インタヴュアー:岡部あおみ 岡部あおみ:重森さんがフランスに行かれたのはどういうきっかけですか?
重森三明:フランスに行く前に、一年程この近くの関西日仏学館でフランス語を勉強して、その後パリでエコール・デ・ボザール(パリ国立美術学校)の試験を受けて受かりました。
岡部:試験難しかったでしょう?
重森:結構むずかしいけど、作品審査で入れるんです。入試科目が日本のようにデッサンとか色彩構成だったら、落ちていたかもしれない。
岡部:そういう意味ではわりと楽ともいえるのかしら。
重森:一応芸大みたいなこともしなくちゃいけないんですよ。僕なんかは国内の大学はデザイン科出身だったので、ヌードデッサンなんかやったことなかった。いきなりパリに行って、初めてヌードデッサンをやって、やばいなーっていう感じ。でもなんとか通常制作した作品をプレゼンする作品審査で入れたんですが、いわゆる教官との面接での作品説明が一番重要なんですね。それが結構評価された。その後、イヴ・ミショーという当時の校長が学校の入試システムをどんどん変えていきました。海外や地方から編入学を希望する生徒のために、一次は実技試験なしの書類審査で選考して、その後で教官との実際の面接をやって、2年目とか3年目に編入しやすいようにした。そうすると、フランス各地のマルセイユとかボルドーとかリヨンとか、各地のボザールの学生が途中でどんどんパリに編入してくる。学校の正式名には、エコール・ナショナル・シュペリエール・デ・ホザール(国立高等美術学校)という“シュペリエール(最高レベルの意)”がついているんですけど、以前はパリのボザールって現代美術ではダメだったんですよ。
岡部:伝統的なシステムのまま続いてきてしまったから。
重森:そうなんです。ですから教室の設備も本当にひどかった。それこそ当時はCAPCボルドー現代美術館や、グルノーブルにマガザン現代美術センターができて、地方からどんどん良い作家が出てきた。そういう現象を当時のディレクターが危惧して、その校長が組織をかなり変革したんです。
岡部:私がボザールで2年間教えていた非西洋文化講座という比較文明講座も、学生からの要望を受けてイヴ・ミショーが校長のときに始まった講座でした。
重森:そういう講座は以前は全然無かったんですよ。彼がやっぱり頼んだんですね。
岡部:そうです。私も2年間続けて担当しましたが、3−4年で校長は代わるので、彼が辞めてからは、その講座自体が無くなってしまった。重森さんはフランスに何年位いらっしゃったのですか?
重森:7年半程で、1997年に日本に帰ってきたんです。
重森:Shima/Islandsのプロジェクトをはじめた背景には実家(重森三玲旧宅、主に江戸期の建物)の保存問題があります。祖父母の死後、相続税や毎年毎年の固定資産税だけでも大変な負担でした。実家を処分して相続問題を解決するか、保存維持するかで親戚や両親は悩みました。維持するにはお金がかかりますし、共有の財産ですから分けないわけにはいかないという問題が発生しまして… 個人的に私自身はものを造る方の立場ですから、ヨーロッパに拠点をもって活動した方がいい部分もあります。今はだいぶ日本の状況も変わってきましたけど。
岡部:そうですね。
重森:だから、パリで暮らしていた頃は、希望としてはヨーロッパで活動を続けたいというふうに思っていました。でも私自身が帰ってこないことには両親だけでは心配ですので、どうしようかなと考えていたときに、日本にCCA北九州が出来るということを知りました。そして、CCA北九州という機関が当時パリにあったポンテュス・フルテンが創設した研究・教育機関の後を継ぐようなものであることがわかった。私はボザールを卒業してから、まずパリのフルテンの学校に進みたいと考えて、一度応募したんですが、最終選考で落選しました。そして、もう一回挑戦しようと思っていたら、パリの学校自体がなくなってしまった。結局、選択肢としてはNYのホイットニー美術館のプログラムに応募してみるか、オランダのライクス王立アカデミーなどのポストディプローム(学士課程以上)、つまり若手アーティストとしてやってる人間が一旦そういう場所に集まってみんなで話し合いながら何かをやっていくところ、たとえばPS1とか、制作と研究を続けながら活動が出来る場所を探していました。