artist 平川典俊/Hirakawa Noritoshi
contents

01
02
03
04
05
06
07
08









Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
© Musashino Art University, Department of Arts Policy and Management
ALL RIGHTS RESERVED.
©岡部あおみ & インタヴュー参加者
©武蔵野美術大学芸術文化学科
掲載情報の無断使用、転載を禁止致します。

インタビュー

平川典俊×岡部あおみ

日時:2006年6月14日
場所:ニューヨークのスタジオ

01 ニューヨークの資本主義アートマーケット

岡部あおみ:平川さん、ちょうど日本からニューヨークに戻られたところですね。マ−ズ画廊で平川さんが2006年に「ペールデスティニー」という個展をなさった折に会いして、そのときに、ニューヨークに私がもうすぐサバティカルで行く予定だという話をしたのでしたね。

平川典俊:五月の終わりに2日間だけ日本に行きました。東京都現代美術館の岡村さんと会って、タカイシイさんへ作品を見せに。 和光さんの戦略は、僕の名前を上げて作品を売りやすくすることなので。

岡部:ボトムアップをするためにみんなで協力しようということですね。

平川:僕の場合これまで130近くプロジェクトを作っていて、全部スタイルも内容も違うんです。どこのディーラーもそれぞれ好きなものが一番コレクターに対しても説明しやすくて作品を売りやすいのでテイストが違う作品では別のところでやります。一つしかスタイルが無い人は画廊同士で取り合いになったりもするけど、僕の場合作品の幅が広いのが逆に問題で作品が売りにくくなる。アートワールドの中で浸透し難い。画廊の人にとって作品は商品ですから、浸透させるための方法論です。

岡部:平川さんご自身のエネルギーの配分はどういう風になっているのでしょう。その時その時によって違うのかもしれませんが。

平川:コラボレーターによりますね。僕がやりたいプロジェクトプランは山ほどあるけど志向性が合う人が現れないと10年ぐらい溜めておくこともあります。美術って作った時に作品の価値は分かるのはほんの一握りの人だけだからお金に還元するのは難しいです。現在はコンテンツがあるものは嫌われるんですよ。理解しなきゃいけないし、学習もしなければいけない。過去に見たものでないと自分で判断しにくいから。ここ5〜6年の美術の流れはわかりやすくてみんなが良いものは良いもの、高ければ価値があるという資本主義です。むしろ美術は本来そういうものじゃないから数年すると飽きちゃうでしょうね。

岡部:最近は春にオークションで買って秋のオークションに出す人もいるそうで、評価額のあまりの高騰に、芸術愛好家だったコレクターも作品が札束に見えてくるそうです。売れそうな作品は全部出してしまおうという傾向になっていますね。

平川:あれはもう、右から左に理財を稼ぐマネーロンダリングです。5-10年は売らないのが普通だったのにアメリカのコレクターは売れるから我慢が出来ない。もう作品自体は二の次なんですよ。80年代までのコレクターはそんなことしなかったし、そういう視点を持ってなかった。投資としてじゃなくて財産として長い間持ってて亡くなった時には美術館に寄贈などを考えてました。作品も安くて、この前ある批評家の人の家のパーティーに行ったらリキテンシュタインの作品を60年代に100ドルで買っていたという話でした。月に1000ドル貰っていた時代だから月給の10%、美術はもともとそんなぐらいで流通していた。90年代の初めニューヨークに来てウォーホールの作品を調べてたら、亡くなって1ヶ月後に同じ作品の値段が10倍になっていた。

岡部:お金の操作、いわゆるギャンブルが好きな人たちのゲームになっている気もするけれど、ロシアやアラブの石油関係の富豪が、アートが好きで金に糸目無く買っているという話も聞きました。

平川:それと儲かっているのは銀行や保険会社などで、彼らは美術作品の投資の確実さは群を抜いていると認知しています。サザビーズなどで作品の売買が流行ってるのはリスクの低い投資だということです。実際はそんなのまやかしです。30代の作家のペインティングに1億円の値段がつくのはあり得ないことですよ。アートマーケットには二重三重にビットする人や買おうとする人がいないから土地の売買で言えば、流れてバリューが落ちてゆく。

岡部:私、今年ニューヨークにいたので、3大オークションといわれるサザビーズとクリスティーズとフィリップスを見たんですが、良く見知っている絵が1億にまで競りあがっていくと、やはり臨場感ありました。落札されなかった、いわゆるビットした人がいなかった作品もあったけど、それは全体の10%ぐらいでした。

平川:それは表看板だけですよ。リヒターの写真の新作がビットしてなかったし、トマストゥルースも。作品として良いもの、ブルーチップっていう著名で安定してあがっていく作家をビットしてないのが多い。僕が思うには売りたい人が増えて、買う人とのバランスがとれてない。 それだけの値段を払ってまで作品を買うのか。明らかになってきたのは画廊に行った方が値段は80〜70%安いということですよ。

岡部:デフレになってきたのかしら。どちらにしても一般にはその作家を取り扱っているギャラリーで、プライマリーマーケットで買った方がオークションより安いですね。

平川:多くのアメリカのディーラーは自分たちが儲かれば良くて作家を育てようとか美術を尊敬するディーラーがほとんどいない。日本はもともとディーラーが少ないけど、ヨーロッパは10年ぐらいのスパンで、そういう意識を持っている人が多い。でもだいぶ短期的になりましたね。あと問題はアートフェアーです。画廊や店舗はほっといて、高く買ってももっと高く売れるのが分かってるし、キュレーター、ミュージアム、ファンデーション、すべてアートフェアーで作家を見つけてキュレーションなどの仕事をするようになって努力する人がいなくなった。作家の選択もディーラーがみな決めて、スタジオを回ったりする人もいなくなった。異常に高いけど結局ブースが高いからディーラーは高くて場所をとらない作品しか展示しない。映像は機材にお金が掛かるけどペインティングは画廊が制作費を払わなくてすむ。要するに楽して儲けようというやつですよ。それで必然的にペインティングが流通した。

岡部:絵画は現代アートでも、一般大衆が買うようになり、価格も100万円レベルのものをギャラリーでも買う人はかなりいる訳で、購買客の裾野が広がったともいえるし、同時に中国の絵画など一挙に値段が高騰して、一億を超える作品が2006年以降、急速に増えましたね。そこには市場操作もあると言われてますが、マーケット自体の自律的な加熱上昇運動のようにも見えます。

平川:でも作品として意味のあるものが出てきてない。美術としての機能が終わってる。意味のあるものは売れない。内容的に分かりやすい。海山をテーマにしたものが売買の対象になっている(笑)

岡部:壁にかけるものが主流な感じがしますね。オークションでは、ラディカルな作家には、お金は流れにくい。社会的なメッセージ性が強いとか、意味のあるものは売れにくい。色彩にメリハリがあって、内容的に分かりやすい人物、花鳥風月的なモチーフというか、美しい日本画を出したら売れるかもしれないですね(笑)。

