Cultre Power
art apace & alternative space 現代美術製作所/CONTEMPORARY ART FACTORY
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

曽我高明(現代製作所ディレクター)×岡部あおみ

学生:戸澤潤一、森田恵梨子
日時:2002年11月30日
場所:どこそこ

01 もとは「3チャン」の町工場

岡部あおみ:現代製作所の場所は、他のアートスペースと比べても特殊ですね。お父様の時代から、使われていたところだとお聞きしましたが。いわば、曽我さんの故郷というか。

曽我高明:いえ、祖父の時からです。大正10年ですか、だからもう80年を越えちゃったのですけれども。

岡部:そうですか。建物は修理なさっているのですか?

曽我:はい、戦後に建て直しました。まあ、昔の建築確認申請はいい加減で、工場の増築部分として多分工事をしているから、はっきりした書類などが残っていなくて。だから正確にこの建物が何時建ったのかは解りません。おそらく昭和30年の頭か、早くて20年の終わり頃ではあると思うのですが。まあ、戦後ちょっと経ってからですけどね。

岡部:その頃、この近辺は多少まだ戦災で焼け残っていたのですか?

曽我:いえ。この辺り(旧寺島町)は戦災に遭っていると思います。向島ではある特定の地域だけ、たとえば京島とかその辺は、焼けていないですね。戦後復興した時に、疎開していた人が戻ってきたりなんかして、もとのように戻ったということなのではないでしょうか。もちろん戦前と戦後では、住んでいる人がかなり変わっているということもあるようです。

岡部:ここの工場自体はどんな工場だったのですか?

曽我:ぼくのところは、ゴム関係のもの、具体的には電力会社の人たちが使う耐電性のあるプロテクター類を製造していました。手袋や長靴、電線を被覆するためのシールド類といったものを、主に生ゴムなどを原料に作っていて、東京電力や関西電力など全国九つの電力会社とそれに関連した電気工事会社などに納めていました。

岡部:今のアートスペースにしている場所が、その工場の空間だったわけですか?

曽我:ここではテープを作っていました。電気用のテープを作るため長いラインを敷いていて、20年以上前までは細々と現役でやっていたのですがね。実は今駐車場になっている場所が、もともと工場の建物がずらっと並んでいた場所なのですけれども、その工場を1980年代の始めに縮小した際、建物を一旦壊しまして、当時は事務所も駐車場側に古いのが建っていたので、移転する必要が生じた。でも、改めてビルを建てるようなお金が無かったものですから、じゃあ、有るものを使おうということで、これをそのまま直して、半分だけを事務所にしたのですね。

岡部:この地域には、住居よりも工場のほうがたくさんあったわけですか?

曽我:ええとね、ほとんどが町工場なんですよ。墨田区は今でも約五千軒ほどの工場があるそうですが、そのうちほとんどが、「3チャン」っていうのですか。おとうちゃん、おかあちゃん、それとお兄ちゃん、という感じの町工場で。表から見ると普通の家みたいですけれど、扉を開けると、中で工業用のミシンが動いていたり、ちょっとしたプレス機械があったり、そういうところがほとんどですね。だから、この辺りの路地をちょっと歩くと、家の中から機械の音が聞こえてきます。

岡部:去年、向島を回って歩くツアーで嘉藤笑子さんと歩いたときに、本当に一見、外は家に見えても、中に入ると、今でも機械がいっぱいある工場跡がありました。

曽我:ええ、そうなんです。この裏手の方にも結構いっぱいありますよ。

岡部:初めて現代美術製作所に来たとき、ちょっと道がわからなくて、地図を持っていなかったので、近くの八百屋さんに「現代美術製作所わかりますか?」と聞いたら、みんな知っていて、親切にすぐ教えてくれました。

曽我:(笑)もともと城東製作所で馴染みがあるので、たぶん解りやすいのでしょうね。工場だけは長いこと続いていたものですから。ただし祖父は、昭和16年頃に住まいを千葉県の市川市の方に移していました。ぼくの父も小学校時代はこの土地で育ちましたが、高校に入った頃にはすでに市川住まいだったそうです。それでぼく自身も、実はここに住んだことは一度もなかったのですね。最初は高田馬場におりまして、1980年代の終わり頃に市川に戻って、それからずっと住んでいます。だから、現代美術製作所にはずうっと通っているわけです。45分くらいですが、京成線に乗れば。


外観
Photo Aomi Okabe


現代美術製作所模型
Photo Aomi Okabe

02 はじめたきっかけは、前向きなことをやるため

岡部:ここのアートスペースを始めようと思われたきっかけ、それからそれ以前に、曽我さんがなさっていたことについてまず教えてください。

曽我:もともと、ぼくは日大の法学部に通っていました。まあ、ゆくゆくは家業を継ぐというか、自営の会社に入るので、そういう意味ではとりあえず法律も役に立つかなと。将来は経営者になるということが前提で、あまり疑いもなくそう考えて自然に生きていたのですけれども。しかし、やっぱり大学に入るといろいろな友達ができて、中には文学や芸術に強い興味を持っている奴とか、いろいろいるのですね。で、そんな連中とつきあって影響を受けているうちに、やっぱり、もう少し違うことがあるのではないかと思って。大学を出た後もいろいろと悩みました。その当時は高田馬場に住んでいましたし、近所の早稲田大学に美術史があると聞いて、美術が好きならば美術史をやってみたらって、誰かにそそのかされたのですね(笑)。それで、じゃあっていうことで学士入学したのです。第二文学部で授業は午後だし、別に仕事には障らないよと親を騙しまして(笑)、実は結構障るのですけれども、しかし、それほど仕事も忙しくなかったものですから、時々会社を休んでは通ってそのまま大学院まで行ったわけです。その間、父親が一時病気になったのをきっかけに、自分が代表取締役になったのが91年か92年かな。その頃には会社も随分と規模を小さくしていたのですけれども、一応名目上は社長ですからフルタイムで学芸員の仕事をするとか、そういうことは全く考えられなかった。だから、自分の所で何かできることを考えたのですね。工場自体はもう80年代にだいぶ縮小しましたので、物は作っていませんから、工場の地の不動産を活かしながら生活の資を稼ぐという、言ってみれば地主みたいな仕事ですから、あまり生活に発展性がない。やっぱりもっと前向きなこともやってみたいし、それに美術も好きでしたから。
ただ、現代美術はそんなに見ていたわけではないのですけれども、なにかそれに類した新しいことをという、漠然とした観念は持っていました。一方、ぼくには妹がおりまして、美大を出ているのですが、ちょうどギャラリーで働きたいと言い始めていたものですから、それじゃあ自分のところでやろうということに自然となったわけです。いちおうはギャラリーの場所もいろいろ探してみたのですが、やっぱり家賃が高いですし、まあ、自分の足元に良い場所があればそれを使うのが自然じゃないのかと考えて、都心からのアクセスは少々不便かも知れませんが、なんとかこの場所でやってみようと。佐賀町エキジビットスペースだってあんなに駅から離れているし、なんとかなるさと思ったり。元からある場所を直して使うというのは、全然抵抗がありませんでした。
そもそも最初に事務所に直していたわけですから。スペースも広いし、借りるよりは自前で作る方が安いと。もっともその頃は、一体どのような「ソフト」でやって行くかについては全く白紙の状態でした。とりあえず始めに「箱」を用意して、その「箱」にふさわしい「ソフト」のイメージが自然に広がって行ったように思います。オープンしたのは1997年です。ですから、大学院を出てから大分経っているわけです。出たのが、91年か92年くらいでしたので。

岡部:1991年に社長になった。

曽我:はい、そうです。院を出るか出ないかの頃に。それから、武蔵野美術大学で非常勤の仕事を始めたのもその頃で、92年くらいから通信科の仕事を受け持つようになって。96年から、4年制の方でも基礎デザイン学科でちょっとだけですが授業を受け持つことになりまして、現代美術製作所を始めたのはその翌年からですね。

岡部:武蔵美(ムサビ)に教えに行っていたのが、アートスペースやろうという何らかのきっかけになったのですか?

