culture power
artist 柳幸典/Yanagi Yukinori

柳幸典氏
©Yukinori Yanagi

contents

01
02
03
04
05
06
07
08









Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

インタヴュー

柳幸典(アーティスト)×岡部あおみ

日時:2007年8月8日
場所:広島市立大学芸術学部現代表現領域研究室

01 イエール大学とアート

岡部あおみ:柳さんはアメリカに比較的長くいらっしゃったのですよね。

柳幸典:そうですね。武蔵野美術大学の大学院を卒業してから3年ほど日本で作家活動をしていたのですが、そのまま続けていくことに限界を感じて、イエール大学の大学院に留学しました。

岡部:すごいですね。芸術家でイエール大学の大学院を出た人はあまりいないでしょう。

柳:日本人のアーティストだと、芸大の先端にいらっしゃるたほりつこさんも卒業生なんです。僕が行ったイエールの彫刻科は、奨学金と作業スペースが充実していましたが、問題もありました。大きな建物一つが丸ごと彫刻科のスタジオなんですけど、その隣はスラム街だったんです。僕の事務所でも、2度コンピューターを盗られてしまいました。

岡部:でも、柳さんはスラムなどの場所にも興味があったのでしょう?(笑)

柳:そういう現場を見られたのはすごく考えさせられましたね。皮膚の色の違いからくる独特の視線や、感覚を体験することができました。

岡部:国立西洋美術館のコレクションの基礎を作った松方幸次郎さんがイエールを出ていて、調べたいことがあったので私もイエールを訪ねたことがあります。夫が建築家で、彼はルイス・カーンが設計したイエールの美術館を見たいと、一緒に行きました。

柳:イエールでは建築とアートスクールが一緒で、建築の授業でコラボレーションもするんです。僕がいた頃は、ちょうどフランク・ゲーリーがいて面白かったです。今はMoMAで長年キュレーターとして活動していて、ニューヨーク大学で教鞭をとっていたロバート・ストーが2006年に移ってきましたが、もっと早く来てくれれば良かったのにと思っています(笑)。

岡部:それ以前は、海外に滞在したご経験はなかったのでしょうか。

柳:今ほど海外に出れるチャンスもなかったですし。唯一、川俣正さんがどんどん切り込んでいって、P.S.1とかの情報を得られるくらいでしたね。まして、当時は海外でのアーティスト・イン・レジデンスなんて情報は知らないですからね。それで、たまたま知っていたイエールに行ったんです。

岡部:大学院の場合、入学するにはポートフォリオがあれば大丈夫なんですか。

柳:僕は英語が全然だめで(笑)、基本的には英語が出来ないとだめですが、それだけで判断しないのがアメリカの面白いところなんです。英語のテストで電話がかかってきた時、ちょうど電話代が払えず、電話が止められていて(笑)、向こうもしょうがないからポートフォリオだけで良いやって。

岡部:でも、英語ができないと相当ハンディでしょう。現地に行ってから困りませんでした?講義は英語だし、プレゼンもしないといけないでしょうから。

柳:悲惨なものでした(笑)。当時のことを知っている連中には、あまり会いたくないというか(笑)若い時は覚えるのが早いといっても、行った時に30歳ぐらいですから。イエールの彫刻科は、すでに作家活動をしている人もいて、意識が高い人が多かったし、年齢層は幅広かったので違和感はなかったですけど。

岡部:でも二年間の留学で得るものは大きかったでしょうね。

柳:そうですね、あのまま日本にいるよりは良かったと思います。徹底的にコンペティションの社会です。それとびっくりしたのが、教員も学生も同じテーブルでフェアなことです。次の大学院生を選ぶのも、同じ一票なんです。最初は10人ぐらいいるんですけど、毎週のように順番に「クリット」(講評)があって、徹底的にやりあうし、厳しいからやめていって、最終的には6人ぐらいになりましたね。

岡部:そんな過酷なプロセスでも、英語ができなくても、柳さんは残ったわけですね(笑)。

柳:作品で勝負するしかなかったのですよ、だから、逆に作品に特化できたと思います。ハンディを克服するために、作品ではできるだけ普遍的なテーマを扱って、作品だけでもわかってもらえるように修業しました。あとは、シンプルな言語でいかにコミュニケーションするかということも。

岡部::NYU(ニューヨーク大学)にもアーティストになるコースがありますけど、イエールはトップレベルで、イエール出身というだけで注目度が違うといった学閥もありますよね。コロンビアも割と良くて、NYUは最近良くなってきたと言われています。

柳:大学にも波がありますが、確かにイエールはコンスタントに良い作家が出て来ています。僕の上の方にはアン・ハミルトンがいたし、僕と同じ時ならマシュー・バーニーもいて、今から思えば充実していました。

02 アメリカへの違和感―日本へ

岡部:そのあとは、アメリカと日本を行ったり来たりなさっていたのでしょう?

