artist 石内都/Ishiuchi Miyako
contents

01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12









Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

インタヴュー

石内都×岡部あおみ

学生:芸術社会学受講生
日時:2007年6月25日
場所:武蔵野美術大学9号館506室

01 初期の三部作 

岡部あおみ:今年の芸術社会学の授業では、さまざまな女性アーティストをテーマとして講義を行ってきました。きょうは2005年のヴェネチア・ビエンナーレの日本館で、はじめて女性の写真家として個展をされ、それ以来とくに海外でさまざまな展覧会に参加なさって、個展の巡回も増え、ご多忙の石内都氏をお招きしました。4月末に開館した横須賀美術館で開催されている開館展の現代作家9人による「生きる」展を、私は最近見てきたところですが、石内氏の傷跡の非常にインパクトのある写真がまとめて展示されているほか、京橋のツァイトフォトサロンで、「inncence−キズアトの女神たちー」展が同時開催されています。石内さんの世界を知る大変貴重な時期ですので、まだ見ていない人はぜひ見てください。では、まずユニークな写真歴についてお話しいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

石内都:まず私は横須賀という街で育ちました。私自身は写真を全く学んでないですけれども、たまたま写真を撮る機会に恵まれて一番初めに撮ったのが横須賀という街。いわゆる写真の記録性からいかに逃れられるかと私は横須賀を撮ったんですけど、ある種の嫌悪感と憎悪、嫌いな場所だった原点の横須賀を見ることによって写真を撮り始めたわけです。ですから横須賀の写真が私のデビュー作です。小学校一年から大学二年まで横須賀に住んでいたので、横須賀の街は私にとっては人生の原点みたいな場所。六畳一間のスラムみたいなところで、よそ者意識が非常に強く、私は早くそこから出て行きたいと思いながら二十歳ぐらいまで住んでいました。横須賀には米軍基地があり、小さい時から女の子が歩いてはいけないと言われていた場所がありました。米兵がたくさん居て、強姦事件が嫌と言うほどあって、強姦されに行くみたいな非常にハードな街。今この街に美術館があります。私にとって横須賀で展覧会をするというのはいろいろな意味があります。今回 は9人の作家と一緒ですが横須賀出身は私一人です。 次に「アパート」の作品。第二作目です。これは六畳一間とか小さな部屋で、そこに人が置き忘れたもの、体臭とか気配とかが写真には全部うつると思って撮ってるんです。人の出入りが激しいので、私にしてはめずらしく人が写っていますが、人も壁の一部みたいに感じてました。今ここにいない人も私は写すことが出来るような気がした。ですから流れていった人の匂いが全部凝縮されて、例えば壁に溜まっていたり、そういう目に映らないものが写るかもしれないと思って写している写真なので、いわゆる記録ではないのです。これで運良く木村伊兵衛賞をもらいました。その時写真界に全く縁がなくて木村伊兵衛さんを全然知らなかったんですが。建物は人間より人間臭いという感触がありました。人はどんどん変化する。建物はずっとここにいるわけですよね。だから人間を全部吸収している。 初期三部作の最後になるのが「ENDRESS NIGHT」です。いわゆる遊郭と赤線の街ですが、1958年には一応法律的にはなくなっているといわれています。私が撮った時は80年の初めぐらいだけど、けっこうたくさん残ってる。横須賀に住んでいた時に通学路の横に赤線の街があり、何か匂いや空気が違う場所で、カメラを持ってから入れるようになったのですね。これも人間の体臭みたいなちょっと違う匂いを感じたから何かが写るかもしれないと思って撮りました。このシリーズでは自分の体が商品になる、こういう風にして体を売る場所があった、そういう現実を目の当たりにした時に自分の女性性が問われる街ではありました。自分がお金で売れる体を持ってるという、私は女から逃れられないことをはっきり知ったシリーズです。この時から私は写真家として初めて自覚が持てたシリーズでもあるんですね。こういう赤線とか遊郭の街って、撮られてはいるんですけど、なかなか中まで撮ってる人はいなくて、私が何で撮れたかというと私が女性であることと、全国40箇所ぐらい回って古い建物を撮ってますと言って中に入れてもらえてからで、遊郭とわかっていても、それは言ってはいけない。横須賀にもたくさん赤線の街があり、今でも現役でやっているところもあります。

