インタヴュー
藤幡正樹×柳井有
日時:2009年7月3日
場所:藤幡正樹研究室
01 メディア・アートの展示の関係
柳井 メディアアートに於ける美術館内での展示や、技術的な問題についてなんですけれども、美術館の方に技術に詳しい方がいらっ しゃらない事が原因で結果的にメディアアートというのは展示できる美術館が限られてきていると思うのですけれども。
藤幡 メディアアートというのは何か、というのをどう定義するかによって答え方が違ってしまうという、えらい面倒臭い問題があるんです。ふつう美術館っていうのは展示室にコンセントはいらないですよね、電気使う必要がないものを並べるように作ってあるから、それはしょうがないですよね。また、メ ディアアートの作品を展示をするためにはエンジニアが必要だけれども、美術館では雇えないって言う話しがあるけど、良く考えてみると美術館には絵画を展示するための技術を持った人がいるじゃない。絵をまっすぐに壁に止めるとか、ガラスを用意するとか、場合によっては修復できる人たちのことですけど、。例えば絵画の修復をする人たちというのも、昔からいる訳じゃなく て、専門化するのはここ200年くらいの間のことで、必要性があってああいう人たちが養われてくる訳。だから、もう50年くらいすると別に大したことじゃなくなって、将来美術館にコン ピュータのプログラマがいるというのが普通になるかもしれません。 もう一つの問題は美術館という制度の問題ね。メディアアートの場合には、美術館みたいな場所で展示をすることで、自分の作ったものがアートみたいに見えるっていう方ことには、なんかおかしな問題があると思いませんか?。つまり、美術館は美を守る場所だという前提があるので、そこに置かれた物はどんなものでも問答無用に美しいものだと思われてしまう。デュシャンは、そこに便器を置くことでそのことについて考えさせたかったわけでしょ、。 また、美術館は、本来、美しい絵画や彫刻を見るように作られているから、インスタレーションなどをする作家たちにとって、空間を自由に作り替えようと思うと、美術館っていうのは息苦しくなっている。 結局、美術館を息苦しく感じている人たちは、美術館から出ていっちゃった。日本人では、川俣正みたいな人が典型的だけど、もう美術館の中ではやる気がしない訳だよね。なぜかと言うと、美術館という制度の中で美術を見ようとするお客さんっていうのはある限られた人たちだから、そういう人立ちにアプロー チしてもしょうがないって思ってしまう。むしろそうではなくて、直接普通に生きている人たちと出会って、普通に生きている人たちの見かたや考え方を変え行きたいと考えて、しだいに美術の枠組みの外に出ようとする人たちがいるわけでしょ。だから、美術館とうまく行かなくなっている領域というのは、メディアアートに限ったことじゃないし、 また逆にメディアアートが美術館に馴染むように自己変質させてゆくって事にも問題があると思う。美術館そのものが変わらないといけないと思います。そういう時期に来ていると思いますね。 もう一つ先にあるのは、日本の特殊性だと思う。日本でやっぱり美術館っていう概念が入ってきたのは明治以降だから、これまでは西欧が作った文化の概念を模倣してきた訳だよね。上野の国立博物館がどういう風に出来てきたかって見れば分かるけども、物を集め て、並べて、比較して、歴史を作っていくっていうパラダイムで出来てないんですよ。とりあえずヨーロッパの人たちがやっているような事を真似してやるみた いなことから始まっているので、はじめは珍品の陳列だった。文化や歴史を作るというところまでいけてない。美術とか芸術とかっていうことが、西欧のようには、日本ではちゃんと根付いていないと思うんだよね。 こうしてみると、4つぐらい問題があがったね。美術館で今までやってきた人と、美術館の枠に収まらない作品を作ろうと思っている人っていうのが戦っているというか、近寄ると逃げるというか。違うかもしれないけど(笑)。まあ、そういうことが当分続くのではないかと。そんな感じですかね。
柳井 先ほど仰った「メディアアートが美術館化してきている」というのは、どういう考えからきているのでしょうか。
