culture power
artist 戸谷成雄/Toya Shigeo
contents

0170年代美術闘争
02共同の中の個、展覧会という作品
03向き合うと姿を現す木のチカラ
04芸術に対する幻想
05高値に踊るな
06ディスコミュニケーションの提示
07素材とジェンダー?
08展示したらゴミ
09国際展での立ち方
10ミニマルバロック









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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

戸谷成雄(アーティスト)×岡部あおみ 

日時:2007年6月15日
場所:4年岡部ゼミ

01 70年代美術闘争

岡部あおみ:今日は彫刻学科で教鞭をとるアーティストの戸谷成雄氏をお招きして、作家の側から、制作や素材に対する思い、また作家自身が組織する展覧会について研究しているゼミ生もいますので、そうしたお話もお聞きできればと思います。ゼミ生のなかには、ギャラリーでインターンをしていたり、インディペンデント・キュレーターとして展覧会のオーガナイズを手掛けている学生もいます。

戸谷成雄:1960年代70年代ぐらいだと、学芸員は「雑芸員」なんて言われたりして、その人たちが外に出て、美術館以外のところで個人の考えで美術展をキュレーションするというのがそんなになかったですね。もっぱら批評家か作家自身が企画していた。

岡部:日本で学芸員への認識ができてくるのは、バブルで美術館ラッシュが起きて、それがいったん落ち着いてからですからね。

戸谷:もうひとつは、ご存知のように60年代・70年代に安保闘争があり、その間に全共闘運動があったんですけど、その中で制度的に組上げられてきた作品、あるいは展覧会に対して、与しないとか、そういう考え方が強くありました。僕達なんか若手は当然、批評家達の目に留まるわけもないんで、自分達から発表していかなきゃいけなかった。同時に、ただ発表するだけじゃなくて、展覧会自体も思想的な方向性を持って展示しようと、一種のセクト的な形のものがでてきたわけですね。ですから60年代までは、総花的な、政治運動で言いますと全共闘的に、いろんな形で共闘しましょう、という形のものが多かった。それから徐々に分派して、純粋化するというか、それぞれもう少し小さな考え方の中で共通項を持った人たち、あるいは問題意識を持った人たちが、勉強会なんかを組織して、その延長線上で展覧会をやろうというのがあったんですね。  僕は愛知の大学にいたんですけれども、大学の中だけではなくて、名古屋にいくつかある美術大学の学生達やOBの関心のある人たちだけで、たいしたことじゃないんですけど、勉強会とか開いて、1年か2年かけて展覧会を組織化したんです。当時の1970年から75年までの感じですと、日本では「もの派」がすごく大きな力になって、その後、彦坂尚嘉・堀浩哉を中心とした美共闘(美術家共闘会議)が出て、彼らは学生の頃から『美術手帖』なんかに結構出ていた。それを遠くで見てるわけですけども、「もの派」以降の人間は、影響を受けながらも、「もの派」批判から出発するわけです。

02 共同の中の個、展覧会という作品

岡部:戸谷さんにとって、展覧会とは作品を展示するだけじゃなくて、展覧会を組織する行為やそうした過程全体が作品、というような意識を持たれていたということになりますか。

戸谷:それは僕達だけじゃなくて、彦坂氏たちや、分派したグループの人たちみんなそういうところがありますね。例えば、僕達の中では共同という問題がすごく大きなものとしてあり、共同性を、社会や美術の中でどういう風に取り込んでいくかと、逆に決定的に共同性の中に組み込まれない「個」というもの、その両者の関係が美術ではどうなっているのか。それが70年代初頭の大きなテーマになっていました。他にも、和田守弘という作家のグループは、廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』という難しい本をテーマにして展覧会を組み立てたりし、個と共同をどういう風に捉えるかがすごく大きな問題だったと思うんですね。 展覧会のやり方としては、それぞれの作家が、主題的なキーワードをひとつ出して、それに従って作ってくださいという風にする。逆に提出されたキーワードでそれぞれが作る、そうなると相互交換的な構造になる。作品のやりとりをして、それを展示空間に配置することによって、その全体から、共同性として浮かび上がるものと、個として分離してしまうものとの、関係構造を明確にしようとしたわけですね。非常に図式的で今考えるとアホなことだけども、結構一生懸命そういう展覧会を組んで、その頃は似たような方法でいろんな人たちがやっていました。共同性か個の二者択一ではなくて、個を獲得する共同性、共同性であると同時に、自身の内なる他者を個の中に吸収する。それはその個が、単に分離しただけの個ではなくて、ある意味で大いなる個というか、個が抱え込むことによって、完全なエゴとしての個ではなくて、もう少し膨らみを持った個というところに着地するしかないだろうというのが、大体1970年代の半ばすぎぐらいに出た結論です。