02 「1・9・4・7」 

初期の三部作は私自身の記憶を辿る旅みたいな感じで終わったんですけど、写真家になるつもりはなかったんですね。何となく過ごしてる内に次のシリーズが出てきて、ちょうど40歳になった時に、時間はどこに溜まってるんだろうと考えたんです。身体の中で時間が一番良くわかるのはもしかしたら手と足かもしれない。体の末端ですから一番過酷な場所でもあります。造形的にはみんなわかっているんですけど、足の裏ってほとんど自分でも見たことがないし、人のもあんまり見ないわけです。私自身が足と出会った「1・9・4・7」は大きいです。足と言うのは結局23センチか24センチの小さなところにも関わらず、全人生を支えてるわけです。足が自分の体を支えてるんだと思った時、非常に感動しました。ですからこのシリーズは私自身の新たな原点で、手と足の出会いはずっとこれから先の私の写真に影響してます。人には初期と比べて全く作風が変わったと言われるんですけど、私にとっては同じ意味がある。どうやって生きてきたかをどんな形で写真に定着させるかが一番重要なのです。40歳は決して若くないけど老人でもない。40歳になる全ての女性に捧げる写真かもしれません。この「1・9・4・7」というシリーズで、一番初めに撮らせてもらった人が荒木さんの奥さんの陽子さん、彼女は何故かこの写真を見る前に一番先に亡くなってしまって、40歳っていうのはいつ死んでもおかしくない歳なのかなというのは、彼女が教えてくれた気がします。この写真も優しい写真ではないので見たくないと言う人も結構います。私の写真はどちらかというとネガティブなものが多いんですが、私自身は人があまり見ないところに興味があるだけで、ネガもポジもなく非常に魅力的だと思って撮ってます。


「1・9・4・7#10」(1988)
©Ishiuchi Miyako

03 「Chromosome XY」

「1・9・4・7」が終わって次は男性の手と足を撮ろうと思ったのが「Chromosome XY」。初め手と足だけで始まったけれど、男の手足は意外と軟弱で画にならない。それでポートレートと身体も含めて撮ったんです。このシリーズ私にとっては楽しい仕事でした。男の体をちゃんと見る機会は滅多になくて、何人かの男性に協力してもらって、写真家の方にも結構声をかけたんですが、東松照明さん、荒木経惟さん、森山大道さん、その三人は断りましたね。自分で撮るからいいっていう感じで。何人か写真家の方も入ってますが。これはもう本当に自分の身体とは違う男の体のディテールです。体毛だったり骨格だったり表面的なものを集中的に撮る。皮膚とはどういうものか。このシリーズで傷に出会う。男性は傷を持ってる人が多くて、傷どうしたのって聞くと結構物語があるんですね。一人ひとりたくさん話してくれて。撮影したのは随分前なので、何人かの人はもう亡くなっています。このシリーズは男性にとても評判が悪いです。男性のヌードというとマッチョだったりホモセクシャルだったり、わりと肉体を鍛えてる写真は見たことあるけど、一般的なヌードの写真を見る歴史を持ってない。男たちは自分たちのヌードの歴史を持たないから見たくないものを見ている感じがあるようです。自分を見ているみたいで嫌だって。女性からは評判が良いんですけど。この時わりと仕事で外国へ行くことが多かったので、パリやロンドンでも撮っています。だから日本人だけじゃなくて外国人もいます。皮膚、表面、ディテール、私はもともと壁みたいなものに興味があるのと一緒で、身体は建物みたいな気がしていて皮膚は壁です。なので、決して初期の三部作と違うところはなくてこの時も建物の壁的な意味がすごくあります。


「Chromosome XY#54」(1994-5)
©Ishiuchi Miyako

04 「Mother's」 

その中で突然母が亡くなったんですね。その流れで「Mother's」というシリーズが始まり、母は2000年に亡くなって発表したのが2002年です。岡本太郎美術館で2000年に「その日にー5年後、77年後、震災・記憶・芸術」という現代美術の展覧会に参加して、その時に撮った皮膚の写真が元です。母は大きな火傷の跡がありました。その火傷した時の輸血が元でC型肝炎になって気がついた時には手遅れで、入院して2ヶ月で死んでしまったんです。母が亡くなって遺品を整理していたら箪笥の中からたくさん下着が出てきた。遺品というにはちょっと寂しい物で、人にあげる物でもないし、私が着る物でもない。捨てなきゃいけないと思ってもどうしても捨てることが出来なくて、それで写真に撮っておこうと。発表するつもりで撮ったわけではないんです。それでも段々写真を撮り始めてプリントしたら100枚ぐらいプリントが集まり、人に見せたら写真集を作ろうと言われた。ちょうど2002年に名古屋で展覧会が決まっていてそれに合わせて「Mother’s」というシリーズが出来たんです。まさかこれがヴェネチアまで行くとは夢にも思わなくて、本当に母には感謝しています。実は母と私はあまり日常的にはうまくいってませんでした。父が亡くなってからやっとコミュニケーションとろうかなという矢先に亡くなってしまった。でも写真を撮ることによって彼女と会話するような感じでした。物持ちが良い人で、いろんなものを残していった。使う人がいなくって入れ歯自体もすごく寂しそうなんです。言ってみればごみと一緒。口紅のような形のアイシャドウもあります。口紅も時間が経って腐っていくわけですけど、それが私にとっては愛おしい。最近になってやっと母がどういう人だったのかということが少しずつわかってきた。生きてる時はなかなかコミュニケーションが取れなかったのが、今考えるととても残念だけど、亡くならないと親のありがたさはわかんないのかもしれないしね。今このシリーズはシドニーの州立美術館で2007年8月まで展示しています。