平川:多くのディーラーは作品に内容のあるものは売れない、服と一緒でかわいいとかきれいとかが売れるって言っている。アートフェアーでもコンセプチュアルアートはほとんど出てこない。ヨーゼフ・ボイスも河原温さんの作品も出てない。アートラヴァーのディーラーは悪魔の時代と言ってますよ。責任はディーラーにある。多くのディーラーは収益金で家を買ったり、山を買ったり。あんまり金になるから彼等は別の投資先を探してる。50%のコミッションが存在する世界は普通じゃない。マネージメントとかアドヴァンタイジング、音楽とかどんなに高くても20%。普通は10%。ニューヨークの8割の有名な画廊は作家の作品制作費を全く払っていません。

岡部:70年代はミニマル・コンセプチュアルで売れなかったがら、マーケット至上主義は、80年代以降で、とくにここ最近になって露になってきましたね。ギャラリーとの力関係も変わってきて、作品のレベルが平準化して作家の数が増えてくると、ギャラリーのほうが強くなる。作家も売れるものへと傾いて、楽しい、気持ちいいという作品を安価にたくさん作らざるを得なくなるのは、悪循環としか言えませんね。

平川:そうです。とげの無いもの、サブジェクトとして人生に直接関わらないもの、誰も批判しないような作品。高くなりつつあるコミッションも全体のアートのレヴェルを落としてる。モネの時代はディーラーの取り分は10%ですよ。つい10年前までニューヨークの画廊は70%がアーティストで30%がディーラーでした。今ディーラーが60%ぐらい取ってるところもありますよ。ディーラーがアートワールドを支配してる奢りの意識がある。世紀末的ですね。

岡部:ギャラリーで作家が個展をするときに、美術館のキュレーターがカタログに文章を書くときには、プレスチージというか、評価額アップ効果というか、かなり高額な原稿料を支払うという話も聞きました。売れっ子キュレーターはお金持ちなのかもしれませんね。

平川:天下りとかお役人の裏には運転手付けた車や土地を寄贈したりポリティカルな汚職があって、美術館とキュレーターの関係もそんなもんです。キュレーターの人たちが画廊のカタログとかリーフレットに文章書くのにものすごい原稿料をディーラーは払っている。10年前で5000ドル。今1万ドルぐらい払っているんじゃないでしょうか。昔はキュレーターで動いていた人がいたけど今はキュレーターはアーティストに会いたがらない。画廊を通さないと画廊は怒るんですよ。画廊との利益関係によってキュレーターが存在している。コンテンツによってキュレーターが存在しているのではない。インディペンデントのキュレーターはすごく少ない。アメリカの場合だと美術館で働き始めたら50年も100年も働けるからそうやって動くことを好まない。


マンハッタン、ウォールストリートに近いスタジオで
© photo Aomi Okabe

02 アート・スペース、美術館の実情 ボードメンバーの権力

岡部:オルタナティヴ・スペースや規模の小さいアーティストスペースの歴史や運営などを調べていたら、オルタナティヴの代表格ともいえる「キッチン」のディレクターはかつてグッゲンハイムにいたキュレーターでした。他にもホイットニーなどの美術館にいた人が意外とそういう小さなアート・スペースに移っていて、大手の美術館とオルタナティヴ・スペースにはいろいろ関係があるようですね。

平川:グッケンハイムは最近7割の職員をクビにしたから今アメリカの美術界でグッゲンハイムにいた人がいっぱいいます。アーティストスペースはもともとインスティトゥーションで、ボードメンバーがいて彼らが権力を持ってる。けどそういうスペースではキュレーターの権力はない。アートスペースで働いていたキュレーターがほとんど決定事項に関して権限がないと言っていた。ほとんどのニューヨークのスペースはICP、international center photography以外はみんなボードを持ってる。ボードメンバーはドネーションする美術館とかスペースで自分の持ってる作品の値段をつり上げるために展覧会をやらせるんですよ。仕手株ということですね。例えば美術館のディレクターがポリティカル、セクシャリティー、センシャーシップ・・・ボードメンバーの利益につながらない、気に障る展覧会をプロポーズした途端にクビになるんですって。要するにディレクターが出来ることはボードメンバーが持っているコレクションをプロモートすることだけです。

岡部:美術館の理事会、すなわちボードメンバーは寄付をする人たちであり、資金調達の援助もしますね。美術館にとっては実践的なボードが大事なので、ときどきメンバーが変わるようですが。

平川:アメリカの政治と一緒ですよ。ブッシュが全て大使を選ぶじゃないですか。世界中の大使は彼に寄付していた人なんですよ。その交換をする。

岡部:ボードメンバーがキュレーターとかディレクターなどの人事権をもつこともあり、そうした資金力ネットワークの繋がりのなかで、組織が動かざるを得ないから、外から見ていると不自由に感じられますが、理事のなかには、ディレクターやキュレーター以上に明確なヴィジョンをもった優秀な人もいますね。今、「ホワイトコラムズ」ではヴェトナム戦争の写真展をやっていて、「イグジットアート」では水を中心とした展覧会があり、「エイペックス」は比較的国際展系の展示があって、アーティスト・イニシアティヴ・スペースやオルタナティヴ・スペースでは、ポリティカルなものを見られる機会がよくあるけれど、美術館では絶対やらないのかしら?

平川:美術館ではやらない。ボードメンバーがいる場合はありえないですね。あったとしたらリベラルな顔を提示することによって、クリーンなインスティトゥーションだというポジショニング、ファッサードを作るという裏がありますね。僕はあまり信用してないです。

岡部:アメリカの美術館に今平川さんがおっしゃったような仕組みがあることは割と知られていて、みんなあまり公には言わないけれど、批判もされています。アーティスト・イニシアチヴとかオルタナティヴな小さなスペースの役割は、今でもまだべつのところにあるのではないか、そうしたところには、夢や希望もべつの形であるように思うのですが。

平川:僕はあまり思わない。ノンプロフィットの場合ボードがないと出来ないんですよ。

岡部:でもアーティストだけでボードを作ってるところもありますよ。例えば「AIR(エア)」という女性だけのギャラリーとか。ファンディングメンバー(創立メンバーたち)がずっとボードもやっています。自分たちでお金を出してやっているから自分たちのスペースみたいなものですね。

平川:しかしそうなると社会的広がりがなくなる。「ホワイトボックス」はポリティカルなことやってるかもしれないけどユダヤ人のボードメンバーがつぶすからイスラエルのパレスチナ占領問題の関わる展覧会はできない。それはエイペックスも同じ。彼らは必ずボードメンバーから承認をとらないとできない。やりたきゃやろうってことはできない。本質的に何かやろうとすると動かない。僕が十何年グローバルウォーミングの問題でずっと動いてた時にもアートワールドは全然動かなかった。環境問題に深く知識のある専門家もいないんですよ。キュレーターはみんな写真の印画紙どうのこうのとかペインティングがどうのこうのとかしか知らない。しょうがないから色んなとこに直接交渉して、シエラクラブにコンタクトしたけど彼らは全く美術のこと知らない。シエラクラブっていうのは今環境保全とかじゃなくて移民を制限して、アメリカになるべく新しい移民を入れないための保守的な団体になっている。だから環境とは関係ないから環境問題を議論する人がいないんです。


