Cultre Power
artist 田窪恭治/Takubo Kyouji
contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

田窪恭治(アーティスト、プロデューサー)×岡部あおみ

日時:2004年1月18日
場所:琴平町のホテル

01 ノルマンディーで礼拝堂を見つけるまで

 

岡部あおみ:フランスのノルマンディー地方のサン・マルタン・ド・ミュー村にあるサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂を、10年以上かけて再生なさるビッグプロジェクトを手がけられたわけですが(田窪恭治著『林檎の礼拝堂』集英社, 1998年)、廃墟として使われなくなった礼拝堂のようなところをアートの常設展のような形で、建築的な構築を含めて、何かやりたい気持ちは前からおもちだったのでしょうか。

田窪恭治:はい。1975年にパリ・青年ビエンナーレに参加したときぐらいからですが、とくに84年にはヴェネチア・ビエンナーレに行ったとき、ギャラリーや美術館で展覧会をやったりする近代の制度の中で納まるのではなくて、もうちょっと違う表現をしたいなと意識しました。ただ当時は、はみだした表現は少なかったので、ただもんもんと考えていました。

岡部:日本でそうした可能性があるとお考えでしたか。

田窪:日本ではないと思ってたし、パリでもそうした可能性はないなと。今とは違って、僕らの時代は、とにかく東京、パリ、ニューヨークで有名になって、ニューズウィークやル・モンド、フィガロなどの新聞や雑誌に取り上げられて絵が売れるようになり、やっと作品が美術館に収まっていくといった閉じたサイクルの時代でした。だから、美術館は、一つの業界人の世界みたいで、僕は、もっと広がる仕事をしたいと思っていたんです。

岡部:それは、当時の田窪さんの世代のいわゆる反体制的な動きの中で、それぞれの作家達が、自分の制作だけの世界だけではもの足りなくなって、何か別のことに挑戦していきたい気持ちが起きてきた時代と世代的なこととも関係がありますよね。

田窪:僕の場合はより個人的なものでした。ただ、「美共闘」には参加してなかったけれど堀浩哉や彦坂尚嘉と友達だったから、東京で何回か組んだことはありました。直接、美術館とかには通さずに、個人でヨーロッパやアメリカに発信することを考えたけれど、色々限界があった。しかもアートマーケット、美術市場といったかつてのボラ−ルらの画商たちが作りあげたシステムがいまだに存続している。森村泰昌君や村上隆君の時代から、やっとこれまでのマーケットの枠から外れてきた見方が僕にはできるのですが、だんだん良くなっているなとは思います。それと、岡部さんが言ったように、アヴァンギャルド運動は、反発止まりだった。いわゆる体制に対する反発。だから、アートマーケットに対しても、所詮パフォーマンスでしかなかった。新しいシステムや制度を作りあげるところまで僕らはいかなかったわけです。

岡部:それで、何か自分にできることはないかと考えていた時に、偶然フランスの教会でやれるチャンスが訪れたことでしょうか。

田窪:いや、意識的に探していました。75年のパリ・ビエンナ−レの時に知り合ったパリ在住の美術評論家前野さんとそういう話をよくしていたとき、彼がもし日本に限定しなければ、フランスなら教会とかで壊れかけたのがたくさんあるからと教えてくれて、たまたま彼の奥さんが、ノルマンディー出身だったので、バカンスで帰った時に市長に話してくれたのです。だから、僕は、最初はヨーロッパに限定していたわけではなく、日本でもよかったんです。

岡部:日本でも探してましたか。

田窪:そうですね。その前に、一つ大きなクッションが87年の「絶対現場」の仕事で、今もこんぴらさんをやってもらってる鈴木了二さんという建築家と、写真家の安斉重男さんを中心に、いろんな人達と組んだ仕事をしました。それが自覚的にやり始めた最初です。だから、75年にパリ・ビエンナーレに行って、もんもんとしていて、新しい方法にぶつかるのに10何年かかったわけですよ。


サンヴィゴール-ドミュー
© 田窪恭治

02 支えてくれた日本のパトロンたち

岡部:その時は、チャンスさえあれば、その時点では資金がなくてもやりとげられるといった自信があったわけですね。

田窪:自信か危機感ですね。年齢的にも今をはずしたらできないだろうと思ってました。なんとなく作家ならみんなわかっていると思うんですけど、いくつまで生きるとか、短命で終わるとか、そういう予感みたいなのがもちろんありましたし、体力の問題もある。もう今の僕だったらノルマンディーの10年間は無理だと思います。