「Mother's#49」(2002)
©Ishiuchi Miyako

05 「SCARS」と「INNOCENCE」

傷は過去の記憶の形です。時間がそのまま形になってるもの。物語や歴史、アクシデントやいろんなことがあって、生きる一つの形ではないかと思っています。傷跡を持ってる人は生き残った人でもある。横須賀美術館は「生きる」というテーマのグループ展ですけど、そこでINNOCENCEの新作を出してます。傷跡は古い写真にちょっと似ていて、古い写真を見たときに、ここはどこだったとか、これはどうだったと語るのと同じように傷跡は物語がたくさんあります。目に見えない記憶や物語、どちらかというと辛くて痛くてあまり良い思い出ではないですけど。でも私にとって傷跡はすごく美しいディテールの中で立体的な彫刻に近い感じがします。このシリーズはニューヨークに三ヶ月行って撮ったものが多い。傷を負ってる人がニューヨークにたくさんいるんじゃないかという思い込みで行ったんですけど、いろんな人たちに出会えて25人ぐらい撮りました。この時から段々女性の傷が増えていって女性の傷と男性の傷は意味が違うということが少しずつわかってきました。今ツァイトフォトサロンで展示しているのは、「INNOCENCE」という女性の傷だけです。やはり女性の場合は、体に傷があることにある種の差別感があります。「キズモノ」というとんでもない言葉があるように。女性の傷はちょっと意味が違います。「INNOCENCE」は意図的につけたタイトルで、傷を持ってる女性は全部イノセンスなんだと、まぁ私の独断で決めてることなんですが。


「SCARS accident1976」(1996)
©Ishiuchi Miyako


「イノセンス#47」(2007)
©Ishiuchi Miyako

06 撮影が苦手な写真家

岡部:大変興味深いお話を伺えたので、これから少し質問をさせていただきます。石内さんの写真の撮り方に関心があるのですが、モデルさんにアトリエに来て頂いて、自然光の下で一眼レフでデジタルは使わないとお聞きしました。デジタルのようにチェックしながら出来ないし、かなり緊張なさると思うのですが、撮影は被写体になってくださる方と話しながら、なさるのでしょうか。

石内:私は実は撮影が非常に苦手です。撮影がなければ最高だと思ってる変な写真家なんです。撮影現場は生っぽいところで、距離しか撮れない。その距離をどうやって保つかに緊張しちゃって、私はなるべく簡単に少なく撮っています。ですから出会い頭でパッと撮ってスッと終わっちゃうので、あまり話しはしません。総て35ミリで、全部でフィルムを3本ぐらい撮っています。

岡部:3本も撮られるのなら、一時間ぐらいはかかりますね。

石内:いやいや30分ぐらい(笑)。たったワンカット撮れればいいっていう意識なんですよ。せいぜい2カットぐらい撮れればいいかなと。私は暗室作業が非常に面白いと思っていて、現場は通り過ぎてしまうけど、プリントはそうじゃない。プリントすることでもう一回暗室で撮影現場を反芻することになる。どういう写真を私は撮りたいんだと思考する場所でもあるんです。だから撮影はなるべく少なめに短時間に。たくさん撮ると後でめんどくさいから。で、全部自然光です。私は写真を習ったことがないということもあり、いわゆるスタジオで撮影したことは一度もありません。アトリエに来てもらい、ただし晴れた日にしか撮りません。ですから贅沢な形で撮影はしていますけど全然問題はないです。今ツァイトフォトサロンで展示してる作品は全部私がプリントしました。35ミリをロール印画紙でプリントしています。ですから1m8×80cmぐらいかな。

07 傷を抱えた女性は皆イノセント

岡部:最近は傷を持ってるから写して欲しいといって来られる女性がいるともお聞きしましたが、どこにどういう傷があるのかはアトリエで初めてご覧になるわけですね。前もって構図などを考えずに、その場で見て即座にこういう写真を撮ろうと決められるわけですね。

石内:人の体の傷を撮るというはっきりした自分のスタイルがあるから、あれもこれも撮る必要はなく、難しいことはないんです。今は女性の体のフォルムも含めて傷を捉えたいというのがあって、結構引いて撮ってます。昔はマイクロレンズで接写のアップしか撮ってない。あとは初めて脱いで頂く時は、お互いに緊張してますから、その緊張感でパッと撮れば良いんです。コミュニケーションを取るのは私は現場じゃないと思う。いろんな人がいますけど、私にとってはモノクロ写真は作り物です。現実の色ではないという意味において虚構です。私が作っていく写真なので現実的な傷と写真は違いますよということをモデルさんに伝えてある。初めから写真集と展示をするということを了解の下で傷を撮らせて頂いているし、あとは写真を差し上げてます。生の傷は自分の肉眼では見えないわけ。写真はモノクロだから全然違った次元になるわけですよ。写真は真実ではなくて作り物というのが私はすごくありますので、ドキュメンタリー的なものに対して不信感がある。それはそれで構わない。世界はあちこちいっぱいあるんだけど、たかだかフレームの中でしか撮れない。フレームはその人の目であり、視線はもう価値がそこに含まれているという意味であり、現実のひとつであっても真実であるのかどうかはわからない。そう思って、私は写真を始めたんです。

岡部:傷はそれぞれ物語があるとおっしゃっていましたが、男性と女性の傷の大きな違いに、女性は分娩や乳がんといった生殖にかかわる特殊な身体性があり、求めるわけではないのに非常に重要な部分を傷つけざるを得ない部分がある一方、男性の場合は、傷を持つことが戦いの記録のようになったり、あるいは危険を通過したけどサヴァイヴァルの力があったというように、勲章の意味があることが多いと思うんですね。それは対極的ともいえる大きな違いですけど、石内さんはその相違については、どう思われました?