"A temptation to be a man" 1992
Installation, Galerie Marc Jancou, Zurich
© Noritoshi Hirakawa

03 アメリカ人の人間性

岡部:ワコーさんでなさったニューヨークを撮った写真展見ました。今までの平川さんの作品の中では一番ストレートだと思いました。面白いですよ。かえって他の作品を知ってる人には分かり難いのかもしれないけれど。

平川:これはヘンクビッシュがレンブラントの光と影に通じるところを気に入って。オランダの美術を知っている人から見たら、僕のセクシュアリティーはこの写真に中核がある。ヘンクビッシュはそう思っている。ルイマルがカルカッタ行って人が焼けたり、道が混んでる映画を撮るじゃない。僕はそれを見たときにルイマルの中心がここにある。ルイマルの方法論が全部ここにつまっている。撮り方だとかフレーミング、ナラティブとか。単なる記録映画なんだけれど、女の子も出てこないし誰もストーリー読めないし、逆にそれがないから彼のバックボーンが見える。それと同じような形で僕のこの写真がある。

岡部:2006年に、ジェフリー・ダイチのギャラリーで実現した観客にパンツをもってきてもらって洗濯物掛けに掛けるプロジェクトは、昔すでにやったことがあった作品ですよね。

平川:97年にやりました。ここにあるのは別のある女の子がパンツあげるから掛けてくれって(笑)それが2000年ぐらいですかね。それで作品にして家にかけるか画廊にかけてくれって、条件をつけてきたので。それに合わせてここに掛けといて約束を守っています(笑)

岡部:今回は、そんなに多くの人が参加しなかったですね。掛っていたパンツ少なかったもの。

平川:女の子と話して分かったのは前よりアメリカ人がより保守的に精神不安になったのだなぁと。

岡部:何についての不安かしら、自己抑制という意味ですか。911以降ということ?アメリカや米国は、外から見ていると、ラディカルな部分やフェミズムの理論など先進的なところが見えるけど、中に入ってみるとかなりトラディショナルな国だと感じますね。

平川:とてもインフレキシブル。人間として好奇心がない。関心が無い。一番人間として醜いものを持っているのがアメリカ人。欲望とか自己中心、競争で他者を突き落とすことや嫉妬とか怨念とか。ジェラシーが多くのアメリカ人の基本行動のモチベーション。

岡部:でも悪い面がひとつのエネルギー源になるというのは、日本でもあるのではないかな。

平川:そういう人たちも居ますけどやっぱり美術で動いてる人たちは純粋なものがありますよね。中心が純粋じゃなければ美術なんてつくれない。競争をモチベーションにしたら大した作品は出来ない。アメリカの場合はヨーロッパに比べて歴史の無いコンプレックスがあるから美術の歴史をつくるため、ヨーロッパにばんばんお金を出して展覧会させて、ヨーロッパで展覧会したということをフィードバックにマーケットを築いてる。アメリカは国策として、美術をコンテンツが無いのをあるかのように作りあげた。秘密組織が裏で徘徊して、お金をどんどんアンダー・ザ・テーブルでヨーロッパの美術館とかにばらまいているのが現実。美術を変えようという意識は無くてあらゆる手を尽くして産業化してマーケット化してゆくやり方ですよね。

岡部:かつては面白い作家がたくさんいたけど。今だってエスタブリッシュした作家にはすごい作家が多いですけど、ブルース・ノーマン、ハンス・ハーケ、ビル・ヴィオラ、シンディ・シャーマン、マシュー・バーニー・・・。

平川:ビル・ヴィオラは今回アート・フェアに一点だけ入ってた。でも全体的にペインティングは特にそうですけどねじ伏せてつくられた。日本の観光客、美術を勉強している人がアメリカは世界的な美術の国だといって見に来て、MoMAに教科書に出てたあれがあったって。もう全部心理操作されているわけですよね。

岡部:結局、多くの国々がジーンズ文化、マクドナルド、ケンタッキー、コカコーラなどのグローバルコマーシャリズムに染められてゆくという面もありますし。

平川:考える前にクリティカルな反応が出来ないように圧倒させてゆく。日本人はアメリカはすごいって圧倒されて自分たちにはそういう才能がないとか、自分で切り捨ててるでしょ。それは間違っている。自分たちを去勢する考え方は強いし。

岡部:今はそうでもないと思います。日本もアメリカに対してかなり批判的ですから。

平川:そうですか。けどやっぱりアメリカはマーケット作りましたからね。

岡部:それがどう作られ、実際にはどう機能してるかなどを知りたいというのが、ここに来たひとつの理由です。

平川:日本のキュレーターでもアメリカの作家が来日すると制作費とかお金が急に出ちゃったりするじゃないですか。金沢では出ませんでしたか。こないだマシュー・バーニーの展覧会やるために。ああいうのにお金出す人がいるってことはコンプレックスがあるってことですよね。日本の美術館はボンボン金だして、プロモーションとして。

岡部:日本にとっても、アメリカと関係をもつことがのちにコレクションを借りたりするのにもプラスになるからですけど。いわゆる広告的な機能とアートの価値の関係が、商品化して流通させる機能として堅固に合体して作られているのが、アメリカ的マーケットの世界ですね。

平川:それを握っている人たち、カーネギー・メロンとかそういう人たちが国策として作品を動かしてる。美術ってのは一つの彼らの戦略なんですよね。

岡部:メロンさんはワシントンのナショナルギャラリー創設者でもありましたね。

平川:ナショナルギャラリーっていう認定を受けたんじゃないですか。要するにお金持ちが自分たちの美術館作って国の認定を受けて、寄付したりする。みんなわがままで人間的に食えない。上の方はそんな人ばかりで会うとげっそりします。他者に対しても美術に対しても尊敬がない。一言で言うと自分以外は奴隷なんですよ。

岡部:それはポリティカルな面にも反映してますよね。法律的に奴隷制はなくなってはいるけど、今キュレーターやアーティストがスレヴァリー的な役割でいることもあるわけですし(笑)WASPが持っていた人種差別観が続いているところもありますね。イギリスでも続いていると感じますが。

平川:イギリスは植民地のインドとかを抱えこんだから。南アフリカとか完全に切り捨ては出来なかったんで、アメリカほど高飛車じゃない。アメリカが世界で一番のレイシズムの国だと思います。白人を白人以外のものが見下すものはなくて白人は差別を受けていないんです。スイスで売られているチョコレートなんですけど外側が黒いチョコで中が白いクリーム。ドブラっていう。昔これの商品名はニガーキスだったんですよ。黒人にキスをする。それで今ある友人とここを白にして中を黒にするっていう商品を作ろうとしているんですけど。