曽我:そうですね。実は、武蔵美に行くようになったきっかけを作ってくれたのは高見堅志郎先生(美術評論家、元武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン科主任教授)なのです。お亡くなりになりましたけれども、長いこと早稲田で教えていらしたのですね。もともとぼくを大学に誘ってくださったのが、高見さん。お亡くなりになる前に、いくつかアートスペースに関わっていらっしゃった。フジタヴァンテだとか、そこにぼくの友達が入ったのですが、結構面白そうなことをやっているので、ちょっと羨ましかったり(笑)。その後高見さんは宇都宮市美術館の創設に関わり、友人達も一緒に移動しましたから、美術館の仕事とはどのようなものか、やっぱり近くにそういう友達がいるから良く聞こえて来る。大学院で一緒に勉強していた人たちも、大抵はどこかの美術館に入っていて。ですから、なんとなく他人がやっていると自分もやってみたくなってしまいますよね。でも、自分は学芸員になって美術館で働いたり研究活動するという柄でもない。それほど勉強家ではありませんし。

03 オスカールとともに場づくり

岡部:一時的にでも、学芸員になりたいと思ったことはないのですか?

曽我:いや、さすがにね、なる気はなかったですね。家業があるし、とても片手間では無理だと思ったものですから。それに宮仕えの経験がないので、やはり辛そうだし、外で9時5時の仕事は自分には耐えられなくて死んじゃうかなと(笑)。ですから、自分のできる範囲でということですね。最初のうちはギャラリーというイメージも漠然としていて、何をするべきかまだはっきり解りませんでした。
ともあれスペースがあって、そこで何か楽しいことが起これば良いという程度に考えていて、身近な人の作品をささやかに展示しているのでもかまわないかなと思っていた。しかし大岩オスカール幸男氏と出会って影響を受けることでイメージが具体的になりました。彼とは、95年に横浜美術館のアートギャラリーで開催していた「フラワー」という個展の会場で、今は宇都宮美術館に務めている友人の浜崎君に紹介されて会ったのが、初めてなのですけれども、この建物を直すとき、どうしようかと相談していたら、オスカールがすぐ近所の北千住に住んでいるじゃないかという話になって、そうか、オスカールは建築もやっていたなと。それで、相談に乗ってもらおうと彼を呼んだのが97年の6月ですね。
すぐにやって来て、パッと会場を見て、「良いんじゃないかな」って。ただ、場所を作るのは簡単だけれども、何をやるのか、ソフトが一番大事だから、その話をしようと。それで彼とじっくり話をするようになって、ぼくも意識的にいろいろな作品を観たりアーティストに会ったりするうち、自分のスペースで何を見せたら良いのかと深く考えるようになりました。まあ、自然な流れで最初はオスカールの個展をやろうということになって。まずは半年ぐらいのスパンでオスカールの作品を見せて、その間にゆっくりと先々の方針を決めていけば良いのではないかなということで。スタート時点から、割とのんびりした感じでやっていたのですね。

岡部:ご自分ではそれまでは、アートディレクションなどはまったくご経験がなかったのですか?

曽我:全然ありません。アートには縁のない家庭に育ちまして。父親などはたまに、デパートなんかで怪しい版画を買ったりしていましたけれども(笑)、その程度で、ごく普通の家庭です。日常的にアートに接していた環境ではないですね。それと大学の頃に自分が好きで観ていたものも、どちらかと言うと、古い建物が好きで、戦前の西洋建築を見てまわったりだとか、赤瀬川さんたちのやっていた路上観察に興味を惹かれたりとか、あまりアートらしいアートは観ていない。もちろん時々は観ていましたけれども、それほど現代アートに真剣に付き合ってずっと観ているわけではなかったので、アーティストの名前も常識的な範囲でしか知らなかった。実は今でもそんなに知識がないのですけれども。ただ、今やなんとなく観るのが仕事っぽくなってきてしまいましたね。もともと観るのは嫌いではないですけれど。


大岩オスカール幸男個展「VIA CRUCIS」展示風景   
1997年 
Photo Aomi Okabe

04 昭和40年会:日本の現代アートは全然イケてる

岡部:作品を観ていく中で、だんだんご自分の好みも出てきましたか?

曽我:そうですね。好みがだんだんハッキリとして。幸いにして、ぼくと妹は、育った環境が同じせいか、かなり好みが似ている。ものの見方とか。それで、わりとこう、笑いのあるものが好きなんですよね(笑)、同時に都会的でポップな傾向の作品が気に入っている。ですからそうした傾向のアーティストたちとお付き合いしたり、作品を見る機会も多くなりましたね。昭和40年会のアーティストたちとの交流を通じて、見聞が広がったといっても良いと思っています。それから、97年の暮れ、その昭和40年会がスペインのバロセルナで最初の海外展を開いた。ぼくはそれを観に行ったのですよ。どんなものかしらと思って。若手の日本人アーティストが海外に行って、どんな反応があるのかなと。そのときに彼らと、初対面ではないですけれども、ほとんど初めてじっくりと人柄や作品に触れる機会が持てた。これは良い経験になりました。

岡部:何人ぐらいで行ったのですか?

曽我:全員で行きましたね。あのときの40年会で。ぼくは別の便で後からバルセロナに入ったのですけれども。会田誠、小沢剛、松蔭浩之、パルコキノシタ、それとオスカールの5人。その頃バルセロナに住んでいた浅岡あかねさんのお宅にお世話になって。

岡部:おもしろい人が入っていますね。昭和40年に生まれた人がつくった会ですよね。

曽我:その時には参加していませんが、現在は土佐正道、有馬純寿などもメンバーですね。本当に生々しい、東京で彼らがやっていることをそのまま海外で見せて、バルセロナの観客がすごく喜んでいる。その反応を目の当たりにして、都市の文化ってどこでも同じだなと思いました。日本の現代アートは全然イケてるじゃないかと。むしろ向こうで観た方が異様に面白い(笑)。なんだかすごく自信を持ったのですね。面白いし、楽しい。これで良いのならどんどん行こうという元気が出た。ぼくらが親しんできたメディアなどの世界を、ひとつの表現として見せて行くことは、やっぱり一番リアリティーがあると。都市の環境そのものが、表現のツールというか、ベースになる。それをきちんと見せてゆきたいと思ったのですね。

岡部:曽我さんご自身はいつお生まれなんですか?

