culture power
artist 岡田裕子/Okada Hiroko

contents

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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
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インタヴュー

岡田裕子×岡部あおみ

学生:芸術社会学受講者
日時:2007年6月11日
場所:武蔵野美術大学9号館5階506教室

01 岡田裕子とコミュニケーション

岡部あおみ:岡田裕子(ひろこ)さんは、1970年生まれで、ずっとご自分の身体をテーマとして、写真、コラージュ、最近は映像の作品が多いのですが、制作をされています。ニューヨークのブルックリン美術館に2007年春にエリザベス・A・サックラー・フェミニズム・アートセンターが開設され、その開館記念展「グローバル・フェミニズム」に参加され、オープニングの日にお会いしましたね。7月まで開催された後、マサツューセッツにある別の美術館に巡回し、12月まで開催された展覧会です。この展覧会には岡田さんを含めて、4人の作家が出品してます。やなぎみわさんと、鈴木涼子さんと、澤田知子さんです。きょうは、その展覧会の話も出ると思いますが、これまでの岡田さんの仕事を辿りながら、岡田さんの作品についてまずお話を聞かせていただければと思います。よろしくお願いします。

岡田裕子:ご紹介頂きました岡田裕子です。今日はよろしくお願いします。先程も言って頂いたのですけれども、今日のレクチャーは私の作品を見せながら、その作品の制作の過程でどんなことを考えて作品が制作されてきたかを皆さんにお伝えして、考えて頂ければと思います。私の作品には常に一貫しているものがあると思うのですけれども、あまり背伸びせず、何気ない日常の生活の中で自分が体験してきたことや考えてきたことを作品にダイレクトに、ダイレクトというか、自分でその中からテーマを見つけて、写真なり絵画なり映像なりにしながら、15年間活動してきました。今日は私の若い頃から今までの生活も交えながら、皆さんに作品を紹介したいと思います。
そもそも私は多摩美術大学の油絵科に入ったのですけれども、どうしてそこに入ったのかというと、油絵科に入る人だと割と当たり前な理由で子どもの頃から絵を描くのが好きで、とにかく筆さえ持たせていれば手のかからないという感じの子供だったので、物心ついた時から美大に入って絵を勉強したいなと思っていて、その後、めでたく多摩美に入りました。家庭は普通の中流家庭だったのですが、幼稚園から高校まで女子高の一貫教育で、カトリック系で修道院の学校でした。ですから100人の女の子たちが幼稚園から何の顔ぶれも変わらず、高校3年生までそこで過ごして、外部の人との関わりが少なかったかと思います。高校2年か3年から美術系の予備校も少し通い始めるまでは、男性と口を聞くのも本当に少ない偏った学校に通っていたんですね。だから、社会に対して最初は、どういう風に関わって良いのか分からない中で、18歳の時にたくさんの人がいていろんな環境の人が混じり合っている所に放たれたのがカルチャーショックだったのかもしれない。そのせいか、人と人とのコミュニケーションのようなものがテーマの作品が多いのは、自分の特徴かもしれないと思っています。

 

02 多摩美術大学での学生時代

岡田:多摩美の時はあまり優等生でもなくて、学外で友達と団体を立ち上げて、パフォーマンスや演劇などの活動に没頭していたりして。最初は美術家になることも全く考えていなくて、最初の2年間は単位をギリギリで取るためにだけ学校に通っていたような。パフォーマンスやイベントで、なにかおもしろいことしようと、体を墨汁まみれにして踊ったり、シナリオを皆で書いて、それを劇場で発表したり。当時、それで大学以外の友達が増えて今でも多様な活動をしてる友人とのお付き合いが続いているのは、自分の中でプラスになっているのかなとは思っています。ただもっと真面目に大学の授業を受けておけば良かったかなと、今になって後悔したりはするのです。大学4年になって、今後どうしようかと考えまして、そのままパフォーマンスや演劇の身体表現の世界に行こうかと思ったこともあったのですが、その時にはじめて、美術が捨てられない、美術に対して強くこだわりを持っている自分に気がついて、美術家になろうと思いました。それでもう少し学生としてじっくり制作する環境が欲しくて、美術大学の研究生という、大学院ではないのですけど、一年間だけアトリエを持って制作する場が多摩美の上野毛校舎の方にあって、一年そこに身を置きました。現代美術に対して興味が出てきた頃で、例えば、その時学芸員だった長谷川祐子さんという方が企画した世田谷美術館で開催されたイギリスの現代美術の展覧会に感心したりとか、自分の作品のスタイルも今まで平面絵画だったものが、それ以外の表現へ変化してきた時期でした。その時に思ったのは、周りの多摩美の大学院生とかの話を聞いていて現代美術の業界にチンプンカンプンということ。当時、周囲の学生達の話を聞いていると皆さん耳年増で。例えば「銀座の西村の作家は○○だよね」とか、「あの画廊のオーナーはこんなのが好きだよね」「ヨーロッパナイズされて云々」など皆さんが話している場に遭遇して、「あぁ私そういう業界の事全然知らないな」と思ったのですね。もしプロになるんだったら、そういう世界がどういうものかを知った方がいいと思って、学生を卒業してお金もない訳で、これ以上勉強する余裕もなかったので、勉強のつもりで、手っ取り早く画廊でバイトでもしてみたら良いんじゃないかと考えました。東京中の現代美術のギャラリーにスタッフ募集してないか電話をしたり、訪ねて行って「アルバイトをやらせてもらえませんか?」とお願いしに行ったりしてたのが、22歳の時だったのです。