岡部:それはよく分かります。当時は、吉本隆明の「共同幻想」の思想が、若い世代の人たちの関心にありましたから。いかに共同・共闘できるかが、一つの理想への過程としてあったと思います。

戸谷:吉本さんの考えでは、個と共同がそれぞれ共同幻想を創出していく訳ですけども、共同幻想と個は、対立して、反転して、倒立するものだと。だから個と共同の幻想は必ず対立する構造であり、同一化できないと言ってるわけです。そういうところから出発した僕らは、共同を求めながら共同幻想を信じない。だからといって個として孤立するだけでは駄目で、個の中に共同性あるいは他者性を内側に取り込んで、ある種の大いなる個として自分を作る。あるいは作品も、ひとつのモデルとして作り得るかが、70年代には問題になったんですね。

岡部:70年代というと、戸谷さんが20代のときの作品ですが、ガラスを使ったりして、比較的フラグメンタルなもののインスタレーションがありますね。

戸谷:沢山あります。

岡部:やはり「もの派」の意識があったのでしょうか。

戸谷:それはあったんですけども、「もの派」は、ものとものを関係づけても、ものを空間や概念として構造化することはあまりしないような感じでしたね。視覚的な構造みたいなものも含めて。

岡部:戸谷さん自身はむしろそちらの構造化に向かって進んでいらしたわけですね。

戸谷:そうですね。視覚の構造という、見ることと、彫ったり、構築することは、同義的なものだということで、見る視線と、彫刻の構造をどういう風に構築するかという問題。視線の構造は民族的なものによって変わるのではなくて、人間の意識の段階やありかたによって変わってくる。例えば高村光太郎は、父親光雲がしてきた江戸的な彫り物と格闘しながら、近代的な彫刻を個の確立と重ねあわす。それが彫刻におけるレリーフから彫刻への展開で、その形式論的に展開するものの背後にある、意識の変化の問題なわけです。レリーフ的なものは共同体の意識の中に内属する、ある世界内存在的な共同体の中に内接する。その内接する世界の中での視線の構造、つまりレリーフ的な視線の構造を自分の外側に内接する形ではなくて、対峙的に提示して、世界と私は個的にぶつかりあうことによって、個は世界や共同体からはじきだされる。対峙関係を作った形式を彫刻と呼んでいるわけです。そうすると、それまでの単純な様式変化論だけではなくて、人間の意識構造が、共同体と個の関係構造によって変わってくる。彫刻のあり方とそれは両者パラレルな関係として存在する、ということを吉本さんが書いていて、非常にショックというか、それまでの美術批評の中で語られてきた彫刻論とかなり違っていて、すごく刺激的でしたね。


個展 「POMPEII・・79」 ときわ画廊(東京)1974


個展 「POMPEII・・79」 ときわ画廊(東京)1974

03 向き合うと姿を現す木のチカラ

岡部:戸谷さんの彫刻には、木材を全く別の有機物や生命物に変容していくような表現があり、個体として存在するだけではなく、ある種、共同体のような形で分立し、隣立し、群立するインスタレーション的作品が多いと思います。設置の手法と同時に、木材という素材に、ご自分が積極的にかかわり、入って行く決心をされたのは、それまでの共同体の概念化の問題、あるいは個と共同性との関わりを考えていったときに、木材という材料と同時に、その空間的な構造化が作品として見えてきたということでしょうか。

