イントロダクション
神話と実像がアマルガムになったアラーキー。
荒木氏のファーストネームを知っている人はどのぐらいいるのだろうか。
荒木経惟(のぶよし)。漢字を知っていても、なかなか読めない難解な仏教的ネーミングである。
アラーキーと荒木経惟、それはメディア化した変幻自在な記号的身体とメディアを操作する隠された頭脳のようでもある。この二つの距離のあいだに揺れ動くセンチメンタルな私情とじつに人間的な欲望。
真実と嘘がごちゃまぜの写真人生を標榜し、騙し騙されること自体が、写真行為の本質に近づきえることではないかと問いかける。ポスト消費社会のメディアの歴史の成熟は、裸の王様のようにあけっぴろげで嘘のない、この愛すべき写真家によってなされた面が大きい。
たとえ浅田彰氏が荒木氏の写真のウェットな感傷性を断罪しようと、写真があくまでもメディアであるという自明性から逃れられないかぎり、それが結局薄っぺらな自閉的表現媒体でもあることを、だれよりも身にしみて知っているのは、おそらくその表現者として生きる荒木氏なのではないだろうか。
しかも写真は彼にとって愛する主人なのだ。それに奉仕する忠実な奉公人という立場から、ときたま自らを解放する手立てとして、彼は絵を描くのだろう。
比類なき愛の海、過剰で豊穣で無際限なるイメージの海に、みなが溺れ、美醜を飲み込むエネルギーが人を打つ。
写真とは一瞬に賭け、それ以外のすべてを捨てさる度胸でもある。
つねにタブーを犯し、解体を夢見る「狂気」。
何万、何千万というイメージを追い求めて疾走する写真狂人に、肉体への敗戦は許されていない。
(岡部あおみ)