Cultre Power
artist 出月秀明/Idetsuki Hideaki


















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批評

出月秀明という人はとても魅力的な人だ。実際に本人を見たことがあるわけではないのだが、パンフレットに載っている「招待状」読むだけでその人間性というか、人柄がじんわりと、しかし確実に伝わってくる。とても穏やかで、それでいてどこかファニーで愛らしい。世界に数多く存在するアーティストの中には、やたらと堅苦しく論理的だったり抽象的だったりする人がたくさんいる。しかし、それが悪いわけではないことはわかっている。ただ、個人的にはどこか取っつきにくさを感じてしまうのだ。しかし、そんな時に出会った出月秀明はどうだろう。招待状を読んだだけで思わず頬が緩んでしまう。まるで忘れたころに思いがけなく海の向こうから届いた、古い友人からのエアメールのようだ。そしてその文は近所のちょっと不思議なおじさんが、目の前で起こったひとつひとつの出来事に目を輝かせながらいちいち感動し、そしてあまりにうれしすぎてそのことを誰かに話さずにはいられない子供のようだ。そう、まるで子供のようなのだ。
そして私は個人履歴、彼が今までどんなことを経験してきたのかを知って思わずにやりとしてしまった。徒歩での栃木県北部地区一周をはじめに、四回に亘る東京徘徊やヨーロッパ横断、それに伴う怪我による入院、そして鮭や鮪を釣り上げてもいる。ピンときたら、行動に移す。そして自分の足で歩き、手で触り、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、目で見て、体で感じる。そして、感動する。まさに好奇心溢れる子供そのものだ。そして出月はそれらの体験から感じたことを表現する。れはとても難しいことだろう。しかし出月は自分の記憶や感覚を、いとも簡単にと言ったら語弊があるが、見事に表現し切っているように思う。
はっきり言って出月の作品は異質だと私は思う。今回訪れた「アランの毛糸帽子会議」は真白い空間の中に椅子や机、そして暖炉があるものの、ところどころに作品が展示してあるだけで、最初は割に質素な印象を持った。しかし、その空間の中に身を投じてみると、今まで訪れた展覧会では感じたことのなかった感覚を覚えた。それは稚拙な表現だが、ホッとするような暖かい、密接な関係の友達の部屋にいるような感覚に近いような気がした。そしてそれは幸福感に変わていくのを確かに私は感じた。長い間忘れていたような気がする幸福というフィーリング。繊細研ぎ澄まされた感覚とともに、それはこんなところに転がっていたのかという親近感を出月の作品は持っているように思えて仕方ない。
「大事なことはみんながこの帽子をかぶって素敵な時間を共有することができれば再考に幸せだ。うーむ素敵だ。」この言葉に私は強く心打たれた。何気ない言葉だが、普段そんな幸せを私達は身近にあるにも関わらず、見過ごしがちだろう。しかし、出月秀明は違う。彼はきっと知っているのだろう。幸福というものを。ただ平凡に、だがしかし確実に過ぎ去っている毎日に、なにか言いようのない不安や焦燥を感じてる人がいたら一度出月の作品に触れてみるといい。きっと何かが変わると私は思っている。

(岡本裕司)


彼は旅する作家であるらしい。私も旅が好きで、彼の旅好きというところにいくらか親近感を覚えた。私の旅のスタイルは歩くことであり、知らない街に行ったときには、何かを目的を探して歩き回る。見慣れた近所の街でさえも、何かを探して歩き回ることが多い。旅好きといってもただの"旅行"でないところに彼と通ずるところがあるかも知れない。彼は見知らぬ街をさすらい、見聞を広めるというよりはむしろ、冒険、巡礼という旅である。彼は旅の中で、自らのうちなる声に耳を傾け、あるいは自我を捨て、見えないものと語らい、そしてそれを形にする。常に自己超越をするものを目指すが、その果てにある「もう一つの世界」や「遠くつかめないもの」を表現することはしない。彼は、それらが存在はしないことしっている。それを求める人々の「心」だけが存在し、それを求め続ける行為にこそ意味があるのだ。
彼の作品は、ひとびとが求めてやまない、憧れとしての何か、それを求め続けていくための基盤。始まりとなるもの、言い換えれば「生きるため」に必要なものを作り出している。旅という特別な場所であっても、ありふれた日常や、あるいは無意味なものにさえも新しい意味や解釈をつけ、その始まりを導きだす。旅人の介入により、ありふれた場所をかけがえの無い場所へと少しずつかえてゆく。展示空間に火を持ち込み、その火を絶やさぬように閲覧者たちが関わり、自己の内面への旅へと誘われていく試みもある。彼の手に掛かると、世界は全くかわっていないのにもかかわらず、事物を真新しい目で見ることが出来る。彼は、自然と社会と、地方と都会と、無意識と意識を軽々と超え、その柔軟で軽やかな様に私たちは目を奪われ見せられてしまう。しかし、彼の作品の根本には、なぜか懐かしく感じてしまう"暖かみ"が流れているように思えてならない。
この机や椅子の並んだ気の聞かされた空間で、暖をとっていると、炎が対話と沈黙、そして心地の良い暖かさをもたらしてくれた。火はこうこうと燃え続け、もうじき暮れる今年一年を走馬灯のように思い描かせてくれた。

