学生:3年ゼミ生 岡部あおみ:みんな見てくれたと思うのですが、ギャラリー小柳で、内藤さんの『地上はどんなところだったか』という個展が行われています。内藤さんはムサビの視覚情報デザイン学科出身です。国際的にも活躍なさっていて、私は一度、パリで内藤さんが『地上にひとつの場所を』の展示をしたときに偶然お会いしたことがあります。内藤さんの作品は、ほとんどの場合仮設のインスタレーションで、ずっとひとつの場所に置いておくのは難しいので、見られる機会が少ないのです。今回の個展の会場は、かつてのギャラリー小柳の4倍くらいの広さがある新スペースで、とても良い展覧会でした。直島コンテンポラリーアートミュージアムの家プロジェクトで内藤さんは「きんざ」を作られて、『このことを』という常設展示があるのですが、一時台風で浸水して、直して今はオープンしているそうです。見てきましたが、長い間、直すのに大変だったようですね。内藤さんは常設展示ははじめてですね。
内藤礼:はい、はじめてです。
岡部:内藤さんはあのような展示をなさるとき、ひとつの空間の中でご自分の世界をつくる、というところから考え始めるのですか。
内藤:そうですね。私の仕事の1番中核にあるのは、空間自体をつくることなのですが、一方で平行してドローイングなどの平面の作品や、小さな彫刻もつくっていて、それぞれが微妙に響き合い、ある意味では、すべてがひとつの作品ともいえるようなかたちでずっとやってきています。会場と作品という関係でいうと、空間作品をつくるときは、最初に空間をかなりきっちりつかむところから入っていきます。その空間に、もうひとつの空間を重ねるように生んでいくわけですから、もうそこに空間があるのに、なぜ、私はもうひとつそこに重なりあうように空間をつくろうとするのか、というところから入っていかなければいけないので、空間をとにかくつかむ、というところから入っていくんです。
一方、今回ギャラリー小柳で展示したようなドローイングや彫刻の作品は、今話したように、場所が決まって、出会いからはじまるのとは違って、場所との出会いとは関係なく、私の時間の流れの中で徐々に生まれてくるもので、その時期につくるべきものをつくっていて、そこにある外からのきっかけ、例えば画廊か何か場を得ることができたときに、自分がやっている仕事が、組み合わせ方だとか、タイトルという言葉をもつことによって、世界が拡がり、また、凝縮してくるもので・・。
インスタレーションをつくるときには、まず場があって、場を知ったところから始まるんですけれど、平面だとか彫刻の場合は、それがどこへ行くということではなく、普段からつくり続けているもので、何かの機会があったときに、その時期に自分が何をしようとしているのか、ということを自分に問うような気持ちも込めて、そのときそのときに絞りこんでひとつの展示というかたちにしていく、ということですかね。
岡部:視デの及部先生から、小池一子先生が視デにおもしろい子がいると聞いて、佐賀町エキジビットスペースで取り上げられたとお聞きしたのですが。その初個展は卒業制作そのままだったとも伺いました。
内藤:そうなんです。本当にほぼ卒制そのままです。私が今のような仕事をはじめたきっかけが、ほんとに卒業制作で、卒制のときに、視デのいわゆる学習の成果とまったく関係ないものを制作した人が4〜5人いて、私と、お面をつくった人と、そういう、はみだした人たちがひとつの部屋に集められた(笑)。そのときには、私はパネルでちょっと小部屋のようにしてもらって、テーブルの上に白い布をかけて、小さな造形物というか、オブジェのようなものをたくさんつくって、箱庭のようなシンメトリーの白い風景をつくって、暗闇にして横から光をあてるといった、まったく今やっている仕事の原型をつくったんですね。
視デの4年間のときに、デザインの中で自分の入っていけるものを、つかめなかったと思うんです。これといって何かをつくったといえるものがなくて。それで卒制展というきっかけがあって、スタートするのは6月くらいでしょうか、その頃に何かとにかくひとつでも一人で仕上げたいと、偶然もやもやとつくりはじめたものがそういうものだったんです。
卒制展って確か3日間くらいですか、その途中で、ムサビの中の展示だけだとなかなか学外の人には見てもらえないから、もっと都心のほうにいって展示したいね、という声が数人から自然にあがるようになって、それを聞いた及部先生が、小池さんと知り合いだったから紹介してくれて、6人くらいでグループ展をやった。卒業制作展の1ヶ月後くらいだったかな。私は、卒業制作を1.3倍か1.5倍くらいに増殖させたものを持っていって展示したんです。それがある意味では、私にとっての初の外での展示であり、そのときにアートと思っていたかはわからないけれども、何かをつくって人がそれを見る、ということをはじめて体験したんですね。
