culture power
artist 早川祐太/Hayakawa Yuta
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Copyright © Aomi Okabe and all the Participants
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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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インタヴュー

早川祐太×安藤夕依・躍場裕佳子・勝俣涼・古市彩佳(芸術文化学科3年)

日時:2010年6月21日
場所:武蔵野美術大学9号館603教室

01 空間を意識して

古市彩佳(以下:古市):現在ギャラリーαMで、初個展が行われていますよね。アーティストトークで、「他の作家の人と一緒の展示では、その作品との兼ね合いも考えつつ、空間を考えている」という話をお聞きしたのですが、今回は「初個展」ということで、空間を作るうえで気にしていたことや、難しかったことはありますか?

早川祐太(以下:早川): 3月までは学生だったので、今までの学内講評や学生プロジェクトみたいな展示は、個展と違い常に空間が共有された状態での展示だった。そういう時には「自分の作品がどうよくみえるか」ということをまず考えるけど、ただ自分だけの作品を主張しても空間自体は良くならない。グループ展は、他の作品がある分だけ場が少し荒れるわけで、要は"梁とか壁が普通じゃない壁"になるのと同じような感じ。僕がコントロール不能な空間があるという事。だからそこにどうやって作品をインスタレーションするかというのは、当然他の作品によって変わってきます。作品に反応するというより変容した空間に反応する感じですね。個展となると、既存の構造以外は、最初から全部自分で造りこんでいけるからそういう点は大きく違ったかな。グループ展だと、入ってからしか変われないから、ライブ感が強いかもしれない。今回は会場の図面や、写真と変わらない状態で入れるからやりやすかったと言えば、やりやすかったね。100%僕の空間でインスタレーションするというのは楽しかったね。

古市:では、実際作品を置くときは、図面を見て、考えてから行くのですか?

早川:やっぱり作品が先にあるんだけど、インスタレーションはその都度の状況で変えます。自分の作品をみせたい空間のイメージは作る前から何となくあるね。やっぱり立体って360度見れるものだから作品で空間を作り込む意識を持って作っている。だから一回作品を作って現場に持って行って、更にその作品を素材として空間を作ることで展覧会が出来上がる。ちゃんとそこまでやって、作品になると思っている。ものじゃなくて空間を作っている意識はかなり強いよ。美術館とか、同じ作品でも良い空間で見ると違ったりするじゃない。けれど、「空間をつくる作家」って言うのではないと思っている。やっぱり「ものをつくる」作家でありたいけど、彫刻としてそれにすべてを込めるというのでもない。全部の状況も含めて、むしろ見る人の気持ちとかの許容範囲の隙間を空けておきたい。

勝俣涼(以下:勝俣):空間と作品との対話、あるいは作品の素材同士の均衡が、ギャラリーという展示空間で囚われてしまったり制約されてしまっているということはないのですか?

早川:なるほど。もちろん囚われるということはあると思うんですよ。目に見える空間だけではなくやっぱりものを作ったら重力には囚われているしね。僕が作っている時点でいろんな現象に僕は囚われてしまっているから、それがなにかの可能性を広げているのか広げていないのかはやっぱりよく分からない。美術という仕組みとかね。それをどう捉えるかだね。むしろ、囚われることに積極的にアプローチをかけたりしていく事が多いね。ネガティブには捉えていないですね。そういう構造があるなら利用しようとするし、梁があるなら梁も使えるだろうし、いろんなもの全てを等価に扱おうとしている。あるものはしょうがないじゃない。ここだからこそ出来ることがあると思うから、「ものを作るだけが僕の仕事じゃない」と思うところにつながるのかもしれない。ここでインタヴューをうけることも制作に入ってくる。せっかくあることを見ないことって勿体ないじゃない。だから空間をネガティブに捉えたことはないですね。むしろ好きですね、そういう制約みたいなの。制約があるからこそ作品がいろいろな方向に向いていくと思っているんですよね。


