『重なる光景。会場内の空間に平行する光を身にまとう体験。』
研ぎ澄まされた観察力が今回の作品を形成している。それはこの展覧会場だけで発揮されるものではなく、まさに展覧会の壁を突き破り、外部空間にまで影響を与えてゆく。
作品が展覧会場と、その外部とのつながりをつくってゆく。それは、作家が賢く綿密に形成させるのではなく、鑑賞者と作品が対峙した瞬間、鑑賞者がその作品にのめり込んで行くことによって成立されるものである。ゆえに、あらゆる作品は鑑賞者によって蹂躙される危機に面していることを指摘できる。そして多くの酷評を、無抵抗の状態で、また禁止するすべをもたない状態で身にまとわなければならない状況に、作品は幾度も遭遇しなければならない。それは作品への鑑賞者による侵犯である。美術史は、その禁止や侵犯といった互いの闘争の主客として、作家を論じているケースも多く、その闘争に順ずる者、その闘争から逃れる者、もしくはその闘争以外の場所に自己のアイデンティティを見つける者などとして、数多くの作家たちを歴史の上に登場させてきた。
だが、闘争というイメージは、今展覧会の作品にそぐうものではない。つまり今回、作家は展覧会において、会場内部と外部の隔たりをなくす機会を設けた。いわば、会場という閉ざされた内部と外部空間の存在の(、)不一致や対立を意識させるものとはなっていないのである。それは、今回の作品がフレームという枠内の向こう側の空に向かって突き抜けてゆくものであるからだ。つまり、作家の観察は、外部の、はるか彼方に向かって延びているものであり、暗い展示会場に響き渡るあの仄かな光は、作品の中身が箱型の入れ物という限られた範囲によってプールされているのでなく、会場から外部へ抜ける突破口からもれる、外部からの光明を伝えるものであることを示している。
この作家は、会場という空間が、外部と平行に存在する二重性のもとに存在していることを示唆している。それは、この展示会場内の静謐な空気が、作品から漏れる光の微粒子によってできていることを意味している。その微粒子は展覧会場の外部からやってきた光の戯れを表象しているのである。
その景色にある光を展覧会場で奮い起こすことを、この作家は行った。その行為とは、ある(一)瞬間を会場に留めるということなのではなく、いつかの日に輝いた場をこの会場に延長させる試みである。この試みは、人為的な光によって行われた行為ではある。しかし、その光が会場に広がることにより、映し出された外部と会場の内部空間は平行する二重性のもとで時を刻むことになる。それは決して一縷の輝きによって会場内を支配させるのではない。景色に宿る光の微粒子を持続可能な限りにおいて会場内に再現しているのである。
その光は、この作家の恣意的な解釈によって創られたものではない。多くの空間に存在する、変幻自在な輝きを、作家は鑑賞者の身にまとわせているのである。そして、その輝きは、作家自身も観察し続け、そして身にまとい続ける光の微粒子なのだ。
佐々木慶一(芸術文化学科4年)