岡部:視デに入学したときは、とくにアーティストになろうという意識はおもちではなかったのですね。視デでは、現代美術はほとんど勉強しないでしょうし。
内藤:しないですね。個人的にはどちらかというと、お芝居との出会いがあって、それはかなり入れ込んで、見たり、手伝ったりしていました。展覧会を4年間数えるほどしか見ていないので、現代美術という名前も知っていたのかなという。舞台美術はやりませんでしたが、ポスターをつくったり。自分も舞台に立っていました(笑)。芝居をつくるほうに関わっていましたね。
岡部:どんなお芝居だったのですか?みんなで作り上げるのがおもしろかったのでしょうか。
内藤:それもおもしろかったし、演劇を見ること自体も、高校まで広島だったので、ほとんど経験がなくて、はじめて触れるに近いものだったから新鮮で、かなりの時間をそれに割いていましたね。それで、グループでやっていって、なかなかある完成度は求められない。学生でプロのような意識はないし、卒業したらみんなやめていくような状態でやっているものだから。いろんな大学の学生が集まってやるお芝居で、メンバーのひとりが脚本を書いて。卒制のときにかなり集中していったというのも、ひとつの仕事をみんなでやっていくという良さも、もちろんあるんですけれども、常にいくところまでいけない、という気持ちが残って、集団でやる難しさを感じていた。ひとりでとにかくひとつ世界をつくってみよう、という反動がすごくあったと思います。
岡部:演劇をなさっていたときは、今手がけてられる小さいオブジェのようなものはまったくつくっていなかったのですね。
内藤:つくっていなかったです。ただ、課題の延長のようなかたちで、個人的な興味で何か描いたりとか、コラージュみたいなものをしてみたりとかはしていましたけど。だけど、それで何になるとか、そういうところまでは何もなかったです。
岡部:内藤さんのインスタレーション作品は、台座の上に布をしいて、さっき箱庭とおっしゃっていましたけれど、一種の舞台のようなイメージがありますね。
内藤:そうなんです。たぶんお芝居していたことと関係はあると思います。どういうわけか一種の風景になってしまったことと、暗闇にして光を当てるだとか、どこかに演劇をやっていた体験と、どう考えてもつながっていますよね。見ている自分は、風景を外から見ていると同時に、見ているときにまるで中にいるような感じがあって。
だいたい作品をつくりはじめたときに、もっと精神的な動機としては、自分の精神的な居場所をつくりたいというのが強くありました。自分が精神的にそこに居てもいいし、居ても許されるような場所をつくりたいと思ったときに、なぜか箱庭のようなミニチュアの風景になったんです。
岡部:それと構造的にシンメトリーというのがおもしろいです。ふつう演劇みたいなものにはシンメトリーはあまりないから。卒制からシンメトリーだったそうなので。
内藤:そうですよね。どちらかというと、祭壇とか・・。そのときのことをそんなに正確には思い出せないけれど、たぶん本当に無意識のレベルで聖なるものを強く求めるなにかがあったのだろうと思うのと、そのときも考えていたことなんですが、しっかり向かい合いたかったんですね。真正面から。祭壇とかもまさにそうですけど。人間のからだもほぼ左右対称ですし。
岡部:針金や、落ちている枯葉や、細かくすごく儚いもの、手で持てそうにないものを素材に使われていることが多いですが、そういうものにも素材として惹かれていたのでしょうか。
内藤:そうですね。今はわりと、ある程度の理由があることはわかっているんです。でも一方で、なぜ自分が細いものや、薄いものや、小さいものに惹かれるのかわからないっていうのがあって、そのわからない部分はずっとそのままにしておきたい。
岡部:はじめてつくった作品を見て、ご自身では作品としての満足はあったのですか。
内藤:それはすごく鮮明で、ほんとに小さい祭壇のようなものができて、同級生もお賽銭上げたいね、なんて言っていたのです。自分の精神的な居場所をつくりたいと思っていたのは、それはそういうものがなかったからだと思うんですけれど、自分がそれをつくったことに対する感動ではなくて、そこに見えている、それがそこに在る、そこで対面してからだで感じられるということに、感謝の気持ちがうまれました。それは、自分がそれをつくれた、という感動ではなかった。つくった私からもっと離れたところで、そのものと出会って、私が感じたことでしたね。
