立て式で掘り炬燵みたいに足をつっこんで机にもなる。グリッドなので、縦横自由に客席を動かせる。そういうわけで、ほぼ私の個人事業で、当然人件費も払われていないため、ボランティアなのですけれど、運営の多少の赤は私が埋めていますが、二階のレジデンスを利用するときにはアーティストが光熱費を含めて家賃を負担する方法をとっています。現段階までは経済的な環境を含め自立運営が成立しているわけではないです。今年もアサヒ・アート・フェスティバルに企画が参加できたことで、助成金が得られたことは運営費として非常に大きなサポートになっています。
昨年より「J-air」という、日本のアーティスト・イン・レジデンスのネットワークを作ろうという動きがあり、私もよんでもらいました。そこは、これまでwebで行政とか大使館のための情報公開をやっていたところなのですけれど、あまりに個人負担が多いので、今、再構築しようと動いています。国際交流基金が現在運営している、アーティスト・イン・レジデンスのホームページになぜか、たまたま偶然にrice+も入っていて、そのサイトには36件くらいのレジデンスがあるのかな。でもうちみたいなレベルが何故はいっているのかと不思議がる声もあった。逆にレジデンスが本来の姿に戻るためには、草の根的な小さいスペースから始めるべきではないかという考え方もあるのです。

09 ローバジェットの運営

嘉藤:レジデンスの三本柱といわれているのが、国際交流、若手育成、地域の活性化。過疎化の地域の活性化に活用される場合が多く、バブル時代でしたら、大きな建物を建てて運営していくことも可能ですけれど、現在は廃校を使うとか、廃屋の民家をつかうといった、小バジェットで動かせるような形が多い。逆に言うと、美術館とか、他の文化施設なんかよりもアーティスト・イン・レジデンスはかなりローバジェット(低予算)で動かせるのが特色です。rice+みたいに予算をあそこまで縮小して運営することも可能だというのが、アーティスト・イン・レジデンスの魅力でもあるし、実態でもある。要するに国際交流の一環として認知されているのですが、実際にはその地域に放り込まないと、国際交流はなりたたないので、山奥の大きい施設の中に閉じこめられると交流は生まれにくい。それでワークショップなりアーティストトークなり、地域とのつながりがレジデンスでは必要なのです。
私の場合は、はっきり言ってほったらかしスタイル。スタッフがいないので、まず日本語を勉強しなさいといっています。地域にただで教えてくれるボランティアさんとかコミュニティ・ホールがあり、そこにコンピュータールームやビデオルームがあるので無料でも使えます。東京にいるとそういう小回りがきく利点がある。一から十まで全部お世話しなくても、自分たちである程度情報は得られます。他の人も助けてくれるし。で、向島のように、日本語しかしゃべらないおばあちゃんでも、やって来てお菓子を置いていくという付き合いもあり、何となく本来の国際交流になっているともいえます。

河野:今後の展望はあるのでしょうか?

嘉藤:私の体力が続く限りしか継続できない状況で、それは経済的にもいえると思いますけれど、一階をカフェにしたのはある程度の収入を期待した打開策からです。わざわざユニークな空間を作った訳なのですが、靴を脱いで、寺子屋みたいにお勉強机でコーヒーを飲むのも、若い人はべつとして純粋にカフェとしてはなかなかなじめない。そういうわけで、運営スタッフが生活できるくらい、さらに収益がレジデンスに回せるくらいの本気の本気は三乗くらいかけないと、生まれてこないという訳です。アサヒビールからの助成をうけましたが、これからは、行政・企業のスポンサーから助成をもっと積極的に取り入れる必要があります。それで自立していくための経済構造を強化することができる。実際には助成が欲しくても今までほんとに時間がなく、応募する事もできなくかったのですね。そういったことも出来るように時間を割くべきだし、カフェ運営もアーティストによる期限的なイヴェントの要素の大きい営業なので、継続が出来るように環境を整えたい。まぁ問題は山積みですね。

河野:一番の問題はどういう点でしょうか?