曽我:昭和33年です。はい。だからぼくは1958年生まれなので、彼らよりはずっと年上なのです。

岡部:でも、最初から、世代を越えて、すごく共感するものがあったわけですね。

曽我:そうですね。自分は割と子供なものですから、あんまりそんなに違和感なかったのですけれども(笑)。いやいや、逆に40年会のメンバーがみんな大人だったわけで。ある意味では。見たことない世界ですからね。大変興味があって、ストレートに面白かったですね。そういう意味では、とても良い出会いだったと思います。オスカールを通じてそういう人たちと会えたというのも、とても幸運でした。

岡部:オスカールさんは、ある意味でアウトサイダーみたいなところもありますが。

曽我:彼がどこにも所属していなかったというのが、ぼくにはすごく良かったですね。ぼく自身も、いろいろしがらみのあるような関係は、面倒くさい方なもので。ある面では大学院のようなアカデミズムの世界もそうですね。面倒くさいなって。学会や何やらって(笑)。あまりそういうのが好きじゃなかったものですから。やっぱりアートは自由なものでしょう、って思うわけですよ。自分のポジションをしっかり認識しながら、どうやって社会に向けて自分の夢を出していくか、すごく真剣に考えていて、なおかつやりたいことをちゃんとやる。なかなか出来ないことですけれども、でも、オスカールの仕事を端で見ていて、そういう姿勢がとても勉強になりましたね。

岡部:オスカールさんにとっても、曽我さんとの出会いは、半年間もここで個展をできたりとか、そういう意味では、非常にラッキーだったのではないですか?

曽我:お互いに良かったのかもしれませんね。ひとつのステップになったのかもしれないですね。
現代美術製作所も、彼のおかげで随分いろいろな人に知ってもらったので。

岡部:最初から、世代は一緒でもまったく違う他の仲間たちと親しんでいる。日本だとどうしても大学の同期生とかで一緒になりがちだから、日本の環境からでて来た人とはちょっと違いますね。

曽我:そうなのですよ。芸大生とか、要するに美大生特有のネットワークがありますけれども、彼はブラジル出身で、最初から日本にまったく知り合いがいないわけだから、そういうネットワークを頼りに出来ない。だから日本の美術状況を一からリサーチして、方々ギャラリーを歩き回り、傾向と対策を考えたとかね、そういう経験をぼくらにすごく教えてくれた。もう親身になって。印刷物は作った方が良いよとか、プレスリリースは、月刊誌は三ヶ月前、週刊誌は一ヶ月前、新聞は2週間前に出して、その上DMとFAXもちゃんと送ってとか、それも個人名で送らなきゃダメとか、いちいち具体的で(笑)。プレスリリースの作り方は、こうやって書いて、こうこうこう・・・みたいに。「なーるほど」って(笑)。彼はそういうところは非常にしっかりしている。

岡部:珍しいですね。アートスペースのディレクターが、アーティストに指導を受けて、やりだすというのは(笑)。普通、逆でしょう。

曽我:逆ですよ。最初「ディレクター」って言葉を最初に言い出したのも彼ですし。ぼくなんか実感が無くて「ああ、そうなんだ。ディレクターねえ・・・」みたいな(笑)。とにかく、ロゴも作ろう、名刺も作った方が良い。FAXやパソコンも入れて、ちゃんとホームページも作った方が良いねって。だから、非常に彼は先進的ですよね。そのとき、ちょうどオスカールもパソコンを勉強していたのですよ。自分が面倒だから、全部こっちにやらせたのかも(笑)。ともかく「普段は、箱に合わせて自分の作品を作るのだけれども、作品に合わせて箱を作ったのは、これが初めてだ」って言っていました。
彼はいろいろと大きい作品を制作するし、様々な会場で展示を経験してきているけれど、多くのスペースで何かと不具合があるらしいのですね。公立のスペースで、とても良い壁なのに、なぜか分からないけど展示の邪魔になる中心に温度計が付いているとか、釘が打てなくてワイヤーで作品を吊さなければならないとか。そういうのは困ると。だから彼が自分の経験を生かして、製作所のスペースを考えてくれて。とにかくいろいろ参考になることばかりで。

岡部:すごい。いい勉強でしたね。

曽我:空間の作り方自体も、最初に彼はさっさと模型を作って来て、これが良い、と教えてくれた。ある意味、製作所のスペースは彼の作品なのかもしれないですね。大体、これで300万円くらい。事務所部分も入れると400万円で出来ました。自動車を一台買うくらいの予算です。6月の末に相談をして、7月にはスペースはもう完成していた。

岡部:オスカールさんは、最近、東北で病院空間の仕事をされているようですね。

曽我:ええ、インスタレーションをしています。確かあれは秋田の方のお医者さんが経営するグループホームですね。大体の設計ができていたのを、インテリア部分だけでなく、全体もかなり彼の意見を取り入れて変えたらしいですよね。

岡部:現代美術製作所が日本初のオスカール製アートスペース。

曽我:スペースとしてはかなりリーズナブルなやり方ですね。とにかく内装はペンキだけにして、床もフローリングなんか敷かない。コストをなるべくかけないようにして。「窓は?」って訊いたら、「窓はこのままで良いんじゃない?」って言うので、ガラスもひび割れたまま。なるべく、元の工場らしいイメージをはっきり残した方が良いと言うわけです。

岡部:そのほうが現代アートには本当にいい雰囲気になるし、しかもこうした空間は日本にはあまりない。

05 「無理・無駄・むら」のないポスト・バブル時代の運営

曽我:アピール度も高いですよね。だから、名前も妙な横文字にしないで、製作所で良いのじゃないか。それで二人で話しているうちに「じゃあ現代美術製作所かな」ってことになったのですね。

岡部:それで、実際に最初から、働いていらっしゃるのは妹さんが中心で、曽我さんはむしろ社長さんとして、全部の管理をする立場なのですか?

曽我:そうですね。基本的な方針はぼくが決めて、事務的な部分やWEBなどは主に妹が担当していますが、上下という関係ではありませんね。ぼくは放っておくといろいろな展覧会をどんどん入れてしまうので、そのストッパーとして妹がいてくれる。だからいつも二人で相談していますね。「こういう作家がいるのだけれど」という話をして、面白くて興味が湧くアーティストについては、大体二人の意見が一致することが多いですね。

岡部:妹さんとご意見が合わなくなるということは、全然ないのですか?

曽我:お金の件では結構いろいろあって、「予算をどうするの?全然足りないのに何を考えているの?」とか(笑)。ちゃんと予算ひっぱってこないとダメでしょう、とかいろいろ小言を言われるのですね。まあ、彼女がしっかりしてくれているので助かるんですよ、逆に言うとね。それで、あまり展覧会の数を増やさないようにと、つまり逆にぼくは入れちゃうものですから、やりたいのはいくらでもやりたいのですが、その数をある程度絞って、やはり企画は年にせいぜい2回とか限定したほうが良いものが出来るとか、彼女が言うものですから、お互いにあまり負担のかからないようにと、最近は彼女のアドバイスに従って回数を少なめに設定していますけれども。

岡部:ここの運営は、トントンでなんとかいっているのですか?基本的に持ち出しですか?