実はそのときにひょっこり日本からCCA北九州設立についてのニュースが来たんですね。ちょうどボザール卒業時にお世話になっていた先生などがCCAに教授として招聘予定だったり、マリーナ・アブラモヴィッチに出会ったときに、彼女がCCA北九州のインターナショナル・コミッティーのメンバーで、「こういうことが日本でも起きてるから、別にヨーロッパとかアメリカとかにいなくても、これからは日本で出来るじゃないの…」と、CCAを薦められたわけです。そして、CCAの資料を取り寄せてみると、本当に面白そうなプログラムだったので、これに参加すれば一応日本国内にはいられるし、京都に帰ってきて問題にも対応出来ると、1997年に日本に帰国してCCAのリサーチ・プログラムに参加しました。北九州には2年いまして、99年に京都に帰ってきたんです。
岡部:ポストディプロームのプログラムの多くは、学校というより、一種のアーティスト・コミュニティの形成場のような感じですね。
岡部:お父様は何をなさっている方ですか?
重森:うちの父親はもう退職したんですけど、以前は、大学で社会科学の教授をしていました。
岡部:重森三玲氏のような芸術文化関連のお仕事ではなかったのですね。
重森:どちらかと言えば祖父の娘にあたる母親が日舞と邦楽の方で家元をやっており、今も現役です。結構面白いのは、元宝塚音楽学校の教授でもあり、活躍されているスターなんかも教え子でしたから、子どもの時に劇場の舞台袖に連れていってもらったりしたけれど、だんだん観に行くのが恥ずかしくなった。
岡部:重森さんはパリに行かれる前は、京都のお宅でずっと育ってこられたのですね。
重森:そうですね。実家の庭は子どもにとっては遊び場でもあり、苔の上なんか歩くと怒られましたけど。やはり家に対する思い入れはあります。
岡部:実際にその家屋で過ごした経験があるのとないのとでは、かなり違いますよね。愛着の点で。
重森:それと、やはり決定的なのは数年間ヨーロッパで生活したことですね。
岡部:海外における日本の再認識といったことは、私にもありました。
重森:文化財を残すっていうか、時間のスパンを考え直させるものは大切です。
岡部:古くていいものを壊してしまったら二度と造ることはできないのだという点を、みんながもっと真剣に考える必要がありますよね。日本ではそれがだんだん失われてきていますから。
重森:そう、だから調和していくっていうこと。新しいものも大切ですけど、やっぱり古いものとの対話、自分たちは今ここでしか生きてないわけだから、歴史的認識を考え直させてくれるものが大事です。例えば、京都のある一定の区域なんかで全く古いものだけを遺すというのとは、ちょっと違うと思うんですよ。現代とのやりとりを通して、自分たちも今生きているといった認識が生まれてくる。こういう古いものがあって、なおかつ新しいものを生み出す要因になるから保存する。たんに伝統を守るというかたちではなく、これからのクリエーションの為に必要な素材であるという意味です。そういう素材が失われていったら、一人のクリエーターとしてあるインスピレーションの泉をなくすことになる。もちろん古い家で産まれ育ったというのはあるし、やはり祖父の業績に対する敬意もあります。だから国内だけではなく、海外の人たちも含めて、こういう古いものを観て何か考え直せるきっかけになるのではないかと感じて、ここは残したいと非常に強く思いました。そこで何とかならないかと。自分自身も一応作品がつくれますので、ここを会場にして自分で展覧会をやったらどうかと。当時はまだパリ在住の終わりの頃ですが、日本に一時帰国して1996年に展覧会をやり、家を一般公開しました(当時、重森三玲生誕百年を記念する意味合いもあって開催した)。この個人宅での展示の背後にどんな問題があるのか、相続とか、ここが残るかどうかということなどを、一般市民も含め、皆で一回考えてみることを前提にやりました。