柳:一度帰国してビザを取り直してから、ACCの助成でP.S.1に行ったんです。そこで、そのままスタジオを構えて、トータルで8年向こうに。グリーンカードも取りましたが、今はもう自動的にキャンセルされて、消滅しちゃいました(笑)。もう嫌だなあと、9.11のちょうど直前あたりに思っていて、本当にあの直前に帰国した感じですね。

岡部:90年代のニューヨークで生活されていたのですね。

柳:僕が行った頃がアメリカでは不況で、それから徐々にマーケットが加熱していったんです。SOHOなんか閑散としていたのが、急に。僕がスタジオを持っていた近くのチェルシーエリアもすごく変わりました。画廊がたくさんできたために、アーティストが追い出されてしまうという、矛盾した状況になってしまったんです。商業至上主義というか、アーティストの評価基準がいかに作品が高く売れるかにシフトしてしまった気がして、とても住んでいられないと思いました。今、日本もそういう傾向にありますよね。そういう状況を見ていて、自分の国でしっかり地に足を付けたことしたいなと思って。

岡部:とてもよくわかります。柳さんの作品にはポリティカルな面が強いので、商業至上主義、資本原理主義が強い米国で、それに対して反抗したり批判をする作品は、受け入れられるのが難しいのではないでしょうか。

柳:もちろん受け入れられないですよ。中西部で開催された僕の展覧会で、退役軍人に美術館を取り囲まれて、キャンセルしろって言われたこともあったし。それは、まさしく星条旗をアリが食いつぶしている作品で、そりゃあ大変なことになりますよね。それからニューヨークでも、原爆をテーマにしたプロジェクトのレクチャーの時に、退役軍人の人が来て、原爆を落としたのは正当か正当じゃなかったのかということに話がシフトしてしまい、とてもアートの話はできませんでした。アメリカだけじゃなく、韓国でもそういう経験があった。日本の文化が今のようにこれほど受け入れられる前だったので、展覧会の前に当局に察知され、強制送還された(笑)。それは南北朝鮮の旗の作品なんですけど。

岡部:ずいぶん大変な思いをなさって来ているんですね。今だったら考えられないでしょうが、でもそういう時期だからこそ、そうしたラディカルな作品を作ろうと思ったんのではないですか?今のような時代だったら、おそらく違う作品を作っていたようにも思います。問題が起きるのは覚悟の上だったでしょう。

柳:周りはビビってやめろっていうんだけど、やってみたら何でもなかったり。逆に、こんな事何でもないだろうと思ったら、大問題になったり。これはどうしようもないです。

岡部:柳さんの作品は、時代の流れより何歩か早いから、常に抵抗にあいますよね。少し後でその流れをやっている人は受け入れられても、数年前の柳さんの作品だとダメみたいな。

柳:いつも露払いの役回りで、苦労する割に実りがない。経済的なものとつながらないです。

03 犬島での10年の始まり

柳:アメリカでまさしく商業至上主義にうんざりして日本に戻って、また極端に何を思ったか、瀬戸内海のへんぴな過疎の島に来て、ここでプロジェクトをやるなんて思い立っちゃって。犬島は、産業廃棄物の捨て場所になろうとしていて、その反対活動から始めました。大正時代に銅の精錬をやっていた廃墟の島ですけれど、当時は産業遺構の問題を文化で再生しようという動きが、日本にはなかった。始めたのがかれこれ10年前で、今ようやく動き出したんです。

岡部:その島に三島由紀夫の家を移築するんでしたね。

柳:移築っていう程でもなくて、三島由紀夫が大蔵省の官僚だった頃に住んでいた家の部材を再利用するといった感じです。ほとんど建具や窓枠しか残っていないので、メッセージを作品化するための素材って感じですね。まともに移築すると、作りものっぽい陳腐なものになってしまうので。

