Cultre Power
artist鈴木淳×中崎透/Atsushi Suzuki×Tohru Nakazaki





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批評    

ひとの意識と意識の隙間みたいなところにあるものを突いてくるような展覧会 だと思った。言葉にできないけれど心に引っかかる何かを表現するのが巧いのだ。壁に貼りめぐらしてあったひょろっとしたメモ書きの数々が、私はとても好きだと思った。何故かと聞かれるとうまく答えられる自信はない。言葉にできる枠に入らないところで、感情が動くのだ。読んでいるとくすっと笑うんだけれど何がおかしいのか聞かれるとこれもうまく説明できない。ユーモアと馬鹿馬鹿しさと適当さの中に、チクリと毒がたまに効いている。このバランスの良さなのか悪さなのか、何かよくわからないけどギリギリ面白い、といった感覚だ。  

中崎透さんのカラフルでキッチュな看板の数々はどこか懐かしくて、どこか素朴で、それでいてどこかエキセントリックで、惹き付けられるものがあった。国の名前がカタカナで描かれているのだけれど、カタカナで描かれることでその名前が本来の国を指す言葉というより、何らかのイメージを喚起させる言葉としての意味合いといった、記号的な側面を持っているということが表立ってくるような気がした。それによってみる者は、自分が普段無意識に抱いている根拠も何もないイメージに気づかされ、 意識させられる。  

鈴木淳さんの映像作品では、特に気になったのが「越境する人々」という作品だ。どこかの公園のような場所へ入ってゆく人たち、そこから出てゆく人たちがつぎつぎ低い柵を越える。その映像が5分間延々と続く。それだけなのにこの説得力は何なのだろう。いや、それだけだからと言うべきなのだろうか。名前のない出演者たちが無意識に柵を、境を、『越える』。行為をする人たちは明らかに無意識にしているようだが、それ故に越えるという行為の純粋さというか、これも何と言ったらよいのかわからないけれど何かの輪郭がうっすら見えてくるような気にさせられた。それから、これだけ大勢の知らない人が同じ行動をしている映像を連続してみていると、全員違う人のはずなのに全員同じに見えたりする。私自身がアイデンティティだとか無名性だとかいうことに興味を持っているからかもしれないが、これを撮った鈴木さんという人はその辺のことについてどんな考えを持っている のか知りたくなった。そしてその無名性というのが、さっきも書いたけれど行為の純粋さを増して、みる者に不思議な感覚を与えているという部分もあるのではないだろうか、とも思った。  

二人の作品に共通して感じたのは、「東京」だ。東京という街の独特さ‥新しくて、古くて、最先端で、ノスタルジックで、モノやヒトがひたすら集まって、混ざって、分離して、 また融け合って‥という、言葉では表せない『東京らしさ』を感じた。  

αMプロジェクトはいつも小さな画廊でやるので、絵画の展覧会の時などは多少物足りない印象を受けることが多い。しかし今回の、中崎透×鈴木淳展『Favore-どうぞ』という展覧会、これは形式として見ると映像作品が中心ということもあって、会場の狭さがあまり気にならなかった。スペース的な奥行きのなさというのは、ともすると作品によくない意味で影響を及ぼすことが結構あるのではないかと思う。その意味で今回の展覧会は、狭いスペースでの映像作品の生かし方など、勉強になった。
(須田百香)  

中崎透さんについて。まずあのart space Kimura ASK?ギャラリーに入って、「明るい!」と思った。目の前には、数々の看板がでーん、と飾られていたのである。今回この展覧会に出されていた看板はひらがなの、あいうえお順の並びに、その文字で始まる都市の名前を看板化したものだった。一言で言うと、それは「ポップ!」という感じだろうか。時にその看板には可愛らしい動物が現れたり、しかし一変して急にシンプルになったり、格好の良さも表れたり、また男性が作ったとは思えない程、ガーリッシュなものもあった。それらはまるで、ある寂れた町の片隅にたたずむ飲み屋の看板が集結したように、異様な光を放ってそこに飾られていたように私は感じる。どこか人をニヤリとさせるような、そんな異様な光だ。今回この展覧会の二人に共通するのは、「人をニヤリとさせる異様さ」だ。とにかく、そんな看板を作った中崎さんだが、では何故看板なのだろう。看板とは、店・会社などの場所をその名称を通して世の中に対し主張する、空間を伴ったとても重要な手段だと思う。「ここが○○だ」と。看板は言っているのだ。看板は、街の口かもしれない。看板は自ら言葉を発しているのだ。そうだ、今回はこの「街」というものも、この二人の展覧会で共通するものになってくると思う。そして中崎さんの看板に話を戻すが、中崎さんの看板はその名前だけを主張するという点も重要だと思う。今回の都市の名前だと、日本人にはなじみのない言葉の響き・発音がある。ピョンヤンだって、普段ニュースでは聞いているけれど、実際日本語として聞くピョンヤンは、言葉の響き・発音としてはある意味滑稽とも言えるのではないだろうか。インパクトのある都市の名前は、その言葉の響き・発音の、ある種の滑稽さを中崎さんは上手く看板として表していたと思う。  