石内:結局、女性の場合は、傷を抱えてるんですよ。抱きしめてる。でもどうすることも出来ない。傷から逃れられない。男性はそういう意識はあまりない。傷があってもなくても傷から人生を変える事はあまりない。女性の場合は傷を受けて人生が変わるんです。

岡部:それは女性の体が男性などの視線にさらされることで価値付けられる要素があるからでしょうか。

石内:はい、美意識に対する価値観ですね。要するにまぁ男性も売れる時代ですけど、女性美という出来上がった歴史の価値の中で女性の体は無垢である、それが理想的な女の体としてあるわけですよ。

岡部:ヴィーナスのような完璧な理想の美のイメージがみんな頭の中にあるから、傷を受けた人自身がそうした通常の美の範疇から排除された異質な体になってしまったと感じるのでしょうか。

石内:それもあると思いますが、体の傷は心の傷なんです。女の人の場合は両方持たざるを得ない。男の場合は心まではいかないの。今「イノセンス」と言っているけど、赤ちゃんの時に火傷した人なんて自分は傷を負った意識も自覚もない。母親はわかってるから、母とうまくいかないのは当然なんです。ある日気がついたら傷があるわけです。

岡部:不注意なお母さんのせいだと思うからですね。

石内:そう。自分がいつ傷を受けたかわからないと、その傷を受け止めざるを得ないという意識がないけど、段々傷も成長します。その人とともに傷も大きくなるわけですね。その中で彼女自身はどのように受けとめるか判断がつかないから傷のせいにしちゃうわけです。例えば、今傷の写真撮ってくださいという女性がたくさん来ますけど、すごーく悩んでるんだと思う。それでたまたま傷を撮ってる女の写真家がいることを発見する。私は傷を持ってる人に発見されてるわけです。彼女たちが写真に撮られるという事はすごく勇気がいると思う。

岡部:でも浄化作用があるのだと思います。

石内:そうですね、ただし私自身は癒しとか浄化とか全く関係なく撮っている。それは相手の問題。非常に冷たいようですけど、私はそういう意識は全くなくて作品を作ることで傷の意味を伝えるわけですね。個的な問題ではなくてもっと大きな意味で傷を捉えたいと思っている。差し上げた人たちがそれで救われるかもしれないけど、それは私の問題じゃないっていうことは初めから言ってますし、その問題とちょっと切り離してる。じゃないと写真は撮れない。

岡部:石内さんのスタンスはよくわかります。ただ傷を持ってる人はそれを隠してることが多いだろうから、まず公に人の目に晒すという行為自体が初めての人も多いでしょうね。それが写真として更に他の人の目に触れるということで、自分自身の心理的な目線とは違う視線で傷を見ることが出来てくるのでしょう。

石内:だから多分それを必要としてる人たちだと思う。傷を撮ってくださいと言う人は、今までの自分じゃ嫌なんだと思う。何か変えたいという意識で、写真を撮ってそれを自分で客観的に見るということでしょうね。

岡部:それは勇気があるから出来ることですね。

石内:そうだと思う。たくさんの女性の勇気に支えられて撮っているわけです。

08 時間の粒を撮る

岡部:同時に横須賀とか赤線の、全国いろいろなところを回られて撮ってる作品も、普通みんなが目を背けたい場所が多いですよね。先ほどそういう見ないところに目を向けるということをおっしゃっていましたが、写真を撮ろうと思った最初の頃からそうした角度というか、特性をおもちだったのでしょうか。

石内:ちょうど私は30を迎える前に写真を始めたんですけど、一体何を撮って良いかわかんないわけね。その時に好きなものを撮るのは当たり前だと思い、だったら一番いやなものを撮ろうと始めた。それが横須賀の街だった。私横須賀、大っ嫌いでとりあえず東京に引っ越して横須賀なんておさらばよみたいな感じでいたんだけど、私にとって何が一番心の傷としてあるのかと思った時に横須賀の街にハッと気がついた。で、横須賀を撮って今に至るわけです。

岡部:横須賀の街というテーマを決めてから、さらにそこにある建物にしても、普通だと綺麗な入りやすいところを撮ると思うのですが、石内さんの場合は人がなるべく見ないようにしてるようなコーナーや寂れた壁面などを撮られていますね。

石内:というか、空気がわだかまっていたり、暗くて危険だとか、そういう場所に非常に興味があるの。だから私の写真を見て明るい感じとか嬉しくなるとか楽しくなるとかそういう写真ではないんですね。