嘉藤:経済的な自立でしょうか。光熱費や家賃など基本的な家屋費用は私が個人負担しています。海外作家の場合、事前に振り込みをしてもらっていないので、ドタキャンとかが平気であります。今年の4月から住中浩史くんという子どもワークショップを小学校や地域で展開しているアーティストが、下町のコミュニティと触れあうためのプロジェクトとして住み込みながらカフェ&バーを運営しています。まだまだ、売り上げから諸費用や人件費を払える状況ではないですし、やはり飲食業に対しては素人ですからどこまで運営できるかはこれからですね。でもそんなに大きなバジェットを必要とするプロジェクトではないので、はっきり言って200万円もあれば、事務局の人件費が払えなくても、一応施設自体のメンテナンスは可能。今シャワーを設置しようとして、途中でお金がつきて完成していないのですが、ある程度完成すれば、以後はそれほど大きい費用は必要ではないです。
事務局として必要なことはカフェやキュレーションスタッフで、その能力がある人間を雇うとなると、この倍くらいの予算が必要になりますけども。一人ではなくて2,3人、広報であるとか常に動ける人がいるとか、プログラム自体は細かく動けば動くほど中身の濃いものになるので、そこまでやるのだったらもうちょっと予算が必要だけれど、最低ラインでカットしていると、かなり小さい予算でも動かせる。そこが魅力ですね。

10 今はメセナの熟成期 インベーダーはつらい

今西彩子:助成を受けられたアサヒビールとはなにか繋がりがあったのですか?

嘉藤:アサヒ・アート・フェスティバルは2002年から始まっています。ご存じのようにアサヒビールは現代芸術のサポートを中心としていて、メセナという言葉が発生した時点から支援事業を手がけています。今度、武蔵美の研究室に献本する予定ですけれど『メセナ10年』というアサヒビールの支援事業を集大成した本が出来ましたから、それを参考にしてもらえれば、美術だけではなくて演劇、音楽、ダンスなど多岐にわたるプログラムをこれまでやってきたことがわかります。プログラム中心ですが、地域文化貢献といった部署がある。メセナ活動を、施設やプログラム対象からそれを支える地域や人といったサポート自体にシフトしようとしています。
メセナは企業理念と結びつく訳で、文化などいくら教育されても、実際には社員も家族を抱えているわけで、そういう人たちに納得してもらうためには、自分の住む環境もそうした文化で豊かになるということが必要で、自分の子供たちも享受しているという意識が生まれない限り、企業がわざわざやる必要はないということになる。今はそういうメセナの熟成期にあると思います。
去年は、正直言ってAAF実行委員会には呼ばれましたけれど、それもすごく曖昧な形の組織で、向島は曽我さんと私、曽我さんは組織を持っていても、私自身はまだその時点ではrice+を借りていませんでしたし、向島には関わっているけれども、住人でもなければ、場所を持っているわけでもなかった。今年初めて地域として参加したと言う形です。アサヒ・アート・フェスティバル自体も、札幌から沖縄まで全国で取り組みたいということで、沖縄の前島アートセンターが中心になって開催する「ワナキオ」プロジェクトは、私がお願いして助成に入れていただいたのですけど、アサヒビールとしても出来るだけ広い範囲に影響を与えたいわけです。
いわゆる現代美術、コンテンポラリーを中心にやっているという点では、アサヒビールは他の企業の中でも非常に大きいメセナで、公的資金に保護されないような、生まれたばかりの弱い組織を助けるためにやっている。アサヒビールは工場や本社が墨田区ですから、オルタナティブやNPOというところで向島は選ばれたのかもしれない。逆に住民から言えば、今まで無視されていたのに、何で突然支援を始めるのというジェラシーはありますよ。曽我さんなり私なり、ぽっと来て、ぽっとお金をもらったわけではないですけれど、街にとってはやはりインベーダーなわけでね。曽我さんはちょっと違うけれど、少なくとも私はそうですし、そういう意味ではインテグレートするのにかなり時間がかかります。4年目なのですけれど、地域からはまだまだ来たばっかりというとらえ方をされています。
武蔵美の芸術文化学科のアートマネージメントの授業で2年生には多少説明したのですが、アートヒストリーの中でアートがなぜ外に出て行くかということをまとめてみるとおもしろいと思う。当然ながら場とアートの関係がいろいろな形でシフトしていく。それは、タブローのフレームが無くなるとか台座がなくなるというのと同時に、ホワイトキューブという美術館環境が生まれ、インスタレーションなどに発展していく中で、ホワイトキューブ自体がフレームになっていくわけです。それでランドアート、アースワークみたいなフレーム自体を脱構築するサイトスペシフィックなアートが生まれる。つまり、川俣正とか、クリストとかのプロジェクトが生まれるわけですね。プロジェクト化は場とか環境だけの接点だけではなく、結局は地域であるわけで、川俣さんなんかもプロジェクト内でスタッフをいかに活用していくかという理念に発展していく。そのなかに、美術館内でも行われていることですけれども、現在のコミュニティ・アートとか、インタラクティブといった多様化するアートのあり方があるということも関係していると思います。

河野:きょうは大変長時間、ありがとうございました。

(テープ起こし:河野通義)


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