鈴木淳さんについて。映像作品を撮っておられる鈴木さんだが、上でも述べたように、彼の作品にも共通するキーワードが「人をニヤリとさせる異様さ」と「街」だ。鈴木さんは、主に街で人間を撮っている。それは監視カメラのように、人を観察している。『越境する人々』は延々と柵をまたぐ人が映っている。そのわざわざ足を上げてどこかへ行くという行為を、冷たいまでの冷静な目を持って、鈴木さんはカメラの向こうで息をひそめて見つめていたに違いない。「街」で起こる、何気ない日常の中にある「人をニヤリとさせる異様さ」に、きっと鈴木さんは誰よりも敏感なのだ。実はよく見ればおかしな行為、それが鈴木さんの映像作品の中にはしっかりと刻まれている。だから例えば『越境する人々』で、足をあげて柵をまたぎ、どこかへ行く人々を、観客である私はその柵を越える時点で「あっち側」へ行ってしまった人々として見るのだ。他の作品では、題名は忘れてしまったのだが、紅白歌合戦の最後、出演者総勢で蛍の光を大合唱中の様子を映すTVを写している映像が私は忘れられない。あの大晦日、年越しまであとわずかだという、わーっという高まった感情が現れたその様子を、鈴木さんのカメラはこれまた冷静な眼差しで捉えている。大晦日でも何でもない日にみると、やっぱりそれに「人をニヤリとさせる異様さ」を感じない訳にはいかないのだ。今回この二人の展覧会、この二人の共通するおかしなテーマの下とても楽しめた。看板・映像と、一見関わりのないような二つのものだが、どれも私たちが普段、気付いているようで気付いていない、重要な「おかしな」ものなのかもしれない。
(小橋未喜)  

先日の横浜トリエンナーレ最終日、私は変な風貌の人と偶然会った。パンダの着ぐるみを着、腰に小さなパンダの着ぐるみをはさんでうろうろしている中崎透であった。「中崎さん!」と驚く先輩を横目に、呆然とする私。「この人があの人?」αMで見かけたサイケな格好をしているアーティストの中崎透は横トリでも予想を裏切らなかったのだ。  

そんな彼の作品、「看板屋なかざき」は突拍子も無い。明らかに俗っぽい看板がαMの一番奥の壁一面に羅列してある。シャンハイとかミュンヘンとか、明らかにその都市のイメージとはかけ離れた図柄が用いられていて、とてもアンバランスだ。そしてその脇を固めるように、壁の他の面に、メモ帳やノートの切れ端が貼付けられている。メモ切れを見てみると、そこには国の名前や都市の名前の「あいうえお作文」のようなものが記されている。その文章は下ネタや時事ネタや、アイドル、スポーツの話に溢れていて、どれもこれも全く脈絡がない。  

私が思うに、中崎透は「看板屋なかざき」というプロジェクトにおいて、言葉と言葉の意味を切り離す実験をしているのではなかろうか。ただ単なる言葉あそびではなく、彼は明らかに固定された「ものの見方」を逸脱する方法論の一つとして、「看板」を提示している。ナンセンスと感じれるほど、べたべたに俗っぽいフォントに落とし込んだ「ある言葉」と、それに全く関連しない図柄を、わざと共存させて、新たな意味を発生させる。あたりまえのことをあたりまえと受け入れてはならない、常識に対するひとつ の足掻きや抵抗を、私はここに見たのだ。  

一方の鈴木淳の作品「だけなんなん So what?」は、久しぶりに好きな映像作品たちであった。俯瞰で固定、水平垂直を思わせる構図に、私は心奪われて、すっかり見入ってしまった。  

「108 猿の愛」はリズムがたまらなくいい。動物園のカゴの中で、餌が欲しいのかストレス発散なのか、猿がひたすらぐるぐると飛び回っている作品だ。猿のなかにも一定のリズムがあって、ひとしきり飛び回ると動くのをやめ落ち着くのだ。その行為を繰り返すうちに、飼育係のおじさんがやって来て、その猿をぎゅう、と抱きしめ映像もそこで終わる。反復を待っている期待感を止められた歯がゆい感じや、よかったねおじさんが来て!と猿に寄せるなんともいえないあたたかい気持ちがどっと押し寄せる。そこに鈴木淳の編集の妙を覚えるのだ。  

「126 ランニング・ボウリング」こちらも反復、連続、繰り返し繰り返し、という印象が強い。ボーリングのレーンを横から俯瞰しているだけの映像なのだが、右から左へと転がっていくボーリングの球をずっと見ていると、時折球を取りに走る人の姿が見られる。私はそれを見るたびに「ぷっ」と含み笑いをしてしまうのだ。その笑いは、日常の中でとした瞬間に居合わせ、そこで起きる感覚に近い。  

そこで思い出すのが、「人間観察」という言葉だ。街のなかや、電車の中、入ってみた喫茶店の窓から、自分とはなんら関係のない他人をじーっと見る、この行為。趣味ではなくても、無意識にやっている人は多いのではないだろうか。人間観察中に起こる「ちょっとおもしろい、特別な風景」、それを鈴木淳が具現化したのだ。鈴木淳は作品によって、見ているその人があたかも自分が人間観察をしているような気分へと陥らせる。つまり彼は、俯瞰する画面や小気味いい編集を駆使して、日常で感じられる特殊な感覚を映像の中に発生させてしまったのだ。  

「Favore−どうぞ−」という展覧会名から、「どうぞどこからでもご覧になって下さい」という後ろに続く言葉が頭に出て来た。日常何気なく使っている言語を素因数分解して純粋化する中崎透と、日常何気なく見ている景色を嫌みの無い方法で演出して特別仕様で見せてくれる鈴木淳。つまりはどこからでも見ればいいのだ。展覧会だけでなく、まさに今生きているこの現状すら、どこからでも見ればいいのだ。問題はそれをどう味わうか、 そしてそれをどう消化するかにある、ということなのだ。
(松原由布子)

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