藤幡 今コンピュータを扱える人が美術館にいないとか、ビデオデッキが扱える人がいないとか、そういうことでメディアアートの展覧会が開催できないと言えるのは本当に今だけだと思うんですよ。どういうことかと言うと、今のように美術館の人たちが美術品を扱うようになったのも、ごく最近の話だっていうことなんですよ。 例えば保存修復と言って、古い油絵を修理したり、日本画を修理したりするじゃないですか。そういうことも割と最近なわけですよ、やっているのはね。元々そういう技術を持っている人はいたと思うけど。それは、価値のあるものをメンテナンスしようということですよね。ところが、油絵や日本画とはと違った材料を使った作品が出来てきている、しかもまだ凄く不安定ですよね。それこそレオナルドが油絵に挑戦して大失敗したみたいに、 油絵の技術だって当時は完璧じゃなかったわけじゃないですか。同じようなことですよ。コンピュータだってWindowsとMacしかないけど、どちらが残るのかわかりませんが、。例えば今現在自動車はアクセルが必ず右側にあって、ブレーキが左側にあるよね。当初は、こうじゃなくていろんなのがあった。ハンドルも丸いんじゃなくて、棒が二本あって、二本の棒でハンドルをきっていた時代があった。そうやって考えると、物事っていうのは常に変化していくので、コンピュータももっと違った形のものになるはずなんです。要するに過渡期っていうか、始まったばっかりの時代なので、こ ういう問題が常に出てくる。僕は何十年かすると、そういうのは全然誰も、何も言わなくなるような話題だと思いますよ。今僕たちがメディアアートと呼んでいるものを支えている技術っていうのは、そのうちまったく特殊なものじゃなくなっちゃ うと思うということ。その時に、美術館そのものもメディアアートの中に価値があるっていうことが分かってくれば、そういうものをメンテナンスしなきゃいけないっていうことも出て来ると思うし、そういうものを展示しやすくした建物も出て来るんじゃないですか。順番が逆で、そういうものを展示しやすい美術館を作ったからメディアアートがあるのだとしたら、それは考え方の順番が間違っていると思うんですよ。 先ほど言った論理と一緒で、自分の作品を今ある美術館の形に合わせれば、自分の作品が美術になるっていう考え方は、美術館そのものが美術っていう意味や価値を作っているという風に思うからじゃないですか。でも、新しい美術が出て来るときには、今までの美術の枠にはまらないものが出てくるわけですよね。それが誰にとっても意味や価値があるものだって思えたら、やっぱりちゃんととっておこうって思うわけでしょ。順番としてはそっちが正しいですよね。だから、いい作品を僕たちは作らなきゃいけなくて、でもそれは今のような形式の美術館で見せられないような作品になるかもしれない、ということですよ。そしたらしょうが無いよね、美術館がそういうものをいつでも見られるようにしようと努力するはすじゃないですか。ということなんですよね。
藤幡正樹「Simultaneous Echoes」
2009 ASK? art space kimura
©Masaki Fujihata
2 インタラクティブ・アートと、アトラクションやトリックアートとの違い
柳井 続いて、インタラクティブアートについてなんですけれども、まずゼミ内で遊園地にあるアトラクションとはどういう違いがあるのかという質問を受けたのですが。
藤幡 未来館を建てたときに館長の毛利衛さんと話をしたことがあるんだけれども、ディズニーランドと未来館とどういう違いがあるのかについて話をしたんですよ。未来館は科学技術がテーマだけど、でもディズニーランドにも随分色々な科学技術が使われているわけですよね。しかし、ディズニーランドに行っても、それがどうやって実現されているかっていうのは、理解する必要がないよね。ただ驚けばいい、ただそこに仕掛けられたある仕組みの中に自分を置くっていうことで、娯楽が受けられればいいと。娯楽っていうことはつまり安全な枠組みの中で、日常を超えた危険を体験できるわけだよね(笑)。キャーとか絶叫したりして、カタルシスを得られるわけだよね。ところが、未来館っていうのはそうじゃなくて、そういうものがどうやって出来ているかということを疑問に思った時に理解出来るような場所なのではないのか、と。