culture power
artist 田中功起/Tanaka Koki

contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

田中功起×岡部あおみ、永田絢子 

日時:2007年11月17日
場所:青山|目黒にて


01 方法をかえてもう一度見せてみる。意識的に方向を変える

永田絢子:最近の活動についてお聞かせください。

田中功起:最近の活動では、バンクーバーのCentre Aというノンプロフィットのアート・センターでの「Turning the Lights on」があります(2007年時点)。(*1)たくさんのライトを使ったインスタレーションで、ライトは現地のセカンド・ハンド・ショップや救世軍のお店などで買ったものを使いました。


Turning the Lights on
2007
installation with lights and pallets in daytime and video projection on the window after dark till midnight
5 minutes and 7 seconds
installation view at Centre A, Vancouver International Centre for Contemporary Art.
©Koki Tanaka Courtesy Aoyama Meguro


岡部あおみ:ライトをつかった作品はこれがはじめてですか?

田中:この展覧会の直前ですが、北京で「Beautiful New World(美麗新世界)」(*2)という日本人アーティストを集めた展覧会があったんですけれど、そのときにもライトを使いましたね。ちょっと種類は違って、デコレーション・ライトが主だったんですけれども。買い物ってその街の特性を反映すると思うんですが、地元の人に「どこでライト買う?」って聞くと、バンクーバーでは中古店、北京では問屋街に連れて行かれて、その違いっておもしろいですね。

永田:海外で制作した作品を、新たに構成しなおして、インスタレーションとして発表する、というスタイルについては……?たとえば上野の森美術館ギャラリー(*3)では、台北ビエンナーレ(*4)での作品を再構成して展示されていましたし、国立新美術館(*5)ではパレ・ド・トーキョーの作品(*6)も、そうやって展示されてましたよね。

田中:スタイルというか、2007年はそういうものが増えたというか……今年はたくさん展覧会があったので、新作ばかりは作れないし、例えば「夏への扉」(*7)に出品した複数のビデオは、インスタレーションとして見せていない時期の作品が多かったので、それを今やっているようなインスタレーションの方法で見せたらどうなるかなと思って。

永田:それは、前に作品をつくったときには自分ではわからなかったということなのでしょうか?

田中:納得した展示にならなかったものもあったし、いまの方法で見せなおすと、どうなるのかなっていう興味もあります。はじめての個展でも映像や立体を組み合わせて見せていたですが、どうしても映像に興味をもたれることが多くて、ぼく自身もまだ模索しているときだったし…。それに映像はなんかぼくにとっても、依頼する側にとっても「使いやすい」っていう感じがあって……。その後、その「使いやすい映像」をもう一度捉え直してみようと。そこで試したのが複雑な過程を踏まえるような サイト・スペシフィックなビデオ・インスタレーションでした。ビデオという移動可能な素材が場所に依存して移動しづらい。いまはそれをさらが一回転して、移動しにくいものを移動可能にするにはどうしたらいいかって考えていますけど(笑)。つまり移動しにくいサイト・スペシフィックなインスタレーションを、その場その場に合わせて変更させていく。

永田:今年のいくつかの展示を見て思うのですが、何か意識的に方向転換をなさろうとしているのでしょうか?

田中:意識的に変えよう、と思ったのは2004年ごろなんですよ。森美術館の「六本木クロッシング」(*8)に参加して、ACCでNYのレジデンスに行って(*9)、帰ってきて群馬県立近代美術館で個展をやった(*10)。その流れの中で自分の方向性を大きく変えることができたんですね。自分でこう……自分があるべき方向にぐいっと変えて、大掛かりなインスタレーションをベースにした表現をはじめたんです。
 今年は、その頃に思い描いていたようなことが、実現可能な状況がめぐってくるようになった。展覧会の依頼のされ方がすこし変わってきて、準備期間が十分にあったり、規模が大きかったり。いろんな意味でやれる状態になったのでその状況にあわせて、ひとつひとつ試していった。試せたのはよかったんだけど、そのアイデア以上に展覧会の数が、とくに今年の最初の3ヶ月で5本くらいあったので。まあ、どうしても似通ったものになりますよね。だからさらに自分でテコ入れをして、夏以降はそれをふたたび動かしてみたんですね。BankARTの展覧会(*11)で見せた「イカダ」もそのひとつです。そうした意識的な方向の見せ方に、なにか転換したような印象を感じたんでしょうね。でもそれはすこしまえから準備していたことでもありました。
 その流れのなかに「Turning the Lights on」もあります。昼と夜とで作品が変わります。昼はインスタレーション、夜は映像のプロジェクション。この地域にはホームレスがたくさんいてちょっとだけ柄が悪いんですね。夜はあまり人が歩いていないし、あまりそのあたりを遅い時間に歩きたがらない。でも夜しか映像を流さないので、地元の人はバスで通り過ぎるときに偶然、目撃するしかない……まぁそういう感じになっているんです。

永田:表の窓ガラスに映されている映像は……?