岡部:周りが白で中が黒っていうのはありますね。

平川:でもドブラでないと意味が無くてこの商品はヨーロッパの黒人に対する差別から発生しているんです。それでこの前白人を見下す言葉っというのはあるのかとディスカッションしたんですね。そしたら日本人の「南蛮人」ぐらいしか思いつかないんです。今そのことに関心があって。良く言われてるのはイギリスが日本を植民地にしなかった最大の理由に、イギリス人が日本に来た時に誰でも読み書きが出来たのにびっくりしたって。植民地は読み書きから入っていって教育するわけですからもう余地が無いということで諦めたわけです。


マンハッタン、ウォールストリートに近いスタジオで
「ドブラ」チョコと
© photo Aomi Okabe

04 メディア操作されるニューヨーク

岡部:この前アジアソサエティーではロックフェラーの収蔵作品からアジア系の陶器や家具のコレクションの展覧会をやっていました。アップタウンイーストのニューヨーク市美術館に行くと、ロックフェラーの部屋の再現や家系図があります。ニューヨークという街はロックフェラーの街なのだと思いました。

平川:スイスのチューリヒにハウス・コンストラクティブという美術館にロックフェラーが自分の部屋を飾るためにダイニングルームにペインティングでコミッションしたもののレプリカがありますけど、そういう彼らの贅沢ですね。ジャパンソサエティーもロックフェラーだから日本の組織じゃないし、ジャパンファンデーションはジャパンソサエティーとはあんまり関わりたくない。アジアソサエティーは上海にオフィスつくろうとしてる。でも実際アジアとは関係ないですよね。結局アメリカの金持ちのものです。アメリカン・ソサエティーは中南アメリカのアートを出すところなんですけど実質的にはロックフェラー家の所有物。結局、同じなんですよね。表向きは操作されていますが。

岡部:MoMAもロックフェラー家が実権を握ってきたわけですが、日本では松方幸次郎のコレクションが西洋美術館に入ったというのは別のストーリーで、戦前からの財閥などが、文化的実権をにぎっているという構造はないのですが、アメリカではそういたお金持ちがたくさんいるのでしょうね。

平川:こないだのペールデスティニー=青ざめた神意、僕がマース画廊で作品展示していた19世紀のアメリカの作品。あの作品を松濤美術館の光田さんが絶対アメリカでは無理ですねって話をしていて。確かにアメリカで色んな人に作品資料を見せたけど反応がまったくない。関わりたくないというかその部分は触れられたくない。アートはそういうジャンルじゃなく制度のための奴隷であってヨゼフ・ボイス的視点はない。美術が制度を作り上げてくとかこの社会にないからヨゼフ・ボイスは全くアメリカで受け容れられなかった。

岡部:だから彼は監禁されてでもいる人のように救急車で個展会場に赴き、アメリカを見ないようにしてアメリカから出ていったんですね

平川:彼は美術の世界に受け入れられていない。ボイスはドイツのデュッセルドルフのキュレーターとかクリティック、ジャーナリストからも全く相手にされなかった。人が集まって良いレクチャーをしても、70年代半ばのボイス自体が作家として全く評価がなかった。一番保守的なのは中核の人たち。アメリカの場合、美術そのものが制度のためでしかなくてその裏側にいる美術ってものは存在しない。関われば関わるほどそれが見えてきます。

岡部:こんなに批判しているのに、それでもアメリカにいる理由はいったい何なのかしら?

平川:それでもアメリカにいる(笑)僕の場合はもともとアメリカが何かをもたらすと思って住んでないから夢も無いし。アメリカの美術については関心がない。アメリカの社会には関心がある。資本主義じゃなくて軍事国家ですよ。

岡部:フランスも、もとナポレオン国家で、軍事に力を入れてますが、アメリカの場合、現代兵器において完全に凌駕していますね。遠方から個人の家にミサイル爆弾まで落として、今回のアルカイダのザガウィ暗殺もかなり遠くからの爆撃だといわれてますから。

平川:ザガウィって存在してないらしいですよ。ニュースの中では存在していますけどニューヨークタイムズっていうのは国策のプロパガンダだから、仮想敵国として作られているザガウィが生きているのかもわかんないし、ザガウィそのものが何かを動かしている訳ではない。基本的にはシーア派とスンニ派がもめているのもアメリカが作り上げたフィクション。これはアメリカの人は知ってる人多いけど、ニューヨークタイムズ誌がいかにも戦ってる風に仕立てて戦う理由を作っているんです。こないだロンドンのホテルに泊まっていた時にたまたま知り合ったイラク人がロンドンにいる間に戦争が始まってイラクに帰れなくなってという話を聞いたんですけど、今イギリス政府がイギリスに取り残されたイラク人にものすごいお金払って飼育しているんです。イギリスは良い国だって思わせるために。要するにイギリスで敵を作らないようにするためですよ。イラク人だから実態を知っているんですよ。新聞にもTVにも出てこない話ばかりどっから聞いたんだって聞くんです。やっぱり彼等も知っているんですよね。フィクションを。例えばかなりの自爆テロは、アメリカ軍がチェックポイントで爆弾を置いている。

岡部:えー!!

平川:ほらそう思うでしょ。ニュ−スではやらないけどそういう体験談はパレスチナ経由でネットで出てくる。時限爆弾があるってことに気づいて車から飛び降りて難を逃れた人がいる。チェックポイントで米軍に袋かなんか乗せられるのをバックミラーで見て、米軍の視界を離れてから後ろを見たら爆弾だった。そういう記録があって。戦争作ることはアメリカに取ってお金になる。ニューヨークタイムズは常に悪人が動かしています。広島長崎に原爆が落としたときカモフラージュしたのも南京虐殺のときプロパガンダを流したのもニューヨークタイムズ。ニューヨークタイムズっていうのはアメリカとイギリスの間の暴報機関の一部として動いているのでドイツ人は嫌いな人も多い。フィクションと間違いがすごく多いし僕もほとんど読まないですね。NPR(ナショナルパブリックラジオ)と同じ。例えばパレスチナを攻撃した時にイスラエル擁護のニュースを流したんですよね。大量虐殺してないとか、空港を破壊された反撃としてやったと言い訳するけど空港はもう大分前に破壊されていたのに昨日破壊されたかのような嘘のニュースを流したりしてたんですよ。びっくりしました。裏の情報知っていたらいかにプロパガンダが作られてイるかっていうのはすぐわかる。そういうのをNPRは堂々とやってる。だからアメリカは本当にメディア全体が暴報機関でリベラルって言われている所が暴報機関の中心になっている。


“VIRTUE IN VICE” 1997
Jessica / 24 / Trinity Church
May 22, 1997
© Noritoshi Hirakawa

