culture power
artist 岡田裕子/Okada Hiroko
okada_hiroko
©Hiroko Okada








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イントロダクション

岡田裕子さんをレクチャーにお招きしたのは、ちょうど一人息子の寅次郎君が小学生になった頃だろうか。講義では岡田さんの仕事を中心にお話を伺ったから、とりわけ寅次郎君の話題が出ることはなかった。だが夫の会田誠氏の近著『カリコリせんとや生まれけむ』(エッセイ集、幻冬舎、2010年)の中に、岡田さん自身が書いた文章が挿入されていて、個性豊かで早熟な息子さんと学校規律のウマが合わない苦労話が出てくる。それはよくある母親のグチや自慢話とはまったく違い、未成熟でありながら大人を越えたところもある一人の他者に、彼女が向かい合おうとしている姿勢が真摯で胸に響く。その切実なまなざしは、社会制度への確かな問題提起を含みつつ、母親経験者に限らない多くの人々の心の奥にストレートに届く力をもちえている。

これまでもプライヴェートで身近な恋愛や主婦生活を題材にした作品を制作してきた。たとえば団地の平凡な主婦が透明ビニール傘を振り回して踊り狂い、最後は自殺を図る『SINGIN’IN THE PAIN』。彼女の実生活における破局の暗喩などと誤解されかねない危険なテーマだが、勇気をもってとりあげ、断崖絶壁に身をおきつつ自ら演じるという覚悟があってこそ、日常的な幸福の表層に潜む「主婦」の孤独と絶望と狂気をドラマティックに表現できたのではないかと思う。カトリックの女子高のおとなしい学生から、臆面なく路上パフォーマンスを繰り広げるアーティストへの進化?の過程で、アートの核ともいえる現実認識を自らの独自な思想の構築物として練り上げてきた。そして持ち前の明るさと寛容さが、弾力性のある創造力の世界を形成している。

青いパステルを食べてしまったという幼い息子さんの出来事が、危険な画材を使わない映像制作への移行を促したというエピソードはじつに自然で納得させられる。映像作品の主題は家族に内在する権力やジェンダーのあり方を問う社会性をもつ悲喜劇で、その多くは空想的内容をドキュメンタリータッチで描いている。先述した『SINGIN’IN THE PAIN』は日本でも非常にポピュラーになったミュージカルの名作『SINGIN’IN THE RAIN』のタイトルをもじったものだ。しかも土砂降りの中で見事なタップダンスを披露する蝙蝠傘を手にした紳士風なジーン・ケリーへのしっぺ返しといった面もある。歌と踊りにパラフレーズされたケリー演じるドンの独りよがりでノー天気な幸福感を、男女の三角関係の犠牲者になりがちな女性(通常は多くが主婦)の立ち位置で、ある取り返しのつかない女の悲劇として描いたものだからだ。またカリフォルニア在住の魅力的な料理研究家ヒロコ岡田先生がケーブルテレビの料理番組『愛憎弁当』を披露するという抱腹絶倒の映像の枠組みは、ごっつええ感じで松本人志が演じる女装の料理の達人キャシー塚本のテレビ番組を彷彿させる。後者は料理する肉体の野蛮性と暴力と破壊をテーマにしているが、『愛憎弁当』はアートと料理の近親憎悪的な交差をコミカルに表現している。これらの岡田の映像は、表象論、メディアリテラシーを通した現代社会批判としても読解できる作品である。

人工子宮で妊娠・出産する男性をまるで医学ドキュメンタリーのように大真面目に描いた『俺の産んだ子』は空前絶後の傑作である。20年ほど前の本だが、オノ・ヨーコが自著『ただの私』で男女の役割を逆転するフェミニスト的風刺論を展開していてじつに爽快だった。性の逆転劇を想像するだけで笑いが醸し出されるのは、それだけ社会的な桎梏や規定があることを裏返しに示すことでもある。ポストコロニアルな時代の到来とともに、ジェンダー研究は社会的文化的性差を中心に分析・検証されてきた。しかし女性だけが妊娠・出産するという生物学的性差はある意味で絶対領域のように不問に付された。岡田裕子はそのタブーへの侵入を軽妙闊達にユーモラスに行い、しかもさまざまな広がりの中で現実問題になるかもしれないという涜神的可能性にまで言及し、両性にとってますます曖昧になりつつある生命の意味を近未来的で切実な課題として提示しえている。

(岡部あおみ)