戸谷:そうですね。

岡部:先ほどのお話を聞いて作品のベースがよく分かりました。

戸谷:結局、純粋な個として世界に対峙する個の確立、ある理念的な考え方は、世界にとってあんまりよろしくないんじゃないかという風に考えたわけです。これは西洋の近代、キリスト教以降の転換の中で形成されてきた、近代的自我の非常に理念的な表象のされ方だと思うんですね。それに対して、アジア的な共同体意識の中でできあがってくる、共同体と構造のありかたがある。両者の構造関係を彫刻の構造と比べてみると、その求心的な構造、彫刻ですとギリシャや、ルネサンスもそうですけど、たとえ体をくねらせていろんな形になったとしても、完全に中心に一つの軸が直立している。どんなに変化をしようと、それは見えない中心軸に従って、構造化されるわけです。ですからそれは、本当の建築物と同じように、垂直・水平・梁が、カチッと構造・構築化されているわけです。それに対してアジア的な構造といわれているような、共同体的な意識の中の視線の構造は、どちらかというとネットワーク的な構造の中で出来上がってくる。錯綜体になるんですね。20世紀になっても、日本の社会は、非常に封建的なものがあり、父親や姑とか、日本的な家族の構造を見てみると、まだまだ個としての自立した関係性は出来上がってないわけです。つまり未完の近代として存在してるわけですけども、その近代の理念性の追求の先にいくと、とても怖いことが起こるわけです。このまま個が、世界と対峙しながら出来上がってゆく自我構造が、世界中に蔓延して普遍化することは、非常に恐ろしい状態になる。かといってアジア的な封建性にべったりとくっついて、内接化された状態でレリーフ的に存在しているような意識構造だと、これはまた絶対に駄目なわけです。ですから、僕はよくねじれた感覚という風に言うわけですけど、片方で近代を希求し、個というものの確立をしっかり近代化する。同時にもう一方でそれを否定してゆく。体の中で矛盾した両者が、レリーフと彫刻というものを、体の中で複合させながらいかに作るか、という彫刻観を作りたいと思ったんですね。そうするとレリーフの側から彫刻という完全な個体としての自立性というものを見たときと、ある理念的に自立した個体としてのところから共同体的な、あるいは自然に内接したような生き方を見た場合、というように自己を分裂させながら、複合的に見る構造を、ひとつの彫刻の錯綜体の中に作り出せないか、というのがテーマだったわけですね。

岡部:今は木材が中心ですが、作家にとってはある種のメディア、材料との出会いが起きて、そこから、新たな表現が生まれてくるというのもありますよね。

戸谷:そうですね。これもまたすごくひねくれ者というか、今作品を作る、あるいは素材というものを見るのは、簡単な見え方ではないと思うんですよね。例えば僕なんか田舎で生まれましたから、木とか森とかそういうものに慣れ親しんでいるわけですけど、しかしさっき言ったように、そのことが自分の作品に直接反映されてくると、それはものすごく恐ろしいというか。共同体に組み込まれている素材の神話性や機能が呪縛のようなものになってしまう危険性がある。

岡部:存在する既成の構造に取り囲まれて、取り込まれてしまうということですね。

戸谷:それが恐ろしいわけです。ですから初期の頃、テグスを引っ張ったり、石膏のようにある独特な素材感を持たないような物を使ったり、材木を使っても建材屋さんで製材されたタル木だとかもう木の粘着的などろっとしたところが無いものだけを組んで使う。そういうことをやってきたんですけど、それは非常にあるコンセプチュアルな表れでもあるんですね。


イベント 「竹やぶ」 愛知県長久手町 1975

イベント 「竹やぶ」 愛知県長久手町 1975

岡部:材料がはらむ魔力、意味性から逃げるような感じですね。

戸谷:そうですね。そうやって素材の歴史性から逃げていると行き詰まりが起き、そういう作品は大体パフォーマンスも含めたかたちで燃やしてしまうわけです。それで、普通のもっと大きな塊の木に移っていく。

岡部:次第に、抵抗力ができてきて、木という素材に体ごとぶつかっていくという感じ。

戸谷:ええ。ただ最初はその視線の一本の線を、糸を張るとか、ドローイングで線を引くとか、カッターナイフで切るとか、そういうことと同じように、角材のところにチェーンソーで一本だけ筋をずーっと切り込んでゆくんです。その隙間からスーッと向こうが見えて、そこに一本の鉄線を通したりとか。以前からやっていたようなことを、チェーンソーで繰り返しやるとあのような作品になっちゃうんですよね。