05 格差との戦い

岡部:自由を標榜しながら、ニュースやテレビなどで、与えられる情報が限られているという実感があり、これほど不自由な国もないんではないかという感じももちました。日常生活の面でも、ものすごく格差があって、お金持ちはいいんだけど、それ以外の人たちは都市生活自体が機能不全になる面もあって、たとえば、工事といっても、週末になると平気で地下鉄を止めたりするのは、いくらなんでも生活権侵害だと思いますね。いわば、お金がない庶民には、どんなに苦労させても平気という感じがあります。日本やヨーロッパにはこれほどまでの格差はないです。車で動くと、昼間のラッシュもかなり大変だから、お金持ちの人も苦労しているのかしら。

平川:少所得者層に対するコンパッションがこの社会に全くない。お金のある人はニューヨークに住んでないんじゃないかな。自家用ジェットで動くから。普通はリムジンですね。

岡部:あの胴体の長いリムジンは、目立つから狙われるでしょうに。リムジンって気持ち悪い長さ、意味がない長さですね。会議もできそう。日本だと目立つからお役人なんかが乗っていたら、贅沢してって、やり玉にあげられそうですね。

平川:そういう感覚はアメリカにはない。贅沢することが悪いことだと思ってる人はいない。

岡部:ユダヤの信仰や思想では、お金を稼ぐことが善であるという考え方があります。

平川:ユダヤ系だけでなくアングロサクソン、ピューリタンの思考っていうのはそれなんですよ。神との契約によって他の人を潰してでも自分が利益を作れば天国へのひとつの道しるべを神がつくるんだという。イギリス国教的な考え方ってのは恐らく強いですよ。例えばスイス人やユダヤ人だったとしても、コンパッションがあるからアングロサクソンとは合わないって人が多い。彼等は徹底的にやるからファイナンスで働いている人が言うにはアングロサクソンの暴利の作り方は禿鷹ファンド、ユダヤ人の比じゃない。

岡部:白人の方が搾取した歴史があり、ユダヤ人は搾取された歴史があるし

平川:みんなユダヤ人ユダヤ人って言うけど現実はアングロサクソン人が完全に上を行ってて綺麗ごと言っているけどやっていることは数倍汚い」と、ニューヨークのある黒人の長年ファイナンスの仕事をしている人がそう言っていた。彼は毎日働いているから言っていることが嘘じゃないと思う。コンパッションにつけ込みますよ徹底して。レイプ魔といっしょ。隙があればお前が悪いって。金とってやるだけやって逃げる。これはアメリカの常套手段。それでアメリカインディアンは潰されていくわけですよ。信じかけた白人をいっぱい助けて返って殺されてしまう。アメリカインディアンは手記をたくさん残していて、何で俺たちは殺されるんだ、こっちに渡ってきた病気で死にかけの白人をいっぱい助けたのに全く理解できない、そういってアメリカインディアンは殺されていくんですよ。そういうメンタリティがもともとイギリスにあったんですよ。

岡部:人種差別はやはり続いていますが、黒人にしても女性にしても、権利を勝ち得てきた歴史もある。そこまで差別が強かったからこそ、戦ったんだということを書いている人もいます。苦境がなければ戦う必要もなかったわけだから。多くの島流しの犯罪者も含めて、英国から米国に移民として渡ってきているから、過酷な新世界でサヴァイヴァルできれば何をやってもいいというラフで暴力的な面もあったのでしょうね。

平川:日本人が英米で戦前まで人間として思われてなかったのと一緒です。でも実際に制度的に勝ち取ったかもしれないけど実生活は変わらない。黒人に資本が流れてないんですよ。キャピタルがない。黒人の人が企業家になってもそこにお金を貸す人がいない。だから黒人は最初から白人に全く期待をしてないんですよ。だから黒人がリラックスしてるのは白人に対する期待がないから。そこが適応しないのも知ってるしそこに関わらない。

岡部:平川さんは欲望のために犠牲になっている不幸な人ばかりを気にしてますが、ではアメリカにいて幸せなことは何でしょうか。

平川:いわゆる不幸な人たちは自分たちはこれらの現実に気付いてないというか自分に嘘をついてますね。

岡部:そう、ものすごくみんなシアトリカルです。みんな健康で幸せ!みたいな顔をしていますがそれは嘘ですね。

平川:特に移民の人たちですね。ヒスパニックな人たち。苦労して来て全然幸せもないし市民権もないしイリーガルな生活でいつ捕まるかもわからない。でもアメリカに来てよかったって自分に嘘をつく。人間ていうのはどっかで自分の生活を肯定する。いかにネガティブな状況でもポジティブに考えないと生きていけないものなんですよ。もうひとつは自分の国に帰れない。帰る時にアメリカにいることによってより良くなった自分を見せたい。そのために嘘つく人も多いんじゃないんですか。素直になれないんですよ。日本でも留学したりアメリカで実業家として期待をされている人達はそうじゃないですか。

岡部:今日本だとアメリカに行くのをあまり良く思われないです。なんでアメリカに行くの?今はベルリンがアートの中心なのにと言われます。

平川:(笑)それでも山のようにアメリカに日本人来てるじゃない。

岡部:私、ヨーロッパ滞在が長かったので、米国の魅力はよくわからなかったけど、ここにいたら日本に帰りたいと思わなくなりますね。少なくとも日本の食事も食材が豊富だから、日本食オンリーをやろうと思えば完璧にできるし、日本レストランもそう高いわけではない。バーやレストランを含めて、いろいろな仕事している日本人が大勢いるからで、そうした実質的な日本コミュニティはヨーロッパにはないですね。

平川:ニューヨークは定住している日本人はあまりいない。遊びにきて帰る人が多い。日本食はロサンゼルスの方が全然おいしいですね。一生住んでいる人がいるから。ここは片手間で住んでる人ばっかりだから味がどんどん変わるんですよ。

岡部:ヨーロッパよりはおいしいですよ。パリだと、おいしいと物凄く高くて、おいしくない普通の人が行く日本レストランはシンガポールの人がやっていたりして、これ本当にお寿司?みたいにフェイクっぽい(笑)。ニューヨークだと、20年ぐらい住んでいる日本人が料理をやっていたり、庶民レベルの食事の味がずっとましです。やや甘味が強いのが困るけど


"To become Dharma" 1991
Installation, de Vleeshal, Middelburg
© Noritoshi Hirakawa

06 信頼できるアートラヴァーたち

平川:ただ住んでいて思ったのは僕自身が日本人と関わりが少ないんですよ。というのは同じような立場で動いている人があんまりいないんです。僕は日本で長く手伝ってもらったのは個人的には沼田美樹さんですね。

岡部:スタジオ食堂をやっていて昔はグルノーブルにいた方ですね。今どこにいるの?