岡部:それは素晴らしいですね。作品に対して感謝の気持ちがわくという経験は、作家でもなかなか無いことではないかしら。
内藤:あとで思うと、私にとってはとても大事なこと。卒制つくったのは85年ですけど、その後、2、3作くらいそういう小さい規模の作品を続けて、やっぱり、ものすごくつくりたいという気持ちが最初の段階の動きとして強くて、どんどんつくっていて、91年に卒業制作から6年後ですけど、ひとつの転換期とも、それまでの6年間の集大成ともいえる作品ができました。『地上にひとつの場所を』という佐賀町の個展でやったものです。
ひとりずつ完全に布でかこった空間に入る、靴を脱いで入って、それまで台の上に作品が置かれていて、台の周囲から人が自由に何人でも見られるようになっていたものが、床におりて、しかもひとりずつ入る。台の上だと台の上を人が歩くようなものなんです。それを同じように繊細なのに下におろしてしまって、そこを人がひとりずつ歩くように自由を保証するかたち。そのために1日何十人しか見られなくなってしまって、いろいろな問題も起きたんです。なぜなら、その頃はそういう、ひとりずつ見るというような作品も無かったので。
岡部:最初から見るだけではなくて、あるシーンに自分が入り込むような幻想がわきます。小さな昆虫のようになってあそんでいるとか。最初から、たんなるヴィジュアルだけではない体感的なイメージがあります。舞台の話をお聞きして、納得できたところもあります。もうひとつは、ヴェールで囲まれた閉じられた空間で、外の世界とは遮断される。入るときは一人だけ、という世界になったとき、儀式的で祭壇的なイメージが出てきますね。
内藤:そんなにいわゆる宗教的な儀式とは考えていないですけれど、でも、より深いところではそうかもしれない。世界と自分がほんとにひとりきりで対面するという意味で。そのときにひとりずつ入るようにしたのには理由があります。一般に作品を、たまたまその場に居合わせた友達とつい話しながら見たりしますよね。でも、どこまで近づいていいのかとか、触っていいかとか、そういうのは、本来なら自分で判断する、判断というよりも、どこまでどうするか、というのがその作品との出会いなんです。頭の中で、どういう言葉が出てくるかとか。だけど、人と一緒にいると、人を見ながらどこまで近づくものか、無意識に社会的に判断するところがあって、すぐ近くから感想の言葉が聞こえてきたり、それはそれでおもしろい体験だとは思いますが。私の空間の作品については、例えば私はつくっているとき、ひとりっきりで体験しているんです。そういう私が一番純粋で、深いと思っている体験と同じことをみんなもできたらいいのにと思ったんです。
でも、展覧会は、なるべくたくさんの人に見てもらうほうがいいことのように、一方ではなっています。タブーというか、ひとりずつ見るなんていう発想は無かったと思います。その作品では、ひとりずつで、本当にある意味では自由で、見る人が世界の中でひとりっきりになったときに自分がどうするか、自分が何であるかということを感じられるような、怖いけれど限りなく自由な体験、そういうものでありたいと思った。
岡部:すごく大きな作品だと、インパクトで見てしまって、自然に見えてしまった気になる。でも内藤さんの作品は逆だから、ゆっくりじっくり作品の奥深く中に入りながら見ない限り見えない。近づかないといけないし、そういう自分の身体の移動や、待っている間、作品を見ている他者のことも想像したりして気になりますね。
内藤:ひとりでいると、基本的に自分の肉体は見えないですから、その場に人間の肉体がないんですよ。その作品にとっては、他人の肉体が見えないほうが良くて、とくに、91年の頃は、かなり外界を閉鎖して内部空間を強烈につくっていたんです。実は、97年のフランクフルトの修道院の作品から一度変化があって、その次に2001年に完成した、直島の『このことを』という作品で、大きな変化がありました。その二つを通じて変化したというのは、内と外を隔てる家の壁なり、布の幕はあるのですが、肉体の見えないひとりっきりで空間に入ることによって、むしろ他者の存在をありありと知る、ということです。
初期の頃は、外界を閉ざして、本当に内面と向き合うというか、私対世界というようなところがあったのが、97年の修道院の作品では、そこは初めて歴史のある空間だったんです。「修道院」という。壁画があって、そこに修道会の歴史が描かれていて、304人の人物が描かれていました。この人たちは死者なんだと思いました。そういう歴史的な場というのは、本当にたくさんの人が通過してきていて、今は展覧会場になっていたりだとか、壁画を公開したりすることによって、人が来るわけですけれど、これからも人が通過していく場所なんだと思い、死者というものがはじめて自分の中に出てきました。