プロジェクトイベント 「Paysages Verticaux」 野外彫刻展、ケベック美術館(ケベック) 1989

岡部:作品からは、失われた木の精みたいなものが立ち現れているような神秘的なイメージを受けることがよくあります。こうした象徴な表現に、真正面から向かい合おうという気持ちになったきっかけでもあるのでしょうか。

戸谷:それは多少自分が強くなったというか。木の精というのではなくて、自分がやっていく中から何らかのものが出てくるということかもしれない。木に霊的なものを見ようとする意識が僕にはないんですね。材料のほとんどが、間伐材を張り合わせて使っているんです。ほんとにその霊的な、霊木みたいなものではなく、すごく安い間伐材を、ざっくざっくやっているうちに、向こうから表面に向かって勝手に出てくる。

04 芸術に対する幻想

岡部:戸谷さんたちの世代がやられてきたことは、共同性という言葉に込められた、匿名性のようなものに対する、あるひとつの幻想のようなものを追っていた部分もあると思うんです。 個は大事だし、個がなければ表現はできないんだけれども、それをむしろ超えた部分での共同・共闘となると、匿名にならざるをえない部分がある。ループ展をなさるのは、共同と個との関わりがまずあるけれど、展覧会の組織者の個としての名前よりも、全体のテーマがまず前提としてあるわけですね。作家が自主的に組織する展覧会がどのように発展してきたかを考えてみると、その後、たとえば、奈良美智さんや岡崎乾二郎さんがなさっている展覧会は、その反対ともいえる、オーガナイザーの個の名前が全面的に出てくる「有名」性ではないでしょうか。最近よく見られるパーソナルな行為としてのキュレーションの方向とは、非常に違いがあると思うのですが。

戸谷:岡崎君は少し違うと思うんですけど、やっぱり村上隆・奈良美智は資本主義の構造の中にあって、バブル経済が日本の中で崩れ始めたあたりから非常に積極的になって行きますよね。それは市場の中で作品が商品としてどういう風に流通し、どういう価格を形成してどう動いていくかという、もう一つの市場経済としての美術界ってものの構造が、彼らの時代になると非常に明確に見えてきたからですね。ですから自らのキュレーションにおいて個人のキャラクターをその構造の中に強く位置付けないと押しつぶされてしまうという危機感を持ったと思います。

岡部:昔は現代美術に関しては商業画廊があまりなくて、貸し画廊でみな展示をしていて状況も変わりましたし。

戸谷:そう、全体構造が見えなかった。それと同時に僕たちのほうもまだ芸術に対する幻想を強く持っている部分があった。芸術を通して、世界の構造モデルみたいなところまで考えようと思ってたわけです。でも世界の現実はやっぱり商品としての美術という方向になってきた。特にアメリカはね。

05 高値に踊るな

岡部:戸谷さんは、長い間佐谷画廊との関わりで発表されてますけど、今はケンジタキギャラリーと、佐谷の継続としてシュウゴアーツの両方でなさってますね。

戸谷:そうですね

岡部:二つの画廊で、発表したり、扱ってもらうのはあまり問題ないのでしょうか。

戸谷:最初に話し合いがあったんですけど、滝さんは学生の頃から僕の作品のコレクターだったんですね。それでそのうちに自分で画廊をやりたい、となった。それで佐谷画廊と僕との三者の話し合いをきちんとしました。展示されたものに対する販売権についてとか、発表する場所とか。

岡部:90年代末くらいからマーケットが加熱していますが、価格の変動を、戸谷さんも実際にご経験されていますか。

戸谷:この10年くらいはそんなに変わらないんですけど、一時期変わる時期がありました。86年に作った『森』という作品が、ヴェネチア・ビエンナーレのときにドイツのルートヴィッヒが買った時は1000万円でしかなかったのが、3年後ぐらいには2千数百万になった。市場の問題には詳しくなかったけど、すごい勢いで上がっていくんで、ちょっと危ないぞって感じを受けたんです。彦坂尚嘉はそういうことに凄く敏感で、ある程度コントロールしないと、危ないぞという話になったんですね。