(木村恵美理)


「寒いのと暖かいの」

招待状には、彼がイニシュマーン島で「虹のかけら」である毛糸の帽子を見つけたこと、それをとっても気に入ってること、毎日様々な破り方を見つけて楽しんでいることが綴られていた。にとっての「虹のかけら」とは何なのだろう。そしてその「虹のかけら」を破るというのは、彼にとって、いったいどんなことなのだろう。彼は、「いいものはすべからく皆に分け与えるのだ。」と言っている。そして「みんながこの帽子をかぶって素敵な時間を共有することができたら最高に幸せだ。」とも言っていた。だからきっと、とても楽しくて素敵なことなんだろう、と思う。その素敵さを少しでも感じられたら良いな。そんなことを考えながら会場に入った。展示してある写真は、一言で感想を述べるとしたら、「静か」なものだった。人の手がほとんど入っていない島を端から端まで歩いて、そこには都会に溢れているような、電子音や機械音、その他さまざまな人工的な雑音は何も感じられない。聴覚的なものだけでなく、もちろん視覚的にもそれは同じである。聞こえてくるのは、風に草が揺らされる音や、羊たちの足音、息使い。時折遠くの方からは、海の波の音も聞こえてくるのだろう。そういえば、招待状の最後には、「この帽子には夜の野うさぎの足音や、月が海からのぼってくる音や、風のうなりやら、石垣から石が転がり落ちる様とかいろんなものが編みこんであるので、なにかの時にその音がきけると思う。」とあった。音は確かに聞こえてきた。この音がいつか、なにかの時にまた聞けるのかと思うと、わくわくする。だが同時に、いったいどんな時に聞こえるのか、不安な気持ちを一瞬感じた。静かさは一見穏やかさを感じさせるようだったが、私は肌寒さを感じた。風が頬を突き刺すような感覚や、手足のしびれ。
確かな厳しさがあった。上を見上げれば空しかないはずで、それ以外には何も無いだろう。きっと仰向けに寝転んでみたら空が覆いかぶさってきて、きっと天地が逆になったような感覚になるから、もしかしたら空に落ちてしまうかもしれない。
写真の中で一つ最も印象的だったものがある。おそらく崖沿いになっている草原に羊が何匹か無表情で居る。背景は海だ。海の上には灰色の空があるのだが、何よりも全体のバランスで言って、海が写っている割合が大きい。いや、平面上で写っている海の面積が大きい訳ではなく、広域にわたって海を写しているからかもしれない。とにかく、本当の海だ、と思った。飲み込まれそうで、どこまでもどこまでも海なのだ、と感じさせられた。はっきり言って私は、恐い、とさえ思った。
端的な言葉ではあるが、写真から自然の大きさが、頭というより身体に伝わってくる。そんな写真を眺めた後に、暖かいストーブが現れる。木の温かみを感じる小さな家具があって、うさぎの形をした椅子に腰掛け、しばし休憩、といった気分だ。同じ部屋に居るのに、まるで自然の中を歩き回ったあとに、山小屋に帰り着いたようだった。小屋の中から見る外の世界は、また違ったものとなった。無防備な自分の、あまりにも目の前に現れた大自然は、私を押しつぶしたり、飲み込んだり、あるいは私の身体の中に、はちきれるほど入り込んでしまいそうだった。それは、陶酔感、または、ある意味で開放感でもあった。自分という存在にとらわれなくなるからだ。一方、小屋の中から改めて眺める大自然は優しくて、どこか懐かしい気持ちにさせる。そんな記憶は無いのに、本当はこうゆう所で生活してたんじゃないかと思うくらい落ち着くのだ。
彼の言う、「虹のかけら」や、それを破るということが何なのか、まだ私にはよく解らない。ただ、極端な言い方なのかも知れないが、私は、自分の存在にとらわれないことと、自分の存在を見つめることの両方を漠然と感じた。そして、それは二つとも大切だと思う。

(清水菜穂子)

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