ひとりになることで外の存在に気づく・・だから、当たり前のことに気づくということなんです。自分の外が無いのではなくてある、自分以外の人がいないのではなくている、という幸福。自分がいるという幸福ではなくて、自分の外が無いのではなくあり、自分以外の人、しかもそれは会ったことのない死者だったり、これから生まれてくる人だったり、そういう他者に思いが向けられて、それをありありと感じることができて、それが幸福である、それが平安である、と思えたのがフランクフルトの作品で、さらに強まったのが直島の作品です。
岡部:今回の展覧会にも通じることですね。
内藤:そうですね。
内藤:『このことを』という直島の家プロジェクトの一環としてつくった、古い朽ちかけた民家を家と庭ごと、作品内部・外部含めてひとつの作品にしていく、というのをやったのですが、ほんとに普通の街中なんです。それですごく静かだから、車もたまに通っても一台通り過ぎた、っていうのがわかるくらいの音で聴こえてくるような。人の生活の音、台所でカチャかチャしている音とか、通りを通る子どもの話声の内容までわかってしまいそうなくらい静かで、鳥のさえずりだとか、人の話し声も同じように聴こえてくる。
それはひとりずつ入る作品なんです。下に15cmくらい明かり取りのスリットを設けていて、あとは土壁で全部囲って、6部屋くらいあった民家をまったくひとつの空間にして、床は全部土間、三和土にしました。もともとあった、その家の床を剥いだときに出てきた土をそのままたたいて、ひとつの空間にしたんですが、明かり取りのところから、ちょうど人の足首の辺りが見えるんです。直接誰かはわからないけれど、人の気配を感じることが視覚的にもできて、作品自体は普通の意味でいうと、非日常なんですが、でもほんとは違う。普通の意味では、これはアートだって思って見ることもあって非日常なんですが、同時に、現在進行形の、横を歩いている人の足元だとか、車のタイヤとか、人の生活の音だとかが重なり合う場所になっていて、ひとりっきりになることで、余計すごくリアルに感じられる。たぶん何人かで入っていると、自分と他者との距離が、そういうふうには全く感じられないと思う。
今回のギャラリー小柳の展覧会の『地上はどんなところだったか』という作品も、死者の眼差しが自分の中で生まれたときに、死者が地上を思い出す光景が中心にあるんです。自分が生きていながら、同時に足元が見えたり、声が聴こえている。そしてさらに、その人たちを離れたところから、人間の人生とか、地上はどんなところだったかと感じているかのような、そういうところが、今思うとあの作品には既にあります。
岡部:展示されていた空の写真は、ご自分で撮られたのですか。
内藤:ええ、自分の部屋から。
岡部:それは死者の眼差しが上のほうにある、という感じでしょうか。
内藤:上なのか。とにかく、ここにいながら意識が遠くにあるというか、意識が私に固執している限りは私から出られないから。私が今生きている私でありながら、死者が思い出すということはできないですよね。だから私が私でありながら、無名の私になるということだと思う。死者だったり、それは私ではない死者かもしれないし、私が死んだときの私かもしれないし、生まれてくる前の誰かかもしれないし、動物かもしれないし、精霊かもしれない。自分とはなるべくかけ離れた他者、あるいは、会ったことのない今生きている人、そういうところまで自分を拡げながら、私の仕事の中心のテーマである、地上に存在すること、それだけで祝福なのかを考えていこうとしているんだと思うんです。
そのとき私にこだわると、私が幸せかとか、そこからしか考えられないじゃないですか。それはやっぱり、アートではない。アートとはつながっていかないんですよ。そういうふうに私に固執していると。私は私という個人からできるだけ離れて、または解放されて、私でありながら私ではないものになって、でもそういうときに初めて、人の幸せが自分の幸せにもなるかもしれない。私の幸せが私の身に起きる幸せでしかないとしたら、どっちみち、幸せにはなれないです。限られたものの中にしかいないから。だからそれを、いかに拡げるか、というのが今一番考えていることかもしれない。
岡部:直島の作品には、3年もかかったとおっしゃっていて、一番大変だったところはどこだったのですか。
内藤:最初に下見に行ったときはNYに住んでいたんですけど、下見に家を見に行ったところから、自然にするするっと入っていって、でも具体的には大変な作業だったんです。一軒の家をプランどおりに改修して、しかも共同作業で。土というまったく言うことを聞かない、先の読めないものを相手にするのも初めてでした。だけれども、場との出会いに必然性もあったというか、ちょうどNYに住んでいたこともあり、海外の仕事もしていて、日本に生まれた自分というものについてその頃考えていました。