科学や技術っていうのがどうやって作られて、どうやって利用されているのかっていうことを分からることが出来る場所でないといけないのではないか、という話をしました。では、それとメディアアートはどういう違いがあるのかというと、幾つかあるんだけれども、やっぱり娯楽じゃないですよね。それから、技術理解でもないですよね。一つは、既にある技術をリファインしてその技術の新しい利用法を発見する、そしてその発見が僕たちの世界認識をどう変えるってことだよね。可能性の開示といってもいいかもしれないけど。基本的には“メディア”を“アート”することなので、僕たちは世界を見るときに目を使って見るし、耳で話を聞くし、舌で味わったりするわけですよね。五感を通して世界を見ている、味わっている、リスペクトしているんだけれども、その間にメディアが挟まったとき、例えば写真を撮ったときに、見ていたものと写真に写ったものが違っていたりだとか、テープレコーダーで自分の声を聞くと唖然とするくらい自分の声が違って聞こえるよね。そういったメディアと通して世界を見ることで、自分が見ていたことをあらためて考えなおしたりするわけですよ。メディアっていうのはそういう意味で、自分の持っている身体感覚そのものをメディアとしてもう一度捉え返さないといけないし、世界の見え方っていうのをもう一度考えさせるきっかけに なるってことなんですよ。例えば葛飾北斎が富士山の高さを普通よりも2.2倍くらいに高く描いていて。それはデフォルメして嘘を描いているわけだけど、嘘を描いた方がリアルなわけでしょ。ところが、北斎の絵を持って富士山と直接照らし合わせる人は少ないと思うんだけれども、並べてみると嘘をついているわけだよ。それがやっぱりアートだということだと思う。要するに、それを示して見せることによって、現実っていうものをもう一度リアルに捉え直すことができるかということだよね。メディアアートっていうのは、そういうことを突きつめていくことだと思うんですよ。
柳井 トリックアートや騙し絵とはどう違うのでしょうか。
藤幡 錯視っていうのは、人間が対象を見ているときにまず知覚レベルっていうのがあって。目でものを見て網膜に光が入って、その網膜の情報が脳に行きますよね。最初の段階が知覚なんですよ。その次に認知があるわけですよ。その入ってきたものを通して、四角いとか黒いとかっていうのが認知、その次に理解があるわけ。で、錯視とかっていうのは知覚レベルなんですよ。今まで知覚レベルのトリックっていうのは日常生活にあったはずなんだけれど、それだけを取り出して見せるっていうことがなかったから面白い。つまり、意味がないからなんですよ、錯視には。何にもないわけ、意図が。つまり、誰が見てもそうなっちゃうわけ。知覚レベルのものっていうのは芸術には入らないわけですよ。要するに意図がないから。人間の持っているシステムそのものを逆さまにして、我々の持っている身体のメディアっていうのを暴いている、知覚レベルのところを暴いているわけですよ。知覚レベルのエラーを提案するというのが錯視とか騙し絵の世界なので、僕はアートにはならないと思っている。勿論、メディアアートの作品の中にも色々なものがあるから簡単には言えないけれども、僕の言い方で言うとそういう知覚レベルしか扱っていない、ある意味低級なメディアアートって言われているものはいっぱいあると思う。それから動きの中にある錯視みたいなものっていうのは、なかなかちゃんと取り出されていないので、これから面白いものが出てくるでしょう。簡単に言ったら、錯視にも入らないけど水蒸気の幕みたいなところに映像を映し出して、まるでそこに、宙にものがあるみたいに見せるとか、基本的に映像技術の発達っていうのはパリの万博以来、全部そういった視覚のトリックなんですよね。勿論、動かない映像を一枚一枚投影しただけで動く、アニメイトするってこと自体がトリックなので、それは延々と続いている話ではあるから根幹を突いた話ではあるけれども、それ自体はアートじゃなくてやっぱり人間側から見れば知覚的な能力だし、技術的に言えばそういうオプティカルなイリュージョンを創り出す装置ってことだよね。だから、むしろやるのであればそういうものを逆手にとって、そういう風に我々が世界を見ているっていうことを見る人に感じさせて、現実に対する認識を根本から疑わせて、奈落の淵に落とす、みたいなことがあるとそれはやっぱりショックかもしれないね。根本的なところを疑う作品になればね。