その後、けっこう反響とか、見にきてくれた方とのつながりやいろんな方との出会いがあり、他にも京都の町家で、大変貴重なお住まいがあって、同じような問題を抱えておられたので、そういう個人宅の所有者がネットワークを組んで、公開でも非公開でもいいのですが、そうした場所を舞台に何かできないか、活用できないかと考えはじめました。例えば非公開でもそこで撮影して何かに使ってもらうとか。あるいは、哲学者や文学者、誰でもいいのですが、その場を体験してもらっていろんなインスピレーションを得てもらい、彼らの活動に活かしてもらう。5軒くらいの町家を連動させてネットワークを作り、もう少しインパクトのあるプロジェクトを立ち上げようとやったわけです。
岡部:それは個展をなさった1996年くらいから開始したのですか?京の町屋を舞台に、ミラノ在住の長沢英俊さんがすばらしい個展をなさったのを見たことがあります。
重森:長沢さんの町屋の個展はもっと前だったと思います。僕たちは1997年の2月にネットワークづくりを開始しました。
岡部:大きな町屋で本当にすてきな個展でしたが、相続問題などで今はすでに壊されてしまったと聞いています。保存は大変だろうけれど、日本でも希少な文化財ですし、あんなにいい場所を壊されるままにしておくというのは、一体、行政はどうしてボヤボヤしているんだって思いました。
重森:行政だけに責任があるのではないし、いろいろ難しい問題がたくさんあります。そこで、町家を文化的に保存活用するネットワークを作ってやりかけたんですけど、他のお宅の方は現代美術などの新しいものをあまりご存知なく、まず古いものが中心でした。平安時代から脈々と流れてきた行事とか、祇園祭りといった伝統がメインになる。そこでCCAにいるときに、一人でやった方がいいんじゃないかとだんだん思い始めてきたわけです。当時、CCAを訪問した人物で、我々のプロジェクトの共同企画者の一人になる若いイギリス人のインディペンデント・キュレーター、ダニエル・マックリーンと出会い、彼と一緒に京都で何かやろうと考え始めた。
岡部:彼はアーティストのマックリーンの息子さんですか?
重森:いえ、そうではないんです。南條さんのところに1年ほどお世話になっていて、ロンドンのコートルードの出身者です。Shimaの企画は、当初、私とダニエル・マックリーンが中心でしたが、今は4人いて、毎回、担当キュレーターを決めています。
岡部:展覧会の参加予定作家は、国外と国内の両方ですね。
重森:そうですね。国籍のこだわりは全くなくて、特殊な場所ですから、既存の建物と庭を活かし、ここで何かできる能力が重要。誰でも出来るわけじゃないですから。しかも、いいものを提出できる場は限られていて、ホワイトキューブとかミュージアムのスペースですごくいい作品をつくっても、ここで上手くいくかどうかには疑問がある。だから、最初はこういう作家にアプローチしてみようとリストを作ったんですけど、20人くらいしか作家の名前が挙がってこなかった。あとは我々の好みもありますし。
岡部:空間に対する感性が鋭くないとね。世代的にはどうですか?
重森:世代については、若手から、ご年配の大作家まで。基本的に、ここで何かを作ってもらうことで、この場所が存在したことによって新しいものが出来たというふうに繋がっていく。
岡部:なるほど。最初の展覧会が2000年の9月でしたね。
重森:9月16日にスタートして展示期間は1ヶ月ほどです。個人宅なので、公式の会期は2週間で、その後は予約を取って見に来ていただく。
岡部:2週間といえど、公開中は重森さんがずっといらっしゃって案内したりなさるわけですから、大変ですね。
重森:その間は自分のことは完全に何も出来ないですから、一応2週間は責任を持ち、その後は、こちらの都合と調整しながら開けるわけです。最初のオープンはガブリエル・オロスコ展、その後、1作家ずつ、異なる季節に分かれて開催します。
岡部:ガブリエル・オロスコの作品は知ってますが、おもにインスタレーションで、扇風機を使ったりいろいろありますが、ここではどういうものだったのですか?