曽我:多いですね、持ち出しがねえ。これは悩ましい問題です。

岡部:もうメセナですね。

曽我:はい、もうメセナに近いですよね。ボランティアと言っても良いのかもしれないですけれども。まあ、好きだからしょうがないのですが。ただ、そうは言ってもやっぱり、趣味では終わらせたくはないのですね。それで、基本的にぼくたちがやる仕事の範囲というのも決めていまして、要するに展覧会の会場として、アーティストにはスペースを使ってもらうと。そのかわり、作品の搬入とか制作に関しては、彼らに全部持ってもらう。とにかくこのスペースを使う時間とそれから空間だけゆったりと取ってあるのと、あとはこちらの方でプレスリリースの制作・発送のような広報活動はやりましょうと。DMも、最近は送ってはいないのですけれども、でも作ることは作っています。2000枚まで印刷して、一応作家さんなどにお分けして、あといろいろな場所にある程度まとめて送ったりしています。
後はインターネットを使った告知なども行っています。ですからぼくの仕事は、アーティストを決めてどんな展覧会をやるかっていうことを考えて、展覧会のプレスリリースを出したところで、半分は終わっているという感じですね。残りの部分は、アーティストのする仕事です。とは言っても、搬入の際は現場での作業になります。そういう時はボランティアの人たちを集めて、ぼくらも一緒に制作する。そういうのは、大体展覧会に入る10日か一週間前ぐらい前からやるのですけれども、長くて一ヶ月かけることもあります。そういったマネージをずっとやるというのが、一応自分らの仕事だなと思っているのですが。そういうことに関してあんまり負担が出ないように、と言うのも、やっぱりこちらも経費を考えながらアーティストを選んでいますので、そういうことも含め、やはりアーティスト選定の時点から、どの程度の作品になりそうだということも、よく見極めた上で動いています。
そりゃあ、予算をいっぱい使って、メディア系のアーティストなんかとすごいこともいっぱいやりたいですよ。でも、お金をかければきりがないですから。そうではなくて、なるべくポスト・バブルの時代にふさわしいような方向を目指している。ぼくらお金のない時代にスタートしているのでね、もともとバブリーな感覚とは縁がない。「お金かけない、在庫しない、勘違いしない」という(笑)、なんと言うか、「無理・無駄・むら」のない、アーティスト共々お互いにあとで大変なことのないように、互いに血を流し合うのはやめましょうと、必要以上に無理はしないようにしています。ですので、まあ、それでも無理はしちゃうのですが、でも、最初からそれを抑えて出来るような人を選んでいるのと、それから製作所は、作品の在庫はできないですし。もちろん展覧会の時には売らせていただきますけれども、しかしそれをじゃあ、ずっと後まで、マネージできるかというと、それだけの余力はない。あらかじめそういう諸々の事情を理解してねと言って、それを解ってくれたアーティストだけと仕事をしています。
でもそのかわり、こうやって岡部さんにしてもそうですけれども、いろいろな方にみえていただけるようになったので、関係者に観ていただく機会はぼくらもなるべく提供するし、そういう場として十二分に活用してくださいと。ささやかですが、そうしたことをメリットとして理解してくれて、なおかつぼくたちが好きだなと思うようなアーティストであるということ。あとは、やっぱり半年間なり、長くて一年ぐらい、ゆっくりと打ち合わせをしながら準備することも多いので、その間、一緒に気持ち良く仕事ができるのかどうかということも重要ですね。

岡部:オファーはたくさん来ますか?やりたい人とか?だんだん増えてきました?

曽我:プレゼンテーションは、幸いにしていろいろ、もとから結構ありました。一時期、99年から2000年にかけて、展覧会の多かった時期があって、たくさんオファーもありました。でも最近は、ぼくらが展覧会を絞っているということを知っているものですから、少なくはなりましたけれども、それでも月に一人か二人は。ぼくは、大々的にさあどうぞなんて言っているわけではないのですけれども、会いたいという方がいるのであれば、なるべくお話を伺うようにしています。なにぶん展覧会の数が限られているので、という話をすると、みなさん事情は良く理解してくれます。でもオファーということではなくても、ただ話を聞いてもらいたい人も多いのですね。そういう意味でも彼らの話を聞くことは大事なことだなと思うのですけれども。

岡部:基本的に、オルタナティブスペースと言っていいのですか?貸すことないのですか?

曽我:オルタナティブスペースですね。でも、こういうARCU曽我 Pr岡部ject東京展などは、借りて頂いていますよ。富士ゼロックスのART BY XER岡部Xが主催する企画展の場合もそうです。ゼロックスの場合は知り合いのアーティストが多く参加しているし、やっぱり面白い。お貸ししているのはゼロックスとアーカスだけですね、いまのところは。
アート系に関しては、基本的には貸さないことにしているのです。ただ、ぼくもアーカスだから展覧会を開いているわけで、やはりコンテンポラリーで面白いことをやっていなければね。いわゆる公募団体系だとか、最初からひとつのパッケージになってしまっているというものではなくて、チャレンジングなもので、なおかつぼくたちの肌合いに合うものだったら、製作所を使っていただいて、その収益をまた製作所の活動に投入する。だから、そういった意味では逆に、彼らから製作所を支援していただいていると思っているのですけれども。

06 アーティスト・イン・レジデンスが増えた

岡部:佐賀町エキジビットスペースが元気だった頃、多少活動をごらんになっているのですか?

曽我:ちょっとは観ています。一番最初の頃に行ったとき、上の階の展覧会で入場料を500円払うと、半券をもらって、下のカフェでコーヒーが飲めたのですね。あのカフェがカッコ良くてね。あそこはその当時一種のデートスポットだった。それから80年代のバブルに入る直前に、あそこら辺から茅場町とかあの辺りにかけて、いろいろなアートスポットができて、アーティストがひそかにビルを借りたりなんかしていましたよね。なんだかちょっと面白いことになりかけていた。でも、あれから一気に不動産バブルが起きて、全部無くなってしまって、結局佐賀町ぐらいしか残らなかったですね。
とても面白い時期を垣間見ているものですから、ああいうのがもうちょっと続いたら良かったのにと思っていたのですが。しかし今は不景気になって、かえって面白い場所が増えている(笑)。アーティストが始めるケースも多いようですし、たとえば川口の方なんかでも、川口アートファクトリーという、つい最近ぼくと同世代でアートスペースを始めた方がいて、これは元鋳物工場です。レジデンスというか、アトリエ兼展示場所になっていますけれども、ここもなかなか良い味のあるスペースですよ。川口はまだスペースがあるので、これから他にもいろいろと出てくる可能性がまだあります。。