田中:電気をつけるプロセスをいろんなライトや場所で撮影しています。実際に展示につかっている照明をつける瞬間であったり、例えばここのキュレイターが自分のデスク・ライトをつける瞬間であったり、コミュニティセンターやバンドのスタジオ、ディレクターの自宅でも撮影しましたね……。トータルで120カットくらいは使っています。

永田:それが次から次へと映されていくんですね。


*1:「Turning the Lights On」 2007年11月9日-12月15日、Centre A Vancouver International Centre for Contemporary Asian Art
*2:「美麗新世界:当代日本視覚文化 Beautiful New World: Contemporary Visual Culture from Japan」2007年9月25日-2008年1月20日、北京大山子芸術区「798」内・広東美術館
*3:第一回田中功起ショー「いままでのこと、さいきんのこと、これからのこと」2007年3月16日-30日、上野の森美術館ギャラリー
*4:「国立新美術館開館記念展、20世紀美術探検 アーティストたちの三つの冒険物語」2007年1月21日-3月19日、国立新美術館
*5:「2006 Taipei Biennial: Dirty Yoga」2006年11月4日-2007年2月25日、Taipei Fine Art Museum、台北、台湾
*6: 2005-06年にPalais de Tokyo(フランス、パリ)アーティスト・イン・レジデンスプログラムに参加、滞在。2007年には同会場にて個展 「Setting up and taking down」 を開催
*7:「夏への扉:マイクロポップの時代」2007年2月3日-5月6日、水戸芸術館現代美術ギャラリー
*8:「六本木クロッシング:日本美術の新しい展望2004」2004年2月7日-4月11日、森美術館
*9:アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成によりロケーション・ワンに参加、ニューヨークに滞在
*10:「特別展示 田中功起 買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」2004年11月13日-12月19日、群馬県立近代美術館
*11:「ボルタンスキープレゼンツ La Chaine-日仏現代美術交流展」BankART 1929 Yokohama, BankART Studio NYK、2007年7月6日-8月26日






 

02 現実について

永田:田中さんは、映像と現実との関係をどのように考えているのでしょうか?

田中:最初のきっかけから話すと、「アートイング」(*12)という展覧会のときにバスケットボールが弾みつづけるもの、トイレットペーパーが飛ぶもの、あともうひとつゴミ箱のふたが回る、っていう三つのビデオをつくりました。その現場で見つけた素材を展示する場所で撮影してみせるっていう方法でした。このときにとくにバスケットボールについてずっとはねるようにループ編集をしてつくったんですね。つまりパソコンで映像を加工してます。でもトイレットペーパーの方は扇風機で風を起こしてアナログに飛ばしてます。べつべつのことがひとつの展示の中に入っていたんですが、ぼくはこちらのトイレットペーパーがおもしろかった。見た人の反応もよかったんですが、そのあとどちらかというと、自分は映像を加工する方法を採用していった。でも先ほどの話と同じで2004年のときにこのトイレットペーパーの方向、パソコン上で加工するのではなく、現場でアナログにいじってそれを撮影するという方法に変えたんですね。結局、映像の中で加工することはある意味、容易です。嘘であることに開き直るっていうか…それに嘘だから人は安心してみることができる。SF映画と一緒ですね。それが現実に起こったことである場合は、安心してみることができなくなる。例えばプラスチック・コップを複数落として同時に立つビデオをつくったんです。実際に何度も試してやっとできたところをつかっている。これをもし映像を加工してつくったとしたらまったく違うものになりますよね。はじめてみると加工されていることに気づかないで面白いって思うかもだけど、「嘘だし」って片付けられる。それが実際の行為の記録だとすると、その背景としてできなかっただろう時間まで感じられてきますよね。「ほんとうかなあ、うそかなあ」っていう現実感覚の揺らぎを経て、「そんなことが起きるんだな」って驚きにつながっていく。


Fly me to the moon
2001
DVD, color, sound
endless loop
©Koki Tanaka Courtesy Aoyama Meguro


Take some plastic cups and just fall it down many times until all the cups standing up
2006
HDV video, color, sound
40 seconds
©Koki Tanaka Courtesy Aoyama Meguro

永田:「Turning the Lights on」はどちらかといえばトイレットペーパーの作品の方向なのでしょうか……?