重森:通常、ここは夏には簾がかかります。彼は金沢21世紀美術館にも招聘されて、1999年の6月に初来日しました。列車で地方を移動する時に郊外にでると、日本の田畑とか田園が害虫予防の為に網の防虫ネットで完全にしきられている。ビニールシートではなくて網ですので、背後の風景が透けて見える。日本の緑豊かな田園風景がこのブルーのネットで青色に着色される。そういう光景にガブリエル・オロスコはハッとしたというか。京都の現場で彼が想い付いたのが、書院の周りをブルーのネットで完全に覆ってしまうという案です。もともと縁側のぎりぎりの所に簾がつれるようになっていたので、それを利用しながら設置した。そして、通常の簾を並べてつると間に隙間が出来るので、それも活かそうと。で、このブルーのスクリーンネットを通して庭を見ますと、青みがかってみえる。でも観客が歩きながら見ると通常の庭も見える。で、ちょっとこう一歩前に進むとまたブルーになるという交互の見え方がでてくる。
岡部:観客の身体性とムーブメントと空間の相互作用があって面白いですね。そのときの経費はどのぐらいかかったのですか?
重森:プロジェクト開催のために助成をうけました。そして足りない部分は、私がプロジェクトをサポートするために銀行ローン(キャッシング)のお世話になったり。ガブリエル・オロスコが2000年6月に来たときは金沢21世紀美術館が招聘して、その時に京都に来て、何を作るかを全て決めた。9月のオープンには彼の地元メキシコ市での最初の大きな展覧会があり来日出来なかったのですが、6月にすでにかなりつくりこみ、あとの設置はこちらでやった。だからこの時はラッキーなことに作家の海外からの招聘経費はかからなかったのです。
岡部:作家の招聘代がかかると低予算では無理ですからね。
重森:大変です。我々は営利団体ではないので、基本的にはアーティスト・フィーも出せない(企画者も皆ボランティア)。
岡部:そういう条件を最初から提出して協力してもらうんですね。これまで来てもらいたいと思ってコンタクトしたけど断られたご経験はありますか?
重森:というのはないですね。これも奇跡的。
岡部:説明してその内容に共感してくれるということですね。
重森:こちらも狙いを定めてこの人は必ずやってくれるという人に要請するし、どういう作品を出してくるか、なんとなく想像できる。ここでのそうした面白さは間違わずにうまくいった。
岡部:次に企画なさっているのが韓国出身でパリで活躍しているクー・ジュンガですが、今週の金曜日にオープンだとすると、今かなりお忙しいでしょ?
重森:作家が設営の準備をしてるところです。今回は我々で招聘しましたので結構大変。しかしフランスの芸術活動協会(AFAA)が協力してくれています。クー・ジュンガはアジア系の若手で一番忙しい作家の一人なんじゃないですか。友達というほどじゃないんですけど、僕と同じころにボザール行ってた人です。来日は3回目くらいで、長谷川祐子さんが企画した「パッサージュ」展に出品して、世田谷美術館から広島市現代美術館に巡回しました。昨年の越後妻有トリエンナーレでも、家の模型をつくってました。
岡部:展覧会のスタッフはどのように見つけられたのですか?
重森:昨年オープニングのギリギリの時に受付や案内を手伝ってくれる人を探さなくてはと、原久子さんに紹介をお願いしたら、平野さんと酒井さんの二人の女性を紹介されて。
岡部:平野さんは初めての体験でしょう。最近はお寺などでも展覧会をやっていますが、こういう場所での展覧会はあまりないですし。
平野愛:普段、ギャラリーといわれているところでお手伝いすることが多かったんですが、こういう場所を使ってというのは初めてで、来られるお客さんの反応が全然違うんでびっくりしました。(当時京都造形芸大の4年生。展示空間についてギャラリーや美術館と比較した卒業論文を準備中で、Shimaプロジェクトの展覧会をお手伝いされていた。)
岡部:どんなふうに違いましたか?