 

03 ギャラリーでのアルバイト

岡田:どこでも「今うち余裕ないんで」と断られたのですが、その時表参道にあったミヅマアートギャラリーという、今は中目黒と飯田橋にある現代美術のギャラリーが、丁度オープンしたばかりの時で、「面接来る?」と言われて。オーナーの三潴さんは凄いキャラの立った方で、面接の日に電話が来てまだ作家と言えるほどの活動をしていない時だったのですけれど、「君作家なんでしょ?」「面接にファイル持ってきてよ」と言われ、自分の作品のファイルを持って行ったら、その時には「まだまだだな」「学生臭いな」みたいなことを随分言われたりして (笑)。そして何故か「時間あるならこれから水戸芸術館のオープニングだから行こうよ」とか言われて水戸に車で連れて行かれ、美術館は正面口から入るのが普通だと思っていたのですけど、裏口から入ってタダで観て、そしてパーティーを見たりして、「うわー何この世界は!」みたいなことを初日に味わってしまって、「じゃあ明日からバイト来てね」みたいな感じで、そこで働くことになったのです。現代美術のギャラリーで働いて面白かったのは、いろんな作家さんのお手伝いが出来ることで、仕事の流れなどが見えたこと。時には英語も殆ど喋れないフランス人の作家さんが来て身振り手振りで搬入したり。インスタレーションに使うといって、日本中のインスタントラーメンを集めたり。作家さんによって毎回方法も違っていて、勉強になりました。そのような中で私も活動をし始めることとなりました。さて、自分は何を表現しようかというとき、中流の家庭に育って、特に貧乏を味わった訳でもなく、自分というものが平凡で普通の人間だなと思ったのです。

 

04 初期の作品

岡田:そういう自分でも、何か表現出来ることはないかなと思って、まず最初に発表した作品が、『モザイクの女』という作品です。自分の体の後ろ姿をセルフポートレイトで撮影して、大きく拡大し、ブラジャーとパンツの部分をモザイクで隠し、オールヌードなのかセミヌードなのか、何を隠しているのか分からない作品です。その頃モザイクといえば日本独特の方法というか、アダルトビデオや、報道でのプライバシーの保護等、放送にタブーのものを隠すという映像の表現です。これが海外ではとても珍しいらしく、そこに日本独自の「隠す」という共通認識への興味を感じて、自分の体のタブーを隠しているのか、そもそもなんのために隠しているのか、と考えさせられる作品を作りました。
次に紹介する『SWEET MEMORIES-The kite of love’s end』という作品は、恋愛をテーマにした作品です。当時24歳で、今自分が一番胸を揺さぶられることは何かと考えて、平凡でもそういう等身大の事をテーマにしていこうと考え、それは「恋愛」だろう!と思った訳です。当時は恋愛をテーマに作品を作るアーティストがあまり居なかったんですね。それも何でだろう?と思って。例えば歌や映画では恋愛はメインテーマであることが多く、人間が共感出来うる興味深いテーマだと思うのですけれども、何故美術にはないのかと思い、それについて作品を作ってみようかなと。この作品は日本の和凧に、イチャイチャと戯れているカップル達を朱墨でマンガ風に描き、それを会場中でわーっと飛ばしたように展示したインスタレーション作品です。ロンドン内の数カ所の、商業画廊じゃないオルタナティブスペースで同時開催の展覧会をやろうというアートプロジェクトがあったのですけれども、そこに参加する事となり展示したものです。これが海外でやった初めての展覧会で、思い出深い作品です。この凧の作品では展示にあわせて偽の新聞記事みたいなものを作って配りました。“東京では恋人は別れる時に二人の姿を凧に残して空に上げる風習が昔からある。そして上がった凧を二人で切り落としてその凧が落ちた時にその二人を祝い、それが別れのための儀式である”という内容の架空の報道です。今東京には無数の凧が飛んでいるから、どうぞ東京に観に来てくださいという文章で締められています。恋愛のサイクルが世間では短くなることもあって、もしそんな儀式があったら東京中にいっぱい凧が飛んでいて面白いだろうな、そんな風景が頭に浮かんで発想しました。ロンドンの人には、面白いアートの冗談だなと受け止めてもらえたのですが、帰国してから展示した時は「東京に本当にそんな風習あったんですか?」と言われたりして、意外と日本人の方のほうが騙されてしまったりして、そんなこともあるんだなと思った作品です。
この作品は、後日、とあるアートプロジェクトの一環で、村松正浩さんという若手映画監督の方が30分の短編映画にして下さって、私も凧職人の役で出演したりして、展開の広がりがあって面白かったです。その頃の他の作品に『或る恋人M氏とS嬢』があります。最初はアルバイトという立場から始まりましたが、ミヅマアートギャラリーのミヅマさんが私の作品を気に入って下さったみたいで、その後ミヅマで個展をやるようになり、2000年の個展『戯曲「紙と手、恋と謎」について』で発表した作品です。これは東京ステーションギャラリーで開催された「日本現代絵画の展望」展で特別賞をいただきました。昔から演劇をやっていた流れもあって、架空の演劇を想定し、その中のワンシーンということで作った作品で、恋人同士の束縛や愛憎をテーマに考えていた作品でした。またこのころ『私の歌』という作品を制作します。東京都写真美術館の「LOVE’S BODY―ヌード写真の近現代」という、近代から現代までのヌードの写真を一同に集めた展覧会で出展した作品です。この展覧会は本当にいろいろな作家がチョイスされていて、それこそ〜からメイプルソープまで・・・こういう場合、改めて自分が何をするべきかという壁にぶちあたるのですが、それならやはりあえて、平凡な自分の等身大の姿に目を向けようと思ったのです。そこでやはり扱ったテーマは「恋愛」でした。或る恋人同士が河原で寄り添いながら、同じ河を眺めている後ろ姿なのですけれど、背中が穴があいたようにめくれている奥から、言葉のコラージュでそれぞれの心の中に響く歌のようなものが描かれています。それがそれぞれ違う所を向いているという二人の心のずれみたいなものを表現した作品です。女性は私が演じているのですが「河でなくて海に行きたかったのに」と、冷めたような曲を心の中で奏でていて、かたや男性ははロック調で、「俺について来いよ」みたいな、二人とも身体は寄り添っていても、河のこちらとあちら岸に似た溝のようなディスコミュニケ=ションがある、という作品でした。


