culture power
artist 藤幡正樹/Fujihata Masaki
okada_hiroko
藤幡正樹
「秘密の部屋、あるいはテレビ」
2009 文化学院
©Masaki Fujihata








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©岡部あおみ & インタヴュー参加者
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イントロダクション

インタラクティブ・アートという美術をご存じだろうか。「インタラクティブ」という言葉が「inter」と「active」の二つの言葉を組み合わせた造語であるように、鑑賞者が何らかのアクションをすることによって、作品がそれに対し反応する美術の総称である。この美術はコンピュータや最先端の技術が作品の要となるため、まだ誕生して歴史が浅い。だが、技術の進歩に伴ってアーティストがそれらを自らの作品に取り込むことにより、次々と新しい表現が生まれている。それと同時に、その領域内でしかできないものも誕生し始めている。そして、人間であれば誰もが持っている視覚や認識と言った働きを利用した作品が見られるようになってきた。

だが、このような美術には、制作から展示する空間に至るまで、数多くの問題が残っている。中でも「それは本当に美術作品と言えるのか?」という問題に関しては、いまだ明確な答えが出ていないように思う。人間の中にある仕組みを利用するということは、裏を返せば「美しいと思わせることができる」ということである。これは、鑑賞者が培ってきた美意識や情動といったものが判断基準となっている美術において、非常に難しい問題であるように思う。

今回インタビューに応じて下さった藤幡正樹氏は、そういった作品を制作しているアーティストの一人だ。 氏はインタラクティブ・アートのみならず、メディア・アートの先駆者として様々な作品を発表し続けてきた。その作品群は国内外でも高く評価され、日本を代表するメディア・アーティストとして知られている。2004年に京橋のASK? Art Space Kimuraにて発表した『無分別な鏡』は、特殊な眼鏡をかけて鏡を見ると、鏡には自分が映らないのに眼鏡だけは写っているという、おかしな状態に陥る。だが、「ただ単純に錯視をやりたいわけではない」と語っているように、先端技術を用いて「美しい」と思わせる作品を制作したいわけではなく、錯視によって鑑賞者に驚きを与えたいわけでもない。そこにあるのは、我々が普段意識をしなかった「技術」や「メディア」に対する懐疑性と、我々が知覚、認識してきた世界が技術を通したときに生じるひずみや違いに対する疑惑である。 氏の作品を鑑賞することは、先端技術やデジタルと身体の関係の裏側をみることに等しく、普段目に見えない世界への繊細な誘いになっているように思える。

(柳井有)