岡部:そのせいか、無防備な心の闇にすっと入りこみます。

石内:なるべく人が避けて通りたいとか、なるべく触れたくないとか、そういうものって写真的なんですよ、変な言い方だけど。写真を撮る何か裏がある、奥がある、もう一個向こうがある。私はそういうことにすごく興味があって、表面はどうでもいいんです。

岡部:空気感を語るような写真が多く、場所とか建物とかを撮られていても、人物が余り入っていない。逆に人をクローズアップで撮ったりする時には周りが写っていないことが多い。それは無意識の構図といえますか。

石内:初期の三部作は、写真をやってる人がいれば技術的なことは分かると思うんですけど、フィルム現像を30度で20分でやっているんです。だからネガが真っ黒。そうすると露光時間が長ければ絶対に出る。その代わり粒子がぶつぶつに出ちゃうわけ。というのは私にとって横須賀っていうのは粒子が荒れてて暗くておぞましくて、何かこう胸につっかえるものだったから、その粒子がとっても生きた。私は粒子がぶつぶつ楽しいなと思いながらプリントしてたんですけど(笑)。それが手と足を撮った時に全く普通の現像になりました。普通の現像というのは、だいたい20度で10分ぐらいかな。何故かというと、手と足にディテールがあるわけ。意図的に粒子を荒らす必要はない。身体に粒子があるので、意図的に手法を変えました。

岡部:写真の粒子と人間の皮膚の粒子が共犯関係を結ぶような感じですね。

石内:そう、それは敢えて粒子を荒らす必要はない、体に時間の粒がいっぱい溜まってるんだなと思いました。だから技術的にかなり変わりましたね。


「絶唱・横須賀ストーリー#1」(1976)
©Ishiuchi Miyako

09 特別視される女性写真家

岡部:日本で写真家として知られてるのは、歴史的にも圧倒的に男性の写真家です。その中で女性の写真家として石内さんが撮り始めた時は、社会におけるジェンダー的にも難しいところが、いろいろあったのでしょうか。

石内:例えば木村伊兵衛賞を女で初めて取ったのね。私は写真界のこと知らなかったし先生もいないから縦も横も繋がりがなくてボーっとしてたら頂いた感じ。受賞してからカメラ雑誌の仕事で地方巡業みたいに回っていた時、「どこの馬の骨」みたいな感じですごく言われた。そのぐらい知られていなかったから。

岡部:結局メインストリームはつねに男性で作られてきているから、どんなに重要な木村伊兵衛賞を取っても、その範疇には入っていないような扱われ方をされたわけですね。でも作品を発表することにおいて問題はなかったのでしょうか。

石内:いやそんなことはないですね。ただそれは意識するかしないか、無意識ではいけないけど。女性が木村伊兵衛賞を取れば、今だって差別がある。その差別感は社会的なものだから、私はそことは独立独歩で生きていると思うけど、それでも差別感はある。

岡部:特にどういうところでそれを感じますか。例えばコレクターが女性の写真家だとなかなか買ってくれないとか。現代アートだと今は違いますけど、昔はやっぱり男性アーティストの方が仕事を継続できる長続きすると考えて、女性だと若い内は続けても、そのうちやめてしまうかもしれないと思われて、どうしても男性作家のほうが、買いやすく感じられていた側面が多少あったと思うんです。

石内:いわゆる女性写真家としての差別感ではなく女としての根本的な問題、結婚とか出産とかでの差別感です。ただ私ね、男と間違えられるんですよ。名前も石内都だし。個展の入り口にいたりすると「奥さんですか?」なんて言われたりする。もともと女っぽいものは排除していたんだと思う。

岡部:そうですね、一見するとあまり女性の写真という感じは受けないです。

石内:良く自分の写真を振り返って見ると女性じゃなきゃ撮れないものを撮ってるんですけど。その当時はかなり強がってた。写真界で女性は少なかったし、私写真界の付き合いほとんどやめてしまったので。

岡部:単独でさまざまな活動をなさってましたからね。

石内:まぁつるむ必要はない。私は自分の場合としてやっているから。それで前回のヴェネチア・ビエンナーレでコミッショナーとアーティスト両方とも女性同士だったら、珍しいものを見るように、メディアにたくさん出たんですよ。

岡部:草間彌生、内藤礼など、男性のコミッショナーが女性作家の個展をした経緯はありましたが、今まで女性のコミッショナーになっても男性のアーティストだけが取り上げられたし、両方が女性というのは初めてでしたね。

石内:私のときは女性コミッショナーは3人目だったんです。初めてコミッショナーに女性が選ばれた時はすごいと思ったけど、女性作家が一人もいないので、何故なのか彼女に聞きました。そしたらテーマに合わないと言われてそうかとも思ったんだけど。女2人でやるということであらゆるメディアが取材に来たのは、差別、特別視されているからで、あまり喜ばしいことではないですね。