岡田裕子「モザイクの女」1996 
ミクストメディア  ©Hiroko Okada


岡田裕子「私の歌」 1998
ミクストメディア  ©Hiroko Okada

 

05 ニューヨークへ

岡田:このあと、研修でニューヨークに9ヶ月間滞在します。日本でも何年かいろいろ活動して公私ともに煮詰まってきたんだと思います。少し場所を変えて自分をリセットをした方がいいんじゃないかと感じていました。仕事を通じて、ACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)というアーティストの国際交流としての派遣を知っていました。狭き門だったと思うのですが、幸運な事に選考に受かりまして、その当時は勢いで挑戦していましたが、今から思い返してもラッキーだったんだと思います。私生活も自分の中で混乱していた時期だったので、いい機会だったと思っています。このパフォーマンスの映像は、その当時現地でやったパフォーマンスです。42ndストリートという、ブロードウェイ近くの地下鉄の地下街で、普段から沢山のパフォーマーがパフォーマンスをしているんですよ。日本の昔の歌を歌ってます。ニューヨークで何を考えたかと言うと、短期の滞在はいいけど、あまり住む気にはなれなかったかなという事です。野望も抱きやすい場所なのでしょうが、どうもいつまでも観光客のようというか浮き足立ってしまうというか。移り住む日本人アーティストも多いのですが、私はこういう場所ではテーマとか作品の制作への渇望のようなものが見つけにくいと思ったんですね。そんなことを考えながら42ndストリートのパフォーマンスをして、なにか、どこで作品を発表するにしても、日本に生まれたという事を強く意識しながら活動していこうという決意の表れだったのかもしれません。ちなみにこれはゲリラで行ったパフォーマンスなのですが、本当はここでは許可が必要だったらしく、その割に一緒に警察官の人が踊って盛り上がってくれて面白かった。あとは、数点の平面作品をアトリエで制作したり、いろいろな展覧会やアートイベントや舞台を見たりして過ごしました。ニューヨークでの収穫は、もういちど日本に帰ってその土地を土台にして頑張ろうと思えたのがまずひとつあります。もうひとつは収穫と言えるのかは分からないのですが、その時アジアン・カルチュラル・カウンシルでたまたま研修に一緒に来ていた、会田誠さんという現代美術家の作家さんと、後の2ヶ月、お付き合いすることになって、なんとベビーまで出来てしまったのですね。それも私にとって衝撃だったのですが、日本に帰って日本を土壌にしてアートをやらなければいけないというのと、子育ても待っているんだな、という思いを胸にして、身重な状態で帰って来たのです。


岡田裕子 ニューヨークでのパフォーマンス DVD 2000
©Hiroko Okada

 