岡部:それを使ってどういう形にするんですか。

柳:それは秘密なんです。(笑) 今年の春には公開されますから楽しみにしていてください。

岡部:島全体が変わり始めているということですね。

柳:そうですね。福武財団(ベネッセアートサイト直島)の福武氏に買い取ってもらった土地は、廃墟の土地だけですが島の4分の1ぐらいあります。過疎の島なので島民は何十人しかいなくて、平均年齢は70歳にとどくくらいです。(笑)だから、島の人たちの意識変化もひっくるめて、島全体をどう蘇らせるかがカギなんです。

岡部: 10年間ずっと続けてこられたのは、かなりの忍耐力ですね。毎夏毎夏行っていたのですか。

柳:実際3年ぐらいそこに住んでいました。郵便船しかないから、自分の船がいるので、船の免許を取って、漁船を買って。
柳幸典
Hinomaru Illumination
フジテレビギャラリー 東京 1992
©Yukinori Yanagi

04 ゴミ焼却場をアートスペースに

岡部:広島市立大学で教えられるようになってから手がけた、広島の折鶴プロジェクトとベルリンの大学との共同展、それから旧中工場アートプロジェクトについてお話いただけますか。

柳:2007年にやったものですね。これも海つながりで、僕は船を事務所にしているんです。しょっちゅう瀬戸内海を行き来していたので、広島は必ず潮待ちで寄る場所で、ここに拠点があったらいいなあと思っていました。そうしたら、ちょうど大学のお話を頂いて、広島に来た一年目は船に住んでたんですけど、そこで広島の湾岸にある使われていない元ゴミ焼却場だった旧中工場を知ったのですね。ごみ処理場って知られたくない部分だから、地域の人は騒いでほしくないわけですよ。最初のうちはある地域の人に反対されたりして、市の環境局も神経質になっていました。でも、僕らは基本的にピュアにやっているから、最終的にはそういう反対した人にも応援してもらって、案外いい方向に向かっていったんです。地域からサポートされたプロジェクトだというところが、僕らにとっての強みでしたね。

岡部:良かったですね。地域の人には、工場があること自体が嫌だったり、触れられたくないと思った人も多いと思いますが、アートプロジェクトを介して、誇りが生まれたたらいいですね。

柳:うーん、そうしましょうよって提案しているんですけどね。工場を壊すにしても莫大なお金がかかるのに、実際はその資金源もないんです。それなら、もっと有効な使い方をした方が良いのではないかと思って。まず、広島は現代美術がそんなにメジャーではないので、旧中工場をアートセンターにしたいという構想を立ち上げて、そこで展覧会をすること。もう一つ広島の魅力的な場所として、旧日本銀行広島支店っていうのがあって、これは被爆した建物で、保存もされて、市民に開放されているんですけど、使われ方にミッションがないから、あまり有効に機能していない。そこもアートセンターとして提案したいという思いがあって、そこは町の中心地なんですけど、そこと旧中工場を結ぶと、原爆記念公園から線になって広島の都市軸が意識されているんです。

岡部:いろんな方が来てレクチャーをされていたりして、面白そうだなあと思いました。展覧会をその旧日本銀行と旧中工場でなさったのですね。

柳:都市全体の都市軸みたいな構造で展覧会を3つやったんです。こんな小さな組織で、壮大なことを言い始めちゃって。(笑)

岡部:犬島の時のように、旧中工場にしても旧日本銀行にしても時間をかけながら、都市全体を活性化してゆくという今その最初の段階に達した感触はあるのでしょうか。

柳:そうですね。そのプロジェクトが終わって、第二弾ではうちの大学の提携校でベルリンのバイセンゼー美術大学の、エラン・シャーフの研究室と一緒にディレクションします。一回目はベルリンで、2008年2月にやるんですけど。その次は10月くらいに広島でやります。

岡部:エラン・シャーフはヤン・フートがキュレーションした1992年の「ドクメンタ9」に参加していますよね。ベルリンは今皆行きたい都市ですし、学生もうれしいでしょう。(笑)そういうプロジェクトの場合、学校が資金を出してくれるんですか。