岡部:その時はすでに子供さんも奥様もいらしたけれど、奥様は反対しなかったとおっしゃっていましたが、本当に何の問題もなく家族でフランスに行くことになったのですか。

田窪:はい、そうですね。結局僕は、その前日本で美術家として食えない時は、友達とインテリアデザインの会社をやってたんだけど、やっぱりもんもんとするわけですよ。土日しか絵を描けないから。それで、もういきなり会社を辞めた。その時も子供3人と女房がいました。ちょっと照れくさい話ですけど、そういう意味では、うちの女房は年も6つ年下で若いときはかなり子供っぽく見えましたが、一番身近にいるファンの一人というか、僕が考えていることに対してはあまり反対しなかった。

岡部:奥様は仕事をしてなかったんですか。

田窪:はい、してないです。彼女は大学二年生の時に学校を辞めて結婚して、子供ができたのが彼女が21歳の時です。ある意味では僕の生き方を一緒になって楽しんでるんじゃないかな。だから、ヴェネチアの時は彼女を連れて行き、僕が少しずつ広がっていっている時に、彼女自身も僕が広がることに対して楽しみを持っていたと思います。いきなり行くわけですから、怖かったとも思うけど。僕はせっぱ詰まった状況で、今はずしたらできないと必死だった。彼女達も、生活をなんとか維持していくのが大変だったと思います。子供も子供なりにね。

岡部:みなさん大変だったでしょうね。でも礼拝堂の修理からはじめて再生の仕事をフランスで手がけ始めたら、当時、資生堂の社長だった福原義春さんを通じて、企業の方たちやフジテレビの方々が、みなさんバックアップしてくださって、資金も2億円ほど集まったとお聞きしています。

田窪:そうです。でも、建築のテリトリーと美術とでは桁が違うじゃないですか。だから、中途半端な金額ではやるべきではないと思っていました。あの頃日本では、僕が言っている意味が通じなかったんですよ。特に通じなかったのは美術界。教会をやるっていうのを聞いた時は、美術界の人は祭壇か何かをペロペロっと描いてくるぐらいしか発想にない。教会をまるまる素材にして、作り直すことを理解してくれたのは、福原さんだとか経済界の人達で、これは不思議でした。

岡部:ひとりの作家が手がけるスケールを越えたビックスプロジェクトだったからではないでしょうか。

田窪:そうですね。足元をみてみると、美術マーケットも非常にいい加減な感じで、日本の場合、特に画商と契約もしない。口約束であなたは売れるよといった、曖昧な部分でなりたっていた。今はもっとしっかりしてるとは思いますけど。そうした中で、僕はキャンバスとか画廊だけではなくて、家を対象にした環境とかの仕事をやりたいと言っても誰もわからない。しかし、堤清二さん、福原さん、亡くなった鈴木治雄さんや勅使河原宏さんのような経済界の人や文化人の方が早く理解してくれた。それまで僕は経済界の人達は、利益ばかり追求していて、芸術なんかは無駄だと思ってるんじゃないかと想像してたんです。もちろんそういう経営者も多くいるでしょうけどね。

岡部:やはりトップレべルの企業家のなかには、それだけの企業を成功させたという業績からみても、ある意味とても斬新なアイディアで切り開いてきた方々もおりますし、現実に対するある種の先見性を持ってないとうまくやってこられなかっただろうとも思います。

田窪:絵描きこそがクリエイターだという意識を当時は持ってたんですけど、福原さんや、堤さんとかのほうが、もっとクリエイターだと思います。それと、今は一つの終焉をむかえたけれど、僕らの学生時代は、デパートの最上階に美術館を作るといった「西武文化戦略」も展開してました。戦前は「明星」や「すばる」や白樺派という運動があったけれど、僕らの時代には何もなく、逆に制度を破壊していったわけですが、破壊することは、何かをうみだすことが前提ではないかと思ったんです。それであの当時を見てみると、やはり堤さんがやった「西武文化戦略」を、僕は非常に評価できる。あの時代は付加価値と言ってましたけど、彼ら経営者達は、ビジネスだけではなくて、目に見えない価値を付随させ流出させていった。僕ら以上に彼らのほうがクリエイターだったのかもしれないですね。

03 フランスでも珍しいプロジェクトのケース

岡部:フランスの政府レベルや村などのコミュニティからも何らかの援助はあったのですか。

田窪:一切なかったです。というのは、僕は単純にアーティストとして教会に行き、これを対象にしたいと言っても政治レベルにはならない。作家が思い付きでやっているだけの話で村自体も困惑しますよ。