岡部:曽我さんもレジデンスをはじめられるとお聞きしましたが。

曽我:うちはギャラリーのある敷地の隣に実はアパートがありまして、そのうちの一室、105号室はいちおうレジデンス用になっています。1部屋丸ごとに確保していて、家具も全部置いてあるのです。去年の秋から始めて、ちょうど一年になるのですけれども、最初はベルギーのアントワープから来たキュレーターのロナルドさんという方が奥さんと一緒に滞在して、その後は、現代美術館でQU岡部B岡部展に出していた、ニナとマロアンというベルリンのアーティストのカップル。2ヶ月か3ヶ月くらい居たかな。彼らは向島が気に入って、全体で半年もいたのですよ。その後が、フランス人のフィリップ・メストという作家、これはフランス大使館の文化部の方から紹介を受けて、夏の間2ヶ月滞在しまして、その後はこの前スペイン人の方が一人、I曽我EAに出品するアーティストですけれども、2週間ほど滞在していました。今年はそれだけです。スポット的に、1ヶ月以上の滞在であれば、使っていただけるという形にしてあります。もちろんこれは仕事なので料金はいただきますけれども。でも、東京では短期で作家さんがアパートを借りるのはなかなか難しい状況なので、それを誰かが代わりに保証人になってくれるのであれば、簡単な契約は交わしますが、一応形式的にそうやっていだだけるなら、他のアパートと同じ賃料で貸し出ししています。

岡部:大体どれくらいで借りられるのですか?

曽我:1ヶ月9万円です。それ以外に、例えば貸し布団のような費用は実費で払っていただきます。それから水道光熱通信費に関しても実費でお支払いいただいています。こうした経費は請求が後から回ってくるので、大体の目安で先払いしていただくことも多いです。まあ、あとは要相談ですね。

岡部:海外から日本に来た人が滞在場所を見つけるのは本当に大変です。保証人とかいろいろ必要なことがあり、大家さんのなかには外国人は苦手だったりしてアパートを見つけるのが大変です。

曽我:いろいろ面倒くさいのですよね。半年とか3ヶ月で出ちゃうとなると、なかなか厳しいみたいですよね。マンスリーマンションもあるのですけれども、カップルで滞在するには少々狭かったりするみたいで。

岡部:ここのレジデンスは広いのですか?

曽我:2DKなので、一応二人で生活が充分にできます。あと、彼らの友達が遊びに来たりすることもあって、そうすると宿みたいになってくるのですね。だから、外国人アーティストが滞在していれば、この近辺もいろいろアートに関わる人が増えてきたので、そういった人たちとも自然にコミュニケーションができて。若い人たちは昨年ぐらいから徐々に増えていて、もうすでに20人を越えました。

岡部:もうこの辺に住みはじめているんですね。一種のアーティストビレッジだ!向島のツアーでも、7軒回ったのですが、みんなそれぞれユニークなかたちで住んでいた。建築系の人が移り住んできたケースとか、京島の方では、女性3人で木造の家を借りて住んでいたし、嘉藤笑子さんも最近一軒借りましたね。

曽我:京島です。曳舟から歩いて7〜8分のところです。ここから歩くと、15分ぐらいですかね。それから、あと地蔵坂通り商店街の近くにも3軒くらいありますし、八広の方にも2軒あります。期間限定ですが、東海大の学生が1軒借りていて、あとは北川貴好君がいます。

07 向島アートコミュニティ誕生

岡部:一種のアート・コミュニティができつつあるということですね。

曽我:出来てきましたね、なぜか。地域の人たちによる、まちづくり活動などとの連携も後押しになっていますね。向島っていうのは、意外に広いのですけれども、たとえば京島、八広、それからこの地域、東向島地域などは、町会レベルでは別々なのですが、まちづくり活動としては人的につながっている。20年ほど前から、まずは防災系のまちづくり運動が起きて、その段階で建築系の人たちが入っていて、そういう古くからの流れと最近のアート系の活動がリンクしているので、かなり重層的に人間関係ができあがっています。また、インターネットのおかげで、互いにメールのやり取りをしていると、自然とネットワークが広がってきたという感じですね。だから、ベースの部分にまちづくりがあって、その上にアートが乗っかってきましたが、今ではそれらが渾然一体としている感じですね。
今年の夏は慶応大学と東海大学、それから千葉大、早稲田、それから大阪外大にあともうひとつ、なぜか大学のゼミが六つも向島にリサーチに来ていまして、合同で発表会をやったら100人ぐらい集まった(笑)。一寺言問い地域のまちづくり集会所というのがあるのですが、そこでやっていました。

岡部:100人ってなかなかの関心度ですね。

曽我:そうですね。たくさんお客を集めましたね。学生たちも含めて。それから、この間慶應大学はアーティスト・イン・レジデンスのプロジェクトをやっていて、それは、別の場所で発表していましたけれども。「アーティスト・イン・空き家」(http://www.ky岡部jima.walk.t岡部/)というタイトルですね。この辺りでは新たに移り住んできた人による空き家の活用ケースがたくさんあって、その辺りに刺激されて展開したプロジェクトみたいですね。これも一種のまちづくり系の活動でしょうか。
嘉藤さんの場合は場所を提供したのですね。彼女は去年から向島で企画としてアーティスト・イン・レジデンス活動を始めていて、最初は北欧から岡部K T岡部KY岡部という3人組のアートユニットを呼んで滞在させていました。レジデンス用に元お米屋さんの建物を借りたのは今年からですが。今は慶応大学の熊倉ゼミの学生が入っていまして、今日までカフェをやっているはずです。彼らの終わった後はレジデンス活動を開始して、来年の12月までにもう4人の滞在者が決まっているそうです。

岡部:やはり申し込みが多いのですね。

曽我:あるのですね。向島アーティスト・イン・レジデンスという名称で、もうすでに、実は国際交流基金のレジデンスのリストにも名前が登録されちゃっていて、各国のアーティストから次々にアクセスが来るので、本格的にやらざるを得なくなっちゃったみたいですが(笑)、だけどまあ、ひとつ拠点ができると・・・。

岡部:ティトス先生の借りていらっしゃる家屋は今後はどうなるのでしょう?

曽我:ティトスのところは、実は来年の3月までなので、この先どうなるのか、まだ解らない(その後さらに2年間の更新が決まった)。でも、もしかしたら、借りたいという人はまだまだいまして、継続する可能性もあります。そうすると、あそこがずっと残っていて、製作所の105号室があって、それから今度、ロジャー・マクドナルドがAITのプロジェクトとしてこの近くでレジデンスを始めるようですから。

岡部:そうですね。あそこも墨田でした。

曽我:もろに墨田。アーティストがまとまって住んでいる場所とは目と鼻の先です。ここか歩いて10分ぐらいですね。あの人のお母さんの実家が、墨田区で幼稚園を経営されていて。その幼稚園の上階がマンションになっていて。とてもロケーションが良くて、両国橋まで、ずっと通して見られるのですよ(笑)。今年の夏に見た花火はものすごかったですよ!屋上から見たのだけれども。そのマンションの6階に2部屋。最初イギリスからのレジデンスアーティストと、それからもう一人、ロジャーの弟が滞在していた。今は出たのかな?2人いたから。そこが空いたからレジデンス用に使えるようですね。

