武蔵野美術大学 芸術文化学科

卒業研究

2009

図式の画家・北脇昇―シュールレアリスム以後の思考のメカニズム絵画
竹内那美
(高島ゼミ)
論文
  竹内那美
「クォ・ヴァディス(いずこへ行きたまうか)?」 鑑賞者に背を向けて、右足を半歩ほど前に踏み出した、その人に向かって問いかける。岐路に立ち、右に行くべきか左に行くべきか、再出発の方法をその人は考えあぐねているのかもしれない。 「永遠の後姿」であり続ける事で、これまで戦後日本美術史の語り始めになめらかな書き出しを与えていたとすら思えるその絵は、いい意味で言葉が不足している。 針生一郎氏はその絵を「最後のシュルレアリスムの象徴」と称したが、シュールレアリスムのみならず、抽象表現をも独自に吸収し、「図式」を用いた絵画の構築にまで達した北脇の踏まえてきたプロセスを全く抜きにして、この絵を「シュールレアリスム」と括弧づけてしまうことはいささか強引ではないだろうか。 本論考では、《独活》(1937)、《空港》(1937)等の幻想的な絵画の制作が始まる1937年に同時に行われ、北脇がプランメーカーとなった集団制作《浦島物語》(1937)から、 「超現実派観測室」なるものを設けてシュールレアリスムの表現技法の実践を試みた1938年、そして、1939年のから始まる図式の絵画に至るプロセスに焦点を当て、北脇がシュールレアリスムと抽象表現をいかに吸収したのかを検証する。 そして、1939年以後、同時代の西洋の抽象芸術論(W・ヴォーリンガー、T・E・ヒューム)、東洋思想の易経、数学の因数分解、J・W・ゲーテの植物や色彩の論考等の影響を受けて、北脇が独自に構築した図式の絵画を検証する。 こうしたプロセスを踏まえ、改めて《クォ・ヴァディス》(1949)に向き合うとき、新たな見方を発見することができるだろうと思う。瀧口修造は北脇はシュールレアリスムに「のめり込むような態度をとったことはなかった」と述べ、 「思索型の画家」、「思考のメカニズムとしての絵画に向かおうとする画家」であったと回顧した。五十歩百歩の差で戦中戦後の険しい時期を過ごしてきた瀧口と北脇。前衛の表現者として振る舞ってきた両者にとって、その時期は身の毛のよだつほど「しらじらしい孤立感」に立たされた時期であったという。 北脇の絵画制作の基軸は「思考のメカニズム」にこそあっただろう。そして、そのメカニズムは確かに次世代の前衛の表現者たちに受け継がれていたものとして考えたい。
  高島直之教授
洋画家・北脇昇(1901~1951)は、1930年代に絵画制作を始め、日本のシュルレアリスム画家として知られる。長くはない画歴のなかで、その超現実的作風から宇宙の秩序を数学的に配列していくような「図式の絵画」に移動していった。 本論はその過程を重視し、晩年のシュルレアリスティックな絵画も含めて、北脇の制作全体の構想に「図式的」な思考があることを詳細に論定していく。従来の北脇像を根底から覆す画期的な論証といえる。