岡部:その村の人達との関係が、最初は大変だったそうですね。

田窪:はい。当時は中途半端な成金がシャトー(お城)を買うのがブームで、僕らもその一派だと思われていて、村人はしっかりガードしていて心を開いてくれるのに数年かかりました。ところが僕らは家族で行っていたし、田舎だったから、たんなるバカンス気分で来てるんではないなと、言葉がわからないけど本気でやっているなと徐々にわかってきたみたいです。

岡部:今は村の人たちがその教会を大事に管理もしてくれているんですよね。だれでも入れるように、どなたかが必ずいらっしゃるのですか。

田窪:バカンス・シーズンだけは開けて、普段は自分たちが使うときだけ開けていますが、村の人に連絡をするか、ファレーズのツーリズム・オフィスにも鍵があるので入れます。

岡部:どのぐらいの来館者があるのでしょうか。

田窪:かつてのような地方旅行ブームがあると、人がどっときて村の生活が崩れるので、ジワジワと口コミで広げていきました。だから、日本人が最初どっと行ったわけではなく、むしろドイツやイギリスから礼拝堂の話を聞きつけて来るとか。また本を出した頃からテレビでも紹介され、日本人が行くようになりました。今でも、日本人は結構来ているみたいです。ブームにならずに、何となく定着してきたと思います。ただ管理に関しては、そのシステムを構築するのに数年かかりました。もちろん、弁護士に入ってもらったりして、フランスでもあまり無いケースだったみたいです。お金を集めて、自分達の利益にしないで、作品を作って、もちろん出来上がったら僕が所有しないで村にかえす、そんなものフランス人は誰も信じないです。日本企業の人達が100%支援してくれて、その人達も所有できない。これは非常に特異なケースだと思います。しかも建築と違って施主がいないので、これも大きな違いです。

岡部:本当に今までにないケースですから、新たな制度つくりも必要だったわけですね。

田窪:それと今まであった近代の例では、クチュリエ神父がアーティストや建築家に依頼して、ロザリオ派などの宗派が資金を集めて作ってもらうケースで、今世紀にマティスも礼拝堂を手がけていますし、コルビジェもロンシャンやラ・トゥーレットの教会を建てますが、僕のとはまったくケースが違うんですよ。

岡部:プロジェクトの事業費として膨大な資金を集められたけれど、田窪さんがその仕事を手がけられている期間は、ご家族でノルマンディで生活なさっていたわけですが、生活費はどうされていたのですか。

田窪:所属していたギャラリーが支援してくれたので、どうにかこうにかクリアできてました。ただ、制作するお金がつくれなかった!その制作費を日本の企業や個人が作ってくれた。いろいろな企業や個人から制作の支援をされているわけですから、お金に関して透明にしておかないとまずいです。それともう一つアソシエーション(協会)を立ち上げた場合に、当然毎年毎年会計監査が入ってくるので、KPGMという国際的な会計会社にアソシエーションの一員で入ってもらった。だから、何もかも明白なんです。ご存知のようにフランスの場合は、百万かかる展覧会だったら百万すべて使わないといけないです。予算が通ったら、十円でアメ玉が買いたければ十円のアメ玉を買わなきゃならない。だからそれ以上でも以下でもない。非常にシビアです。

岡部:日本でも最近はかなりシビアに予算配分しているように思いますが。                  

田窪:昔はドンブリ勘定で、ある程度お金を集めて、カタログを作る場合も、この予算だったらこのくらいの薄さだよという感じだったけれど、フランスの場合は、これだけのページ数を作るからこれだけの予算が必要だというふうに、日本とは考え方が逆だった。そういうことを知ることができて、とても良い勉強になりましたが。               

岡部:フランス政府は他の国と比較しても、アーティストへの支援がかなり寛容だし多い国ですが、田窪さんのプロジェクトは、田窪さんがご自分で始め、資金調達もご自分でなさっていたし、海外の作家ということもあって援助しないでいたのでしょうね。

田窪:そういう意味ではフランス人は懐が深いから、本当に困って頼みこんだら予算作ってくれたかもしれないです。ただ、ほっといても何とかしてたから。

岡部:もしその後もフランスに残られたり、何かべつのプロジェクトをなさることになっていたら、すでに評価されているわけだし、きっと予算の援助などがあったのではないでしょうか。

田窪:近所の教会をやってくれないかなど、いろいろな話があったんですが、僕の中では一つの仕事で満足するとあきちゃう。一つやりたい目的があってその作品ができた時に、それで燃焼できる。生活するためにフランスにいようとは思ってなかったですから。僕はある程度東京でデビューしているから、二回もデビューする気にはならなかったし。ある目的や、ある必要性がある方向に、生活を持って行く方だから、アトリエで作品を作って、毎年個展をやって、美術館に自分の作品が入るというのは一回経験すれば良いことで、毎年何歳になってもやっていくのには耐えられない。ただ、僕の場合は一つの目的が終わって、次の目的が見つからないと表現ができないんです。


