武蔵野美術大学 芸術文化学科

卒業研究

2009

新たなデザインリテラシーを求めてー手、物質、イメージの一体感を甦らせるための”aesthetics”ー
西まどか
(新見ゼミ)
論文
  西まどか
マーティン・バースの《スモーク・チェア》と、アイ・ウェイウェイの《三本脚の机》。 彼らの手が加えられることによって伝統家具は今までにない新たな顔を覗かせ、過去から現在へ生まれ変わった今、多くの人々の心を触発する。 しかし、前者のものはハイソなインテリアショップに並べられ、後者のものは現代美術の作品展に展示される。片方はデザインとして、もう片方はアートとしてだ。また、片方は高額な値段で売買され、片方は美術の歴史の一ページにその名を刻む。 彼らの作品が置かれる場が、もし入れ替わったとしたら・・・?二人の作品を見比べたとき、私はそんなふうに思った。おそらく両者の作品がまだ無名の時代であれば、そんなことが仮に行なわれたとしても疑問を懐く人はいないのではないだろうか。 それがインテリアショップで販売されていたとしたら、少々使い辛くともアイの作品を家具として購入する人はいるかもしれないし、バースの作品も同様、それが現代美術の展示のなかに並べられていたら、多くの人が違和感なく受け入れるだろう。 話は少々単純すぎるかもしれないが、実際、視覚的な部分では二つの違いを明確に区別することは難しい。そしてそれは彼ら二人の作品に限ったことではなく、近年のデザインやアートの展示を眺めていると同様の疑問を抱くことが度々ある。 一体全体、デザインとアートとはどう違うのか。いま、私たちの周囲にあふれる様々な「もの」は、何をもってデザインとかアートという枠組みの中に捉えられているのだろうか。 コンセプチャル・アートの台頭以降、素材である「物質」と思想としての「コンセプト」がアーティストの「手(技術)」のなかでぶつかり合うという概念は薄れつつある。 一方のデザインにおいても、「もの」の「イメージ」だけが独り歩きし、目に見えないところに価値を求めて商品を購入するような傾向がある。しかし、そうした「デザイン」とは本当の意味で”aesthetics”であると言えるのだろうか。 バースとアイ、彼ら二人の作品を対比しつつ、それらがおかれる「デザイン」や「アート」という領域が今どのような状況であるのか、そして”アートが終わった”と言われる中、果たして「デザイン」はどうなっているのか。私たちにとっての「等身大のデザインリテラシー」について考えていこうと思う。
  新見隆教授
「もの」の実在を日日の生活感覚のなかで、如何に審美的にとらえることができるか。それが人間の精神生活と開かれた社会性を多層的につなぎ、また批評的に調整する結節点になる。 この、極めて同時代的な意識から出発した鋭利な論考は、メディア性に収奪された、現代の美術とデザインの融合を新たに問い直す、刺激的な問題構成に向かう。 亡き不世出の美術批評家宮川淳の、詩的な予兆をはらんだエクリチュールを偲ばせる、柔軟な文体=思考の運動は、批評の透明な深みと澄んだ感性のゆらぎをもって、読む者の心に沁みる。 危機そのものである批評こそが、やがて詩になる、その希有で幸福な瞬間に立ち会えたことに感謝したい。