岡部:広島という場所性も大きいでしょうか。
内藤:直島は広島に近いところではありますけど。とにかくそのときアメリカにいて、そこは自分には結局永遠に無関係である感じが私の中にあって、そういう場で、一方ではアーティストとして仕事をしているときに、日本人である自分が周りからも突きつけられる。直島の話をいただいたとき、ちょうど日本に向き合いたいと思っていた時期だった。それで見に行ったときに、最初は人が住んでいたまま残っていて、家財道具もそのままだった。とてもその状態では作品とは結びつきませんでしたが。
築200年くらいで、漁師さんの宿直所だったり、漁に出るときの道具をいれていたのではないかという話があったので、建った最初の状態になるべく戻したいと思いました。最後に住んでいた人の気配にまるごと包まれていて、私が入っていける余地がなかったので、とりあえず床と天井をはがしてみてください、とお願いして。最初1月に見に行ったんですけど、次に見に行ったのが6月です。
床を完全にはがすと、当然家は土の上に建ってますよね。ものすごくボコボコした生々しい土や石が出てきました。何十年も床で隠されていたけれど、ずっとそこにあったものです。家というのは土地の上に建っているんだなと、当たり前のことを生々しく感じました。最初に庭から家に入ったときに、中に入ったはずなのに、自分が家に入る直前までいた外よりも、外に出てきたような感じがしたんです。外をもう一回剥がした感じ。
外の風景でも、それは「今日」っていう瞬間に覆われているんですよね。今日や、きのうや、明日に向かっている「今日」という瞬間の外なんです。それが中に入った剥き出しの土というのは、床で長い間隠されていた土や気配であり、家が建つ前の土であり、「今日」という瞬間を完全に越えていて、さかのぼってもいるし、未来ともいえるような。そういう土との対面がものすごく強烈。あと家の中は基本的に暗闇だった。そういう闇の体験と、それ以上に土の体験がまったく強烈で、それがすべてを決めてくれました。
岡部:中に入ると、土の存在が強くて、触りたくなるような土ですね。色もすごく黒くて。
内藤:真上から光があたらないで、横から弱い光があたるだけ、というのもあると思うんですけども、黒々としています。それまでの作品は白っぽいものでつくっていたので、大きな変化だったと思います。
岡部:あそこで白い大理石を使われたのは色彩もあったと思いますが、それまで恒久的に保存できる材質はほとんど使っていなかったから、かなり大変だったのではないでしょうか。でも今までのように、フラジャイルなものではもたないですし。ご自分の手を離れて、ずっとあそこにあリ続けるという経験。大変だったという中には、常設という条件下でコンセプトをある程度、変えていかなければいけなかったという部分もあったのかと思ったのですが。
内藤:コンセプトは変わっていないです。ただ、半永久設置ということはきちんと頭に入れて。じつはフラジャイルなものも相当あるんです。糸だとか。一方では、今までより過激にフラジャイルになっている部分もあります。
それまでの作品がものすごく壊れやすいもので、私が会期中その場所に滞在して、1時間に1回くらい、3人入ったら、整えに中に私が入る、という異常なことをずっとやっていて(笑)。もちろん私は、作品のためなら何でもするということがあったんですけれど。自己表現よりは、生まれてくるものに私が手助けをしている気持ちがあって、自分を無にして作品についていくところがあったんだけれども、当然人間だから、どんどん過敏になってきて苦しくはなってきていた。作品のほうがどんどん過剰になりすぎて、ついていくのが大変になっていたんですね。
それで、もっと作品と私との調和を取れないかな、と思っていた時期でもあったんです。どんどんつくっては消えていくという空しさを繰り返し体験するのも、毎回人生が終わっていくような、死んでいくような気持ちになって。半永久設置の場所がひとつあると、自分の精神的なバランスも取れる。一個根っこを持ちたいという気持ちになった。私のそういう気持ちと、一緒に仕事をするプロジェクトを企画したキュレーターの秋元さんの想いみたいなものを考えながら、一方で管理するのは管理人さんなので、誰かがあまりにも不安だったり、心配するようなものはよくないって、その頃からやっと思えるようになった。それまでは自分だけが我慢したりすればよかったんだけど、そういうものではない。みんなの手に負えるものでなければいけないんですね。そうでありながら、私がつくろうとしているものを探すのは新しい体験でした。そのことが大変だったかどうかはわからないけれど、それができたとしたら、ひとつ新しいものをつかめるという気持ちはありました。