神殿ゾーン空撮
© 田窪恭治

04 金刀比羅宮の宮司さんからのプロポーズ

岡部:フランス滞在の十年間に、礼拝堂以外の仕事を手がけられたことはないのですね。

田窪:余裕が無かったですね。もう礼拝堂にかかりきりでした。そこが複数の仕事を平行してできる建築家やアーティストとは違うところで、僕はひとつのことしかできなかった。

岡部:日本で金刀比羅宮に来られるようになったのは偶然なのですか。

田窪:偶然ですが、琴陵容世という宮司さんにプロポーズして頂きました(笑)。昔からの友人で気が合ってたからでしょうね。これだけのロケーションを彼は宮司としてまかされて自分の代でなんとかしたいと思って、いろいろイメージはあるのだけど、どうしていいか分からない。広告代理店などに頼んでやったりしていたみたいですけど、彼は何か違うと思ったらしく、テレビ見て、田窪がこんなことをやってるんだったら、彼に頼もうと思ったみたいです。それで僕に頼んできた時に、僕は二、三千万貰って駅前にモニュメントを建てるようなことはしたくないと。もう少し観察して、手掛かりが見つかったらそっちに引っ越すと言ったんです。だから、その話を貰ってから二年間くらいの余裕があったんですね。で、それがあったので日本に帰りやすかった。僕は四国の出身ですが、何十年ぶりかに故郷に帰ってきたのではなくて、ノルマンディーの次の現場、新しい仕事場意識でやってきたわけです。

岡部:私は神社について詳しく知らないのですが、宮司さんの役割は、大体一家族で継続していくものなのですか。

田窪:二通りあるみたいです。一つは代々続いていくようなところと、もう一つは神社本庁のようなグループが決めていくみたいです。ここは神社本庁から任命されていますが。明治以降は大体琴稜家なのではないでしょうか。

岡部:これだけの文化財を持ち、観光客もたくさん来る。最初、宮司さんは、ここをどうしたいと考えていられたのですか。

田窪:とにかく、もっと活性化したい。単純に言えば毎日がお正月のように、一杯来てお参りしてもらって、言葉にはならないんだけど、自分の代に具体的な形を築きたい。最初に彼が僕に頼んだとき、田窪は文化の仕事だけで神様の仕事はしなくていいと言ってくれて、そういうメリハリがあったので、とても入りやすかったですね。

岡部:若冲とかのすごい美術作品もあり、金刀比羅宮は一種の「ミニバチカン」みたいなものですね。寄進者から資金を集めて、アーティストに頼んで素晴らしい作品を作ったり、作品を奉納されたりしながら文化財を蓄積し、常に文化の先端的な部分をとりいれて、時代に即した活性化をめざすといった先駆的な仕事をなさっていきたいということでしょうか。

田窪:僕は具体的にはよく知らなかったんですが、日本もヨーロッパもそうだと思うんですけど、一つの象徴物を維持し続けていく場合には今でも大工さんやらいろいろな職人さんなどが職員の中に全ているんですよ。ですから、ある意味、山の上だけで自活できる。田畑ももって米も作っていた。極端に言えば小さな国のようなものです。ですから僕がここに来るまでは、当然昔から続いてる「御用絵描き」もいたわけです。彼らは有職故実とか、お祭りの絵を描いて残しています。

岡部:一種の写真家みたいな記録係ですね。今でも御用絵描きを雇っている所はあるんですか。

田窪:あるかもしれないです。明治時代まではやっていたと思います。伊勢では二十年で式年遷宮をやるために、二十年前から大工さんがスタンバイしていると聞いてます。結局そういうクリエイターや技術者達を職員にしているんですよ。ここにも神官か神職と言われている人が五十人くらいと、後の40人くらいのなかに、大工さんなど修営関係の傭人さん達がいます。

岡部;田窪さんは今アーティスティックディレクターとしてかかわられているのですか。

田窪:はい。職員ではなくて個人契約をしています。僕は自分の仕事はロシアじゃないですけど、五ヵ年計画ぐらいでやっていくタイプで、五年くらいで目鼻つけて、次のパーツに移っていく。十年や二十年といったロングスパンではものを見ていけなくて、三年から五年である考え方をフィックスしていく。だから、ここでは五カ年計画をワンクールとしてやって行こうと思っています。もう四年目です。ここに住んで三年ですけど。で、第一期目の結果がもうすぐできますが、その中で僕は建物を建てたり、図録を作るなどの計画を全てたてました。