個展「複合回路」gallery αM 展示風景 2010年
撮影:加藤健

02 自由に観てほしい

古市:アーティストトークで、「インスタレーションじゃない。でも彫刻と呼べるものを作っているのかどうかもわからない。」というお話をおっしゃっていましたよね。

早川:だから不思議なんですよ。 絵画、彫刻、インスタレーション、映像、写真、美術、人、人ではないもの、都市と田舎とか、川と海とか、あらゆる物事には名前がついていて分類されるけども、そこの境目を無くして世界を見たいと思っている。海のように見えてもいいし、川のように見えてもいいし、人でもいいし、人じゃなくてもいいものってあると思う。すべてに共通したもの。"彫刻"、"インスタレーション"とわけてしまうと、どこか見えなくなってしまう部分があると思う。「彫刻ですか」と聞かれれば、彫刻とも言えるし、「絵画ですか」って聞かれてもよくて、一点から見たら絵画みたいなものだと僕は思っていて。その意識が強いから、まずインスタレーションではない。そして、彫刻でもない。よくわからないものがあって、タイトルが付いているけれど、そのタイトルも無視してもよくて、自分で名付けてくれればいい。だから、今回の展覧会で〈The moon is the big rock〉という作品があるんだけど月を岩と呼んでもいいし、光と呼んでもいいし、月と呼んでもいい。「満ち欠けするよね」とか、「あそこにうさぎがいる伝説があるらしい」とか、そのぐらいで留めるのではなくて、一回何もわからないものとして見たら、岩に見えたり見えなかったり。概念でそれを月で、天体だと思っていることは可能性を狭めると思っているから。作品は自由に見てほしいって意識がすごく強い。これが芸術ですよっていうのも、特に言うつもりなくて、「そこにもありますよ」「ここにもありますよ」と。

安藤夕依(以下:安藤):やはり、作品について説明的に話すより、自由に観て欲しいという気持ちが強いのですか?

早川:うん。まずふわっと観てくれれば良い。例えば僕の水を使った作品を見て、ゼリーだと思ってもいい。そうしたら、たぶんそれはゼリーだと思うよ。僕は水を入れたけど、その人の中ではゼリーなんだ。「これゼリーなんですか」と僕が聞いたりね。

03 自分に素直に

古市:前にお話を聞いた時も、釣りや川のお話をされていましたが、作品を作っていく上で影響はあったのですか?

早川:あるよ。僕は自分の興味のあるものや考えや見たい世界を作品にしているわけだから、25年生きてきて一番僕に根付いているものは、やっぱり釣りだったり、歩くことだったり、見ることだったりする。そっちの方が、僕なんだよ。自分の持っているものの方が信用できる。手の感覚だったり、体で見るものの基準としている。それが普通だと思っている。 例えば芸術文化学科で芸術を勉強している学生だと言っても、音楽が好きだったり、釣りが好きだったりするかもしれない。僕はそっちの方が重要だと思う。釣りが好きな人が制作をするという状態。音楽が好きで、芸術をやっている人は、やっぱりベースは音楽だったりするじゃない。そのベースの方がその人を見るうえでは、すごく大切なもので、一番大事にしなきゃいけないことだと思っている。

古市:作品に釣り竿や釣り糸が使われていますが、材料として使うことも意識しているのですか?

早川:それを材料として使うのは当たり前かもしれない。他のものをずっと使っていたら、自分の手に馴染んでくるけれど、でももう既に馴染んでいるものがあるのだったら、それも拾い上げられる。自分が一番使いやすい所で、扱いやすいものを作るとなると、日常のものが出てきてしまっていて、でもそれは当然のことだと思う。一番シンプルに、自分のやりたいことが出来る状況にある素材を手にとって作る。だから、僕が使っている釣り竿と、誰かが彫っている木って素材は、ほとんど一緒な気がする。素材については聞かれる事が多いけど、「普通じゃないですか」と思う時が多いかな。「貴方だって洋服着ているじゃないですか」みたいな。もし「普通は和服だ」と言われても、一番着やすくて、自分のスタイルにあっていたら洋服着るでしょう。意識というか自然と使っていますね。

04 現象をシンプルに表現したい

勝俣:作品の多くが重力や力学にイメージの源泉があるようですが、物理学的なものにはいつ頃から興味を持たれたのですか?

早川:物理学自体には全然疎いんです。ただ、なんでそうなるのかな、というのには興味があって。感覚とか、霊的なものを除いたとして僕らは物理学に支配されまくっているじゃない。地面に立たないといけなし、食べないといけないし、寝ないといけない。僕が僕らって何だろうと思った時に、自分を捉えている大きなつながりみたいなものについて、物理現象というのは身近な共通項だった。

勝俣:むしろ学問としてというよりは、素朴な、状況の物量性みたいなものがあって。

早川:身の回りにあるいろいろな事柄をもっとシンプルに説明しようとしていったら、ビジュアルが理科の実験に似てきた。日常でいろいろなものがぶつかり合って、自分が綺麗だと思ったり、素晴らしいと思うものが、何だろうと思う。

古市:<about us>のシリーズ(薄い平面が中心から大きく外れた位置で糸により吊るされている作品)も「浮力」や「重力」を感じさせるような作品ですが、どのようにバランスを取っているのですか?