06 お腹の中のベビーと共に帰国

岡田:その頃は平面の作品などを中心に制作していました。面白いエピソードと言えば、夫婦に本当にお金がなかったことです。一年間の研修に行っていたときは、十分に助成金がもらえてすむ場所とアトリエにも困る事がなく、一瞬裕福になったんじゃないかという錯覚に陥るのですけれども、夫婦共々、帰国してみれば、銀行口座が0円になっていたということに愕然としてしまいました。私は身重で働けないし、会田誠さんは日本の住まいを引き払って海外に行ったので、住む家さえ無いという状態になってしまい、本当に焦りました。知人の美術関係者が倉庫として使っていたボロボロの雑居ビルの一室を貸してもらって、ひとまずそこでアトリエ兼住居とする生活を始めました。変な話ですけど美術家って仕事をしてもすぐにお金が入ってこないんですよ。作品や展覧会に出品しても、ギャラなり売り上げなりがショーが終わってからかなり経った後で、またさらにギャラリーを介してから自分の口座にお金が入ってくるので、半年間は口座はほぼゼロ状態が続いて大変でしたね。米が切れて小麦粉を練ってお好み焼きを連日食べて具が無くなってきて、最後はキャベツの具だけで細々と・・・とか。でもなんとかなるかなと思っていて、そんなに悲観しないうちに、なんとかなってしまったのですね。この時期に作った作品はフォトコラージュの『ピーナツドレスの女』です。身重な私の自画像を元にしたコラージュ作品です。ピーナツドレスとは出来ちゃった婚用のウエディングドレスの事を言うらしいです。おなかがせり上がるからピーナツに見立てて。息子をコラージュしてそれがドレスになっている作品などを作ったりしていました。それからのち、映像作品を作り始めます。ビデオ編集が技術的に身近になったから始められたというのもあったかも知れませんが、以前から演劇や映画が好きで興味があったのと、それ以外にも理由が。当時、息子が生後半年だったかな?自宅で小作品の制作をしていて、ちょっと目を離した隙に、彼が青の絵の具を食べてしまったことがあって。それがすごくショックだったりして、幼児の居る部屋に画材を転がしておくのは危険だな、と思い、しばらくの間、絵画制作はお休みしようと思ったのですね。思えば当時は「もう引退だね」「もう作品は作れないね。でも子どもが作品だからいいじゃない。」と言う人がとても多くて憤慨していたときでした。こんな業界なのに随分と古いことを言うもんだわ!益々やらなきゃいけないわ!と決意新たにしていたのですが、子どもが絵の具を食べてしまったという事故も起こったことですし、ここで半年でも一年でも大きな絵はお休みして、これを機会に興味のあった映像を作ってみようと思ったのです。


岡田裕子「ピーナツドレスの女」2001
ミクストメディア  ©Hiroko Okada

 