田中:まぁ、これはもっとよりその方向を徹底してしまってズレてしまったというか。トイレットペーパーやプラスチック・コップは、見慣れた風景をそのなかで変化させて見慣れていない風景にしてますよね。でも「Turning the Lights on」はそのまんま、っていうか…本当にただ電気をつけるだけ、っていう(笑)

永田:本当になんでもないことですよね。

田中:なんでもない、でもそれが集積されて、ある文脈に置かれると、それだけでも充分効果があるというか……。

永田:こうやってライトを市内のいろいろな場所から集めてきたときに、手元を照らすためのライトだったものが、何かを照らすためのものではなくなってしまう、ここへくることによってちがうものになってしまう、という意図もあるのでしょうか?

田中:それはぼくが用意していたこのプロジェクトの説明に近いものです。なかなかこのプロジェクトは地域の複雑な問題を文脈として背負いがちだったので、それをいわばはぐらかすために、ライトは何かを明るく照らすためのものだけども、そのライトをただ光るためのものとして取り出す、目的をなくしてただ光るもの、そういう文脈に置きなおしてみた、と話をしたんですけれども……

永田:でもそれは、鑑賞者を納得させるために用意した建前のようなものですよね。

田中:みんなが聞きたいのは明快なストーリーというか、そういう発言を求めている。このプロジェクトの背景をすこし説明しますが、バンクーバー市がパブリック・アートの一環として、ホームレスやドラッグ問題のあるこの地域をライトアップする、というものがベースでした。Centre Aとその向かいのギャラリーと小さな公園、それらに囲まれた交差点をライトアップする。この小さな公園にはかなり多くのホームレスがいてちょっと怖い感じなんですけれども。そのような地域、ストリートをライトアップするというアイデアは、すでに強い文脈と明確なコンセプトを持ちえてるじゃないですか。その強いメッセージ性をぼくはすこしだけやわらげて、多角的でポジティヴなものにしたかった。たぶん市としては、その地域を明るくきれいにして将来的にはホームレスを一掃したいという意図があったと思うんですが、ぼくはその行為に関与できないし、追い出してもホームレスはただ移動するだけで、問題解決に結びつくとは思えない。ぼくは、ひとりの部外者として「明かりをともす」ということにできるだけ中立的な意味をこめようと思った。『Turning the Lights on』ってタイトルは、ポジティヴなものですよね。とにかくライトを集めて置く。


*12:「セゾンアートプログラム・アートイング東京2001 生きられた空間・時間・身体」旧新宿区立牛込原町小学校、2001年9月15日-10月5日




 

03 作品について書くとき

永田:田中さんはご自身でも作品についてや、評論なんかもかなり書かれていますが……。

田中:学生の頃は批評家になろうと思ったこともあったけど……ぼくが理想とするような状態に自分はなれない、と思ってやめちゃったんですよ。批評家として活動するなら、日本の中だけでやりたいとは思ってなかったから。そのときに必要になってくる語学のことや最低限の教養っていうのもあるでしょう……たとえば必読書は原書で読みたい、って思ったんですよ。でもそれって、膨大すぎて無理じゃないですか(笑)。たとえばカントをドイツ語で読むとか、理想的にはそういうベーシックな教養を身につけたうえで活動する。だから、論文もどきみたいなものを書いたことはあるけれどあきらめました。
 今では、アーティストの立場から書けるとは思ってます。誰だって何かを見て思うことはあるわけじゃないですか、単純に。それを言葉にする…ぼくはこの映画を見てこういうことに気づいたよ。この作品を見てこう考えた、ってことは言えるなぁと思って。でもそれをたくさんのレファレンスを使って、あるいは引用を用いて解読するような、言ってみたら「論文にする」という具体的な作業には興味がなくて、その作品によって引き起こされたぼく自身の反応をどう言語化するかってことで書いているんですね。例えば映画について書くけど、その映画の内容にはまったく触れずに、できるだけ排除するような書き方をしてるんです。作品による経験をどう言語化するかってことだけで、テキストはたぶん成り立つと思っていて……。この活動はぼくの作品とはほとんど関係ない、もう趣味みたいなものです。

永田:ご自身の作品に対して、批評的なスタンスで見るということはされるんですか?