「森」 第43回ヴェニスビエンナーレ  ジャルディーニ公園日本館(ヴェニス) 1988

岡部:今のマーケットの加熱は、現代アートの作家の立場から見て、どの程度危険だと思われますか。

戸谷:僕はアートのあり方には2つあると思うんです。「マーケット的に存在するアート」というのが確実にあるわけで、必ずしもそれが悪いとは思わないし、それが商品として駄作だとも思わない。だけどやはりそうじゃないところで、作品が人間の本能・感覚的な欲望や倫理、そういった、なんらかの人間の根源的な、表現行動と、生活・社会が結びついた形で、直接お金化していく世界とは違うあり方のアートがあるべきだ、と。その二重構造みたいなものを忘れてしまうとやっぱりまずい、という風に思うんです。だから今マーケットとは全く関係ないところで学生たちを含めて展覧会をやっています。それからある程度の年齢になってくると、依頼されて展覧会をやるのが中心になってくるんですが、自分達でもう一回20代のような立ち上げ方の手作り展覧会をやろうよっていう話も進めています。そういう少年みたいな・・・青二才です。もう60歳になろうとしてるんですけど、そういう組み立て方を片方ではちゃんと握って、まあ片方では資本主義の社会ですからお金儲けしたっていいんですよ。どちらかを構造的に失っていくと、逆に怖いなと思います。それにしても異常な高値がついてしまうと、息長く続けていくには困難なこともあると思います。

06 ディスコミュニケーションの提示

岡部:戸谷さんはワークショップもなさってますね。

戸谷:多くはないですけどね。あれは正直言うと本人としてはあまりやりたくない(苦笑)。

岡部:美術館で個展をしたりすると頼まれるので、やらざるをえないという・・・。

戸谷:人前ではなるべく作りたくないので戸惑うんですよね。

岡部:戸谷さんのことを撮影したビデオを見たことがありますが、もし人前で制作したくないたちだとすると、カメラに追い回されるのはつらかったのではないですか。映像作品としてオーケーされたのですか。

戸谷:意志が弱いから(笑)、言われて、それぞれの人が仕事としてやっているのに、自分ばっかりわがまま言えないんで。見られるって時々気持ちがいいときもあるんですけど、絶えず見られてるのは結構キツイですね。

岡部:最近はプロセスを見せることを作品としたり、ワークショップを自分のアートに取り込んでいるような人が増えていますが、その人たちとは大分考え方が違いますね。

戸谷:ワークショップは前提としてコミュニケーションがあると思うんです。だけど僕は作品のある本質的な部分は、ディスコミュニケーションだと思ってます。コミュニケーションがある種不全な状態という中での、現実社会とのズレっていいますかね、そういうものの亀裂みたいなところから作品って生まれてくるような気がするんです。単純に「コミュニケーションとりましょう、この気持ちがあなたに分かるでしょう」という表層的なコミュニケーションの図式に乗っかったワークショップは、僕はあんまり、本当は好きではないんです。さっきの個の話ではないんだけども、孤立した密室で、密かに、危ないことをやってるという(笑)、そのことによって、かろうじて自分を押さえ込んでる、みたいな部分もあるわけですよ。ワークショップを否定するのではないですけが、それを簡単に子ども達や地域社会の人たちとのコミュニケーションだと思ったり、分かち合って、楽しかったねというのは、ちょっと違うかなって思うんです。

岡部:ワークショップを通して戸谷さんの作品を別のアプローチで理解することはもちろんあるかもしれないけど、分からなければ、分からなくていいよってということですね。無理に分からせなくてもいいという姿勢。

戸谷:そうですね

07 素材とジェンダー?

岡部:作品の中にご自分のセルフポートレート的なものが表出するということはありますか。

戸谷:具体的な形でってなるとないですね。自分の作品ではないですが、写真家の安斎重男さんは世界中の作家のポートレートを撮ってらっしゃるけど、それで大阪の国立国際でポートレートの展覧会やりましたよね。その時ポートレートを断ったのは僕と遠藤利克と、日本で2人だけでした。

生徒:なぜお断りになったのでしょう。特別、こだわることもないように思うのですが。

戸谷:その、意味が無い、そんなの(笑)。

岡部:作品に当然のこととしてご自分のポートレートが現れているというか、同義だから、作者自身の顔写真なんて、必要ないということで、だったら作品を撮ればいいでしょっていう(笑)。