岡部:あのときのヴェネチア・ビエンナーレの総合芸術監督自体が、2人のスペインの女性でした。ですから、フェミニズム展とかスキャンダラスにマスコミに取り上げられましたが、実際にジェンダー的な視点を導入した展示だったので、今までメインストリームには登場しなかった作家も随分取り上げていて、とても面白かったです。


「アパートメント#14」(1977)
©Ishiuchi Miyako

10 母との確執、父との関係

岡部:今、傷を追って撮影を続けられていますが、岡本太郎美術館の「その日にー5年後、77年後、震災・記憶・芸術」展に出品されたお母さまの火傷の写真は、その火傷が、震災と関係があったからでしょうか。

石内:あれは家でてんぷら油に火が入ってそれを被ってしまって死にそうになったんです。たまたま岡本太郎美術館が震災をテーマにした時に、母は大正生まれですから関東大震災を経験してるんですよ。情報的には阪神淡路大震災も知っている。別にそれは震災の傷ではないんですけど、時間軸を一緒にしちゃおうと思って敢えて母の火傷の傷を出したんです。だから関係性は観念的なものだったんですけど。

岡部:火傷の傷を写された時はお母さまが生きてらしたわけだから、その写真の行為を通して多少はコミュニケーションができるようになったわけでしょう…

石内:そうですね。父が亡くなって5年ほど生きてたんですが、その間になるべく多く話しをしようと思っていた矢先でしたね。

岡部:おいくつぐらいの時でしたか。

石内:あれは母が亡くなった歳でしたから84歳。3月の誕生日に撮らせてもらって、岡本太郎美術館での展覧会が震災の日9月1日にオープンして、彼女が亡くなったのが12月だからあっという間でしたね。一緒に美術館に行こうと言った日に具合が悪くなって母と病院に行ったんですけど、私だけが呼ばれて、良くて3ヶ月、悪くて1ヶ月って言われた。テレビドラマを見てるみたいな感じ、真っ白になっちゃった。

岡部:お二人の新たな関係性がこれから始まるという時ですものね。お母さまとしては石内さんに自分が隠していた傷の部分を写してもらって、関係が回復したような穏やかな気持ちになっていたかもしれないですよ。満足されていたかもしれませんよ。

石内:ですから臨終まで全部付き合ったんです。私はお父さん子だったので母とあまりコミュニケーションできなかったのね。そういう確執があったから写真が撮れたんだなと思う。うまくいってたら多分撮らなかったと思う。

岡部:お父さまの写真は撮られなかったんですか。あの男性ヌードの中に入っているのかしら。

石内:入ってるんです。それは入れなきゃいけないなと思って。

岡部:「Mother's」のシリーズで有名になられたということもあって、お母さまとの関係などは、いろいろな形で書かれていたりするのですが、お父さまの話はあまり出てきませんね。

石内:いや実は父のこと忘れていたのね(笑)。余りにも身近で私の味方だったから、言ってみればスポンサーみたいなものですよね。精神的にも経済的にも。父が亡くなったときにはこの世の果てみたいなとんでもないショックを受けたの。ただ母が亡くなったときはそういうレベルじゃなかった。同姓という意味において母というのはなかなかうまくいかなかったわりには言葉に出来ない悲しみがありました。もう父が亡くなったときにはこれからどうやって生きていこうというような心配がありました。

岡部:現実的な悲しみですよね。私も父が亡くなったときは同じようなショックを受けました。

石内:でもレベルが違ってました。母が亡くなったときは。

岡部:石内さんが写真集などを出版されるときには、お父様がいろんな形でサポートしてくださったわけでしょうか。

石内:うちの父は結構派手好きというか、私の個展とかオープニングには必ず背広を新調してくる、すごくお洒落な人だったから、すごく私も楽しかった。お父さんカッコいいなぁなんて思って(笑)。私は父に借金をして写真集を作ってました。木村伊兵衛賞の賞金は、父にとっては借金を返してくれるというので、とても喜んでた。ですから袋だけで中身は全部父がもっていっちゃった。そういうのははっきりしている。

岡部:石内さんのような写真の写真集は、いわゆるみんなが喜んで買うヌード、ポートレート、スナップなどとかとはかなり違いますから、初期の頃は購入してくれる人はそういなかったかもしれないと思うのですが、それでも写真集を出版するという行為は、基本的にご自分の創作行為に投資する形で、写真を作る時の制作費などもすべて、ご自分でコスト負担されてきたということでしょうか。

石内:初期の三部作はほとんど父から。花嫁資金があるだろうと口説いたんです(笑)。強引にけっこう大金を借りました。ですから初期の三部作はもう自費出版ですね。今ではそうした基本的な資金は出版社が作ってくれます。

岡部:大体1000部の出版ぐらいから始めるんですか?