藤幡正樹「A Figure of Dys-Juxtaposition」
2009 Edith Russ Site For Media Art
©Masaki Fujihata
03 知覚に影響を与える美術は、どこへいくのか
柳井 最後の質問は、知覚に影響を与える美術の可能性とその今後についてです。 これも難しいとは思いますが(笑)、お聞かせ願えますでしょうか。
藤幡 僕の立場からそういう風に言うとすれば、映像っていうことじゃないですかね。だから、映像っていうのは1秒間に20枚とか30枚とかっていう違った ものが順番にこう提示されると、人間の目の方が勝手にそれが連続して動くもののように見てしまうと。一種の間違いですよね。パッパッパッと連続しているだ けなのに動いて見えて、間がないわけだよね。間には何も存在していないのに順番に見せただけで動いて見えるってことは、脳みそが間を補っている。
柳井 そうですね。補完をしている。
藤幡 補完しているわけですよね、実は。そうやって映画みたいなものを僕たちは見ているっていう事実があって。で、映像の歴史っていうのは写真が発明されてから。160何年くらいしか経ってない。映画の発明からいっても100年か110年くらいしか経っていない。だから、映像っていうものは極めて知覚的なトリックによって成り立っているわけで、それが我々にいろんなものを与えてくれているっていうことを、まだまだ掘り下げる必要があるのではないかと思って いる。まだ面白いことが色々出て来ると思うんですけどね。 最初の映画が出てきて、いわゆる映画が一般化していったときには、プロジェクターがあってスクリーンがあって映像が光になって飛んでいるわけだけども、スクリーンがないと映像は見えないよね。ところが、見ている人はスクリーンに反射した光を見ている、だから、スクリ−ンが物であるということが分かってしまうと困るわけ、ばれてほしくない。だから人が間を横切ったり、埃が入っていたりすると、このスクリーンがいきなり物だってことがばれるから、怒るわけだよね。映画の人は、「映画を映画館で見ろ」と言うけど、一般の人たちはすでにDVDとかテレビで見ていることの方が多いわけよ。そうすると、それを僕たちはわけ隔てなく映画として見ているけど、実は違うんじゃないかと思って(笑)。もっと変なこと が色々起こると思いますね。その最たる例は、僕は携帯電話とかのモバイルディスプレイだと思っている。だから映像を持って歩けるようになったのは本当にここ5年くらいの話なので、まだその可能性は発掘されきってない。僕は多分これから映像はコニュミケーションメディアになると思うんだけど、映像をコニュミケーションのツールとして使うってことが今始まったって感じがしていて、それは何かになると思いますね。今までの中で映画とかっていうのは映像コニュミケーションじゃないんですよ。つまり、言葉のように映像っていうもの を介して他者と何か体験を共有するとか、何か意味を交換し合うとかっていうものにはなってない。皆で共通の映画を体験するっていうことであって、作り手は全然違ったところにいて作っているわけであって、多分その携帯電話にある小さいディスプレイを持って撮って何かを見せるということが、何かになると思うんだよね。
柳井 著書の中で、絵は描くために見るんだけれども、デジカメやそういったものに対しては見るために撮ると仰っていましたよね。
藤幡 要するに、僕の場所からは見えているけれども、あなたの場所からは見えないと言ったとき、例えばセミが木に止まっているとして、「あそこにほらミンミンゼミがいるじゃん」、「えーどこどこ?」とか言ったときに、普通は視線を合わせるしかないわけでしょ。でもさ、こうやって携帯電話でセミを撮影して、「これだよ」って言うと指し示せるわけだよ。これはシフターっていうらしいんですけど、「これ」とか、「それ」とか、「あれ」とかという言葉、と言うものが映像化しているわけですよ。だから、そのとき撮ったセミの写真っていうのはシフターになっている。言葉の始まりなんですよ。これが本当の「映像言語」のであると僕は、思っているんですね。分かんない?