岡部:そうですね。それ以来、非常に開かれた方向にきていると思います。たしかにかなりフラジャイルなものもありますね。不安定で、倒れてしまいそうなものも。
内藤:フラジャイルなものであるからわかることもあって、大切なんだけれども、同時に、フラジャイルなものは人を傷つけるんです。自分がそんなつもりないのに、ものが壊れたり倒れたりするだけで、壊した人はすごくショックを受けるわけだから、フラジャイルなものが可哀想なのではなくて、フラジャイルなものは一方では暴力を持っているわけです。それに私は、大変な思いをさせられたんですけれど。
直島の作品では、自分にできる範囲でみんなで手に負えるものを考えたのですが、それでも問題はあります。やっぱりフラジャイルだから。でも現場の人たちがすごく頑張って、愛情を持ってくれている。今までは私ひとりが守って、私ひとりが愛情を注いでいたのが、むしろ私が離れたから、みんなが愛情を注げるんだと思う。たぶんこういうことが、開かれていくっていうことなのかなと。私が今まで人を信用することができなくて、任せられなかったんだと思う。私にしかわからないっていうふうに。
岡部:観客が入った後、泣きたいぐらいめちゃくちゃに壊されてしまったことありましたか
内藤:ほとんど故意ではないし、ちょっとなくなってしまうことはあったけど、おみやげくらいの気持ちだったんでしょう(笑)。ひどすぎる、というのはちょっとありましたけどね。それがなくなったことによって、どんな小さいものでも違うんです。その次以降の人は、もとの体験ができなくなっちゃうでしょ。だから、作品がみんなのものだとしたら、そんなことしちゃいけないんです。
岡部:ほんとうのアートラヴァーならやらないでしょうけど。
内藤:気持ちはわかるんですけどね。だって、置いてあるものがたわいないものだから。どんぐり一個とか、種とか・・っていう。
岡部:展覧会の場合ですが、材料などを毎回会場まで持っていってつくることが多いですか?いつも予想し難いようなフラジャイルなものが多くて、どういうふうにインスタレーションなさるのかなと思います。手順とか。
内藤:むこうの受け入れ側が整っていれば、なるべく現地滞在させてもらうんです。直島だったら、そこでしか基本的につくっていないです。プランは家で立てていましたけど。
内部のものを制作、設置する段階で、その場所に朝から夕方までいて、その場所がもうめずらしいものでは無いくらいにまでなると、また違ってくる。
自分にとって新鮮だから、何か発想が生まれるというのもあるだろうけれど、それとはまた別に、自分にとってめずらしくも何ともなくなったときに出てくるものもあって、それも大切。一番最初に空間を下見に行ったときに感じた直感は絶対最後まで残るんです。同時に、めずらしいものではなくなるくらい、その場所に行くようにする。
滞在できるときは、直島のときは最後6ヶ月くらいほとんど住んでいましたし、フランクフルトも3、4ヶ月は制作で住んでいました。その前にもちろんプランは立っていて、一部分は家でも作っています。何ヶ月も滞在できない場合は、家で出来る限り原寸大でつくって、あとは最終的に現場で。本当の光とか、光がうちだと違うし。本当の音とか、空間の質感とか感じながらやるんですよね。怖いです、すごく(笑)。
岡部:平面作品は、どこでもできるからそれは部屋で制作して、空間にあわせて選ぶのですね。
内藤:でも絵は繊細で、光によってあきらかに変わります。私の場合は平面も小さい彫刻も、作品にとって重要なところがあまりに微妙なものなので、それこそ部屋の環境、光だとか、壁だとか、そういうもの同士の配置によって全く変わってくるので、平面とか彫刻でもインスタレーションになります。空間をもう一度つくるということ。それが、ひとつのある種完結した空間というよりも、平面や彫刻によって組み合わされているから、ある意味、余計異様な不思議さがありますよね。あまりにも抽象度が高いという。
岡部:日本はギャラリー小柳、海外ではどこか専属の画廊はありますか。
内藤:画廊は、NYのダメリオ・テラスがあって、ときどき展覧会を・・。
岡部:アメリカに4年間住んでいたとき、日本人で広島のご出身ですが、自分の文化環境、土地、感覚、空気、人間関係も全部違うわけですが、どうでしたか。この前ムサビに荒川修作さんが来られてレクチャーなさったのですが、アメリカはとてもクールで何も無いような感じだから、過ごしやすいとおっしゃっていました。無いからいいと。でも、内藤さんの場合、土地との感覚、感応、というのがあるからつくれる、という面もあるわけですよね。