岡部:今年の秋に完成する建物ですね。安斉さんや鈴木さんとが関わっているんですか。

田窪:鈴木さんは一つ大きい部分のリーダーです。先程ディレクターとおっしゃいましたけど、絵描きでありながら一つの企画を立てるとか、メディアミックスのプロジェクトのプロデューサーをしていかなければならないのですが、それができるのは教会をやったお陰です。自分一人で作っていくのではなくいろいろなチームが必要です。教会をやったとき、最初は日本から大工さんを連れて行こうと思ったんです。ただ二、三年生活しているうちに、やっぱりそこで仕事をする場合、その場所の人間がいいので、教会の時はフランスのチームでやってました。同じように、ここでも地元の宮大工さんなどの知恵を借りた方が良いと思ってます。

岡部:鈴木さんが設計なさっている建物は何に使用されるものですか。

田窪:今では社務所事務所と本宮が離れていたので、便宜をはかるために新たな社務所を本宮の側に作っているんです。あと、参集殿があるんですが、そこは本殿にお参りに来た人のたまり場か休憩所みたいな所で、それから、斎館という神職が潔斎する場所がある。いわゆるお祭りなどのために体を清めるための山篭りのような部屋が必要で、斎館棟と社務所棟の二つを金刀比羅宮の自然環境の中で、違和感なくまとめていく設計・施工を鈴木さんと清水建設にやってもらっています。

岡部:その建物のコンセプトは何でしょう。

田窪:僕が考えたのは、グランドレベル以上は平屋で、いわゆる檜皮葺とか、せいぜい屋根瓦くらいで伝統的な木造建築にしようというものです。そのかわり、表に出ない部分に現代的な大きな空間を作ろうと決めました。あと、垂直の石の擁壁を考えましたが、3つか4つのコンセプトを鈴木さんに伝えて、それ以上は建築家の好きなようにやってもらっています。

05 アーティストとプロデューサーの差

岡部:ご自分のプロデューサーとしての活動と、ご自分の作品との兼ね合いはどうなのでしょう。

田窪:教会の経験でいえば、順番があるんです。まず、大工さんだとかガラスアーティストだとかのリーダーを作って、それから職人さんを呼びます。だから、絵を描くのはすぐできますが、チームでやると、反対にそこに辿り着くまでにはいろいろな条件が整はないといけない。日本に帰ってきた時に、僕は絵描きじゃなくプロデューサーになってしまったとよく言われたのですが、実際にそうだから仕方ない。僕はそう言われることを嫌だとは思っていなくて、理想的な絵を描くために実際にプロデューサーという仕事を僕はしている。だから、何故、展覧会をやらないのかとか、絵を描かないのかと友達にも聞かれるんですが、全ての準備が整ったらまた絵を描く出しょうと答えてます。5年か10年後かもしれないですが。

岡部:楽しみですね。で、今は、オーガナイザーとして金刀比羅宮の展示スペースを使って、展覧会などの企画をなさっているのですね。

田窪:はい、そうです。若冲の展示の他、今は大原美術館との交流展をやっています。ただ美術作品を並べて、お茶を飲むだけで満足するのではなくて、もう少し活性化させたい。だから、ある意味でプロデュサーの仕事はクリエイターです。しかし、日本では明治の教育が間違っていたのか、ハイアートとローアートみたいに、油絵や彫刻はファインアートだけど書道は第二美術だといった感じがあり、学芸員やプロデューサーは純粋アーティストではないという見方があるんじゃないかと思います。

岡部:最近は田窪さんだけではなく、村上隆さんなどを含めて、アーティストがオーガナイザーやキュレーターをやるようになってきていて、かつてのような考え方は少なくなってきたと思いますけれど。村上隆さんはプロデューサー的なところもあるし、実際には教育者としての活動もしています。田窪さんにもぜひ次の段階では教育に進んでいってほしいと思っているのですが。

田窪:いや、まあそれは今の段階では申し上げられませんね。でも、その様なことは十分設計図の中には入っていますよ。しかし、今は色々な人と関わって仕事をしているので、迂闊なことが言えないんです。だから、10年後ぐらいにはそのようなことも形として表れてくるかもしれないです。今、大原美術館の高階秀爾館長たちと交流させていただいていますが、結局、作家としてできる仕事と美術館の館長としてできる仕事には、基本的に教育が大きくかかわっています。僕は、今日本ではカテゴライズすることが、一番悪いところだと思っています。もっと、素人でもいいんじゃないか。とにかく自分が楽しむことが大切だと思います。

岡部:はい、そうですね(笑)。どうもありがとうございました。

(テープ起こし:小島梨沙)


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