平川:エルジャポンの編集です。アートワールドは大変ですよ。不安定だし。向いているんじゃないですかね編集が。

岡部:平川さん自身はどうやって生活してるんですか?ここは家賃とか高いでしょ。場所が良いですから。ダウンタウンは30万出さないと二部屋ないですね。六畳ぐらいの部屋で20万だって。キッチンに鉄板も付いてないのに。

平川:心配しなくてももうすぐバブルがはじけますから。僕の廻りはみんな、不動産売って他の国に行っちゃってます。ここはバブルで儲かっているペインターとか、ディーラーとかそういう人しか住めないですね。画廊で働いてる人はみな家が金持ちだから。もう色んなところと関係持ちながら交渉しながら作品売ってくしかないですよ。自分のディーリングの商品になってる作家が死にかけた時、助けてくれるディーラーはそうそういません。コレクターの方が人間味があると思います。

岡部:自分の稼いだお金で買ってくれるわけだから。

平川:香港にパラサイトアートスペースっていうところがあって、そこのディレクターが僕の作品のファンで世界に稀にしかいないアートラヴァーなんですよ。ドイツ人なんですけど。滞在して作品作ろうって話しをしていて。

岡部:そういう人がいるから救われますね。でもいても作家の活動にどれだけ寄与できるかによりませんか?

平川:エネルギーが出てきますよ。状況を作ってくれたり交渉してくれたり。何故泊まっていかないんだとか色んな所でエンカレッジしてくれる。昔はヤン・フートやジャンクリストフ・アーマン、ウドー・キッテルマン。今ほとんどいないんですよね。尊敬があってコンテンツが好きな人。本来はアートワールドはそういう人で埋まっている筈なんですけど。この前ジル・フックスと会って、彼はアーティストと関わる富を知っている。それがアートラヴァーなんですよ。アートラヴァーはそういうのを人生にプラスに使っている。コンテンツが彼らにとって大事。だからジルとはどんなに忙しくても必ず、パリを訪れる時は100%会います。

岡部:気が合うというのもあるかもしれませんね。お互いに話すだけで気が晴れてやる気が出る関係。

平川:ジルには学ぶべきものがいっぱいあるんですよ。ニナリッチをオペレーションしていたから彼の生き方はひとつのモデルになる。プラクティカルな部分もあるけど。人との関わり方が非常にうまい人なのでそういう部分は勉強になる。彼はわがままな部分もあるけれど何十年もあれだけの会社を運営してた人だから精神的な人間的な財産を持っている。「マターズ」っていう白黒の本を出したんですよ。それは自分でファンドレージングして画廊と交渉して金を集めたんですけどすごい大変だった。

岡部:ディーラーからの援助ではなく、ファンデーションを探すのではダメですか?

平川:そういうファンデーションないんですよ。だからお金出すのはヨーロッパの国のファンデーションとか文化協会とかですよね。でもアメリカではそういうのないし日本でもやらないじゃないですか。僕の場合アメリカで何十もファンデーション当たりましたけど、みんな断られた。コンテンツが過激だとみんな拒絶して。一回プロポーズしてくれたけど、他のキュレーターが切り捨てたりしました。もう一回再考してくれって手紙を出したりしました。そういうことしょっちゅうしないとお金にならないんです。ディーラーは全然助けないです。このオランダの展覧会も、直接手渡しでケートブッシュとかいろんな人に会いながらインビテーションを渡して。インターネット見てくれとか言って、本来は僕がやることじゃないけど。そういうの全部やらなきゃいけない。

岡部:ヨーロッパで良いディーラーがいると良いですね。

平川:エマニュエル(Galerie Emmanuel Perrotin)は良いディーラーだったけど、もう離れました。コンテンポラリー・ダンスのプロジェクトを制作する時に2000万円お金かけたんだけど彼は基本的にダンスは嫌いだからお金を出さない。そのおかげでジルと親しくなったんですけどそれをすごくエマニュエルは怒っていて。ディーラーはアーティストとコレクターが仲良くなるのは嫌います。自分を介さなくなるから。19世紀まではアーティストとディーラーに何も壁は無かった。アーティストとコレクターの関係がなければアートは成り立たない。そのディスカッションとかコミュニケーションはアーティストにフィードバックしていく。ディーラーはそこまでの関係は作れない。僕はコレクターとの関係を大事にしています。


"Drops In the Atlantic" 1992
Installation, FRAC Pay de la Loire, France
© Noritoshi Hirakawa

07 数々の問題作とセクシュアリー観

岡部::「フリーズアートフェア」で平川さんが出品した作品は、綺麗な女性が自分のウンコを毎日展示する作品でしたね。あれからどうですか、何も変わりませんでしたか。

平川:変わりません。あれはコレクターにもディーラーにも嫌われた。より狭くなりましたよ。プロボカティブなことをやると話題になるけれどプラスになる訳じゃない。逆なんですよ。アートワールドはいかに保守的な世界であるかとわかった。あれはマウリツィオ・カテランにジェフリー・ダイチがこのプロジェクトやったらって話していてマシリアーノ・ジョアニが僕にコンタクトしてきて。マウリツィオ・カテランは昔から良く知っている仲なんですけどマウリツィオはアートラヴァー。すごいシリアスな人。彼自身はアーティストだからそれをオブザベーションするのはすごく難しいんじゃないかと思ったんですね。彼はこれは良い良くないとか、例えば壁に掛かっている写真は必要ないとか色々言いましたけど、それはマウリツィオの視点であって最初はそう言って終わった時にはあった方が良いとか言ってましたけど。でもマウリツィオは美術を信じていますから。

岡部:平川さんの場合セクシャリティーとスカトロジーという二つがかなり重要な要素なのかと思いますが。

平川:そんなことないですよ。ひとつはエコロジー。社会学専門だったので糞尿の本とか持っていますけど、江戸時代では貨幣として使われていた。世界中そうなんですよね。キリスト教は身体性を切り捨てる。もともとキリスト教そのものはそうじゃないんだけども後から人間が、「人間は神に近い存在」だから身体性とか特に排泄物とかセクシャリティーだとかを切り捨てる方に向かっていったんですね。それをもう一回見直してゆくという意味があります。これを展示してる時に松濤美術館の光田さんがモデルの子に「何でこんなことやっているの?」って聞いていたらその子はこれはこういう作品でってニコニコして説明して、「平川さんすごい、この子こんなことやっているのにニコニコして説明してもう信じられない!」って。怒ってんのか喜んでいるのかわかんなかったですけど(笑)その時キリスト教の話をして、西洋の社会に対してのアンチテーゼとしてこの作品は存在しているって意味があると彼女に話したんです。マンゾーニと違うのは特殊なものとして作っている。あれはわざとプロヴォケーションを意図したものなので大事だけど。でもそれは美術の文脈の中なんですよ。僕の作品のほとんどは文脈が美術の外にある。だからセクシャリティーを使うのは共通の言語としてです。

岡部:日々の行為だから一番万人に共通性がありますよね。

平川:でもセクシャリティーを出してない作品もいっぱいあってオランダの農家に居候して写真撮ったりしたんですけど。横浜美術館の天野さんがニューヨークのスタジオに来た時にそういうプロジェクトをやっていてこれは面白い、横浜でやりたいと。横浜開港150周年のプロジェクト。これはもうセクシャリティとは全然関係ない。今の横浜の記録を残す。連続写真を追ってゆく。他にも昔やったものはオランダの東インド会社の問題と人間の欲望、グローバルウォーミングをテーマにした展覧会ですね。あと身体。スポーツっていう展覧会があったんですよ。それでスポーツの勝者になるには欲望ではなくて内面の思考の統合が出来る人。これは音だけの作品なんですけど。そういうのはあんまり紹介されないんですよね。あとこれはキリスト教のリコンファメーションという作品ですね。ドイツのキリスト教の関係者間で結構問題になって。聖書にキリスト教を信じますかっていう質問に「ヤイン」というドイツ語で答えた人々の聖書を集めそれを墨につけて読めなくしちゃうんですよ。