田中:たとえば作品について書くというのは、その作品を解釈するひとつのストーリーを作りあげることです。でもそのストーリーがかならずしも正しいとは限らない。それは暫定的な一つの視点です。その意味では、見る側(作り手も含めて)がひとつの作品に対してどれだけストーリーを編み出そうが、実際にある作品や展覧会をみると、なにかがそこからズレる。作り手も自分の作品を十全に理解しているように思っているけど、そうとも限らない。だからなかなか自分の作品を簡単には説明することができないですよね。ぼくが自作に対して批評的な位置から見ていると思えるときは、いわば「ストーリーが一つではない」というさらに退いた視点に立てているときです。いわば目の前にある複数のストーリーが交錯した混沌とした作品状態を眺めている感じ。逆に制作をしている立場にあるときは、意図と過程と分析をまとめ上げ すぎないようにしている。なにかを探している状態はいつも面白いわけで。これはときに意図的に、ときに無意識にやっていて、すごく感覚的ですが大切な瞬間だとも思っています。

永田:いろんな要素が盛り込まれているということですよね?

田中:そうですね。例えばさきほどの「Turning the Lights on」で使ったライトも、全部セカンド・ハンドではなくて、誰かがくれたらそれも使うし、Centre Aにあったものも使ったり。誰かがこれ置いてくれ、って言ったらオーケーって言うし。ひとまずなんでも受け入れてみる。
 でもいってみればぼくの作品はいかようにでも切り取れるってことでもあります。だから松井みどりさんのテキストを読んだときには、ぼくがやろうとしていることを、意外なところから読み解いてくれたように思えて、面白かったですね。作品解説をしてくれるよりも、勝手に書かれるほうがむしろいいですよね。自分の作品なのに「松井さん、ぼくもそれは知りませんでした」みたいな(笑)。でも、作り手がぜんぶ自分の作品のことわかっているわけでもないでしょ。

永田:上野の森美術館ギャラリーでのお二人の対談で松井みどりさんが仰っていたのは「チカチカしてるものが多い」とか、「四角いかたちがたくさん出てくる」とか……田中さんの作品のなかに出てくるものの色や、幾何学的な共通点についてお話しされていましたよね。(*13)


いままでのこと、さいきんのこと、これからのこと
2007
installation view at The Ueno Royal Museum, Tokyo
©Koki Tanaka Courtesy Aoyama Meguro

田中:そう言われると、そうかもなぁ、って(笑)。きっと無意識にそういうものを選んでいたんですね……。コンセプトに影響をあたえない場合は、感覚的に選んでいるから。例えば色とかはまったく気にしない。だから逆に色が目立ったりする作品もありますね。カタチにしても、ひとりの人間が選んでいるんだから、なにかしらの趣向によってなんらかの共通性のあるカタチを選んでいるのかもしれない。そうするとそこに関連性が見つかる。ぼくの作品のそうした感覚的な部分を、松井さんは丁寧に言語化してくれたように思いますね。それはその後のぼくの制作にもよい影響をあたえてくれたし、感謝してます。



*13:田中功起の大反省会「独白と放談」反省会その四「さいきんのこと、展覧会をふり返る」 松井みどり×田中功起、2008年3月25日



Floater
2004
DVD, color, sound
4 minutes and 34 seconds
©Koki Tanaka Courtesy Aoyama Meguro


Pick up something from FRAC Champagne − Ardenne and bring it into the city then make some noise
2006
DVCAM video, TV monitor (7 sets); type C print (11 photographs); acrylic canvas
6 minutes and 30 seconds (each DVDs)
©Koki Tanaka Courtesy Aoyama Meguro




 

04 ゆだねてしまう、任せてしまう、それでもかまわない。

岡部:たとえばBankARTでのイカダの作品ですとか、このバンクーバーでの作品もですが、最近の作品は素材に木材を使うことが多いように思うのですが、なにかそこに意図はあるのでしょうか?

田中:なんででしょうね。身体的に関われるもの、例えば木製のパレットを使ったりしてますが、そこに登れる、とかそういうことにすごく興味があって。ビデオも、パフォーマンスの記録のようになってきているなぁ、と思っていて……

永田:そういうところは、やはり初期のころからの変化なのかなぁ、と思うのですが……。

田中:そうですね。作品のあり方がどんどん開かれていっているというか。制作の現場で起きてしまうことを受け入れるようになってきているんです。モニターはソニーじゃなきゃいけないとか、寸分違わずマニュアルどおりに設置をしなければならないとか、そういうことって作品のあり方を限定してしまっているように思います。基本的にはなんでもオッケーにしていきたいんです。「Turning the Lights on」のインスタレーションでも、誰かが夜中に侵入して配置を変えたとしても、誰かがライトをひとつ盗んでいってしまっても、持っていきたいなら、持っていってくれ、と(笑)。このパレットだってオープニングのときにあわせて多少動かさないといけないんですけど、邪魔だったらどかせばいいし、すこしぐらい変化してもいいと。そういうことではびくともしないような成り立ち方をした作品にしたいですね。
 なんでそんなことを思ったのかというと、この前、ダン・フレイヴィンの作品を見たんですけれど、蛍光灯の作品の脇から配線がこう出てるんです。見せ方として台無しですよね(笑)。でも、やっぱアーティスト不在になるとそうなるよなぁ、って。ぼくもいつか死ぬしなあって。だったら最初から配線ぜんぶ見せちゃえ、みたいな感じなんですよ。どんな状態に展示されても、だれが展示しても、ぼくのやろうとしたことが伝わるだけの自由度と強度を持った作品が作りたいですね。たとえばいま、ほかのひとが撮影してきた映像を集めたインスタレーションを考えていて。