岡部:おもしろいですね。

曽我:それ以外にも、向島のまち自体でもゲストハウスを作ろうという構想がありまして、空き家を一軒改装して、建築科の学生などがリサーチに来るときに滞在できるゲストハウスを作ろうと。最低40万円くらいかければ直せるらしいし、今、一カ所作家のアトリエになっているところを直す予定もあります。

岡部:外国人やおもしろいアーティストたちが、ちょこちょこ出入りする界隈になったら、ここのアートスペースや活動も活気がよりでてきますね。

曽我:そうなのですよね。実際去年の今頃は、向島界隈に外国人アーティストが10人ぐらい滞在していた。本当に多かったですね。今は20人ぐらいが住んでます。

岡部:みなさん個性的なおもしろい住み方していますし。

曽我:そうですね。また渡辺慎二さんっていう人が凝り性で、あれからもう一回長屋をリニューアルして。すごく良くできています。かなりお金がかかっていますね。

岡部:この地域がアートコミュニティみたいな感じで発展し広がってゆくという展望のもとで、今後考えられている方向性とはどんなものなのでしょう?

曽我:製作所は5年目なのです、今年でちょうど。97年の10月にスタートしましたから、この前のライカ同盟展の時がちょうど五周年。3年から4年目で地域との関係性が生まれれば良いかなって思っていたものですから。やっぱり、最初の頃は地域性というのはあまり意識しなかったのです。というのも地元とベタに関わると何かと大変なのですね。ご近所付き合いが、けっこう濃いまちですから。あまり近いとご近所関係も辛くなると。うちだって長年仕事をやっていますから、いろいろなことがあります。ですから、あまりベタなご近所に、実は今度アートをやっているんですよ、良いことやっていますので来てくださいね、なんて、いかにも偽善的というか、そうやって近づいて行くのは嫌じゃないですか。そういう付き合いはしたくないと。
ただ、なおかつ、自分の活動がこの地域になんらかの影響を与えられたらとは思う。まちに新たな活力を与えるには、もっと外から人に来てもらうべきだし、この場所で発信力のあるものを見せることで、外から人をいやおうなく惹きつけることができるだろうと。アートって、そういうメディアになってくれるのじゃないかと思って始めた部分もあるのですね。大きく町を変えようという意識はないけれど、でも向島までお客を引っ張ってくるためにはやっぱり努力はしなくてはいけない。地元の人にいくら直に呼びかけたって、展覧会に来ないのだけど、例えば一瞬でもテレビに出ると、「出てたね」ってやって来るのですね(笑)。これもね、人間の性です。つまり、近くの人に訴えかけるためにも、メディアを通さなくちゃダメなのです。大きなメディアという鏡に映さないと、地元にたいして何も広報が行き届かないのですね。新聞とかテレビに出ただけでね、すぐご近所の反応がある。いままで知らん顔していたのに。でも、そういうものなのですよ。それで良いと思っているのですね。

岡部:テレビにずいぶん取り上げられたのですか?

曽我:そうですね。随分、おかげさまで。B曽我系が多いのですけれども。フジテレビも何回か。それからNHKなどのニュースに流れたこともあって、夕方のニュースはかなりインパクトがあるみたいで。地元のC曽我番組にも出たりとか。

岡部:地域の人って、そういうのを見るわけですね。ニュースにもなったのですか?

曽我:最近はまちづくり関係の話題で取り上げられたりするのが多かったですね。あとは町工場を改造してギャラリーをやっているというので、そうしたスペースをまとめて紹介したような記事で、そのひとつとして出たこともあります。なので、そうした社会面的なテーマでは取り上げやすかったのですね。まあ時代が、景気も下降線を辿っている時期でもあったので、なにか少しでも元気のある話を求めていたのだと思うのですけれども。メディアとしてもストーリーが作りやすかったのでしょう。こちらとしてはそれに乗っかろうということで。

岡部:これまでの発展形態からいうと、スペースはずっとキープして運営を続けるご予定ですね。

曽我:そうです。地域との関係というものは自分の活動の最後に来るものだと思っていたのですね。だから今ようやく、そういう意味では、地元との関わりを、真剣にというほどではないけれども、ゆるゆると関係性を作る時期にきたのかなと。ただ、それもやはり、自分だけ頑張ってやっていても点に過ぎませんから、点ではダメだと思ったのです。いくつかスポットができて、線になって、面にならなけりゃいけないって言っていたので、やっとそれが出来てきた。やっぱり、インフラって言うほどでもないけれども、いくつか点ができているのですね。もうひとつ、住み込んでいるという意味で、住民になっているからアーティストの存在感が違うのですね。そうすると、地元に対するインフォメーションも地域に住み始めたアーティストを介した方が早く伝わるのですよ。そういった意味では浸透力が出てきているし、お互いにメリットが出ている。だから、そういう相乗効果が出てきたことで、向島というまちが、よりアートの身近に感じられる場所になってくれればなあと思っているのですけれどもねえ。ではそこから何が起こるか、これは考えてもはっきりとは分からない、と言うのもあまり実例がないのですから。アートで、気軽にまちづくりが出来るなんて、ぼくは決して簡単に思ってはいないし、実際は厳しいですよね。一般の人は、普段は全くアートなんて関係ないわけですから。だけど、作家が身近に住んでいて何かやっていると、自然に慣れてもらえるっていうのはあるのですね。まあ、まず慣れてもらうしかないですね。普段からいろいろやっていると、ちょっと見に来たり、なんだか解らないながらも面白そうね、くらいは言ってもらえる。そういう感じになってくれれば良いかなと。理解者が自然と増えてくれることを期待していますけれども。

08 墨田・足立・江東区住民が多く来る

岡部:一般の人たち、まあご近所の人も含めてですけれども、学生が多いと思うのですが、だいたいどのくらい展覧会を観に来るのですか?

曽我:製作所のメーリングリストでみると、半分は墨田、足立、江東あたりの住民ですね。

岡部:やっぱり近くの人が多いのですね。

曽我:はい、多いですね。今まで知らなかったけれども、新聞で読んで、意外に近くだから来てみましたっていう人も多いですね。この間のライカ同盟なんかでもそうですが、展覧会をやるたびに、観客の系統が違いますから、写真だったら写真好きの人が来たり、それからペインティングならペインティングに関心がある人が来るとか、それぞれ違うので、いろいろなジャンルの展示をやらないと、いろいろな人も集まらないし、混ざらないですね。なので、ぼく自身も固定させないで、ジャンルはなるべくバラけさせる。
あるいは、同時にいろいろなものを混ぜてみることで、いろいろな人が関わってくれます。建築系も入れる。それから写真も、パフォーマンスもある。それから、展覧会の期間中にワークショップなりレクチャーなりを入れる。会期の長い場合、ダレそうな所や中だるみしそうな所に適当にイベントを入れる。そうやってメリハリをつけてみたり、いろんな人が関われるように、雑多な要素を入れておくということが、ここに人を来させるひとつの方法かな。向島の特徴として雑多さというものがあるのですね。まちそのものが、住んでいるアーティストも様々ですけれど、まち自体にもともとそういう雑多な魅力があるので、そうした意味では、東京の中でも異色だな、面白い場所だなと思うのですけれどもね。

岡部:年間どのくらい来場者があるのですか?