平野:まずよく喋る。私たちが案内するのと一緒に1つ1つ感想を言って下さるのが面白かったです。
重森:場所がこういう場所なんで作品の鑑賞だけで済まないわけです。普通の美術館で、結構大規模なものでも30分あったら見られる。オロスコ展に限りますけど、ほとんどの人が会場に1時間必ずいるんです。帰りたくないというか、もう少し見て何か考えたり。私がご案内すると1時間中喋りっぱなしの対話になりますね。
岡部:お客さまは一日にどのくらい来られたのですか?
重森:平均すると数名で、1人の時もありました。
岡部:でも各人が1時間も滞在なさったら、なかり忙しいわけですね。
重森:最高の日で25とか30人くらい。 ただこの部屋に10人も入ると襖や土壁を破損する恐れがあるので危ない。コンクリートでできてませんから。我々も注意して。あと、日本の空間は5人くらいでのんびりと、間があるからいいわけですが、人でうめてしまうと人を見ているようになりますね。
岡部:空間的に広くて閉ざされていないから、話をしやすい環境ですよね。秋だから全部開放なさっていたわけでしょ。
重森:表通りから入って180度環境が変わるじゃないですか。それこそ普通の住宅地にこういう環境があるとは想像がつかない。日常性と非日常性の間の往復で、何か新鮮なものがあると思うんです。
岡部:そういう新鮮なものを感じで、自分でも表現したくなってくるのですね。みなさんのそういったさまざまな話をお聞きして、平野さんは卒論の観客論にまとめられたのですか?
平野:はい。取り入れさせてもらいました。お客さまの対話風景を見た時に、これだ!って思いました。卒論を書き始めた頃はテーマもあやふやで、新しい展示空間って何だろうと結論が見えていなかったんですが、プロジェクトのお手伝いをし始めて、重森さんといろんなお話をしているうちにだんだんまとまり出して…。写真も撮らせてもらったんです。やっぱりその姿自体が珍しかった。観客の人数も少ないですから、一人でボーっと見ている方もいました。
重森:会期中の会場時間は1時から6時だったんですが、3時くらいに来た人が日没で庭や作品が見えなくなるまでいたこともあります。電気をつけてあげればいいんですけど、除々に西日の移りこみが暗くなってくるのがオロスコの作品を通して感じられて、みんなハマってしまう。真っ暗になる視界の限界まで、庭石のシルエットが見えなくなるまでいるとか。
岡部:どういう方が来られたのかはわかりますか?
重森:芳名録はなかったので名前は書いてないんです。メールで観覧予約をとりました。
岡部:招待客とかには、やはり美術関係者が多かったですか?
重森:見に来てくださった方の半分は招待客。関係者は3分の1くらいでしょうか。
岡部:全然何も知らなくて、初めて好奇心で来られた人と関係者は対応がやはりかなり違うでしょうね。
重森:そうですね。現象としては、日本での展示は初めてなので、ガブリエル・オロスコをぜひとも見たいという現代美術目当てと、重森三玲を知っていた人の二通りですね。この両方を知ってる方は少なかった。
岡部:重森三玲は若い人でも知っている人が多いのですか?
重森:結構若い人も。1年程前にNHKの新日曜美術館で特集していただきまして。それで結構覚えていた人がいる。ガーデニングではなくて、庭をアートとして見直そうという傾向もあり、観客としては、一般、美術関係者、アーティスト、キュレーター、ギャラリスト、学生、庭園愛好家、建築関係の方などですね。
岡部:平野さんは展示に関する卒論で、アンケート調査を手がけられたようですが、ギャラリーや美術館でアンケートをなさったの?