早川:そもそも中の素材が違うだけだよ。でも表面は同じ素材で覆っているんだ。だから、見た目的には単一に見える。トイレの壁の大理石柄のシールと一緒、大理石に見えることで、実際には木で軽いのに、質感は堅そうに見えたり。堅そうに見えるというのは、大理石を知っているからだけど。説明したら、一方が重くて反対が軽いということなのだけれど、その見る人の勘違いが、そう見せていない。あれは木、これは多分プラスチックで出来ているとか。目の感じとる触覚みたいなものもあって、触っていないし、持っていないのに、だいたいわかる。その"わかる"というとこが案外気づかないうちに使って信用しているけれど、実はあやふやなもの。だから自分の信用しているものを、もう一度信用するために、ああいう作品を作っているのかもしれない。不確かだとわかることで、もう少し信用できるでしょう。もう少しじっくり見るようになったり。ちゃんと「分からない」ということを知りたいってことだね。


about us 2009年 WAKO WORKS OF ART
撮影:加藤健

05 そのままの世界

勝俣:制作過程で鑑賞者の目をどのように考えていらっしゃいますか?

早川:やっぱり見せるために作っていますね。いろいろな人がいて、いろいろな感情の人がいて、いろいろな文化の人がいる時に、僕と作品の中の純度は変わるかもしれないけど、作品にとっては良くなると思うんですよ。作品として自立させられるというか、"僕がいなくても作品がある世界にある状態"にできると思って。作品をひとつのものとして認めてあげる、存在させてあげる。そういうことだと思うので。発表していくものというのは、大きさはどうであれ確実に人の心に残っていくし、記録としても残るし。そういう状況にあったことで、その作品は確実に世界にあったことになると思う。アトリエでは僕の中だけに留めた状態です。僕が生んで僕が消すことができるけれど、鑑賞者の前に出すことでちゃんと存在すると思うんだよね。やっぱり作る人というのは、ものをいじった責任がある。だから鑑賞者がいて、作品を作ることはすごく大事だと思う。僕以外の人に認めてもらうのはすごく大事なのかもしれない。

勝俣:作品を作ること自体が鑑賞者ありきというか、前提としているのですか?

早川:ありきというか、世界ありき。別に人じゃなくてもいい。犬とか猫でもいいんだけど。でも僕じゃないものを僕が手を加えて作品を作っているから、もう一回僕じゃないところまで戻さないといけないと思っているね。

勝俣:作品自体が他者みたいな?

早川:うん。僕は世界をいじらせてもらっていると思っている。例えば生えていた木を切って削ったとする。生きていたものを殺して、それをどうするかと言ったら、家を建ててもいいかもしれないし、人形を作ってもいい。けれど、そのことでそれを僕が触る前よりなにかしら引き上げたいと思っている。ゴミでもいいけども、そのゴミがあったから作品が生まれたとなると、ゴミがあったことに感謝だよね。そうやってちょっとずつ世界が素晴らしいものになっていくじゃないですか。そういう気持ちで作品を作っている。

古市:「ゴミが落ちていることも素晴らしい」とお聞きして、アーティストトークでも、「ボツになる作品がほとんどない」とのお話があったことを思い出したのですが、それはやはり、現象に対してそのような考え方があるからなのですか?

早川:「失敗がない」だね。作品というものを基準にすると、ボツがあるかもしれないけど、世界にはボツはない。だから、僕が拾い上げたものは、ボツなはずがないんだよ。何かをボツだとか、くだらないものだとすることは、自分もくだらないと言っているような、無くて良いと言っているようなもので。いろいろな関係性の中で生まれてきたそれを、僕は認めていないといけない。例え僕と合わない人がいても、その人のことも認めないといけないと思っている。僕とその人の関係だけでは決めてはいけない事。そういう基準は世界を狭くしてしまう。"認めることで=作品"を作るということをやりたいと思っている。世界に不満があるから作るのではなくて、世界はこんなにも素晴らしいから、もっと素晴らしくしたい。僕が素晴らしいと思っていても、素晴らしいとされてないものや、小さくまとめられているものに対して僕なりに手を加える。ちょっとずつ変える。それを一生やっていけたら、僕の一生の中でちょっとだけ世界は良くなるはずで。それは作品制作に限らずだけどね。だから、美術や日常生活、僕個人のことではなくて、すごく大きなものの中にいる感じ。その中にいる一人として、「どういうことが出来るのか」と思った時に、しっかりとした態度で、作品を作ろうと思った。こういう「見方」が表現になると思っていて。「世界は素晴らしいんだ」と思う人が、ちょっとずつ増えていってほしい。そう思うから、いろいろな所で展覧会をやりたいし、ちゃんと良い作品を作って、大きな声でそれを言えるようになりたい。