柳井 ちょっとだけ難しい・・・
藤幡 「そのコップ」、「このコップ」とかいうとき、言葉で「そのコップ取って」とかって言うよね。「そのコップ」っていうのは、あなたにとって「そのコップ」じゃ なくて「このコップ」でしょ。
柳井 はい。
藤幡 っていう風に使う言葉のことをシフターって言うんですよ。
柳井 指示語というか・・・
藤幡 えーと、指示詞っていうんです。まあ、一昔前に「映画言語」とか言われていたものは凄く浅薄な議論で。主人公が部屋に入ってくるとか、椅子に座ってコーヒーを飲むとか、一つ一つのショットがあるよね。そういう一つ一つのショットを言葉と同じように捉えて、それを解釈していくと、つまり小説が言葉の連なりであるように、映画を解釈できないかと思った人たちがいて。でもさ、映画を見ていると一人の主人公がドア開けて入ってくるっていうだけで、実はいろんな情報が入っているわけでしょ。髪の毛が茶パツだったらヤンキーだとか。そんな記号が入っているから一つのショットっていうのを一つの言葉で表すのが不可能なわけ。僕は、映像を使って他者とコミュニケーションするっていうことは必ずあると思うんですよ。で、それは言葉の体験とは違ったものなんじゃないかと思う。そういうことに興味はありますね、ちょっと漠然とした話だけど。その中で今言ったシフター(指示詞)っていうのはかなり面白い発見だった、しかもデジカメとか携帯電話みたいにその場でその時にないと意味がないものなので、映画とかとは全く違った映像の利用方法なんだよね。鳥がピヨピヨって飛んでいることを表すジェスチャーとかあるけれど、こういうのは多分映像による詩で出来ると思う。分かるかな?(笑)
柳井 今の話を聞いていてちょっと思ったんですけれども、ご自身の作品で『無分別な鏡』がありますよね。それについては著書の中で人間の視差であるだとか、そういったことはかなり書かれていらっしゃいましたが、あれは知覚に影響を与えると思うんですよ。
藤幡 そうですね。
柳井 私も興味を持っているのは“ただのインタラクティブアート”ではなくて、そういった“知覚を意識したインタラクティブアート”なんですけれども、先述した知覚とはどういう関係があるのでしょうか。
藤幡 あれの場合には、多分ね、人間の知覚が持っているトリックの中の一つだけじゃなくて結構複雑に幾つかのものが絡まっていると思いますね。最終的に、単純に錯視が行われますよっていうことをやりたい訳じゃないんですよ。だから、バーチャルリアリティのエンジニアがあれを作ったら、もっと完璧なものを作ると思うのね。完璧な装置っていうのは、つまり僕の姿もちゃんと中に映っているってこと。だから理想的には、眼鏡もいらなくて、それで僕自身もちゃんと中に映っている、みたいなものを作ろうとすると思うわけですよ。僕は、それは意味がないと思う。一つはどんなにお金をかけても本物の鏡のようにはならないと思うのね。だとすると、むしろ本物の鏡に限りなく近づけるのは意味がないと思うわけ。それで、まず自分は映らなくていいと。で、眼鏡だけが映るっていうことをやることで、余計に体験した人はいろんなことを考えるわけだよね。一つはマニアックな人はどうやって作っているんだろうって考える。で、技術にマニアックじゃない人は何か分からないから困るわけだよね。要するに、「変」っていう。何というか、鏡なのに自分が不在であるっていう問題から今度は自分自身が本当に存在しているのかとか、自分が外の世界に対して露出している、表出しているものは一体何なんだとかいうことを考えるきっかけになってくれればいいな、と思っていたんですよ。その辺が結構作品としては胆ですね。あれをマンチェスターで展示したときに、新聞に「技術的に不安定だ」と書かれて、僕はそれすごく情けなくなっちゃった。眼鏡をかけているときに鏡にもの凄く近付いてしまうと、眼鏡がどこにあるのかを探している装置が鏡の上にあるから、当然めちゃくちゃになっちゃうわけね。で、それは技術的に未熟っていうことではなくて、わざとそうなっているわけですよ。つまり完璧じゃないようにわざとそうしているわけだけど、それを読み取ってもらえなかったんですよね。難しいですね。
柳井 同時に悲しいことでもありますね。
藤幡 ふふふ(笑)。本当に難しいですね。何かね、特に日本人がイギリスで展示をしたっていうときに日本人は完璧なもの作るっていう概念がかなりあるみた いなんですよ。
柳井 私イギリスの方に留学したことがありまして。細かい模様を積み重ねていくっていう絵を描いているんですけれども、やはりそういった作品のうけは良かったですね。作品を作ってもどこか個人ではなくて国籍で見られるっていうのは絶対について回るな、と。
藤幡 まあ、しようが無いですよね。キャノンとかソニーとかが完璧で綺麗なものを作っているから(笑)。そうなんですよ。そういうことがありましたね。
柳井 なので、先ほど仰っていたような「完璧じゃない」という感想を聞くと悲しくなりますね。