平野:あまり限定しないで、とったんです。美術館などの展覧会に行った場合、作品以外に関心物はあるかとか。照明とか壁とか、いったい人はどんなところをみているのか知りたくて。結局120名ぐらいの回答が集まりました。
重森:いわゆる美術を知った人じゃない声が入っていて、ある意味で非常に貴重かなと。業界の人間は一般の人たちを結構無視してる。自分たちのほうがインテレクチュアルって自負して仕事してますから。
岡部:重森さんご自身は、オロスコ展のアンケートの結果を読まれてどう思われました?
重森:彼女には短い期間ですが展示が始まってから手伝ってもらい、文章を読ませてもらった。その中で非日常と日常の差、作品が環境に溶け込んでることなどを非常によく感じ取り、理解してくれていたので驚きました。ここには非日常の機能があるがゆえに、人の目がものにいかない。その周りを含めた関係を見て楽しむ。
岡部:ええ、わかります。ある意味では、それ以上の周囲というものが消えてしまう時空間でもある。
重森:我々の認識ではガブリエル・オロスコは若手ではトップクラスですが、平野さんはガブリエル・オロスコを知らなかった。ですからそういう真っ白なところで受けた感覚的なものとか、そういう認識ではない部分が素直な生の声としてでている。逆の言い方をすると、ある程度ものがわかってやっている人の声と全く何も知らない人の感じ方がそう違わないということ。結局、一番悪いのは中途半端なある程度の知識だけで威張っている人たち。彼女の論文をちゃんと見たらアーティストにも為になるんじゃないかな。
岡部:アンケート用紙は置いておいただけですか?
平野:置いておいたのと配ったのと2つあります。
岡部:随意に書いてもらうだけだと、書いてくれる人というタイプがある程度決まってきませんか?
平野:そうですね。けれど普通に書いたら30分はかかるようなアンケートでしたから、回収ポストを作ってそこに投函してもらうようにしました。
岡部:そうするとよけいに、30分もかけて書く人は、よっぽどアートが好きじゃないと書けないのではないかしら。120人のアンケートの分析にしても、分析の仕方によっていろいろな解釈ができますよね。厳密にいえば、平野さんの分析方法によるわけだけれど、この調査をなさった前後で、芸術の鑑賞についてご意見が変わりましたか?
平野:確認ができました。
岡部:ある程度、想像していた通りだったということですか?
平野:想像していた通りか、全く逆かのどっちかだと思ってたんですね。例えば私が美術館に入った場合、天井の電気の配線とかキャプションの素材とか作品以外のとこ ろにも気をとられるのですが、それは私だけかと思っていたけど、他にもそういう人がいることがわかった。そうすると展覧会をその後見るときに安心感がある。逆に言えば、みんな興味のある範囲のことなんだと確認できて、そういう作品以外の部分を考えたりしてもいいんだと思いました。
岡部:そうした自分自身の気になる部分への安心感以外に、他に何か発見がありましたか?
平野:アンケートをとった時点で気づいたことですけど、作品を批評するだけじゃなくて、その作品を含めた空間全体を楽しむという実態があることでしょうか。それから、アンケートに答えてもっと展示をみるようになった、という回答者からの声が多かったので、それは面白い展開だし、嬉しかった。
岡部:それはオロスコ展を訪れた人だけではなく、他のスペースでのアンケート回答者もですか?
平野:そうですね。普通のギャラリーに行った人も、この論文を読んでくれた人もそういうふうに言ってくれて、あっ、それだけ意味があったんだなと思ったんです。
岡部:回答者の性差、女性と男性の比率はどうでした?年齢的には?
平野:70:30ぐらいで女性が多く、20代がほとんどです。30代から60代までいますが、他の世代は20%ぐらいですね。学校で配ったので学生が多いということもあります。
岡部:重森さんは、この成果を読まれて次の展覧会に活かしてみようと思われましたか?