The moon is the big rock 2010年 gallery αM
撮影:加藤健

勝俣:世界の全てを全肯定することで、「世界は素晴らしいものなのだよ」ということを分かりやすくみんなに伝えることが、アーティストとしての自分の役目だという...。

早川:全肯定するだけだったら誰でもできると思う。たとえば、戦争とかは誰かにとっては、意味ある事でもあるのかもしれない。こんなふうに肯定するだけだったら誰にでもできる。けれどそこから何をするのかと言ったら、ある人は料理を作るかもしれないし、ある人は家を建てるかもしれないし、ある人はデモ行進するかもしれない。で、僕は作品を作る。それを観た人からまた何かつながりができて、少しずつ変わっていく。「意味がないこと」は無いと思っているので。戦争反対って言うのもさほどそこは重要じゃない。あなたが男でも女でも、犬でも人間でもなんでもいい。いろんなつながりがあって僕がいる。僕はあなたでもある。

勝俣:さっき世界は実はあやふやだってお話がありましたけど。

早川:そう、「あやふやなのだ」というのをちゃんと分かりたい。 「世界はこうだ」と決めつけない人になりたい。あやふやであることを知る。まずいなと思うのは、誰かのイメージを決めてしまうこと。一度あった人にまた会う時、その人をイメージで規定したくない。そういう姿勢で人と接していたいし、ものとも接していたい。毎回「この人誰だろう」という気持ちでいたい。「この人は何を考えているのだろう」と毎回考えないと、自分の考えが変わっていることも認められないじゃん。間違っていてもいいんだ。つながりの中ではたいした事じゃない。間違っちゃいけないのではなく、間違いを認めない事が世界を曇らせるからね。自分の名前なんて重要じゃないし、自分のやってきたことも重要ではない。たとえば「釣りが好きだ」にも「好き」のレベルやジャンルもあるだろうし、釣りという言葉の意味の違いもあるだろうしね。「この人は誰だ」という状態で立ち向かう。どこかで基準を作って支点をもうけてしまうんだけど、それをなるべくフラットにしたいね。ガチガチにならないというか、遊びの部分がおもしろい。お前は誰だ、これは何だ。既成の概念で曇ってしまっているものから解き放たれる感覚かな。

勝俣:絶対的な基準は無くて自由人的な立ち位置なのですね。

早川:ある意味「あやふやに」という基準だけどね。でも僕がいて、他の人がいることをすごく認めている。そこにつながって自分ができているっていうのを認めている。ばあちゃんからかあちゃんに、かあちゃんから僕に、僕から誰かにつなぐ。大事なのはそのつながりをつなぐことだから。だから僕が一生でやれることなんてたかが知れている。できなかったら次につなげればいいから。つなげるのに必要なことをやればいい。僕ときみでもいい。「僕はどういう立場にいます」と決めごとにもしたくない。僕は僕じゃん。

06 アーティストは現在進行形

安藤:影響を受けたアーティストや、同年代に意識しているアーティストはいますか?

早川:アーティストは現在進行形だから、何かある1点のところで尊敬や、期待や落胆をしてはいけないと思う。だって絶対今も全力で楽しんでいるはずだから。それに僕ごときの基準で、それが良いか悪いか言えない気がする。だからアーティストという人は全員良いと思う。僕はアーティストに対して好きも嫌いも無くて、憧れもあまりなくて、一緒に同じことやっていると思っている。本気なら尊敬できると思う。何が伝わってくるのかということばかりで、だから同年代という括りもないかもしれない。

07 “分からないこと”を増やしたい

安藤:今後の方向性は?

早川:方向性は、さっき言った「世界は大丈夫」ということなんだけど、僕がどうやっていいのかまだ分かっていない。でもどんどん分からないことを増やしたいと思っていて、どんどん分かってきたのではなくて、1つ分かるとそこから更に3つ4つ分からなくなっていく。でもその「分からないこと」をちゃんと掴み取りたい。「どれくらい世界は分からないものなのか」というのを知りたい。だから、それは彫刻家でもパン屋でも、肩書きは何でも構わなくて、そういう「分からなさ」をちゃんと掴み取る人にはなりたいと思う。

(文字起こし:勝俣涼、當眞未季、山下真里佳、チェ・ボギョン)