藤幡 難しいですよね。昔、『無分別な鏡』を八谷君が見に行ってくれて、後で八谷君に会ったときに「見ているときは仕組みばっかり気になっちゃってあんまり気がつかなかったんだけど、画廊から出てきてしばらく経ってからすっごい不思議な感じに囚われたんですよ。」とか言っていて。「で、こういうのアートかもしれない思いました。」とかって言ってくれた(笑)。うれしかったですね。
藤幡正樹「無分別な鏡」
2005 ASK? art space kimura
©Masaki Fujihata
柳井 ICCの畠中さんともちょっとお話させていただいたんですけれども、「やっぱりアートっていうものはどこか何かを超えたものではなければ」という言葉をいただいて。
藤幡 理解を超えたものっていう。
柳井 はい、そうですね。
藤幡 体験だよね。
藤幡正樹「モレルのパノラマ」
2003 ASK? art space kimura
©Masaki Fujihata
藤幡正樹「ルスカの部屋」
©Masaki Fujihata
柳井 やはりそういったものでなくてはならない、インタラクティブアートに関してもそれは例外ではない、という話をさせていただいたのですが。
藤幡 そうですね。
柳井 やはり藤幡さんもそうだと考えていらっしゃいますでしょうか?私としてはインタラクティブアートが絵画や映像とはまた違う、何か超えたところに持って行ってくれるのではないかな、と思っております。
藤幡 あの、参考になるかもしれないけど以前IAMASで教えていた人で、今は京都大学にいる吉岡洋って人がいるのですけど、吉岡さんが面白いことを言っていて、今までの美術作品は理念とか観念とかと具体的な物が一緒になったものが美術品だったと。神ってものを表現するのに、絵の具を使い人間の姿を使い、対象を物化するってことですよね。だから理念がもの化する。ところが今インタラクティブアートとかで問題になっているのは、つまりその二つだけじゃなくて、もう一つ情報っていうのがあると。だから「理念」と「物」と「情報」の三つ巴になっているんだというんです。で、それをどういう風にインターフェースを介在させて感じさせるか。ところが、インターフェースを使って情報に触れようとするときに立ち上がってくるのは、触れようとしている対象が情報という非物質的なものなのに、それがあたかも「もの」かのように感じさせるっていうトリックを使わなきゃいけなくなる。これはあなたの言っている知覚って問題と近いと思うんだけれども、そこで明らかトリックを上手に作れているかどうかっていうのがメディアアートの良し悪しのひとつのハードルになっているんですよ。
柳井 インタラクティブアートを制作していたときに、やはりインターフェース、もしくはデバイスの入力がきちんと行われていないと、それは作品として成り立たないと言われていました。
藤幡 イリュージョンが成り立たないと。
柳井 そうですね。
藤幡 マウスを動かしたら、ちゃんと同じに動くっていうのが出来てないといけない。ところが、結果的な話ですけどメディアアートって言われているもののかなり高いパーセンテージが、このインターフェースの部分しかないんですよ。で、そのインターフェースがマウスとカーソルじゃなくて何かとっても特殊なもので出来ていて、でも、それだけで終わっているものが多い。こうした作品が皆を混乱させている(笑)。で、本当はそのインターフェースを介して、つまり情報のインターフェースをという特殊な装置を作った場合に、そこで最終的に触れることのできる対象と、そのインターフェースの間に密接な関係がないといけないと思うんだよね。このインターフェースだからこそ、手に入れることのできる対象っていうのがあって、それが密接に結びついているときに人は驚くんだよ。ところが、何か装置だけを作って、それで終わってしまっているものが多い。その辺が問題だと思う。ちょっと話が飛んでいるように聞こえるかもしれないけれども、マクルーハンが「メディアはメッセージである」って言ったときに、テレビっていうメディアというのは、テレビっていうメディアそのものが既にメッセージだって言っているんだよね。で、テレビの中でどんなことを言おうとしても、テレビっていう枠組みの中の問題になっていると(笑)。これを演繹的に使うと、インターフェースをデザインするってことは、情報に触れるためのメディアをデザインすることなので、メディアをデザインするってことが その内容も規定してしまうっていうことがあるってことなんですよ。だから、面白いメディアのデザインをするとしたときに、そこから見えて来るコンテンツが一緒になったときに、初めて面白くなるんだと思う。ですね(笑)、どうでしょうか?。
柳井 はい。以上ですかね。
藤幡 そんな感じですかね。
柳井 分かりました。本日は本当にありがとうございました。
(文字起こし担当:柳井有)