石内:大体ね、500部は売れるんですよ。それから1000にいくのが結構大変。コストがどうしても写真集は上がってしまう。でも出してる写真集は多いですね。私は展覧会がある度に写真集を作るというコンセプトがあるんです。自分の写真をどういう形で伝えていくか。写真展は限られた人しか来ない。そういうものに対してカタログという意味もあるし、写真集は無理しても作らなきゃいけないと思って今日に至るんです。ですから一番初めの「絶唱横須賀ストーリー」も作ってます。今日持ってきてないんですけど、絶版で値が上がって、今は何十万円です。そういう風に付加価値がつきながらほとんど外国の人が買って、日本人は買わない。それはちょっとおもしろいと思っています。

岡部:絶版で買えないのは残念ですね。欲しい人は今はたくさんいるのに。2年前のヴェネチア・ビエンナーレには、全世界の美術評論家やキュレーターが見に来てくれたわけですが、それを境にして、今はいろんなところから作品をまとめて買いたいというコレクターも増えてきてるというお話も聞きました。日本と海外の写真の位置はかなり違いますね。

石内:どうしても日本だと写真家という肩書きが付いちゃうわけですよ。外国は全然関係ない。みんなアーティストなの。写真は歴史を持ってないから、今歴史を作ってますよね。私も歴史を作ってる一員だという自負があるわけですよ。アートはもう歴史を持っていて、どっかで終わってる部分も含めながら、日本はどうしてもアートと写真を分けたい。でも外国は全然関係ないですよね。


「連夜の街#1」(1978)
©Ishiuchi Miyako

11 写真家を区別する日本

岡部:石内さんの作品を一番持ってるのは、どこの美術館でどのコレクターでしょうか。

石内:日本では東京国立近代美術館と国立国際美術館。国立国際美術館が最近まとめて買って、「Mother's」も入ってます。コレクターはイタリア人です。

岡部:東京都写真美術館はいかがですか。ある時期に購入費がなくなったりしましたけれど。

石内:初期の写真美術館は買いに来た時に一律、値段が全部一緒だったの。12点だけ買いますけど後は寄贈してくれって言われて、私は一切寄贈をやめたんです。だから12点しか入ってない。やっと「Mother's」は何点か入りました。それはちゃんとした金額で買って頂くということで。ですから写真美術館はふたつしかシリーズが入っていませんが、最近は少し情況が良くなったのだと思います。

岡部:国立国際と近美は国立だから、購入予算がしっかりあるので、いくつかのシリーズをまとめて続けて買ってくれたんですね。それは良かったです。

石内:国立は系統立てて収集しようというところがすごいなと思います。いずれ個展だとか考えてくれてるのかも知れないということも含めて。あと今はNYで2008年に個展があるんですけど、それと3月からプラハを皮切りに2年間エキシビジョンツアーがヨーロッパで予定されています。アーティストトークでは、今サンフランシスコに呼ばれて、サンフランシスコMoMAが「Mother's」を買ったんですよ。

岡部:日本だと写真自体の位置が違うこともあるし、一般の人が大きい写真を買うかというとまだ難しいですよね。

石内:日本は写真を区別したい、格差をつけたい、みたいな感じがなぜだか良くわかんないのよね。だからそれは写真に対する日本の独特の歴史だと思うんですね。

岡部:石内さんは先生をあまりなさらないタイプだとお聞きしましたが、もしこれから写真を自分で撮っていきたいと思ってる人がいるとしたら、どういうアドバイスをなさいますか。

石内:私写真習ったことないんで、要するに自分を信じることですね。それしかない(笑)。なんか言われても私はこれしか出来ないと思ったらそれをやるしかない。いろんな人の話は困った時に聞けばいい。私もどうしていいかわかんない時は経験者に聞いたりしましたけど。あとは自分がこれだと思ったらやるしかない。というか私それしか出来ないから、アドバイスができないですね。自分がやったことを伝えるしか出来ないですから。

岡部:最近は写真の良いギャラリーも増えてきたと思うんですけど、それもまだ少ない。写真専門というより、アートギャラリーで企画の企画をやるところが増え、写真を扱うようになってきてます。そういう意味でアートとして写真を発表できる機会は増えてきましたね。 

石内:写真を区別してはいけないというのは外国に行けば分かるわけだから、若いギャラリストたちがそうですね。もっと増えてもらうとありがたいですけどね。

12 世界最大級の傷へ 

学生:傷を撮ってもらった人は撮ってもらった写真を見たときにどんな反応をしますか。

石内:結局客観的に見るのは初めてなわけですよね、写真で。みんなびっくりしますね。こういう風な自分の姿を初めて見るわけだから。でもみなさん一概に良い感触です。悪い感想は今まで一度もないです。意見とか感想とかあれば教えてくださいって手紙に入れるんですけど、きちっと返ってくるし、マイナスの意見はないです。プラスの意見ばかり。撮って貰って良かったという人のほうが多いですね。