柳:今どんどんお金が減らせれて行くので四苦八苦です。今までは大学のお金だけでやっていた分には良かったんでしょうがこれからはそうはいきません。旧中工場のアートプロジェクトでは、僕が株券と称して版画を発行して売ったりしました。助成金もなんですけど、大学が今までそういうものに適応してなくて、新しいシステムを作らないといけません。最初は60万円ぐらいしかなくて(笑)、カタログ作りも入れると最終的には1000万円ぐらいかかるんではないかと思います。

岡部:もとの予算の10倍以上の資金調達はみな柳さんの版画の株券でなさったのでしょうか。

柳:それだけではなくて、助成金をもらったり。ただ、大学だともらえないところも多くて。

岡部:そうそう、私も苦労したことがありますよ。大学はちゃんと予算あるだろうって言われますよね。

柳:横浜を見てもやっぱり、市長次第ですよ。広島の市長は、そんなに現代アートは興味がないのかもしれません。ただ、常にこうゆうものをやっていると、いつか動き出したり。3年間犬島に住んでいても、僕のような一介のアーティストに行政は振り向きもしてくれなかったけど、犬島にかけた時間を思えば(笑) ・・・
柳幸典
Akitsushima 50-I
広島現代美術館 2000
©Yukinori Yanagi

05 大学とジェンダー

岡部:ここ広島市立大学では、主にプロジェクト系の授業を中心にされているんですか。

柳:そうですね。展覧会を作る実践的な部分と、単にアーティストとして作品を展示することだけでなく、場自体を自分で作り出す。与えられたホワイトキューブで、言われるままにやっていくのではなくて、発表する場所を選ぶこと自体が表現であるということ。後はアートマネージメントですよね。元広島市現代美術館にいらっしゃった岡本芳枝さんにご協力いただいて、その部分も強化したいと思ってます。

岡部:特に日本では、そういうことをしていかないと、現代アートが広がっていきませんよね。まだ3年目だけれど、ここの学生の手応えはどうですか?教え子の学生はまだ卒業していないわけですが。

柳:僕が直接教えた学生はいないんですが、この現代表現という研究室ができる前は、空間造形というところで、ほとんど現代美術的なことをやっていて、そこの卒業生には優秀な方がたくさんいます。それに地方の小さい学校だから、縦のつながりを大切にして学年の垣根もあまりない。ただ、地方の難しさもあって、どうしても男の子なんかは東京に行っちゃいますね。

岡部:ムサビの私達の学科にも女子学生が多いです。

柳:女子の優秀な子はたくさんいるんですが、単純に力仕事が必要だったりするんですよ。(笑)

岡部:女子学生でも力仕事大丈夫ですけど、頼みにくいところがありますよね。どこでもそういった意味でのジェンダー的な問題はありますね。(笑)

柳:どうして男の子は元気がないんでしょうかね?

岡部:女子学生が多い中での男子は、もちろんやりにくいところがあるでしょう。家庭や学校での子供の育て方はもう平等だと思いますが、社会的な活動においてはまだまだ格差がありますから、男子のほうが、頑張ってプロになるという意識が最初から強い学生の比率が高いような気がします。

06 売るためだけじゃない価値

柳:うちが中途半端なところは、デザイン科の中に所属していることなんです。だから入学してくる子はどうしても、デザイナーになりたいとか、職業と結びつけて考えている。腹をくくっている子は、どっちかと言うと彫刻科とかにいますね。

岡部:彫刻だと、どうせ売れないと考えますからね。だけど、平面の人は最近また売れるようになってきていて、大学時代から一点何十万円とかで売れたりすると、それはそれで問題が出てくるでしょうね。コマーシャルギャラリーの流れで生きていくと最初から決めていると、その枠の中で自分の考えを作ってしまいがちです。だから、どこまで自由にできるのか。でも、羨ましいですね。楽な生活が出来たら大きなアトリエも持てるし。(笑)柳さんの場合は、最初からそんなことは考えたこともないでしょうね。

柳:若いのに、羨ましいとしか言いようがないです。僕らの頃では考えもつかないですからね。(笑) 僕は、当時そういうことは考えませんでしたけど、アメリカに行って向こうのギャラリーと付き合っていくと、自分の作品がすごい値段で売れてゆくのを目にしました。でも、段々そういうことに興味が無くなって、そこで犬島に来たんです。

岡部:日本だと、アメリカほどは売れないし。海外の画廊を通して、今でも作品が売れることはあるのでしょう?