重森:あまり観客の反応を意識しない方がいいんじゃないかと思いますし、非常に難しいと思いますけど、コントロールするのは良くないかなと。彼女も言ってましたけど、周りというか、環境、関係性が見えたほうが物がリアルに存在する。だからある意味で一人一人、作る側も見る側も、一種のアートの劇場化っていうか、シチュエーションを含めた作品を好み、端的なものを鑑賞するのではなく、何かを生みだしたリアルなものとして感知できるとき人は楽しむんだなと思った。それを大勢の観客を対象にせず、1人1人にちゃんと鑑賞してもらいたい。あと、このプロジェクトを通して対話が生まれていくことを一番願ってますので、ここがもしだめになっても対話が残っていたらどこかで何かが発生する可能性がある。結局、美術って人ですから、誰かと誰かが会って何かやることを決めて、ものが動く。対話がないと信頼関係は生まれない。日本の美術の面白くない一つの原因は人間のあいだに対話がないことでしょう。
岡部:フランスに行くと余計感じませんか。フランス人はとてもよくディスカッションしてますからね。
重森:アーティストだってある意味で人のアイデアを盗んでるわけですよ。盗みあいながら、料理し直して。国内のアーティストの中ではみんなピリピリしたものがあって、よっぽど仲が良くないと、今こんなものつくっているということを見せない。批判されることを恐れる。別にケチをつけているんじゃないのに。
岡部:ヨーロッパはそういうところは比較的オープンかもしれませんね。
重森:攻撃ということではなくて意見として。自分はこう思うと言うことが大事です。ヨーロッパには「あなたがこう思うなら勝手にしなさい」といった冷たさみたいなものはありますけど、そういう姿勢自体が日本にはない。物をつくる人間として日常において批評を受けにくい。だから最終的にアイデアが切磋琢磨されない状態で作品化されていく。一人一人のアーティストは天才だと思っていて、自信があり、自分だけでものを立ち上げようとする。それで成功できる人は、ものすごいアイデアをもっていて、それしかやれない人で、そういう職人肌のアーティストは日本からも出てくる。ただ、これだけの国なのに揉まれながら育っていくのが難しい。それは日本にとってもマイナス。これだけのポテンシャルを持っているのに良い方向に変換出来ないのは辛い感じがある。もし流れとして良い方向にいけば自分もメリットが貰えるわけですから。何かラディカルに変えていきたいということではなく、人と人との対話が当たり前になるようになればいい。
岡部:3つのシリーズの展覧会が終わったら、ご自分の展覧会も考えていらっしゃいますか?
重森:だんだんオーガナイズの仕事が増えていくと制作がストップしてしまいます。それにアーティストとして他のアーティストを呼ぶのはストレスがたまります。
岡部:ええ、わかります。
重森:プロジェクトを立ち上げた一人一人のメンバーが個人の活動もしながら年に何回か一緒に集まって共同でなにかをつくりあげる。建築とか美術ということで、「箱」と「中身」の両方を展示できるようになればいいなと。
岡部:そうですね。作家活動と企画プロデュースの両立ができのが理想でしょうね。
重森:仕方なくみんな両立してやってるとは思うんですけど。
岡部:日本だとまだ少人数なので辛いかもしれないけれど、海外はわりといますよね。ただ仕事量が大変でしょう。
重森:アーティストで美術評論をやっている人もいます。でもアーティストであり、売り込み上手とはいかないから、そのへんが非常に大変。でも動かない限りは予算も集まってこない。ですから、仕方無くやっている。正直いって、私は電話一本もかけたくない。本来はその道にたけた人がやった方がいいし、そういう協力者を見つけられれば、いろいろとしっかりしてきます。
岡部:得意な人もいますから、安定してくるかもしれないですね。今は過渡期みたいな感じですね。
重森:そうですね。母体があって、マネージャーがいて、スポンサーも見つかれば、京都を拠点とせずに、何かノマド的にヨーロッパでも活動したいですね。
岡部:両方とも国際的でダイナミックな活動になるといいですよね。今の共同企画者ダニエル・マックリーンさんはロンドンでフリーのキュレーターをなさっているのですね。
重森:彼はインディペンデント・キュレーターですが、変わり者で、美術館の為に仕事をしたくないというスタンスがあるんです。彼はいま弁護士になる資格の準備をしてまして、既に弁護士事務所で働いている。コピーライト(著作権)についての国際法の専門家として生活を確保して、アートを企画することによってお金を稼ぐのではなく、法律の専門家として生活して、自分の稼ぎですとか、自分の空いた時間でフリーにキュレーションをする。今はパリやニューヨークでも活躍しています。
岡部:彼とは同世代ですか?