戸谷:そうですね。ポートレートはどっか筋が違うだろうと。

岡部:多少、話が飛びますが、フェミニズムとアートという点から見ると、木を使う女性の作家は70年代の頃は、非常に少ないと思いました。

戸谷:そういう風には考えたことがないんですけども、今アトリエでガンガン彫ってる学生、チェーンソー振り回しながら彫ってるのはほとんど女性ですね。

岡部:現代は女性の学生が多いということもありますし。

戸谷:それもそうですけど、割合的に木を使うのは女性が多いですよ。

岡部: でも70・80年代には、男性の作家はかならずいるのですが、女性の作家で続けて木でやってる人はとても少ない気がします。

戸谷:素材とフェミニズムの問題は、僕も意識したことがないんですけど、言われてみれば女性の作家はいわゆる彫刻の素材として古代から続いてきたような大きな素材といったものよりは、日常品的な布とかテキスタイル系のものを使っている場合が多いですね。ジェンダー化されたという意識の中で意図的にそうなのか、無意識のうちに選んでいるのか、いろいろあるとおもいますけど、素材の拡張は良いことだと思っています。

岡部:西洋の歴史を見ると、ブロンズを鋳造するためには、いろんな人の手を経てはじめて完成されるために、一種のインダストリーみたいになっていたから、そこに女性が入って受注したり、鋳造の指導権を握るのは当初はかなり大変だったし、やりにくかったわけですが、もし木彫をするのであれば、そうしためんどうなプロセスは基本的にはないわけですよね。自分でもできるし、木材を彫るのはむしろ鉄を扱うよりは、扱いやすいと思うのですが、それにしても女性はあまり居なかったんですね。

戸谷:そうですね。

岡部:仏像などの長い木彫の歴史の中で、制作技術をもった仏師の集団に、女性の表現者の存在がありえなかったという伝統のためなのかと思ったことがあります。つまりレファランスがないから、とっつきにくいという面があったのかもしれない。逆に今木彫をする女性が増えたのは、ポストモダンの時代風潮のなかで、素材が平準化し、意味性が空洞化したなかで、自分がやりやすいんであればやってみよう、という風に変わってきたのかとも思います。

戸谷:そうですね。不思議と女性で石を彫る人って結構いますよね。オノヨーコの初期とかルイーズ・ブルジョワとか。韓国には木を扱っている作家も結構いますね。でも木彫ってやっぱり大きな意味での日本的ポストモダンなんでしょうかね。80年代後半くらいから、さまざまな素材が使いやすくなってくんだけど。

岡部:ペインティングに向かいやすくなってきたというのと同じですね。木材はやはりなんといっても伝統を背負っている素材なので、絵画への復帰とも並行して、ポストモダンになって回帰できた素材なのでしょう。中西夏之さんや李禹煥さんがペインティングに積極的になり、彦坂さんが、ペインティングを合わせた木のレリーフを手掛けるようになったときには、驚かされました。

戸谷:そういうのを見ると、よく臆面もなくそんなことができるなって(笑)いう時代でしたよね。移行するのが恥ずかしいことみたいな。

岡部:売れないインスタレーションとか、ハプニング、パフォーマンスをラディカルと感じていたミニマル・コンセプチュアルな70年代から見たら、180度転回してしまったという感じを受けました。絵やレリーフという買える作品へと向かう姿勢は、言ってみれば政治的な転向のように受け止められた部分もありますから。

08 展示したらゴミ

学生:さっき人にあまり見られたくないとか、こっそりやってるほうが楽しいみたいにおっしゃってましたけど、ご自分のアトリエの中で作って、外に展示するときに、失われてしまうものがありますか?

戸谷:いや、そういう風には思ったことはないです。アトリエの中だけで終わっているという感じは無くて、やっぱり展示したときに完成するというか。想定した場所に置き他者の前に放り出した時、ああひとつ終わったなって、ちょっと興奮するときがありますけど、その次の日からはもうゴミだって思ってます。

岡部:ゴミなんですか!(笑)

戸谷:ええ。その瞬間には興奮するんだけど、その後すぐ冷めちゃう。

岡部:意識が新しい作品に向かってしまうからでしょうね。

学生:戸谷さんは出来上がって展示した作品に対して執着しないとおっしゃいましたが、その一方でその作品に対しては価格という数値的な評価がなされる訳ですよね。その矛盾というか、しくみについてはどう思われますか?