岡部:今は傷が継続的テーマになっているわけですが、今後の展開はいかがでしょうか。

石内:傷は実は「イノセンス」で終わりにしようと思って。それで今広島を撮ってるんです。広島は世界最大級の傷を受けた街です。私実は広島に行ったことがなくて今年初めて行ったんですけど。空を眺めながら62年経った広島の街を見て、あぁそうかこの街は最大級の傷を受けた街なんだと実感できた。だから撮れるなと思ったんです。例えばそれは体の傷を撮る中で、あとは横須賀もアメリカも含めて、流れとしてはすごく自然に広島にいったのかもしれないと思って、ちょっとびっくりしてます。来年もう写真集が出来るんですよ。それははっきりしてる。写真集つくるために撮ってるので。広島ってほとんど撮りつくされてて、あらゆる写真家が広島長崎を撮ってますね。私は別に広島的なものは私の人生の中で一切ないと思ってたんで、撮る必要はないし一生行かなくて良いと思ってた。それがどういうわけか去年東京都写真美術館で「Mother's」の展覧会を見た編集者がいて、私に仕事で撮ってくださいと頼んで来たんですね。何で私が広島撮んなきゃいけないの?みたいなことから始まって。そしたらその編集者はなんと原爆資料館の遺品を撮ってくれと言う。完全に「Mother's」の流れです。遺品集というのはあるんですけどね。土田ヒロミさんが広島コレクションといって遺品集を作ってます。でも私の写真とは全く違います。多分私は今まで誰も見なかった広島を基本的にカラーで撮っていて、被爆された方が身に付けたものなので、こういうこと言うと誤解されるかもしれないんですけど、実は62年前のファッション写真ですと言ってもおかしくない。私自身なぜ関わりが持てるかというと、私が今生きてる時間と同じ時間にあるものを撮ってるからです。それが広島の遺品だったわけです。だから今みんながこうやって生きてるのと同じ時間に遺品たちはある。今の時間を撮ろうとしてる。ですから私はいわゆる反戦シンボル的なものを排除はしないけど、当たり前だし基本だから。そのことは置いておいて。そうじゃない広島を私は撮れるかもしれない。それですごく興奮してます。1月、3月、8月に行って10月にもう一回行くんですけど、2008年4月に集英社から写真集が出ますので、機会があったらぜひ見てください。

学生:モノクロ写真を専門になさっていて、カラーになったきっかけがあったのでしょうか。

石内:「Mother's」の口紅は一応モノクロで撮ったんです。でもなんかプリントしたら面白くないの、口紅が赤くないから。モノクロだと中途半端な黒っぽい色になっちゃうわけです。やっぱり口紅は赤い方がいいなと思って撮り始めた。モノクロは自分でプリントできるから好きなんですけど、カラーはやりません。全部ラボに出しています。カラー写真はモノクロと違って自分の手から離れる面白さがあります。そういう意味で、口紅は赤だし、アイシャドウは青だなと思ったわけね。

岡部:あの赤は強烈ですよね。金属の円筒形のまわりに口紅がはみ出して、少し付いてるのがとくに生々しいというか。

石内:母が使ってたからね。使いさしのものがそのままもう使われなくなった状態なんですね。口紅をさす唇がない、下着を着る肉体がない。でも下着たちはあるし、口紅もあるという現実。そういう喪失感なんです「Mother's」は。

岡部:口紅とかお化粧品の広告写真は、とにかく綺麗で、まだ使ったことのない新品が登場して、時間の経過のない、対象者がないモノが中心ですよね。それを誰でもが使えますというサインで構成されているので、石内さんの口紅などの写真がもつ、使っていた人の時間や生が込められている写真とは全く違うものです。その相違が新鮮でした。もうひとつ私が興味を持ったのは、手や足をテーマにして撮られていた時、それらの被写体には名前も特別なタイトルもなくて、その人の職業、美容院の店員とかそういう社会的な位置だけが書いてあったことです。でも簡単なその指示があるおかげで、その人の足が普遍的にも見えるし、身近にも感じられる。石内さんは、タイトルをつけようと思ったとき、初めからそうしようと決めていたんですか。

石内:そうですね。手と足の写真と、顔も撮ってるんですよ。体の末端と言う意味で、上半身脱いでもらって、顔も撮ったんですけど、写真集を作る時に顔も入れたら合わないの。顔と手と足。何で合わないのか考えたら情報が全然違うんですよ。その情報の違いを一緒にすると変な写真集になっちゃう。それでほんとに勇気を持って手と足だけにしたんです。

岡部:モデルになった人は、自分の顔も出ると思っていたのかしら。

石内:そうです。顔も撮ってましたから。でもそれが写真集で組んでいく時にどうしても顔が無理だと思って諦めて、手と足だけでシンプルにした。誰だかわかんないけど、よく見るとわかるみたいな形。で社会的な背景として職業をつけようかなと思ったんですね。

岡部:顔というのは、自分だけのものではなく、社会に常にプレゼンしている、つまり自分自身を説明したり表現しているような身体の場所ですが、特に足の裏なんかは基本的にそんなに人に見せるものではないから、全存在を支えてるすごく大事な存在なのに、わりと無視されていたり、ほおっておかれたりしますよね。顔と対極的なものなので、一緒にするのは難しいですね。

石内:一回、顔だけのポートレートも発表した事があるの。それは10人と限定して、モデルの方はすでに2人亡くなってますが、50歳の時に撮らせてもらった。こういう風にして時間って過ぎていくのかなぁって感じます。

岡部:ありがとうございました。
(テープ起こし担当:林絵梨佳)


↑トップへ戻る