07 映像作品の制作へ

岡田:そんな折、北九州ビエンナーレという北九州市立美術館で祭典があるのですけれども、その頃会田誠さんと私と会田寅次郎という子どもで、親子三人展をやりませんかというお誘いが来ました。何でそのお誘いが来たかというと、子どもが生後三ヶ月の時に、世界一の早期デビューだ、とか冗談で言いながら「親子三人展」をミヅマアートギャラリーで開催したのですが、それを面白いと思って下さったらしくて。その時、初の本腰を入れた映像作品を出そうかなと思ったのです。それがニューヨークのブルックリン美術館で「グローバル・フェミニズム」(2007)にも出展させて頂いた、『俺の産んだ子』(The Delivery by Male project)という作品です。出産を経験していろんなことを考えた訳ですが、女性が子どもを育てる環境や、社会から見てそういうものがどう思われているかということに対して独身の時はあまり目を向ける事がなかった事に気付きました。例えば、日常的な事で言えば、今ほどバリアフリーも作られていなくて、子どもを連れてどこに行くにも不自由だったり。人によって仕事はやむ終えず退職に追い込まれる人もいるし、保育所は空きがないし・・・。こういうひとつひとつが積み重なって今問題になっている少子化の原因に結びつくと思うのですが、それを、ごく身近に感じる事が出来るようになって、作品にすべきと考えました。ですが、ただ私は子どもを産んでこんなに大変!みたいな作品を作っても、あんまり受け入れられないんじゃないかとも思いました。様々な立場の人になにかしらひっかかるといいかなと。それで「そうだ!男性に子どもを産んでもらうという作品を作ればいいんだ」と思って。『俺の産んだ子』は、最先端医学の力を借りて男性が自分の身体に子宮を作り、出産するまでのドキュメントタッチのビデオです。もちろんフィクションですが。社会学や生命倫理の研究をしている、信州大学の武藤先生(2003年当時)、という社会学者の幼なじみが居たので、彼女と相談しながらシナリオを作った作品です。今日はその抜粋をお見せしたいと思います。
(映像上映)
この作品のポイントは、男性が妊娠するというストーリーを見せる事で、男女性差なく考えてもらう立場になりえるということなど、意外にもいろいろなテーマが含まれています。そのひとつが、不妊治療です。2002年だったのですけど、この頃から既に不妊治療が盛んで様々な治療がなされており、不妊治療のドキュメントのテレビや書籍等を興味深く拝見していました。例えば、猿の精子を男性に移植すると男性の精子が活性化して治療に役立つかもしれない、とか。ただ、お猿の精子の野性の力を借りる事に倫理的に問題は無いのか、という議論等、生命誕生にかける人間の渇望や倫理問題等に、考えさせられる事が満載でした。映像中に出てきたサウジアラビアで大腸に受精卵を着床させる実験の話もどうやら本当らしく、その新しい研究者の方々の意見や情報を絡ませながら、ストーリーを構成しています。こんな事をしたら出来るかもね?ぐらいの信憑性を感じてもらえるシナリオになっています。そういうあたりに、先ほど触れた最先端の不妊治療の研究も応用しています。観客の反応は様々で、ゲイの方は「私も産みたいワァ〜」と言ってくる人もいるし、なんで主人公はここまでやるの、と理解に苦しむ人もいるでしょう。主人公の男性の設定は、性的な趣味はノーマルな人です。ただ引き籠もり症的な側面を持っていて、他人との濃密なコミュニケーションを負担に感じています。ですから女性と恋愛したり夫婦となることを望んでいない生活を送る中、突如、自分の子どもが欲しいという欲求が高まってしまったという設定です。現代では家族というスタイルも多様化していて、特に女性にとって足かせになるという意味で結婚する人も減ってきている現実もあると思うのですが、その中で急に子どもが欲しい!って思っちゃう本能もあるかも知れないし、女性では実際あるでしょう。不妊治療は体にも心にもストレスが大きいので、むしろ別の方法で家族を増やすという考え方もあります。制作協力者の武藤先生はその方法の一つとしての、養子縁組の研究をしているのですが(日本では欧米ほどは養子縁組みをする親子が少ないと思いますが)、それも、後半のストーリーに法的な見地で生かされています。ありふれた「出産」という行為に、「男性がする」という非日常性を加える事を通じて、いろいろな視点から考えられるビデオになったんじゃないかと思います。
『未来図』という写真作品も作りました。未来は男の人がたくさん妊娠をしている時代じゃないかという、これもまたサイエンスファンタジー的ですが。こちらもブルックリンミュージアムに展示させて頂き、いまコレクションになっています。この妊娠した男性の腹部は、臨月の私自身のセルフポートレートを使用しています。まさに陣痛が始まったときに、「しまった!産んでしまう前にセルフポートレートを撮ろうと思っていたのに!」と、陣痛の痛みに耐えながら撮影したという・・・。この作品は東京都現代美術館の「MOTアニュアルー愛と孤独、そして笑い」というグループショーにも出展して、海外のほうでも発表できたので、いろいろな方に鑑賞していただけて満足しています。同展覧会では、新作も希望していると言って下さったので、『俺の産んだ子』と共に、主婦をテーマにした『SINGIN’ IN THE PAIN』という作品を制作し、出展しました。


岡田裕子「俺の産んだ子」 2003
ビデオインスタレーション(東京都現代美術館)  ©Hiroko Okada


岡田裕子「未来図#2」2003 
Cプリント  ©Hiroko Okada


岡田裕子「SHINGIN' IN THE PAIN 2006」
DVD  ©Hiroko Okada

 

08 主婦をテーマに

岡田:この頃はまだ先述の埼玉の雑居ビルでアトリエを構えていて、相変わらず貧乏でしたが、なんとか生活して行けるようになりました。家賃も払えるようになったので隣町にある松原団地の近くにアパートを借りまして。松原団地は高齢化で寂しい雰囲気の団地でした。その公園に子どもと座ってよく団地の風景を眺めてたんですよ。ママたちが公園デビューをして、ああなんか幸せそうな感じだなと思ったのですけど、果たして本当に皆さん幸せなのかな?という疑問が。あなたは主婦!みたいなカテゴリーの中に自分が組み込まれていることに対して幸せだと思う人もいるし、幸せだと思わなきゃいけないというプレッシャーがある人もいるんじゃないかと思って作った映像作品です。
(映像上映)
この映像は2構造になっているのですが、片方は日本の主婦をドキュメントタッチに追いたくて、テレビの昼のワイドショーの形式を取っています。こういった日本の、奥様向けのお昼のワイドショーというものは、外国だと珍しいみたいですね。もう一方はミュージカルとなっており、『雨に唄えば』というアメリカの映画のパロディです。この主婦は映画さながら傘を振り回して踊り狂った後に、自殺する、そしてその理由がワイドショー的にはわからないという構造です。この「普通の主婦」といわれている人はどういう人物なんだろう?どうしてこういう風になっちゃたんだろう?と考えると、この人は幸福と思い込もうとしていたけれど急に自分の状況と、心の空洞に気がついた人じゃないか。その事に対して、今までは全く目を向けてなかったんだけれど何かのきっかけで、はっ!と気がつき、プツっときれた人じゃないかと。この作品は、「MOTアニュア」で出した時に、担当の学芸員の方にも「岡田さん本当に勇気があるわね。よくここでこれを出したわね。」と言われるほど、おバカでコメディタッチのビデオでもあるのですが、自分の作品群の中でも、かなりな悲劇を描いていると思っているのです。ですので、本当はこの頃主人公を追いながらも精神的に苦しくて、過呼吸っぽいパニック症状が出たこともありました。映像作品の中の司会者役はダーティ工藤さんで、アンダーグラウンドな活動をしている方です。緊縛師という女の人を縛ったりするパフォーマンスをしたり、SMビデオを制作する方で、すごいキャラの立った人物です。彼が、持ち前の語りでワイドショーのレポーターをやることで、主人公と謝意会との溝のようなものをいっそう浮き立たせる事が出来たんじゃないかと思います。