内藤:直島の作品は、自分にとってそういう時期だったから、日本に徹底的に向き合いたいという。日本という土地や、日本の建築や、日本の闇や、日本人の生活の気配とか全部含めて。
岡部:アメリカに住んでいたという環境は、作品にはあまり関係がない感じですか。
内藤:自分ではよくわからないですね。でも、やっぱり自分では気がつかない、根っこの部分で日本の文化が徹底的に入り込んでいて、それは生きているだけで入り込んできたありがたいもので、大切にしたいです。
海外に行くのは、私にとっては、部外者としての経験が貴重であるだけで、だからこそ海外に行くときに日本人の自分を考えるわけだけど。私は、制作とか生活という意味では、緊張のない日本にいたいです。緊張は自分の中にあるわけだから、余計な緊張の無いところでなるべくリラックスして、集中できるように。
岡部:日本にいる今のほうがやりやすいのですね。
内藤:そうですね。人にもよると思いますけど、長い間海外にいると危ない、というか・・(笑)。何かバラバラになっていく感じがする・・。
岡部:別のアイデンティティが入ってくるような感じですか。
内藤:はい。だから、その何気の無さが気持ちいい人もいると思うんですよ。不安定な感じが好きというか。
岡部:荒川さんのような人(笑)。それをポジティブにもっていけるという。
内藤:私は自分が不安定だから、安定しているほうがいいです。
岡部:ご自分の作品が、女性っぽいと言われることについてはどうでしょう。フラジャイルなところだとか、すごく細かいかんじだとか、女性的だと見られることはありますよね。
内藤:えぇ、それはもうつくり始めたときからすごく言われて、女性的だとか。とくに私がつくり始めた頃は、「超少女」という言葉が流行っていた頃で、少女っぽいというか、大学生とか、大学出たての女性作家が出たときです。それを批判的に見る目もずいぶんあった。私は最初から、在りのままで何が悪いのか全然わからなくて、全然抑えようとは思わなかった。
岡部:内藤さんの作品を見て新鮮に感じ、また驚いたのは、内藤さんの自然な女性性みたいな部分が作品にストレートに出ていて、しかもそういうところに屈折が無い点でした。みんなにとってもすごく新鮮だったと思います。その頃はまだ、なかなか無かったと思うし、やはりヴィジュアルなインパクトを求めて、女性でもダイナミックなもの、力強く負けないものを当然のように探求していた面がありますから。
内藤:そうですね、強いもの、硬いもの、大きいもの、という。私の場合は、柔らかい、弱い・・で逆だったんです(笑)。私はむしろ、そういうもののほうに強さを感じたから。ぎりぎりのものというのは、生まれてくる瞬間とか、生まれてくる直前のものであり、見えたか見えないかというくらいのほうが、明らかに存在しているものよりも、私は強い生命力を感じます。
女性性という話だと、私は女だから、自然に放っておいたらそういうものが生まれてくるというのと、これは割合意識しているんですけど、女の人だって、自分ではない女性性や、母性を求めているんです。男だけが求めているわけではなくて、大いなるもの、宇宙みたいなものを母性、女性として捉えている場合って多いでしょう。そういうものは私の中にもあります。女の人もそういうものを求めているんです。探しています。
岡部:今、現代アートで、小さいものをつくっている人がわりに増えてきていると思います。かつては非常に少なかった。大型インスタレーションが普通に行われるようになると、極度に小さいものが、逆に目立つということもありますけれど。内藤さんの場合は、常にスケールの大きさがあり、そこに、ほんとに目に見えないぐらいの小さい生き物が生きているというか、気配があるので、両方ありますね。
内藤:そうですね。マクロとミクロが一緒というような。
岡部:女性性というイメージでは、うすいピンク色とかの色彩でよく感じていました。女性の生理の色とか、うすい血の色とか、そういう肌色の雰囲気が昔からあって。血と関係がありますか。
内藤:私自身は血とは考えていなかったけれども、89年くらいにオイルパステルでしっかり描いていた頃や、『地上にひとつの場所を』をつくったときに、女性性というのは強烈に出てきました。実際に女の人の身体でもあります。それはもう逃れられなくなってしまった。そういう時期だったから。でもどんな時期がきても、やっぱり抑えないで出し切るべきです。それは出すとこまで出さないと、自分で何が起きているかわからないんです。自分にというか、自分のアートに何が起こっているのか。