曽我:最大に来た年で約3000人です。大した数じゃないです。1回の展覧会で、多い時でも1000人。少なくて500人。もうちょっと少ない時もあるかな。300人っていう時もあるし、短期でやるときはね。そんなものです。銀座だったら1週間でそのぐらいの人数が来るのでしょうけれどもね。ぼくらは週末に開けていてもその程度です。500人が平均でしょうか。

岡部:平均どのぐらいの期間、開催しているのですか?

曽我:長い場合で、1ヶ月くらいですね。1ヵ月半っていう場合もあります。2ヶ月以上は、最初のオスカールの個展の時はかなり長かったのですけれども、最近はあまり長くやっても効果がないということが解ったので、1ヶ月からせいぜい1ヶ月半程度の会期にしています。短いので三週間というのもあります。今回のアーカスの展覧会は先方の都合で2週間ですし、ライカ同盟展は3週間でした。一番入場者の多かったのが昭和40年会展で、その時は1000人来ましたね。それを越えるものはなかなかないですね、さすがに。

岡部:年間では、何本ぐらいの展覧会になりますか?

曽我:ええとね・・、これは最大やったときが8本で、今はそんなに企画展をやっていません。ぼくたちは基本的に企画は年に2本と考えています。それ以外には、アーカス展のような外の企画ですね。やっぱり自分の懐で全ての展覧会をまかなうのは大変ですし、それなら外部の企画でも面白いものを1本入れようということになって来ます。なんだかんだと、結局今年も合計で5本になりました。来年はどうなるのか分からないのですけれども、これ以外にもアサヒアートフェスティバルのお手伝をしたり、それからパルコキノシタや新川貴詩さんたちとゲリラパフォーマンスやトークショーをやったりとか、荒川モード(荒川モード・プロジェクト)と称して、製作所と別のグループが一緒になって、荒川の河川敷で行ったプロジェクトもあったのですが、そんな具合に外側でも企画をやったりするので、いろいろやっているうちにすぐに時間が経ってしまう。そんなわけで年間5本も出来れば本当に十分で、2、3本でもぼくらは良いと思っているのです。

09 カタログ作りまでの協力は無理

岡部:2本の企画の場合、アーティストには無料でここを提供するかわりに、搬入・設置などは彼らが率先してやるわけですね?

曽我:ここに来て制作しなけりゃいけないものが結構あるのですよ。インスタレーションの場合は本当に会場制作ですから、そうすると、例えば加藤勇などの場合には、1ヶ月丸々かけて、ここでボランティアと一緒にコツコツとこしらえました。これは真冬の、正月から2月にかけて何も展覧会のない時期だったので、そうやって使ってもらうことができたわけです。機材などは貸しますけれども、「作るのは全部自分でやってね」っていう感じで、制作にはお金は出せないですね(笑)。サポートを取ったり、本当はもっと頑張らねばならないのですが、なかなかぼくたちもそこまで手が回らない。ただ、この間三田村光土里の個展をやった時には、千葉由美子さんたちと実行委員会を立ち上げて、アサヒビールや資生堂から助成をいただきましたが、それくらいですね。

岡部:最近はそうした実行委員会を作って積極的に活動できる人がいれば、ファンドレージングもしやすくなってはきましたね。かなり前に企画書を書いて提出するとか、時間はかかりますが。

曽我:ただ、なかなかぼくらもね、直前になって展覧会を入れたりすることがあるじゃないですか、すると対応できない。また、いくら1年前に企画を決めたとしても、お金をもらえるかどうかも分からないのに、大きな企画を立ててやるのもなかなか難しい。助成の申請は先に出しておくことが筋なのでしょけれども、面倒くさがりというのもあって、なかなか遅いのですね。で、結局ギリギリになってしまうケースが多いので。

岡部:展覧会の会期中は、曽我さんのほうで全部メンテなどをなさるのですね。

曽我:やります。会期中作家さんが会場に来れなくても、展覧会は成り立つようにしています。もちろん当然面倒をみなくてはいけないものがありますよね。機材なども必ず壊れてしまうものがあって、それはしょうがないけれども、それ以外のことだったら、開いて閉めるまでは全部面倒をみるということでやっていますので。

岡部:展覧会の図録とか、記録集など、出版物までは無理でしょうか。

曽我:そうですね。印刷物に関してはやっぱりちょっと難しい。DM以外のものに関しては、どこかで・・・。

岡部:どこかから自分でファンドレージングしてくると?

曽我:一緒に協力してやったりするつもりですけれども、良いものを作るのであれば、それなりの準備が必要ですよね。アーティストが自分でやると、作品が制作できなくなってしまうのですね、みんなね、必ず。なかなかカタログまではいかない。印刷物って作るのが結構大変ですね。これはこれでひとつの仕事になるので、本当は自分の課題として、パンフレットなどの印刷物もちゃんと作るということが大事だと常々思ってはいるのですけれども。やっぱりお金がかかるので、ついつい悩んでしまうのですね。

岡部:そうですね。そんなに販売できるわけでもないし。作家にとってはとても大事ですが。

曽我:まあ企画展の記録として何かを残すというと、そういったものしかないので、本当はパンフレットみたいのが作れるのがベストなのですけれども。さすがにそこまではぼくらも余裕がないです。DMは作っていて、そんなにたいした量じゃないので。毎回、松蔭浩之さんにデザインを御願いしてぼくらで作ります。2000枚印刷して。ただ、最近はDMの発送はアーティストに任せています。一時期、毎回2000枚発送していたのですね。これはかなり大変でして(笑)。この費用を負担するのは、ちょっとしんどいということで止めました。ですから、最近はアーティストに渡しています。もちろん製作所からもまとめて美術館に送ったり、NADiffのようなショップやギャラリーなどにまとめて置いてもらうようにしています。それはボランティアにも動いてもらって、置いてもらったりとか。でも、インターネットのみの告知に切り替えてからも、入場者数が減ったかというとそうではなくて、別段変わらないのですね。解ってしまったんですよ、それが。DMはもちろん大切ですけれども、DMがなくても人は来るのです。ただ、やはり紙メディアの欲しい人がいる。そのために作っているのですね。でもインターネットで、全然岡部Kですね。

岡部:若い人が多いから、みんなパソコン持っていて、検索しますから。

曽我:まあ、先ほども言ったように、雑多な人を引き込むために、やっぱり何か他にもメディアを使う必要がある。ということで、DMもちょっとは作っておいて、地図を持って初めて来る人も大切ですから、そういう人たちのために。DMのおかげで偶然に来る人もいるので、そうした出会いもやはり大事にしたいですから。常にクローズではなくて、なるべくいろいろなメディアがあったほうが本当は良いですね。紙のメディアも、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションももちろん大事ですし。

10 最初に相手ありきの作家選択

岡部:昭和40年会の作家たちが好きなのですか?