 

09 愛憎弁当

岡田:あともう一つ、軽く一分ほどの映像をお見せしようと思います。2007年7月に中目黒のミズマアートギャラリーで2年ぶりの個展をするのですが、その時に発表する予定の作品の一部です。今回は『愛憎弁当』という作品です。子どものために母親が作る弁当のレシピを通じて、子どもに対する愛憎をテーマにしたものです。絵画の方はその愛憎弁当のレシピの方を展示して、ビデオの方は、カリフォルニア在住の料理研究家・ヒロコ岡田先生がケーブルテレビのお料理番組で愛憎弁当を作るという構成です。今回お見せするのは『陣痛弁当』のレシピのバージョンで、これは今年の春にガンダーラ映画祭というマイナーな映画祭でメイキングを上映しました。私はこの陣痛弁当は実はフェミニスト弁当なじゃないかと思っているのですが、エロスに溢れており、映画祭では、見たら怒り出す男の人がいたという、そんな内容です。


岡田裕子「愛憎弁当」 2007 
DVD  ©Hiroko Okada

 

10 質疑応答

学生:ニューヨークでのゲリラパフォーマンスですが、あえて、ゲリラではなくきちんと手続きをしてパフォーマンスをせずに、しかも地下のノイズもある場所をどうして選んだのでしょうか?

岡田:実はあそこでゲリラをやったのは、あの場所で正規の手続きを取らなければならないことを知らなかったのです。地下街のパフォーマンスをする場所として一番メッカの場所なのでやったのですけれども、基本的に皆さんアバウトで、いざ始めたら警官まで踊りだす始末だから手続きの事に気がつく間もなくやり遂げてしまいました。自分ではストーリーを組み立てていて、時は戦後、日本女性がそこで歌う・・・。海外に対して一人の女性が孤独な中で、何かしらの発信をそこでしようとしているのを表現しようと思っていました。あえて日本の戦後の曲を歌いました。大多数の人はオリエンタルな女の子が歌っているのをみて「きれいだね」や「おもしろいね」と言ってくれました。しかし中国系らしき老人がずっと横で聞いていて怒って、日本のその曲をこんな所で歌うな、そんなことはしちゃいけないと、なまった英語で抗議されることもありました。場所はアメリカで戦後の曲ですから、歴史背景には厳しいものがあるパフォーマンスだと思います。でも、現代でも、自分がアジア人であることや、アートの環境の中での日本人や日本の立ち位置に対して思うところがいろいろとありますので、それがパフォーマンスをやることに繋がったのかなと思うのです。

 

11 フェミニズム、そして会田誠さんについて

岡部:岡田さんは、学芸員の笠原美智子さんが担当なさったり、かかわった展覧会に何度か参加されていますが、フェミニズムについてはどう感じていらっしゃるのでしょうか。

岡田:そうですね。まず、私も若い頃は勉強不足で、フェミニズムやフェミニストというのを言葉のニュアンスでしか知らなかったのです。作品を作っていく内にフェミニストの研究をしてくれる方々などが支持して下さって、私の作品ってそういう側面があるんだなと、逆に気付かされる立場でした。笠原さんも、上野の森美術館で展示をした時に、声をかけて下さってその後何度か展覧会に呼んでいただいたりしました。ブルックリンミュージアムの「クローバルフェミニズム」はフェミニストアートと言われる作品を作っているアーティスト達が多数参加していましたが、そのなかでも、作家自身がフェミニストだという意識がある人と、ない人がいると思いました。私自身は敢えてフェミニストだと名乗らないようにしようかなと思っていますね。思想みたいなものを強く自分で決めてしまうと、表現に縛られてしまいそうなので、そのときその時に伝えたいメッセージに忠実になりたいと思っています。時によってはフェミニストの人に共感を呼ぶ作品を作るかもしれないし、結果的にその逆もあり得ると思います。フェミニズムに触れて、以前よりは知る事も多く、共感する部分もありますし、作品もいくつか影響されたかもしれないとは思うのですけど。