柳:ありますけど、もう画廊とは意識して付き合っていないんです。美術館で展覧会をした時に購入されることはありますけど。アメリカってすぐ訴訟になるじゃないですか、だから商業画廊との付き合いはうんざりしちゃって。ヨーロッパの画廊も(笑)、作品が帰ってこなかった経験がいっぱいありますよ。だからもう嫌だと思って。(笑)

岡部:例えばインスタレーションを主として手がけるアン・ハミルトンなんかも、あまり売ることは考えていないですね。

柳:売るものがないというか。(笑)

岡部:彼女も大学で教えてますので、日常生活はそれで何とかなって、後は、予算を準備して招待してくれる美術館やアートセンターなどで、やりたいことだけをやるという感じですね。柳さんもある程度、そういうスタンスかなと思います。ただ日本でも最近は割とコマーシャルギャラリーで売れるようになってきていて、コレクターも増えてます。こういう状況は良い方に進んでいると思われますか。

柳:僕の頃に比べれば羨ましいんですが、やはり作家にとって魂に自由はあり得るのかなって思います。常に、社会が要求している価値基準がありますよね。現状では、マーケットで成功したかしないかという価値基準が強くある。でも、それと作家の魂の自由度っていうのは相容れないと僕は思います。

07 きりなく増える国際展

岡部:ヨーロッパとのつながりは、1993年のヴェネツィア・ビエンナーレのアぺルトに選ばれた頃から開始したのでしょうか。

柳:そうですね。あの時はまだ元気だったな。(笑)

岡部:今年は三つも国際展が重なったグランドツアーの年なので、これからヴェネツィア・ビエンナーレとドクメンタとミュンスター彫刻プロジェクトに行くんですが、どんどん増える国際展は、考えただけで疲れますね。

柳:国際展もきりなく増えましたよね。今は相手にしてもらってないから、それはそれで寂しいですが、一時期はもうすごくて。何でそんなところでもやるのかよというのが次々あって。(笑)もう付き合いきれなくて出さなかったです。

岡部:そういう風に、注目を浴びている作家に集中してしまう傾向にありますね。作家としてもそんなにたくさん作品は作れないのに。だから、国際展が増えてきた時期に、映像が急に増えたなと思いました。(笑) 映像だったら同じものを出せるし、指示を送って後は助手などに任せておくこともできますので。大きな作品は運ぶだけでも大変だから、搬出搬入の手配などだけでも疲れますよね。日本でも現代美術の国際展が増えてきて、越後妻有、横浜、福岡アジアトリエンナーレ、それに今度は北九州でもビエンナーレが新たに始まるそうです。ギャラリーソープの宮川さんと九州大学から芸大に移られた毛利さんが中心となって、2007年9月くらいから立ち上げるみたいです。

柳:そうですか。

岡部:柳さんがやりたいと思っていることは、基本的には場を変えることですよね。犬島という一つの場を変えるプロジェクトから、今は、広島の中の変えられる場所でアートプロジェクトを行い、都市全体の変化へと広げてゆきたいといった形で。

柳:僕の場合は愚直にアートのパワーを信じているところがあって。というか、信じていないとやっていられません。例えば犬島であったら、産業廃棄物問題や過疎の問題を何とか解決できないかと思ったし、広島のように大都市の場合は切り口が違って、都市の使われなくなった工場も、有効に使えば文化的に資源なわけですから。

岡部:テートモダンみたいに。(笑)

柳:あんな大きなスケールではないにしても、やれると思うんです。そういうところでアートの力が発揮できると信じているので、自分がこれから提案していきたい。今は、エゴイスティックに自分の作品を発表したり、表現することには興味がなくて、力を結集して行うプロジェクト、その統率やオーガナイズをしてみたいんです。
柳幸典
Chrysanthemum Carpet
水戸アニュアル'94 水戸芸術館、茨城
©Yukinori Yanagi
柳幸典
Pacific
Landscape Encoded展 テート・モダン、ロンドン、2000年
©Yukinori Yanagi