戸谷:そこに対して自分の中での矛盾はないですね。お金出してくれる人がいると、家計は助かるわけですし。作品としての価値と、市場経済の中で決定された価格という価値は、ある意味で矛盾してるわけですよ。デュシャンのレディメイドの便器が莫大な値段で買われたり、逆に巨大な大理石の像が10万円ぐらいで売られてたりするわけです。だからそのものの価値は、本人が決める価値ではなくて、その作品を見る人たちの、意識の中で決定されていくものなんだと。

岡部:需要との関係という意味ですか。

戸谷:はい、その段階で作者からは離れてしまうわけですよ。ただ離れたから知りませんといっても、結局自分に返ってくるから多少は話し合いをしますけどね。本当は美的な価値と価格の価値の問題は、別のものです。高いもののほうが美的な価値があるというわけではない。

09 国際展での立ち方

岡部:アジアでも韓国の光州ビエンナーレなど国際展が盛んに行われるようになり、国際展自体がかつての価値観や役割とは、随分変わってきていると思います。戸谷さんのダイナミックで巨大な彫刻を光州で見たことがあります。バングラデシュ・ビエンナーレにも参加されていますが、国際展に関して、ご自分の経験をふまえるとどう思われますか。

戸谷:まあいろんな面があると思うんですけど、国際展で様々な地域のものが突き合わされるという意味はあると思うんですね。そこで価値判断とか批評の問題がいつも付き纏うんですが。それに商業的、資本の問題が絡み合ってくるわけです。批評に権力が持てる場合は、その批評によってその作品は世界に流通するし、値段も高くなるし、画商さんの動きなんかもみんな関係してくる。美術館を含めて、画商と批評の持つ権力構造は、良くも悪くも、国際展の時には絶えず見え隠れするんですね。西洋の現代美術と言うのは当然西洋社会の中から、モダニズム美術の延長線上で出てくるわけですけど、その価値観と各地域の生活や習慣、風土の中で関係づいて作られてきた造形的な価値観、例えば東南アジアの作品に見出される価値、この両者の関係って一体どうなっているのか。西洋的な価値観の中で、そういった地域的な造形は第二次的な価値という位置づけになってくわけで、逆に行き過ぎると、一種のオリエンタリズムみたいな、批評家や美術界の権力者達の現場の操作性みたいなものが確実にでてくる。恐ろしいといえば恐ろしいですけど、そういう中で自分が国際展の場所に立ったときに、いかに堂々として立っていられるか、という問題があると思うんですね。

岡部:堂々と、ですか。

戸谷:例えばミケランジェロやゴッホやセザンヌの作品と一緒に並べられて、彼らが皆生きていて参加しているオープニングパーティーのときに、ちょっと恥ずかしくてセザンヌとはお酒が飲めないなという作品も沢山或るわけですよ。それはね、その時の近代的な価値観というものと、現在の自分が立っている時の価値観の違い、セザンヌをただ勉強したからここに立てるって訳じゃない、という立ち方があって、当然歴史はある程度知らなきゃならないんだけど、だけど同時にそこでちゃんと立ってなきゃ駄目なわけですよ。会場から逃げ出したくなる作品じゃやっぱりまずいわけ。例えば日本の国際展参加の歴史を見てみると、初期の頃は、パリ・ウィーン・ベルリン万博なんかが明治時代に行われて、そのころは日本的なものを直接持っていくわけですけど、徐々に慣れてくると、西洋人が望むような日本の工芸を考えて作る。それを持って行くと徐々に恥ずかしくなっていく。今でも東南アジアなんか周っていてもそういうものを目にするんですけどね。一度近代を通ったところと、ある種の土着的な別のアイデンティティの中で作られるものの間で片方だけに傾いてしまうと、恥ずかしくていらんないという状態になるわけです。そこをどれくらい自分の中で練って独立したものとして、セザンヌたちとお酒が飲めるかって言う、そういう問題はあるんですよね。

岡部:西洋と非西洋はやっぱり違いがありますよね。マルチカルチャリズムとか、ポストコロニアルとか、理論的には乗り越えられているように思うんだけど、具体的な展覧会の場であるとか、表現においてどうかというと、今でもロカールなエキゾティックな要素を取り込んだ作品のほうが、分かってもらいやすい。そのへんはまだまだギャップがあります。