重森:いや、彼は一番若くて28才かな。ローレンス・ウィナーとかボルタンスキーとか、21才くらいで彼は重要な作家を集めて展覧会をやっています。
岡部:イギリスはYBA(ダミアン・ハーストのようなヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)のように、アーティストもキュレーターもすごく早くデューしますよね。大学時代から。
重森:普通は周りの人間(友達のアーティストなど)を見せるじゃないですか。でも彼の若さで重要な作家達と展覧会を企画したので、みんな彼がハンス=ウルリッヒ・オブリストみたいになるんじゃないかと期待したんです。そして、共同企画者の一人、ナタリー・ビィヨはフランス人で、今はパリ在住なんですが、去年までは京都在住で、関西日仏学館が我々のプロジェクトの共催者のときに、当時の館長の奥さんでもあった。奥さんで美術史家でキュレーターでもある。クー・ジュンガの担当なので、今、京都に来ています。
岡部:カリーナ・ダスカロヴという人はどういう経歴の方ですか?
重森:カリーナはダニエル・マックリーンの親友で美術史家です。ポーランド/ルーマニア系のオーストリア人です。アメリカ留学を経て、イギリスで4年くらい活動したんですけど美術史が専門なので、今回初めてキュレーションも担当した。彼女はダン・グレアムの知り合いというか、友人です。
岡部:それぞれ違うのでインシアティブの取り方は難しいとは思いますが、アーティストが自主的に展覧会などもオーガナイズしていくという方式が、これからも少しずつ増えてくるように思えます。
重森:本当はやってくれる人がいれば楽ですし、自分自身の制作現場に向かいたいのですけど、そうするとものが動いていかない。東京のコマンドNなんかも、しょうがなくてみんなやっているんだと思います。もっとアーティストとキュレーターが協力しあえればいい。
岡部:こちらは個人のお宅ですから、他の人が同じレベルで関わるのは難しいとは思いますが。
重森:確かに個人宅を会場にするには無理があり、両親と親戚の協力には感謝しています。もしも予算があれば、京都にも倉庫みたいなスペースがありますからどこか借りて、もっと自由にいろんなアーティストを呼んでもいいし、幅が広がり、いろんなことができるはずです。
岡部:そういうスペースをつくっていく時に、アーティストの場合は自分自身の制作物になるし、自分の計画に繋げていかれる可能性があっても、キュレーターの場合は、それで生きてくことも出来ないし、実績にするのもそう簡単ではないという問題があるかもしれませんね。
重森:それをステップアップに次のキャリアをつかむ。でも、本当に日本のキュレーターになる人のなり方って、大学の美学出身とかが多いですよね。おとなしい人とかインテリすぎる人とかが多いですから、結局アーティストと上手く合わない。常に評論しようという気持ちがある。だからアーティストも心を開かない。何か自分の知らないことをバーッと言われて、なんと自分は無知だったんだってショックを受ける。これも残念ですよね。もっと違うフィールドから、例えば広告代理店なんかで働きたいと思ってる人が美術業界に来てくれたら活性化するだろうに。アートもまだまだ人ですよね、結局。
(テープ起こし担当:夏目乃理子)
重森三明X岡部あおみ
インタヴュー協力:平野愛
日時:2001年
場所:京都・重森邸
01 パリのボザールの革新を目にして
02 日本にもどる
03 伝統と現代の対話を求めて
04 Shima/Islandsプロジェクトの開始
05 訪れた観客たち
06 アーティストは対話によって揉まれるべき
07 アートも人
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