08 岩崎さんと柳先生

岡部:岩崎君もちょっと話に入りましょうよ。

岩崎:はじめまして、岩崎貴宏です。

岡部:岩崎さんはここを何年に卒業したんですか。

岩崎:2003年に卒業して、その後2年間スコットランドに留学していて、昨年の12月に帰国した時に、たまたま柳先生と同じこの現代表現に非常勤助手として呼ばれたんです。柳先生が研究室の准教授をやるっていう噂はスコットランドにいる時から聞いていたので、それだったらやりたいって。

岡部:ホームページを見て、大変そうだなあと思ったけど。(笑)期待していたように面白いプロジェクトはありましたか。

岩崎:そうですね、期待以上に。10〜15人ぐらいのスタッフで仕事を掛け持ちしていたので、大変でしたけど、やりがいがありました。僕はどうしてもこれぐらいかなって壁を作ってしまうところがあって。

岡部:これ以上はできない、この辺までできればいいと思ってしまうんだけど、(笑)柳さんはもうちょっと目標を常に高い所に設定しているということですね。

岩崎:柳先生はどんなところから見ているのだろうか、先生の見ている風景を見てみたいと思った。それが刺激的ではあったのですが、ついていけなかったところも多々ありました。途中から学芸員の岡本さんが入って、岡本さんはどんどん柳先生に追ついていらっしゃった。

岡部:岡本さんは見るからにバイタリティがありそうだし、長くプロとしてやっているから慣れてますしね。岩崎君はまだ若いから経験不足の部分はあるでしょうから。

柳:プロのペースが僕にとっても想定外でした。予想以上に広げすぎたなあって、反省しているんですけど。経験のない学生は、余分に時間がかかってしまうわけですよね。でも、岩崎君は学生のレベルとは違うし、彼が片腕にいたから、形になりました。

岡部:プロジェクトが終わって、自分にとって何が一番良い経験になりましたか。

岩崎:プロのスキルと思考の深さですね。例えば、僕は展覧会をやるということは想定できても、その先にアートセンターを構想することはできない。でも、そう思っていること自体が自己満足というか。アートセンターの構想をちらちらと先生から聞くと、運営システムやスタッフだとか、広島でアートを学んで旅立った人が、またここに戻って、展覧会やオーガナイズやレジデンスをする。そのための受け皿となるシステムを考えていらっしゃって、すごいなと思いました。

岡部:実現すると良いですね。

柳:ひたすら愚直にやっていると・・・(笑)

岡部:いつかポロッと実現したりしますよ。(笑)

岩崎:水戸芸術館の森司さんなどがされてきた取手のアートプロジェクトだとか横浜のバンカートの例があるじゃないですか。あと川俣正さんのトリエンナーレの例だとか。そういうのが柳先生の中でもあるんで、いつかできると思います。ついていきがいがあるというか。

岡部:それは良いですね。岩崎さんは出身も広島なんですか?

岩崎:広島です。県外に出たかったんですけど、たまたまこの大学が出来てしまって、僕はここの一期生です。

岡部:一期生ってやる気がある人が集まりますね。これからできる未知の場所に入るのって、相当勇気が必要です。

柳:自分たちで作り上げるというのがありますよね。彼らの時代って優秀な子が多くて。岡部さんは資生堂ギャラリーでも活動されてますよね?そこで2007 年に「アートエッグ」展を行った平野薫もここの卒業生です。

岩崎:彼女は、僕の同僚であり同級生で、スカイザバスハウスの経営するSCAI X SCAIで展覧会をしていたし、資生堂のADSPにも選ばれてます。

岡部:数年前から資生堂ギャラリーのアドヴァイザーをさせていただいていますが、ADSPの審査の前に銀座の貸し画廊で平野さんの個展を見たことがありました。ここの一期生なんですね。大学の名前で最初ピンとこなかったのは、新しい大学だったからなんですね。

岩崎:あと大学の広報が弱いっていうのもあって(笑)。展覧会をやっても、自分たちだけの自己満足になってしまうところがあるんですが、それに比べて柳先生はひたすら大学をアピールされています。
(テープ起こし:早坂はづき)
柳幸典
旧中工場アートプロジェクトの記録
photo:Aomi Okabe
柳幸典
広島市立大学
photo:Aomi Okabe
↑トップに戻る