永田:それは、他人が撮ったとしても伝わる、ということでしょうか?

田中:最近、撮影技術があがってきていて。そのうまさみたいなものが見えすぎてしまうのって、よくないなぁって……。

永田:「そのまま」を伝えることのむずかしさ(ビールがこぼれている、それだけのことを伝えるのが一番むずかしい、ということばから)について、以前話されていましたよね。

田中:必要以上の技術って、ぼくには文字どおり必要ないんです。だから単純なデッサン力があればいいっていうか。デッサンの基礎力がある人って、自分に見えたものをそのままに描けてそれが他人にもわかるわけじゃないですか。最低限の技術なわけで、そこには個人的な思いとか雰囲気とか情緒とかがない。でもそういう「自分」を出さないことってむずかしい。
 この前、京都に狩野永徳を見に行ったんですよ。たくさん永徳の絵を見ていると様式がまずは見えてきます。例えば水の描き方でも、木の描き方でも、決まってますよね。ほとんどはまずその様式が目につく。でも一点だけ、大きな墨絵があったんですが、これだけは様式っていうよりも……なんかずっと見ちゃうんですよ。じーっと見ている途中で、自分は何を見ているんだろうなと思ったら、水の流れを見ているんです。でも、よーく見ると、もちろんそれも様式なんです。様式を使っているにもかかわらず、それは水の流れそのものなんです。ぱっと見ると鳥が鳴いていて、その鳥が別の鳥を見ている。そこに目がいって、そうすると今度はその鳥の声が聞こえてくる……。これって、そこでくり広げられた情景をそのまま伝える技術を持ちえている。この構図きれいだなとか、この色がきれいだなとか、そういうことじゃなく、そこに起きている出来事がそのまま伝わってくる。これってなかなかむずかしい。必要最低限の技術っていってもかなり高度ですけれども。



 

05 これからのこと

永田:実は私が田中さんの作品をきちんと見始めることができたのも今年でして……(笑)

田中:やっとって感じですね。国立新美術館での開館展はかなりの入場者数だったようだし、いろんなひとに見てもらえましたね。ぼくとしても展示がうまくいったし。

永田:うまくいった、というのは……?

田中:えーと……単純に作者の意図を読み解きながら作品を見るというのではなく、なんだかよくわからないけど展示場所でいろんなことが起きている、それをひとが見ているっていうか。「いろんなことが起きてる」状態って、普段の生活のなかでもあるわけじゃないですか。こうしてここでインタビューが進行しているむこうでほかのみんながお酒を飲んでる。さらにその向こうの通りを車が走っている。だれかが犬の散歩をしている……。世界というのは複数の出来事があっちこっちで見境なく起きているわけですよね。そういう状態と似たような事態に自分の展示が近づけたかなって。世界はつながっていたり、つながっていなかったりする。その複雑さをぼくらはいろいろと関係づけていくわけですよね。この展覧会のなかでも、ひとつの映像ともうひとつ別の映像、あるいはその映像とそこに置かれているボール、あるいはチューインガムの写真がもしかするとつながっているかもしれない。もしくはお昼に食べたサンドウィッチや、昨日見た映画とつながるかもしれない。作者の意図を越えてつながっていくような展覧会にできたらそれはいいですよね。
 まあ、そこまではまだできてないですけど。

永田:この先はどのような方向に向かって行こうとしているのでしょうか?

田中:ぼくの一連の制作ってずっと試しているような感じなんですが、このあともきっとテストをつづけていくんでしょうね。少し前までは35才ぐらいまでは試して、それ以後は固めていくって思っていたんですが、まあずっと試していくのかなと。失敗を気にせずに(失敗もたくさんしてきたので)、そのときの興味に素直な制作をつづけていけるといいですね。成熟した表現よりは新鮮な表現をって、フラフラしていけたらいいなぁ、とは思っているんですけれども。



(文字起こし担当:永田絢子)