岡部:「グローバル・フェミニズム」展では、比較的政治的なことをテーマにしているイランの作家がいましたし、作家の立ち位置は、フェミニストだけでもなかったようなので、必ずしもフェミニズムという枠組みに入らないような作家もいるので、そういう意味では、グローバルにさまざまな文化圏や国々の女性を集めてはいたのですが、タイトルに無理がある感じを受けました。

岡田:あるキュレーターの方に、男性が参加しているかを偵察してきてくれと言われたのですけど、確か女性ばっかりでしたよね。ブルックリン美術館内にフェミニスト・アート・センターが出来、その立ち上げを兼ねてやった展覧会でした。ただ、作家さんがフェミニストだと思っていない方が結構いらっしゃる印象は受けましたね。

岡部:男性が妊娠するという矛盾とユーモアを介して、生物的性差と社会的性差を喚起する岡田さんの作品はこの「グローバル・フェミニズム」展でひとつの重要なメッセージを提示していたと思いますが、日本から参加した他の参加者(澤田知子、鈴木涼子、やなぎみわ)の選択に関してはどうでしょう。観客の反応とか。

岡田:私自身の出展作については、どっちかというと性差を扱ったように見えて、日本の現代社会の暗部をつく的なアプローチが強いかなと思いましたし、ミニトークショーにいらしたお客様からの質問も、日本の引きこもりの若者についてなど、現代の日本の社会についての質問が目立ちました。また、他の日本の作家さんも「性差」についての問題にとどまらず、等身大の個人からの視点で社会を見渡す作品だったと思います。ですから私たちよりももジャストフェミニストアートみたいな方は他にいらっしゃる気がしました。しかし見渡してみるとフェミニストアートも成熟期を迎えているのだと思います。本展は巡回もして、ありがたいと思っています。いろいろな地域の人の反応がそれぞれで面白いしだろうと思います。

岡部:今回の『愛憎弁当』の映像作品では、ちらっと会田誠さんも登場していますが、彼と多少コラボレーションをして作ったとも言えるのでしょうか。

岡田:家庭で夕食を食べながら、お互いの作品について話し合ったりということは頻繁にあり、話題はほとんどそれです。「そのアイデア頂き!」みたいな会話はあるのですが、特にこの『陣痛弁当』は、「女性の陰部は俺に任せろ!」と言って、女性部分でできている弁当作りに全面的に協力してくれました。ただ、今流したのはメイキング映像なので会田さんがチラリと登場していますが、実際の作品には出演していません。

岡部:『俺の産んだ子』でヌードの会田さん出演していませんでしたっけ。

岡田:結婚したばかりだったのですが、この時も「俺も出させろ。腹は出ているんだから、妊娠の男は任せろ!」と言われて・・・。首を突っ込むのが好きなんですね。「でも、会田さんが主役じゃリアリティーがないじゃない。じゃあゲストとして妊娠するのに失敗した男性として遺影だけ飾ってあげる」と言って、ちらっと死人として友情出演しています。(笑)。会田誠さんおそらくフェミニストの人には嫌われているのでしょうが、意外とお母様がフェミニストだったりするせいか、あれでいて女性的なんですよ。手作りケーキを作ったりとか・・・。

岡部:今、上野の森美術館で会田誠さんと山口晃さんの二人展を開催しているのですが、巨大な作品の場合など、逆に岡田さんが会田誠さんの作品をたまに手伝ったりアイデアを出したりすることがあるのでしょうか。

岡田:よくアイデア出してみろとか意見言ってみろと言われるのですが、私が発言すれば、大体がボツになるのですよ。じゃあ聞かなければいいのにとムっとするのですけれど、「いや、でもたたき台に必要だから」と言われて(笑)。全面的に協力しているのは映像制作ですね。会田誠さんは、コンピューターは全然ダメなので、映像の編集やコンピューター関係は私が、会田さんの細かい指示に沿ってやっています。でも、会田さんは注文が厳しく面倒で、喧嘩の種になりますので、フォトショップや画像処理関係は、そういうのを得意な子に頼んだりしています。でもやっぱりちょこちょこ手伝ってはいますね。

 