戸谷:その問題と、さっきのジェンダーの問題は、構造的には同じようなものですね。

岡部:ジェンダーに関しては、差異の意識は今の若い人たちの間にはほとんどないといってもいいのだけれども、表現のレベルとか、あるいはより社会的な現場においては、まだ随分残っています。

10 ミニマルバロック

岡部:東京での個展は、やはりかなり緊張されますか。

戸谷:うーんまあ、やっぱりそりゃ緊張しますけど、緊張というか苦しみます。作りたいものが少なくなってくるというか、展開とか、追及のしかたをいろいろ考えちゃうんですね。今「ミニマルバロック」というでたらめの造語を作って、シリーズでやってるんですけど。


個展 「ミニマルバロック」 シュウゴアーツ(東京) 2006


個展 「ミニマルバロック」 シュウゴアーツ(東京) 2006

岡部:二つのまったく逆の方向を合わせた言葉ですね。でも昔から対極の矛盾を引き受けるとおっしゃってるような、両極端を一緒にするという意味では、まさにお似合いの言葉です。

戸谷:バロックって凄く装飾的だという変なイメージで使われたりすると思うんですけど、今の状況は、軸がなくなってバロックの悪い部分だけが溶け出してしまうというか、社会状況全体もそうだし、近代の構築性を批判しているうちに、何時の間にか構築性がまるでなくなってしまったような状況なんです。これはまずいんじゃないかと。ミニマルの中に持っている整理されて還元された倫理性みたいなものとは対極のバロックとしての重層的立場というか。その二つは緊張関係にはないと思う。でもそういうミニマル的な要素がどこかに軸としてあったり、バロック的なものがそこに戦いを挑んで、という両者の葛藤を作品の中でやっていきたい。これがなかなか難しいんですけどね。

岡部:美術史でいうと、バロックの世界は、それまでのルネサンスがマニエリスムで進めてきた所謂様式の転換と並行して、バロックの時代には現実を直視できる世界になってきたわけです。よくルネサンスが近代の始まりと言われるけど、私はむしろバロックが、グローバリズムに続くような、近代の始まりという気がします。フェルメールがオランダにいたりとか、ベラスケスがスペインで活躍したり、それまで、ルネサンスやマニエリスムというと、イタリアが中心だったのが、欧州各地にすごくいい作家が、しかもそれぞれの現実に合わせて、スペインならスペイン美術とか、オランダならオランダの市民社会の中から全く違うものが出てくる。これこそ、ギリシャからルネサンスに続く唯一無二の古典美の理想とは異なる、今に続くマルチカルチャアリズムやグローバリズムが表す差異の時代の始まりだと思います。

戸谷:そういう風に開かれる部分と閉じられる部分というのが両方あるんですよね。バロックの構造は折り紙のそれと同じだと思うんです。ベルニーニの彫刻なんかも、それまで見えなかった部分が開かれて見える。見えると逆に隠蔽する部分というか、内側に闇として畳み込まれる部分が生じる。折り紙を折っていくと大きなひとつの平面が、小さな一つの塊になっていく。表に現れてくるバロック性というものと、その内側の見えない部分という風に、見える世界と見えない世界の二階建ての構造みたいなものがバロックだと思うんですね。それが開かれてくると、近代の平面性になる。ですから畳込まれた襞が近代の入り口になったともいえる。しかしバロックにおいては半開きの状態で、いまだ闇を抱えた量塊性を保っている。その闇の部分って彫刻にとってものすごく大きい問題だと思います。ミニマルって、ある意味、隠れている部分がないわけでシステムだけが裸で見えますけど、全て見せているんだけど何も見えない。僕に関していうと、木彫で近代的な造形を否定しようとしているのかというと、そういう意思はなくて、いったん開かれた面に襞を刻み込もうとしている。最も作業している最中は、もっとむちゃくちゃにしてやろうと思ってやっているのかもしれないけど。見つめて何かを作るというよりも、眺めて作っているんです。焦点の合ってないぼーっとした眺め。一点を見つめて見つめ返される対峙関係の中から作られるものとはかなり違うと思うんですね。

(文字起こし 望月紀代)