曽我:というか、なにか自分の中で物を考えるときのモデルになりましたね。というのも、彼らはバルセロナでやった展覧会では、パフォーマンスあり、インスタレーションあり、写真あり、ペインティングありというように、多角的なメディア展開をしていたでしょう。だから、そういう雑多性みたいなものは、自分の中に引きずりましたね。あとはだから、そうした表現の持つ批評性などがすごく大事だと思いました。現代美術の作品は批評性がなくては面白くない。辛口なものがどこかに入っていることがとても大事だと思っていますね。

岡部:作家を選ぶときのご自分のコンセプトはどんなものですか。

曽我:ゆるくて甘いコンセプトですけれどもね。後は自分自身のいろいろ考えていることなどあるのですが、その辺については、ぼくはこう思っているからっていうのは言わないようにしているのです。むしろ相手から、相手の考えていることを良く聞いて、「あ、それは面白い」って思えたときに、始めるという感じで。だから、最初に相手ありきですね。もちろんケース・バイ・ケースです、これは本当に。話を聞いただけでは解らなかったけれど、作品を見て、ああそうなんだ、と納得してしまう場合がありますし。もちろんその反対もあって、作品を見てもうひとつピンと来なかったのが、説明を聞いて面白いと納得する場合もある。だからこれと言った決め手はないですね。自分が選んだアーティストよりも良いアーティストが後からプレゼン来たらどうするの?って訊かれることがありますが、それは自分が選んだ人を信じてやるしかないでしょうって答えているのですけれどもね。そういうものですからね。

岡部:一回選んで、やっていただいた方には、また2年後とかにお願いするとか?

曽我:そうですね。やっぱり、また機会があればぜひやりたいと思っています。展覧会の数を絞っているので、なかなか回転が悪いのですが、BE曽我T12展の時のようにまとめて紹介したりとか、グループショーを組んでみるとか、どこかで調整してやっていきたいと思っています。何年に一度は、どこかでお互いに都合をつけながら、おつきあいを続けてゆくという作業は必要だと思います。それと、彼らが他で展覧会をやっているのを耳にしたら、何をやっているかっていうのはフォローしていますね。

岡部:ここで開催した企画展で、作品が売れたことはあるのですか?

曽我:えーとね、展覧会的に収支がトントンになったのはオスカールが初めてなのですけれども、99年の末にやったオスカールの展覧会では、ペインティングはあまり売れなかった、もちろん大きいですから売れっこなかったのですが、版画がけっこう出まして、4、50万円ほど売れたのです。大した額ではありませんけれど。

岡部:彼の絵画やドローイングは完成度が高いしコンセプトがとてもおもしろくて深いですから。

曽我:はい。おかげで、その分で展覧会にかけた費用が回収できて、初めてトントンだ!って言って2人で喜んだ。トントンっていうのも寂しいですが。でもまあ、展覧会的には損がなかったのですね。でも、最近はアサヒの仕事で鳥光桃代さんの企画展に関わったように、外の仕事をお引き受けしたり、それからスペースもアート系以外の利用であれば貸しているのです。例えば写真スタジオのようにしてコマーシャル・フィルムを撮ったり、演劇やパフォーマンスの公演だったり、全然違うタイプだけれどコンテンポラリーなもの、そういうジャンル違いであれば、貸しているので、そうした収益も少しは上がってきたりしますから、やっぱりお金は稼いでいますよ。それをまた製作所に投入するっていう感じで。

岡部:アートスペースには予算投入という一方通行ばかりでは、ちょっとつらいところがありますね(笑)

曽我:ええ(笑)もう右から左に出て行くので、自転車操業。それでも去年は、ギャラリーだけで見たら黒字になりました。初めて。別に作品を売って稼いでいるわけじゃないのですけれども、あとは本を売ったり、ちょっとした物販もありますしね。売れると嬉しいです。だから、売るってことは一応コンセプトに入っているのでけれども。

岡部:ただ、売るために企画展をやるわけではないから、そこが違うのですね。

曽我:やっぱそこが、小山登美夫さんみたいにねえ、商売上手だったら良かったのですけれども、さすがに。

岡部:難しいところですよね。完璧にビジネスとしてやる方法とは違いますから。バランスとか線引きとかが。

曽我:ギャラリー経営はもっともっと厳しい世界ですからね。でもオスカールには随分言われていて、曽我さん次のステップにいくのなら、売ることを考えなくてはいけないし、ニューヨークに来て、いろいろ動かなきゃだめねって言われていて、そうか、じゃあなにか小さなアートフェアにでも出してみる?なんて話もしているけれど、それは遠い先の話ですね。

11 無形の資産のための投資

岡部:個人でオルタナティブスペースをやるのも本当に難しいですよね。

曽我:自分のスペースが有ったからできるようなもので、なかったらぼくはできない。だから、スペースがあってこそ勉強ができたので、これを回していると解ってくるのですよね。なにか不思議なことに。場があったから勉強できたので、場がないところで、最初から自分で立ち上げるなんて、とてもみなさん偉いなと思います。ぼくの大学時代などはまだキュレーターなんていう言葉はないですし、学芸員って言葉すらあまり聞かなかった。20歳ぐらいの時ね。だから、そういう職業って自分の中で、特別にスポットを当てて考えたことがないのですね。今になって逆に、雑多なことがいろいろあった上で、こういう仕事をやっているけれど、最初からそれを目指してやっている人は偉いなって思ったりするのですね。大変ですもの、実際。

岡部:まあ、ギャラリストの方も、ご家族に持ちビルがあるとか、恵まれた環境から出発している人も多いですし、そうじゃないと家賃の高い東京ではとても大変、まったくべつのそれこそ厳しいビジネス展開の戦略を練らねばなりません。銀座なんかで開いたら、不況になったら二重三重苦で、続けられなくなってしまいますよね。

曽我:だから、あまり血を流すのはやめましょうというのが、ぼくの意見なのですけれども。無理しない、というのが最初スタートした時の前提だったので、やっぱり自分のスペースで始めたわけです。

岡部:それで、アーティスト・イン・レジデンスもできて、それも含めて黒字ということですか?

曽我:アーティスト・イン・レジデンスは切り離して考えていますけれどもね。現代美術製作所の本体は有限会社曽我商会という会社になっているのです。それでレジデンスのあるアパートの方は株式会社城東製作所株式です。曽我商会の方は定款を変えて、ギャラリーも出来るようにしたのです。やはり一応は会社形態になっている方が、企業などと取引する時なども都合が良いですから。なので、経理上は会社全体と言うより、ギャラリーの部分として黒字になったということです。とりあえずは赤字を出さないようにはね、もっていければ。ただ別にぼくたちは、この仕事から給料を稼いでいるわけではないので。

岡部:そうですよね。それを入れたら赤字になる・・・

曽我:赤字になる。だから、人件費は別ですけれども。

岡部:メセナですね。

曽我:そうですね。でも無形の資産、いわゆるネットワークのようなものが圧倒的に増えてきているので、それがいつか回りまわって、自分たちのいろいろなところに、活きて来るのじゃあないかなって思っていて、だから今は投資をしていると考えていますけれども。ぼくはね。

岡部:きょうは長い間ありがとうございました。

(テープ起こし担当:戸澤 潤一)


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