12 映像作品秘話

学生:映像を撮る時に走り回ったり、傘を持ってくるくる回したり、ああいうことは僕がやるとしたら恥ずかしいのですけど、

岡田:(笑)。恥ずかしいですよね…

学生:その恥ずかしさをある時期に断ち切ったのか、それとも恥ずかしいと思いながらも何かやるのか、岡田さんの中での恥についての部分はどう考えられているのですか。

岡田:私はどっちかというと、こういうレクチャーの方が緊張して恥ずかしいのですよ。素の自分が話す事に緊張しちゃうのです。人とのコミュニケーション能力もそんなに達者ではなく、むしろ苦手なほうで。演劇やパフォーマンスを長くやるようになって、演じているほうむしろ自分だけど自分じゃないみたいな所で出来ますし、頭の中も冷静でいられます。『SINGIN’ IN THE PAIN』の撮影をしている最中も、この辺で派手に腕振り回した方がいいな、変な顔した方がいいなとか判断する冷静な自分がいて、あまり恥ずかしくないのですね(笑)。若かりし頃はもっと恥ずかしいパフォーマンスをいっぱいしていたので。外で大騒ぎしたり、鶏肉の山積みの中に入ったり。そういうことを繰り返して麻痺していますね(笑)。それを自分の良い所だと思って、たまには利用してます。

岡部:『SINGIN’ IN THE PAIN』を見たとき、パフォーマンスが上手ですごいなと思いました。そして今日お聞きしたらパフォーマンス自体を本格的になさっていらしたから、こういうことが出来たのだと思ったのですけど。

岡田:プロフェッショナルじゃないのですが、携わっていた時期が長いので。見返せばやっぱり恥ずかしいのですけどね。とはいえ、その後も自分の作品も冷静に見ちゃうんですよ。テーマによって、主婦は自分が演じた方がテーマに沿うかなとか。でも本当のことを言うと、例えば『俺の産んだ子』などで人を撮っている方が手放しに楽しいですね。人のいい動きを探しながらカメラで撮っている方がいい画がとれたかどうかの判断もしやすいし。

岡部:いつも撮影はご自分ですか。

岡田:人を撮る時は自分ですね。『SINGIN’ IN THE PAIN』の時は自分が出るので撮影できませんので、テレビ等の映像の仕事を個人で請け負ったりしていらしたアーティストさんと、映画の助監督をずっと長くやってらっしゃった方、主にその2人に撮ってもらいました。でもそういうプロの現場を知っている方に参加してもらうと勉強になります。「今撮影なんで!」と言って歩行者の足を一瞬止めていただいたり。ゲリラなんで本当はそんなことしちゃいけないのですけど(笑)、いろいろと工夫をしてくれて。カメラアングルもいろいろ案を出してくださったり。

岡部:『俺の産んだ子』で主役をされた方は、彼自身、完成した映像を見て、どういう風に思われたんでしょうね。

岡田:もう何もかも分からない内に巻き込まれたみたいな感じだと思います。彼が専門学校生の時からのおつきあいで、その後テレビ局関係にお勤めした、真面目な社会人さんです。以前から展覧会に来て下さったりしていて、あぁあの人が合ってるんじゃない?みたいなノリでイメージで決めて声をかけたのですが、恥ずかしそうでしたけど快諾してくださいました。あの時は全員素人を使ってドキュメント映像を撮ろうにと思っていたのです。だから決まったセリフも言わせているセリフも言わせている箇所もあるのですが、長い台詞は覚えられないし、逆にクサくなりますので、「子どもが欲しかった」や、「3億円当たったから資金が稼げた」と、箇条書きしたメモを持たせて喋らせたりとか。武藤先生も、本業が社会学の先生だけど女優ではありませんし。あれが役者さんだと逆に喋りが奇麗すぎてリアリティがないかなと思いますね。
だから全編、台本的なシナリオなくやりましたね。

岡部:今度の『愛憎弁当』は全部英語でなさるのですか。

岡田:そう、でも英語苦手なんですよ(笑)。だから無理はあるのですけど、それほど英語が達者じゃないのに外国の方と結婚して海外生活をしている女性も居るかと開き直り。ただ、海外の番組というフィルターを通した方が、逆に日本風の弁当を見る時に、日本人側にも普段と違った視点で見てもらえるかなと、そんなこともあって英語にしてみました。

岡部:アメリカに行っていて思ったのは、昔に比べてみんな食べることが好きになっているというか、食事がファッショナブルになってきていて、テレビではよく料理番組を見かけました。一日中料理番組をやっているケーブルテレビの料理チャンネルもあるし、そうしたアメリカの料理番組が日本と違ってエンターテイメント的味付けのドハデな料理番組が多いのはご存知でしたか。

岡田:今日本でもアメリカのお料理番組がケーブルテレビ等で入ってきますよね。あれを見たりして、参考にしています。ニューヨークに久しぶりに行ったら、アジアンフードのレストランや、アレンジした創作料理も更に増えていて、食文化が多様になっているなと思いましたね。

岡部:そういう意味でも『愛憎弁当』、アメリカで受けそうですね(笑)。今の文化的な状況を茶化してるみたいな部分もありますし、また別の反響もあるのではないかと思います。今日はどうもありがとうございました。

岡田:どうもありがとうございました。

(文字起こし担当:小橋未喜)