岡部:途中でやめてしまうと、そればかりずっとやってしまったり、次のステップにいけないということもあるのでしょうね。出し切ってしまうと次に進める・・・
内藤:出し切るというか、まったく抑えない。その前の89年の作品が台座の上にあるときには、何だかそういうものが出てきそうなのに、どこか抑えていたところがある。繊細なものはつくらない、というふうには思わなかったけれど。
岡部:そのあとの作品は、かなり生理的になってきましたね。ますます有機的で。
内藤:そうですね、89年、91年は有機的で、母性的で、女性的で。その時期が少し去って、他者とか、死者とか、性別を超えた大きなものも重要になってきました。私の場合、それよりも、地上に存在することが祝福なのかということを考えていく中で、女性性や、母性が重なり合ってきますが、それ自体はテーマには、ある意味なり得ないです。
岡部:作品との関わりがとても素直だと思います。だから、20代で女性性が非常に強いとき(笑)、そういう時期に出てきたということもあるのではないでしょうか。
内藤:そうですよね。それは、一回突き抜けちゃうほうがいいと思います。イニシエーションではないけれど。そうすると、特殊なことではなくなるから。自分が女性であるということも。生命力とか、もっとひろい中で捉えられるようになるし。
岡部:それをしないと、いつまでも囚われてしまう?
内藤:いつまでも特殊な分野としてしか見られなくなってしまう。生きていること全体と重なり合うことだし、何かに限ったことではない。作品つくることも、人間が生きていることも、生死に関わっているわけで、ものが生まれるのは、生と性に関わっていることだから、つながっています。つくろうとしたら、絶対につくることと、切り離して考えられなくなる。それに、無意識のレベルでも性のことが入ってくるのは、もともとものが存在することとか、生きていることとかは、そういうものに裏付けられているからだと思う。私は、いまも切り離して考えているわけではない。出方が違うけれども。「きんざ」の作品でもやっぱり、背後にはありますね。だいたい、あれは大地と闇だし。大地も、闇もすごく女性的なものでしょ。
夜明けにあの作品を見るのが一番いいんです。ほんとに闇の中から薄い光が入ってきて、空間が生まれてくる。毎朝そうやって、生まれていくわけです。そうすると人間の魂って、言葉にできないレベルで強められていく。
岡部:生命のフラジャイルな部分と、日々人が死んで、生きていく永劫の時間という、ふたつの極の間にいる動きを感じます。今回のギャラリー小柳の個展は、すごく長い時間見ていたんですけど、ひとりずつ見るものだと、時間をかけることができないのが残念です。これからも、ひとりずつ見る作品をつくられるんですか。
内藤:ひとりになることが必要な作品はあると思うんですけれど、一方で、何人もで、ぼうっとしていられるようなものもいいな、とも思っています。ぼうっと、というか緊張ばかりではなくて・・。
岡部:ちょっと誰かと話をしたり、また集中して見るというリズムを、あのくらい広いスペースならもてますね。そういうのもいいですね。
内藤:そうですね。今回の画廊の個展は、そういうのができる。リラックスして、話して、またふとひとりになったり。そういうゆるやかな感じも、一方ではいいですよね。だから、作品の求める鑑賞方法というか、場の空気がそれぞれあるのだろうと思います。それは、しっかりと見つけていきたい。
岡部:見えない空気が作品の大きな要素、ということもありますしね。
本日はありがとうございました。
内藤礼(アーティスト)×岡部あおみ
日時:2005年6月6日
場所:武蔵野美術大学芸術文化学科岡部ゼミ室
01 2005年、ギャラリー小柳での個展
内藤礼
© Rei Naito
photo : Naoya Hatakeyama
返礼
© Rei Naito
舟か花か礫か
© Rei Naito
02 卒業制作からのスタート
地上にひとつの場所を
© Rei Naito
photo : Sakae Oguma
03 ひとりになることで他者の存在を知る
地上にひとつの場所を
© Rei Naito
photo : Attilio Maranzono
04 地上に存在すること、それだけで祝福なのか
このことを
© Rei Naito
photo : Noboru Morikawa
05 はじめての常設展示『このことを』
06 空間をもう一度つくる
07 海外で貴重なものは、部外者としての経験
08 女の人も母性を求めている
(テープ起こし:小澤友美)
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