岡部:それは神学者たちにはタブーですね。

平川:ところがテオロジーの人なんかはすごく喜んで、それでキリスト教のテオロジーの本にこのインスタレーションの記事が出たんですよ。こういうものはどちらかというと美術の内部じゃなくて外部に影響を与えることが多いですよ。僕は結構キリスト教関係の作品では神父に「告白」(懺悔)してもらう作品とかそういうインタビューとか好きなんです。あと92年の今日の作家展。これで大変なことになった。観に来た人が作品をどうジャッジするかスコアを付けて貰う。これは写しになっていてオリジナルを僕が持っててスコアを書いた人はスタンプを押してそれを貰えるという作品です。これは他の作家が怒りましたね。横浜市民ギャラリーの館長がこんなに問題起こしたのは「今日の作家展始まって以来初めてだ何とかしてくれって」直訴されました。

岡部:ジャッジされるリストに自分の名前が入ってないのはずるいと言われませんでした?

平川:でも僕はその時に出品した作品が無いから。作家はプライドがあって、他の人からオ−ディエンスにジャッジしてもらうようなことを許さない。

岡部:普通だったら美術館がやっても良いことですよ。作家はいやがるけど内部アンケートにすれば。別に公開しなければ良いから。

平川:そうですよね。僕はそう思いますよ。そういう風な視点で鑑賞者を見ることも重要だと思うんですよね。基本的にはスコアを出すことが目的じゃなくて美術を見に来たけどどうしていいか分からない鑑賞者に促しているんです。これは超えちゃいけないタブーで今までやる人がいなかったからスイスのキュレーターがすごい喜びました。 これは世界中まわって掃除をして集めた汚れを美術品として観るというモンテスマの憧れという作品です。モンテスマはアステカの最後の皇帝。アステカは600人のスペイン人の侵攻によって文明を失ってしまうんですけどモンテスマは決定を誤る。スペイン人は天然痘を持っていたんですね。それでどんどん人が亡くなっていくからモンテスマはそれをマジック(奇跡)だと思ってスペイン人をどんどん招き入れ、死を招いていく。「世界史と疫病」という本に載ってます。ダストに引き寄せてられてく。美学というものによって引き寄せられる人間性みたいなのをテーマにしていて。だからモンテスマの憧れと同じようにして人がこの作品を見る。

岡部:でも東洋の作品らしい面が皮肉っぽいですね。わざわざそうしたんでしょう。

平川:フロッタージュに近いんですよ。89年。それで展覧会を台北で最初にやったんです。日本だと無名の作家が美術館にプロポーザルしてやらせてくれるようなシステムが無いから全く相手にされない。ところが台湾では出来たんですよ。なので始まりは日本じゃないんです。日本では上大岡のゆめおおおかアートプロジェクトの作品が問題になって京浜急行の社長が作品を潰そうとしたんですよ。横浜市の人が間に立って。そしたら京浜急行の社長が市長を脅すように「僕の作品を撤去しなければ市長再選はないと思えって」語ったそうです。結局横浜市の職員が謝りに行って撤去は免れたんですが。柱に言葉が入っている作品で朱色だったのを青色に直したんです。縁起が悪いって言われて。美術は生ものだから。京浜急行の社長は美術が嫌いな人らしいですね。

岡部:なんでそんなに嫌われるんでしょうね。奈良さんの作品でブランコに乗っている子供の目が青かったのが気持ちが悪いと修正を要請されたそうですが。

平川:奈良さんは問題起きるようなこと無いですよね。これで問題起きたら、日本じゃ何もできないんじゃない?

岡部:有名だと、ある意味、強引にできて、押しが効くので、自分でプロテクトしなくても済みますが、ラディカルなことを最初にやってしまうとその後、続けるのが大変かもしれませんね。

平川:あとは9月に新作のパフォーマンスをケルンでやります。四つの魂がひとつになるfour two oneというタイトルの作品なんです。「エルコーニック」っていうゲーテが昔短編で書いたストーリーがあるんですけど。森の魂が娘を奪い取って、お父さんに見守られながら娘が死んでゆくっていう話があるんですけど。オスカーワイルドの「漁夫とその魂」という作品を混ぜているんですけど。基本的に父親と娘の話。それを取り巻く娘の恋人とシャドーの四人が登場します。父親が亡くなりつつある時に娘に対する欲望。娘も影を通して欲望を表出するというパフォーマンスなんです。

岡部:2人の間にインセストの関係はないのでしょう?

平川:父親と娘の関係においてはヨーロッパの社会はその部分を抑圧していますね。それによって欲望を保持するんですね。でも僕が考えているのはその先で、もともと一つのものだった魂が広がって振り分けられている。でも魂とはまた一つのとこに集約してゆくものではないかというすごい宗教的なテーマです。身体は当然そこにあるけど、ストーリーラインはそれ以上に大事なことでかなりプロバカティブなものになります。それで今音楽の人探したり男性のアクター探したりしてドイツとやりとりしています。

岡部:向こうで滞在して一ヶ月ぐらいかけてなさるのでしょうか。

平川:一週間の滞在だけど数ヶ月前から準備はしていて全体のコーディネーターをしています。でも画廊はあまりお金払ってくれないんですがアクターとかシアターが好むのはコンテンツなんです。それで制作が可能になる。 パフォーマンスだとそこにビジョンがあって中心にあるのは内容なんですよ。内容が同調できなければ精神的につながらなければ絶対にやらない。多くのアクターたちは純粋なんですよ。僕がそういう人たちを好きなのは僕も純粋だから。一番嫌いなことは濁った部分が中心にあるアートワールドの実情です。内容についての議論が中心に行かないし議論する人もいない。常に周辺にあるはずのお金をコントロールすることによってアートを支配するというその考え方が僕はついていけないんですね。でもそういうやり取りをするのは僕の責任だから。そしてアートワールドではそういう好きな部分を中心にするのは弱みにもなる。僕がそこにエネルギーを注いでいるってのはお金に心がとらわれていないから僕を操りやすい。アドヴァンテージが取りやすい。

岡部:お金にならないのに作品だからやるというなら、飛んで火にいる夏の虫のようなものですね。

平川:それそれ。夏の虫なんですよ。完全に利用されている。アーティストはセンシィティブだから良い人は潰されます。

岡部:となると、異常に上昇志向が強くて、上がっていくことにプライオリティを置いている人だけが生き残るわけでしょうか。

平川:全てがそうとは言えないけど。やはり作品が素晴らしくて上がっていく人もいます。純粋に美術に関わっていてしかも成功している、そういう人は貴重です。デビット・ハモンズは純粋。彼に会う時いつも思うのは中心は美術で内容やコンテンツを大事にしてる。友人関係があるのもお互いにリスペクトしているから。そういう作家としか付き合えない。彼は下積みから他力本願じゃなくて自力本願で出てきた人だから。金が無かったら自分の作品オークションに出したりしたしすごくアイデアもあったし。黒人だったし差別もすごかった。男性ですから。

岡部:黒人の男性の方が立場が難しく、女性の方が優遇されている感じがしますね。

平川:アメリカは男性はオフェンダー、女性はヴィクティムっていう概念が多い。実際マイノリティーは男性なんですよ。数は少ないから。けど美術という文脈の中ではマイノリティーは女性。作家の数は女性が多い。美術で就業しているのも女性が圧倒的に多い。

岡部:美大に来ているのも70%ぐらい女性ですからね(笑)。

平川:それをジェンダー問題にすると美術がなくなっちゃうんですよ。全てマニュピレーションされちゃうからフィフティーフィフティーという形では美術は存在できない。やっぱり匿名で作品をみた時に良いか悪いかで判断すべきで、出身とかエデュケーションとかを全部エルミネイトして見ることが大事だと思います。

岡部:ただ、作品を理解する時に、ジェンダーを無視すると、理解できないこともあるのではないですか。

平川:ありますけど作品単体で匿名であることを見てその後にリファレンスの段階でアイデンティティが出てくるのはいいけど。マイケル・ロブナーっていうイスラエルの作家がいますけど僕が嫌なのは毎回必ずホロコーストがテーマなんです。

岡部:ヴェネチアのユダヤパビリオンで個展をやって、ニューヨークのユダヤ美術館でもしてましたね。ユダヤ人が作品を買ってるそうだし、市場価格も上がってますね。

平川:あれがいい典型。視点が必ずユダヤ人は被害者。でも実際には違う部分だってある。パレスチナ人が悪魔でユダヤ人を見ているみたいなビデオ作るじゃないですか。それをイスラエル人の友人が見てあまりにも馬鹿げていると言ってました。

岡部:メッセージが図式化されていて単純だと一般の人に分かりやすいのですが、政治の場合はそこが問題ですね。大衆が評価に入ってきた時に分かりやすいものや自分が持ってるクリッシェに結びつきやすいものが、受けやすい。内容にコンセプチュアルなものが入ってくるとわかりにくいので排除される。

平川:荒木さんの写真と一緒ですよ。セクシュアリティとエキゾチズムと。日本人は気違いでSM好き。それこそが白人のためにつくられたフィクションで自分たちの高い人間性を強調するためにこういう気違いがいるぞと。でもあれは「SMスナイパー」っていう雑誌のためにつくられた作品で、あれはスタジオ借りて編集者がモデル連れてきて彼が広告写真家として撮ったもの。私生活の写真ではない。でも荒木さんのコンセプトは「私生活写真家」だから彼はそれを商品として利用して欧米向けのセコンドユーズにしてる。誤解を生むし良くないと思う。けど荒木さんはそこまで考えてなくて女の子の裸を観たら彼は幸せ。彼はすごい商売上手で小さいカメラ3つぐらい持って色んな撮り方をしながら別々の市場に回してお金にしてゆく。

岡部:そんなお金に興味ある人に見えないけれど。

平川:それは間違い。日本って雑誌はギャラ1ページ2万3万円じゃないですか。すごい安い。色んなとこで撮りためといて小出しにしといて。それを欧米向けに使い分けているんだと思うんですよ。でも僕は裸だけって嫌いなんです。文脈がないから。裸で満足できるんだったら、美術はいらない。結局裸っていう抑圧がセクシャリティーを薄っぺらにさせちゃう。そういうこと言う人もあまりいないし美術の中でそういう文脈も無い。日本の場合検閲の問題があります。荒木さんは「写真時代」の編集長だった末井さんと組んでいて、反日本政府的な運動をする時に荒木さんを武器として使っていた。わざと検閲に引っかかるような写真を撮らせる。左翼の運動で常にヘアを出す写真を撮らせてそれを出版して政府に呼ばれる。それを何度も何度も繰り返すことで政府を脅かす一つのメッセージにしていた。それを何十年もやっていた。荒木さんは末井さんが「写真時代」を廃刊した後、「パチンコ必勝法」っていう雑誌を作るけど両方同じことなんですよ。裏側にあったのは反体制。体制への反撃。全く語られてないけど荒木さんの写真にはそれが中心にあると思う。


"In Search of a Purple Heart"2005
A performance at Salon 94, New York.
© Noritoshi Hirakawa

08 学閥という枠組みを壊すために

岡部:平川さんは東洋大学出身で企業関係のコンサルタントをやってらしたそうですが。デザイン系のお仕事とかは?

平川:全くない。美術界に普通にアプローチする時も門前払いだった。一番言われたのはあなたは芸大に行ってないから展覧会は出来ないって。

岡部:学閥はありますね。ニューヨークもイエールかコロンビアかみたいな学閥あるし。ニューヨーク大学はまだそれほどではない。その点では村上さんは王道ですね。

平川:アメリカ人で美術大学行ってなくて全く美術と関係ない人が画廊に売込みしているのと同じなんです。村上さんはすべての道のりが王道。ACCもそうだし博士号も取って僕と対極にありますね。でもスタイルは逆に見えますけど、僕は理詰めで動いているように見えていて、彼は破天荒で、でも実際は全く逆です。彼は美術の中に王国を作っている。僕は美術の中の枠組みにいない。いたとしても僕の精神性はそこにない。だから日頃展覧会は見ないです。チュ−リッヒでは見てないしパリでも見てない。

岡部:好きな作家は、似たような境界線にいる人ですか。人間性ですか?

平川:僕の場合作品主義なのでその延長線上です。僕はキュレーションもやっているので作品が良くて、僕が関わりたいと思ってコンタクトすることが多いです。難しい人でも作品が素晴らしいと思えれば関係が強まっていく。それがなければ美術でキュレーションしていく意味は無いと僕は思います。人はセカンド。どんなにいい人でも作品が良くないとキュレーションに入れられない。同じような立場で作品を作っている人は面白いけど圧倒的に美術を勉強しないで関わっている人は少ないですね。

岡部:今は美術学校と美術館の関係も変わってきて、結びついてもいますね。

平川:キュレーターも直接アカデミーに作品見に行くし結局そういうシステムが出来ちゃったから。そうじゃない人の方がおもしろいんだけどね。枠の中に入るのは大変でしたよ。

岡部:それをもう少し開かれた形で取り上げられると良いですね。

平川:ほんとは美術ってそういう世界だったんです。基本的に僕がパフォーマンスとかをやる理由はそこにあってジャンルやカテゴリーの外にある人と関係をつくってゆくためです。
(テープ起こし:大黒洋平、林絵梨佳)


↑トップへ戻る